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減速を始めた馬が行き先にしているのは、前方に見える丘のようだった。その丘の中央に、吹けば飛びそうな頼りなさで佇む一軒の民家がある。東欧の田舎町にありそうな温かみのある家に、小さな畑、少々荒れた小さな果樹園と、自給自足の気配がある。
到着を主に知らせるように馬が鼻から低音を鳴らした。民家を取り囲む木の柵はやる気が無いのかあちこちに好き勝手に傾いている。
「降りて」
女が振り返る。流央はやっと拝見が叶った顔をまじまじと見た。形の良い眉の下にあるのは少し目尻が下がり気味の丸い目。黒い瞳以外は、知り合いの「アメリカ人とのハーフだ」という子の薄い茶の瞳しか見た事が無かった流央は、女の金色の瞳に驚いていた。瞳の色だけでなく華のある顔だ。人気タレントにも負けてない、いや美しさなら全然こちらに軍配が上がりそうだ。やっぱり外国の綺麗な人は違うな、と見とれてしまった。それはどきどきとした恋心よりも美しい絵画を見た時と同じような気持ちだった。形の良さにじいっと見ていた血色の良い唇が動く。
「降りなさい」
少し厳しい声にようやく我に返る。慌てて地面に視線を移すが降り方が分からない。
「ど、どうやって……」
馬の左右を忙しく見回しながら漏らす流央の言葉に、女は静かに息を吐いた。馴れた動作で馬を降りると女、いや少女と言った方がいい年頃だった彼女に流央は手を差し出される。まるでお付きにうやうやしく介抱される姫様のごとく流央は地面に足を付いた。
「あ、ありがとう」
何だかひどく恥ずかしかった。馬の乗り方も知らないなんて、少女からのそんな空気を感じてしまったからかもしれない。少女は返事もせずに民家へと足を向ける。流央は遅れないよう後を追いかける。ついさっきまで警戒していた相手とは思えない程に、流央は少女から離れたくなかった。それは少女の浮世離れした美しさに惹かれたからではなく、単純に心細いからだった。
民家までの小道の脇、揺れる花は雑草だろう。白い小さな花が不規則にあちらこちらで咲いている。民家の左手には本宅よりもぼろい小屋があり、奥には井戸も見える。右手にあるのは厩舎だ。
ここで世話になれ、ということだろうか。しかし出来れば空港にでも行って日本に帰らせて欲しい、と流央は思う。今は無理でも暇を見つけてなんとかお願い出来ないだろうか、と。
家の状態とは反対に、立派で重そうな玄関扉へたどり着く前に、扉が向こうから開かれたことで流央は思わず身構える。ゆったりとした動作で二人の人物が現れた。
始めに出てきたのは少女と同じ様な足首まで覆う長さのローブを着た男。少女が暗い水色なのに対してこの男は真っ黒のローブだ。背が高く、威圧するような赤い瞳に気圧されるが、端正な顔に金色の長髪という若い男に「いけ好かない」という気持ちが強かった。
問題は続いて出てきた小柄な人物だった。濃い灰色のローブを頭からすっぽり羽織ったこの人物はちらりと覗く顔が人のそれではない。肌は柔らかさを感じない無機質なもの。乳白色をしていて滑らかだが、昆虫か甲殻類のような硬いものに見える。髑髏、という言葉が浮かんだ。仮面を被っているのかと思っていた流央は彼の目が瞬きを見せ、口元が動いたのに悲鳴を上げてしまった。
「……ギュート族を見るのは初めて?」
少女が流央に問い掛ける。
「初めてというか……」
こんな生き物いるわけない、と続けそうになるが口ごもる。現に目の前にいるのだから。
ギュート族という男は面白いものでも見付けたように、流央を眺めるとにいっと笑った。昆虫のような顔だが目尻の下がる様子と口元の歪みで不思議と表情が読める。隣りの長身の男が戸惑いをいっぱいにした顔で流央を見ているのに気が付いた。目を合わすと半ば呻くような声で答える。
「あ……随分、雰囲気が変わっているもので」
変わっているとは言葉通り『変人』の意味だろうか。日本人を見ることが珍しいのか?と流央は思った。何しろ流央にとっても初めての事ばかりの地だ。その割りに日本語が上手いものだ、と感心する。そこで流央はハッとする。
「ここって何て国です?」
流央の質問に三人は顔を見合わせると、昆虫のような顔の男が口を開く。
「とりあえず中に入ろう。自己紹介も座って足を休めてからにしようじゃないか」
低音の心地好い声だ。話し方といい高い知性を感じる。喋ることが出来るということ自体が予想外だった流央はひどく驚いていた。
中に通されると暗い室内にテーブル、長椅子といった家具が並んでいた。どれも古めかしく、質素に見える。電気が通っていないのだろうか。天井に照明は見当たらず、木のテーブルの上に今は燈っていないランタンが置いてあるだけだった。
指し示された椅子に座ると四人がテーブルを挟んで顔を合わせる。三人共に流央の様子を窺うように見ているのが少し不快だった。
「名前は?」
昆虫男が尋ねる。流央は男が組んだ筋張る両手を見ながら答える。
「大石流央、です。名前が流央」
「リュウオ」
隣りに掛けた少女が覚えるように反復する。女の子に名前を呼ばれるのは照れ臭いが嬉しいものだ。流央は少女に笑顔を向ける。残念ながら女神の微笑みは返ってこなかったが。
「良い名だな。僕はバルッケル、バルでいいよ」
昆虫男のバルッケルはそう言って再び目尻を下げた。『僕』という一人称がやけにお上品だった。隣りの長身の男も頭を下げつつ自己紹介を始める。
「私はベルンハルトだ。よろしく」
ベルンでいいよ、とは言われなかった。声といい堅物のイメージがある。白に近い金髪といい赤い瞳といい色素がとても薄い。しかし男性らしい体つきはひ弱そうなところは見えない。バルッケルの年齢はさっぱり読めないが、ベルンハルトは二十代後半といったところか。
「エルネティーテよ。エルナでいいわ」
素っ気ない少女の自己紹介に「エルナ、可愛い名前だね」と流央が答えると、エルナは驚いたように目を見開く。バルッケルとベルンハルトが顔を合わせて苦笑した。エルナにだけ反応したのがまずかったのだろうか。自分からそう呼んでいいと言ったのに、よく分からない。知らないうちにこの国では大変失礼な何かをしてしまっていたのだろうか。流央は気まずさからもじもじと体を揺すった。
「先程の質問に答えよう。ここはクヌート。ディノガルト大陸の南西にある、カルケディナ王国にもセストリオ帝国にも属さない辺境地だ」
バルッケルがすらすらと言った地名の数々は流央の頭を素通りしていく。
「あの、えっと」
何から聞き返そうか、と戸惑う流央の反応をバルッケルは始めから予想していたように大きく頷いた。
「地図を見せよう」
バルッケルのその言葉にベルンハルトが黙って立ち上がり、奥にある棚を探り出す。流央はほっと息をついた。薄々とは感じていたが、どうやら日本から大分遠い地にいるらしい。地名に全く馴染みがない。大陸の名前も独自のものを使っているようだ。しかし地図を見れば大体の位置は分かるだろう。
ベルンハルトが手際良く広げた地図はテーブルの大部分を占領してしまうほど大きい。クリーム色に焼けてしまっている紙に踊る線と文字をバルッケルが指し示していく。
「ここがディノガルト大陸、その南西、……この辺だ」
流央は返事をしない。いや、出来なかった。目の前に広げられた地図は出鱈目としか言い様が無い程、奇妙なものだった。世界地図はその国ごとに中心に描かれる国が変わる。日本なら日本が真ん中に描かれたものになり、ヨーロッパではヨーロッパが中心に描かれたものになる。そのぐらいの知識は持っていた流央は、どうにか見慣れない地図を解読しようとした。しかしどう考えてもおかしい。左上から右下に向かって蛇のようにうねりながら伸びる一番大きな大陸、その下にある楕円に近い大陸ーーバルッケルが『ディノガルト大陸』と呼んだものだ。それと右上に散らばる大小の島々。こんな地形は見た事が無い。
「これは、世界地図?」
流央の質問にバルッケル、そして残りの二人も大きく頷く。それは流央に言い聞かせるようだった。
「……日本は何処?」
嫌な予感に流央の声は震えた。バルッケルはその不気味な黒い瞳で流央をじっと見た後、口を開く。
「『ニホン』というところから来たのかね、少年。……落ち着いて聞きなさい、この世界に『ニホン』は存在しない」
「無いわけ……、もしかして消えたのか!?」
大きな地殻変動でも起きたのか、そういう意味で尋ねるがバルッケルは首を振った。
「消えたのではない。始めから存在しない。いや、消えたのは君という存在だけだろうな。……君は『喚ばれた』のだから」
バルッケルの意味ありげな台詞に流央が戸惑ったままでいると、ベルンハルトが補足する。
「異世界に来たといえば分かりますか?ここは貴方が暮らしていた世界とは全く異なる秩序を持った世界。貴方はこの世界の召喚師に引きずり込まれたんですよ」
それを聞いて流央はずっと見ていた悪夢、そして巨人と対面する前に見た夢で、枯れ枝のような腕に掴まれたことを思い出した。
「め、迷惑な……」
そう呻く流央に三人は深く頷いた。淡々としているが同情はしてくれているらしい。しかし急にそんな現実味の無い話しをされても実感が沸くわけが無い。あのコロッセオにいた時と同様、流央は頭がぼうっとしてくる。夢の続きを見ているような、しかし床に触れる足の感触が、テーブルについた腕の感触が煩わしい。
「ゲームみたいな話しだな」
無意識に呟いた自分の声にはっとした。流央は沸き上がる興奮に勢いよく顔を上げる。
「も、もしかして『この世界を救う勇者』とかそういう話し!?」
それを聞いた三人は流央が予想した反応は見せず、静かに彼を見るだけだった。ベルンハルトが困惑したような、同情するような顔で何か言おうとするのをエルナが遮り、冷徹とも言える声で告げる。
「別に世界の危機なんて無いわ。魔王がいるわけでも、混沌が世界を飲み込もうとしているわけでもない。あなたは奴隷として喚ばれたのよ。分かる?使い捨ての見せ物として、あの闘技場に呼び寄せられたの」
エルナの不機嫌な声に、流央は頭からすうっと血の気が引いていくのが分かる。脳は事態に全く追いついている感じがしない。でも、きっと意識の奥深くで自分の未来に警報が鳴らされた気がしていた。