16.巡り巡って②
「俺、あの家に住んでるんだ。不可抗力で飼い主とはぐれてしまってさ、連絡してくれると嬉しい」
「それは構いませんが……」
丹羽の言葉がいい終わる前に、突然、悲鳴のような叫び声が入ってきた。
「すみません、この子を助けて下さい!」
騒がしくなる室内。声のした方を向くと、駆けていく獣医や看護師さんの姿が視界を掠めた。
「丹羽! 俺達も」
丹羽は一瞬躊躇ったものの、そっと俺が入っているケージを抱え、診察室へ近づいた。
悲鳴の主は白っぽいカーデガンを羽織った中年の女性のようだ。小刻みに震える腕の中に、三毛猫が抱きかかえられていた。毛並みは、汚れて、痛々しく血でくすんだ色に染まっている。
「落ち着いて、話を聞かせて下さい」
獣医は猫を診察台に乗せながら尋ねた。
「車に、はねられたんです。すぐ側の公道ですごいスピードで走ってきた青い車に。その車、ブレーキ間に合わなかったみたいで、一旦止まったけどそのまま走りさっちゃって……」
女性は泣きそうな声でそう言った。
事故現場からこの猫を抱えて来た彼女の衣服は血だらけで、この人が事故にあったんじゃないかと誤解してしまいそうなほどだった。
「肋骨と……左前足が骨折していますね。……エコーの準備を」
獣医は女性の話しを聞きながら、その手を止めることなく診察を始めていた。テキパキと看護師さんに指示を出し、検査を進めていく。
俺と丹羽は、邪魔にならないように待合室の端っこから見守る。
不幸中の幸いで、内臓に致命的な外傷はなく出血もしていない。命に別状はなさそうだった。
「数か所複雑骨折していますが、しばらく入院させて治療すれば大丈夫ですよ」
獣医のその言葉に、女性は安堵したのか鼻をすすりつつ、
「ありがとうございました。よかった……」
まるで、自分の飼い猫を助けてもらったかのように深々と頭を下げた。
どうやら、この女性は怪我した猫を引き取るつもりらしい。連絡用の書類に住所や連絡先を記入すると、また獣医達に頭を下げた。
その表情は先程までの固く震えたものではなく、安堵の笑顔で、見ていた俺まで嬉しくなった。
手当が一段落し、ケージに入れられた直後、突然その猫が暴れ出した。
何を言っているのかわからなかったけど、何かを必死に訴えているようだ。
「子ども達のところへ……早く……出して、ここから出して……」
よく聞きとろうと、思わず身を乗り出して、意味がわかった途端、居てもたってもいれなくなった。
猫の言葉がわかったことに疑問は抱かなかった。
猫はよろけながらも、ケージに体当たりを繰り返す。
「どうしたんだ、局所とはいえ麻酔で動けないはずなのに」
獣医は怪訝そうに言う。
身体の様子はわかっても、猫の事情までわかるはずもない。もう、ぐずぐずしてる場合じゃない。
「あんたの子どもってどこにいる?」
大声で叫んだ。猫はすがるように俺を見つめた。
「駅通りの、タバコ屋の裏口に面した路地に三匹います……」
「わかった。俺が代わりに迎えに行くから、無理するな」
突如叫んだ俺を、驚きの表情で見下ろしていた丹羽に、
「丹羽! 悪いけどもう少しだけ協力してくれ」
問答無用で協力を煽る。すぐに動けない身体がもどかしい。
「はい?」
「あの猫は母猫だ。子猫三匹が帰りを待っている、すぐに行かないと」
「子猫は何処に?」
「駅通りにあるタバコ屋の裏口に!」
「わかりました。急いで保護してきます」
丹羽の反応は素早かった。
「待て。俺も連れて行ってくれ」
駆け出そうとした背に慌てて待ったをかける。
「怪我しているくせに何言ってるんですか」
「テーピングしてあるから平気だって。それに俺じゃないとあの猫の子どもか確かめられないだろ? お前ドジだから間違えるかもしれないし。ほら、例えば砂糖と塩を素で入れ間違えたり、漫画みたいに額に眼鏡乗せたまま眼鏡探してた事も……」
「ああ、もう。本当になんなんですかあなたは。……怪我、悪化しても知りませんからね」
あとドジじゃなくてちょっとうっかりしているだけです、そう呟きながら今度こそ出口へ駆け出した。
つい、元いた世界の丹羽との思い出を口に出してしまったが、なぜか通じたようだ。
もう一度母猫の方を見ると、ぐったり横になっていた。必死に祈るような眼差しと目があった。任せておけと頷いてみせる。
「ちょっと君! 何処へ行くんだ?」
「すみません! またすぐに戻ってきます」
獣医が慌てて引き止めるのをしり目に丹羽は駆け出した。
駐車場脇にとめてあった自転車へ直行する。前カゴにケージごと入れようとして、直後、動きが止まる。どうしたのかと見上げると、我慢して下さいよと俺をケージから取り出すと胸ポケットの中へ入れた。
ああ、なるほど。確かにポケットの方が振動は少なくて済む。ちゃんと相手目線で物事を考える優しい気遣い。
ジェットコースター並みの振動と乗り物酔いを覚悟していた身としては、かなりありがたい。
丹羽は全速力でサドルを漕ぎはじめた。