14.声の正体 丹羽 part2
秋、という季節は悪くない。
冬に向けて日に日に冷えていく空気は澄んでいるし、梅雨時の淀んだ感じや真夏の纏わりつくような熱に比べたらかなり過ごしやすい。いや、単に夏場の定番イベントや雰囲気が苦手なだけかもしれないけど。
紅葉に染まった木々はとても綺麗で、ついでに食べ物も美味しい。だから基本的にこの季節は好きだ。
日の暮れた世界は、急速に闇に沈みつつあった。
事務所の窓から視線を室内に戻した後、腕時計を見る。あと五分で定時だ。今日も無事に仕事が終わる。
「丹羽君、帰りも亥毛坂通るの?」
席を立とうと腰を浮かせたところに、事務の久世さんが声を掛けてきた。
「近道なもので」
亥毛坂、というのは職場からすぐ近くにある林の中にある道の事だ。
あの坂は勿論舗装されてはいるのだが、街灯が少ないので暗いのだ。人通りも少ない。久世さんの言わんとすることはわかる。
今年の夏に行った社員旅行以来、僕は暗所恐怖症のレッテルを貼られている。もちろん、そう思われてもしかたない行動を起こしたのは事実だけど、誰にも本当の事が言えないのでそういうことにしている。
「平気ですよ、自転車通勤ですし、家までほんの十分ぐらいで着きますから」
「バスで帰ったら?」
「バス代もったいないじゃないですか。それに、少しでも体動かした方が体力つきますし」
「丹羽君、最近調子悪いみたいだけど大丈夫?」
久世さんが言う。
それは違います! と反論したい気分を抑え込んで僕は頷いた。調子悪い事にでもしとかないと、昨日の病欠や震えとか説明がつかない。
「じゃ、今日もお疲れ様―」
久世さんはそう言って僕より一足早く事務所を出ていく。仕事終わりだというのに、元気な人だ。さて、帰るか。他の同僚に挨拶し帰り支度を整える。アパートまでは亥毛坂を通れば自転車で十分。帰りに買い出しに行く時などは、大きめの公道の方から帰るがその他は、ほぼこの坂を通って通勤している。今日は別に用もないので真っすぐ亥毛坂の方へ進んだ。
日の落ちた後の亥毛坂は冗談抜きで暗い。所々思い出したかのように立つ街灯はあまり役に立ってない。
亥毛坂は途中何度かカーブしながら蛇のように続いている坂だ。おまけに、ぎりぎり対向車とすれ違えるしかこの坂は幅が無い。前後から車が来た場合、歩行者は居場所がなくなるんじゃないかな。右手側は土が崩れないようにコンクリートで固められた壁で、左手側のガードレールの向こうは手入れなどされた事のないような草ぼうぼうの斜面になっている。
少し遠回りをすれば大きめの公道があるため、地元の住民も職場の社員もほとんどこの道を利用することはないようだ。
いつもは自転車でさっと通り過ぎる帰り道だが、今日はなんだか歩いて帰りたい気分だった。自転車を降り、スズムシやコオロギ達の奏でる涼やかな音色に耳を傾けながら歩く。
僕は就職してから約半年間この道を通り続けている。だから、この道に自分の苦手とするものの類がいないことは確認済みであった。
なだらかな坂から見下ろす街は、改めて眺めてみるとなんだかひどく綺麗だった。
すっかりリラックスした心境で感慨に耽っていると、
「おーい」
なんか聞いたことあるような声が聞こえた。ぎょっと身構える。
でも、振り返っても辺りを見渡しても、誰もいなかった。いくら街灯が少ない道路っていったって、近くにいる人間まで見えないってことはない。
空耳? そう思うことにして歩き出そうとした瞬間、また声がした。同じ声色。
「おーい。ちょっと手を貸してくれ」
う、うそだろ? ま、またか……。条件反射で場を立ち去らねばと結論づける。
急いで自転車に跨ったところで、ふと先程の声の内容を思い出す。
手を貸してくれ? 何やら切実な声だった。けど、どんなに目を凝らしても辺りを見渡しても、やっぱり誰もいない。
どうしても昨日の事を思い出してしまう。あの得体のしれない恐怖の経験を。昨日もこんな感じでいきなり声が聞こえてきた。
昨日は仕事を午後から体調不良で休んだ。そしてそのまま有名な神社へ赴き、高級お札とお守りを買い、やっと気が落ち着いたばかりだ。
頼むから、もう怪奇現象は願い下げにしてほしい。
「聞こえてるんだろ、聞こえてるよな? ちょ、手を貸してくれ」
どうやら、空耳ではないらしい。姿は見えなくとも、切羽詰まった声が再び聞こえてきて、少しだけ冷静に相手の言葉を聞く事が出来た。
手を貸す? 一体なんなんだ?いや、それよりも……この声。
もしかして、ガードレールの下から聞こえてないか? 僕はガードレールから下を見下ろした。名も知らない雑草が生い茂る斜面。すぐ下には灌木が広がっている。
「悪いが、助けてくれないか? ちょっともういろいろ限界でさ」
声はわりとここから近い斜面から聞こえる。どこぞの好奇心旺盛な奴がこの斜面を下りようとしてコケて怪我でもしているのだろうか。
「どうしたんですか?」
勇気をだして、尋ねてみた。僕が反応したのが嬉しかったのか、安堵した声が返ってくる。
「ええと……」
「上がれないんですか?」
「それがさ、尻尾……いや、足が変な方向に曲がって、痛くて身動きとれないんだ」
え? 足が変な方向ってそれって普通に考えて骨折? そんなことを聞いた以上ほっとくのも目覚めが悪い。
「大丈夫なんですか? すぐ誰か人を呼んで来ますから」
「あ、いや、待ってくれ。たぶんお前が手を伸ばしてくれたらなんとかなる」
本当だろうか?
でも、声があまりにも必死だったもんだから、僕は荷物を道の脇に置いてガードレールを注意して越えた。足元は滑りやすくかなりの急斜面だった。
「どこですか?」
「そのまま手を伸ばしてくれ」
そのままって、声の主は茂みの中にいるようだ。妙だと思いつつも、右手でガードレールの一部を掴み、左手を伸ばす。ガサガサと茂みをかき分けてみる。
「あなたも、手を伸ばして下さいよ……って、わぁ」
右足がずり落ちかけた。慌てて自分の体を道路の方に引き戻そうとする。空を欠いたままの左手に何かが絡みついてきた。
「よくやった」
左手から声が聞こえてくる。が、僕は声なんぞもはや眼中になかった。
異常な感触にぞぞっと背筋をひやりとした寒気が走るのを感じる。……だって、絶対手じゃないぞ、これ!
肌の感触じゃない。冷たくて細長い────縄か?
それにしては微妙に動いているような────なんだよ、これ!
半分どころか完全にパニックになって、ブンブンと左手を振りながら必死で斜面を駆け上がる。
ガードレールを飛び越えたところで、格好悪く腰をぶつけ道路の脇にしゃがみ込んだ。
尋常じゃない心臓の鼓動をなだめるように右手で胸を押さえた。それから、ふと左手を見やり、今度こそ悲鳴をあげた。
「うっうわぁぁっ!」
左手首、長袖シャツにしっかりと食いついている、白くて長い物体。
白蛇。
すぐに、昨日のペットショップにいた奴だとわかった。
その白蛇はシャツの袖口に咬みついたまま、縋るような薄紫色の瞳を僕に向けていた。そしておもむろに袖口から口を離すと、力尽きたかのような不自然な動きで自ら地面へと落下した。
「痛っ」
白蛇は首だけをわずかに起こしてこちらを見ると、
「助かった……」
絞り出すような声で言ったが最後、ペタリと地に伏せたまま何も喋らなくなった。
僕も何も喋らない。
というか、声が出なかった。
聞いた事のある声。
燻っていた違和感が確信へと変わる。────知ってる。
さっきからこの白蛇の発する声は冬木先輩のものだ。
逃げたい気持ちと、敬愛する先輩の声に対する感情がごちゃ混ぜになり身動きができない。そうでなくても腰が抜けてしばらく動けそうにない。気が弱いのは自覚済みだけど、文字通り腰を抜かしたのはさすがに初めて。
「あ、あの」
どのくらい放心してただろうか、ようやく言葉を発することができた。先輩の声だと理解できた途端、恐怖心が軽減するのがわかる。ようやく震えも収まってきたようだ。
白蛇は沈黙を保ったままピクリとも動かない。よく見れば痛々しい姿をしている。
ペットショップで見たときの、際立って白かった鱗は薄暗いこの状況下でもはっきりわかるぐらい赤茶色に汚れて、鱗が剥がれてしまっている部分からは薄ピンクの皮下がむき出しになっていた。
ほっといたら、どうなるんだろう、この先輩の声でしゃべる蛇。このままだと、衰弱死するだろうか。その前に、車に轢かれるかカラスなどに食べられる可能性の方が高いかな。
よりにもよって冬木先輩の声でしゃべるから、無視できなくなった。
僕は沈黙したままの白蛇をタオルで包むと、動かさないよう慎重に左腕で抱きかかえ歩き出した。
何やってんだ僕、と思いながら自転車も忘れずおしていく。
本当、何やってんだ、この白蛇は先輩とは無関係のはずだ。ほっときゃいいのに。
このままにしておいても、誰も責めないし、人通りの少ないこの道では車に轢かれる事などないかもしれない。カラスだって最近じゃ生息地は街中だ。
それでも、僕は白蛇を包んだタオルを抱えて歩き続ける。
自分でも信じられない行動だと理解しつつも。