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波に追われる。
海に放り出された身体は、うねる水面の動きに合わせて踊る。次第に体温は水と同じになっていき、四肢はさびた金属のように動かない。冷気が肺を縮めて、酸素を逃がす。
もう喘ぐようにしか息が出来ない。
初めに彼を殺すのは、寒さだった。
海に煽られて沈んでいく身体を起こそうとするが関節の節々が悲鳴をあげる。劣化した扉の如く音をたたてゆっくり藻掻くようじゃ、抵抗なんて出来ない。
陸地では真冬であっても雪は降らなかった。しかし、水中に1歩踏み込めば、氷が降ってきているのと何ら変わり無かった。
波が肺の中を蝕み、息をするのすら億劫に思えた。冷たさによる痛みはとうに麻痺して彼は胴だけの人間になったようだ。
抗うことも無く沖まで流される。かと思えば鉛かのように重量を増した水が身体を海の底まで叩きつける。
そうして5度ほど沈んで浮いてを繰り返した頃。たどり着いたのは数多の岩が水面から天空を刺すように突き出る地帯だった。
"地獄"。彼らはそう呼んでいた。そびえ立つ岩石達を筆頭に、その奥には「死の谷」と呼ばれる深海への空洞が存在すると言われている。
何故そんな逸話みたいな言い回しをするのか。そこから戻ってきた人はいないからだ。
「死の谷」を軸にしてここの海流は渦を巻くように流れる。死をも喰らう波。その海流に乗ってしまえば、死体すら残らない。故にこの地点付近で消息がたった者達を「忘却者」と呼ぶ。死も分からず人々の記憶から消えるまで帰ってこない。
彼もまた、忘却者になろうとしていた。
「骨は流さず残して欲しい。」遺書に書いた言葉は願わずとも叶いそうだ。
頭に強い衝撃を受ける。脳の揺れが全身に伝わり、四肢が痺れる。必死に抵抗していた腕がだらしなく伸びる。もう一度固くとがったものが脳を突く感覚がして。パキッと子気味いい音を立てた。頭蓋骨が割れ脳に直接衝撃が走る。
彼の死因は脳の損傷。しかし、彼は生死不明の忘却者となった。




