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interlude:お人形の夢と目覚め

 うんと幼い頃、私は晴れの日が大好きだった。

 雲すら見当たらないほど晴れた空は、私をママのお人形にしてくれるから。

 ドールのような可愛いらしい服と、一時間もかけて丁寧にセットしてもらった綺麗な髪。

 両親はそんな風に飾り付けた私を連れて街を歩くのが好きで、三人で手を繋いで歩くとすれ違う大人達が私をお人形さんみたいだと言って褒めてくれた。

 私が褒められるとパパとママは喜ぶ。だから私は二人のお人形さんで在り続ける。それが私にとっての幸せだった。

 けれどそんな日々はまるで夢から覚めるみたく突然終わりを迎える。

 ママはパパを奪われた。いや、本当はずっと前からパパの心は別の誰かの物だったのかもしれない。きっとママもそれに気付いていた。

 写真の中で私とママの肩を抱く家族思いのパパの姿、穏やかな瞳でこちらを見つめるママの笑顔、二人の愛を一身に受けて無邪気に微笑む私というお人形。そこには嘘しか映っていなかった。

 それでもママは夢から覚めようとはしなかった。崩れかかった現実から目を逸らし、幸せな家族を演じ続けた。

 そしてパパが家を出て行ったあの日、ママは家族の写真と私のドレスを全て燃やした。まだ目を閉じれば鮮明に思い出すことのできるその炎は、ママの見てきた淡い夢まで全て焼き尽くすほどに熱かった。

 お人形でいられなくなった私は誰からも愛されない。パパも、ママも、すれ違う大人達も、着飾っていない私のことなんて見向きもしなくなった。その時になって初めて、あの日ママの夢と一緒に私というお人形も灰になって消えてしまったことに気付いた。

 やがて体の成長とともに視線は下がっていき、気付けば私は影ばかりを見ながら歩くようになっていた。


 大きな音を立ててグラスが倒れる。


「あーもう何やってんのくるみ。そのままね」

 そう言いながら彼女は席を立って走っていく。

 あんなに何度も心の中で練習した言葉なのに、いざ本人を前にすると手が震えて指をグラスの淵に引っ掛けてしまった。

 私は、ドリンクバーへと駆けていく彼女の背中を見ながらひっそりとため息をついた。

 この後に及んでまだ私は躊躇しているのだろうか。とっくに覚悟は決めたはずなのに。

 私の大好きな彼女は子供だ。というより、子供でいたいと願っている。

 十四歳という季節は目まぐるしく、同級生達はみんな少しでも背伸びをして大人になろうと痛々しくもがく。けれどもその中で彼女だけが時間の流れに逆らうように子供で在り続けようとしているように見える。

 きっと彼女は自分自身や周囲が変わっていくことを恐れている。それは日常だったり、将来だったり、そして恋だったり。

 それはまるで子供の自分が遠くへ行かないように必死で手を握っているようで、とてももどかしい。

 ただ、現実に逆らって夢の中にいようとすれば人はいずれ大切なものを失い、壊れていく。

 炎という現実に夢を一枚ずつ焼べていったあの日のママの横顔。大好きな人のあんな顔を私はもう二度と見たくない。

 その為になら、私はまた人形にだってなれる。

 ふと窓の外に目をやると丸い太陽が容赦無くアスファルトを焼いていて、一年前の揺れる坂道を思い出す。

 ママの故郷であり、私にとっては何も知らないこの街の知らない中学の校舎へと続く道。まるで処刑台へと続く道、というのは物騒な表現だけど社会への心を閉ざし切っていたあの頃の私にとってはそれくらいの気持ちであの坂道を登っていた。いつも下を向いて生きていた私は以前の学校では「根暗の子」だった。一度根暗というラベルを貼られた子供は、よほどのことがない限りそのラベルが剥がされることがない。誰もラベルの下に興味なんてない。

 きっとこの学校でも私は同じラベルを貼られる。まあ違う部分があるとすれば「根暗の転校生」になることくらいだろう。けれどそれは私自身を隠すラベルがより長くなることを意味している。

 そんなことを考えながら足元だけを見つめて歩いた登り坂。脳みそまで溶けてしまいそうなほどの暑さに焼かれながら重い次の一歩を躊躇っていた時、目の前に急に人の気配を感じて少しだけ顔をあげたところに彼女がいた。 

 軽やかな足取りで下り坂を駆け降りて行く彼女と、罪人のような足取りで登り坂を進む私。二人の視線がすれ違い様のほんの一瞬、交差した。

 綺麗な子だ。瞬間的にそう感じた。その透き通るような大きな瞳が私を見たという事実だけで少しだけ幸せな気持ちになれそうなほど、彼女は眩しかった。

 私とは正反対の明るくて快活そうな少女。きっともう私達が交わることなんて二度とないのだろう。

 そう思って視線を再び影へと落とした瞬間だった。

──綺麗な子だったね。

 たった今すれ違った彼女の方から、まるで誰かに囁くようなそんな声が聞こえた。私は驚いて振り返る。しかし、そこには遠ざかっていく少女の背中が一つあるだけで彼女が話しかけたような相手がいる気配はない。

 その場に立ち尽くし、彼女の姿が小さくなって行くのを見ていた。

 空耳だったのかもしれないし、私の勘違いかもしれない。けれど、それは私自身がもらった初めての褒め言葉だった。

 見知らぬ制服を着て、ボサボサとした野暮ったい髪型で下を向いて歩く私を見て、転校生でも根暗でもなく綺麗だと言ってくれた彼女。初めて私自身を見てくれた人。

 坂の両脇に植えられた木々の葉が揺れる。暑いだけだった夏の昼下がりに一瞬だけ心地よい風が通り、空が晴れていることにその日初めて気づく。

 早くしなさい。と苛立ったママの声で再び向き直り校舎へと向かって次の一歩を踏み出した。

 急勾配の道はまだ長く先が見えない。けれどもしもこの登り坂の向こうに一つだけ希望を持てるのなら、また彼女に会いたい。そう思った。


 意識を今に戻して彼女の方を見つめる。一年前に見たのと同じ愛おしい後ろ姿。この一年間、ずっとその背中を追いかけてきた。

「ほら、布巾持ってきたから拭きな」

 私は帰ってきた彼女から差し出されたそれを受けとると、得意の嘘っぽい笑顔で答える。

「ありがと。いっちー」

 目の前に座って再びジュースを飲む愛おしい人に、私はこれから別れを告げる。

 嘘で縫い上げた恋敵という人形になって夢の浅瀬から彼女を引っぱりあげる。

「ねえ、いっちー」

 大好きな人を見つめて、声が震えないように。

「私、いっちーのこと大好きだよ」

「なあにそれ」

「えへへ、愛の告白」

 嘘みたいな言葉に本音を乗せて、私は目の前にある日常を瞳に焼き付ける。

 数秒後に壊してしまうこの夢みたいな世界を、ずっと忘れないように。

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