瀬戸二葉④
「むかしむかし、あるところに……」
ママが絵本のはじまりのページを捲ると同時に唱えるその魔法の言葉は、いつも一瞬で私を夢の世界へと攫っていってくれました。
まだ私も一花も幼かったあの頃、一日の終わりにベッドの中からママの優しい横顔を見上げるこんなささやかな時間が私にとっては何よりも幸せでした。
だけど、そんな夢の時間はいつもあっという間で、ママが「こうしてお姫様は幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」と唱えて本を閉じてしまうと、それと同時に私の夢もパタンと閉じられてしまうのです。
せっかく素敵な王子様と結ばれても、夢を叶えても、お姫様の物語はいつもそこでおしまい。幸せと終わりは必ず一緒にやってきて私を夢から引き摺り出してしまう。お姫様は幸せになれたはずなのにどうしてそれを見ている私はこんなに寂しい気持ちになるのか、お姫様は幸せになってしまったらそれで終わりなのか、幼い私では上手く処理できないそんな感情が心の中をモヤモヤと漂いなかなか寝付けない日が時折ありました。
そんな時にふと隣を見ると、そこにはお話が終わると同時に安心したように本当の夢の世界へとスヤスヤ潜ってる一花がいて、その純粋さや単純さがちょっとだけ可笑しくて愛おしくてそんな彼女の横顔を見ているうちに、いつの間にか私の瞼も重たくなっていくのでした。
八月三十一日
「あぁ夏休みが終わるなぁーやだなぁ」
一花は鍵盤から手を下ろすと、その下ろした両腕を天井に突き上げるように体ごとグーっと伸ばしてこの世の終わりみたいなテンションで嘆きます。
「でもお姉ちゃん学校別に嫌じゃないでしょ。友達もいるし」
「んーそれとこれとは違うんよー」上へと伸ばした手を今度は左右に伸ばして、ベッドに腰掛けている私に背を向けたまま姉は答えます「七歳児にはわからんかなぁ。この複雑な乙女心が」
「学校めんどくさいって感情のどこに乙女要素があるというの」
「ナイショ」
そこまで言うと一花は両腕を鍵盤に戻し、再び美しい旋律を奏で始めます。
それなりの高さまで昇っている太陽の光が遠慮なく差し込むこの部屋に響く『二声のインベンション第十三番イ短調』一ヶ月前には同じ八小節を繰り返すだけだったこの課題曲を、今の一花はほとんどノーミスでエンディングまで弾き切れています。更に言うならば、なんと一花は夏休みの宿題までも昨夜の時点で全て終わらせてしまいました。妹としてはこっちの方が驚きです。
海に行った日からこの二週間ほど、一花は少し変わりました。具体的に何が変わったのか、言葉にするのは難しくて、真面目になった。と言うのも少し違う気がします。
強いて言うならば、彼女は向き合うようになったのかもしれません。今の課題や、自分自身に、毎日逃げることなく向き合っている。ピアノを弾く今の姉の背中からはそんな強い意志を感じる気がします。
一体何が、誰が一花を変えたんだろう……なんてことを思いながら時計を見た瞬間、私は思わず悲鳴をあげてしまいました。
「お姉ちゃんもうすぐ十一時だよ!レッスンの時間じゃん!お屋敷行かなきゃ!」
二秒後、ぎゃああああと叫びながら慌てて支度を始める一花を見てあぁやっぱりこいつあんまり変わってないかもなと深くため息をつきました。
レッスン予定時刻の二分前に息を切らして駆け込んできた汗だくの一花を葛城先生は優しい笑顔で出迎えてくれました。
「あらあら一花ちゃん、ちょっとくらい遅れてもよかったのに」
先生がそう言って差し出してくれた冷たい麦茶を一気に飲み干すと一花は笑顔で「余裕っす」と答えました。何がでしょうか。
先生とともに防音のレッスン室へと入っていく一花にはついていかず、私はリビングの真ん中に置かれているクリーム色の大きなソファに体を沈めてぼんやりとこの広いお屋敷を見渡します。
白を基調とした洋風の家の中はいつも掃除が行き届いていて、人の住んでいる家というよりは喫茶店やホテルのロビーのような清潔感が保たれています。
お屋敷。はじめにそう呼んだのは私と一花のどっちだったでしょうか。ママに初めてここに連れてこられた時の私たちは、この家の大きさや美しさにひどく興奮していて、まるで絵本の中に登場するお屋敷みたいだと言ってはしゃいでいました。きっとこんな幼稚なこと言うのは一花の方でしょうね。
当時の私達は無邪気で、こんなお屋敷に一人で住んでいる先生はきっとすごくお金持なんだとか偉い人なんだとか、もしかしたら魔女かもしれないなんて割と失礼な予想までしていました。
しかしここに通い始めて何年も経つうちに、私達は先生が魔女なんかじゃなかったことを知るようになります。
ずっとむかし、どうやらこの家には先生の旦那さんやお子さんが暮らしていたそうです。
今、どうしてここには先生だけしか住んでいないのかは私達には分かりません。けれど、今私のいるこのリビングにはかつて温かな家族の風景があって、その真ん中には家族と笑い合う先生がいて、私達の知らない物語がそこにはあったんだということはわかります。
私はソファから立ち上がり、防音扉の向こうにあるレッスン室の様子を覗きます。そこには、いつもは見せないような真剣な表情で楽譜と向き合う一花と、その隣で微笑む先生の姿が見えます。
私は、先生のその優しい笑顔をじっと見てから静かに目を瞑り、昔のこのお屋敷の物語を想像します。
むかしむかし、私たちの住む小さな住宅街の少し外れに、大きな庭のついた綺麗な白いお屋敷がありました。そんなお屋敷に西側の小窓から茜色の夕日が差し込む頃になると、ミルクとバターの良い香りが屋敷の外まで漂ってくるのです。それに釣られた二人の幼い子供、そうですね……兄と妹です。庭で遊んでいたこの家の兄妹がクンクンと鼻をひくつかせながら玄関から飛び込んできます。リビングでエプロンを付けて鍋をかき混ぜているのは先生……いえ、その頃の先生はプロの演奏家だったので家事は旦那さんかもしれません。お腹すいたー早く早くと急かす子供達に手を洗わせていると、玄関が開いてちょっとだけ疲れた様子の先生が帰ってくる。子供たちは手を拭くのも忘れて我先にと先生の元へ駆け寄って膝にしがみついては『ママ、ママ』と甘えた声を出します。先生はそんな子供達を一人ずつ抱きかかえては順番に頬にキスをしてあげる。兄にしてあげると妹がずるいと声をあげ、妹にしてあげると今度はまた兄がねだる。先生はそんな風に際限なく続く子供達からの要望に応え続けます。疲れているはずなのにその顔は幸せそうに笑っています。『手洗ったのならこっちきて椅子に座りなさーい』と叫ぶ旦那さんの声で子供達は再びリビングに駆けていき、それに続くようにゆっくりと入ってきた先生をチラリと見て旦那さんは一言、まるでシチューの味見をする時みたいな気軽さで『おつかれさま』と呟きます。先生はそんな旦那さんに聞こえるか聞こえないかくらいささやかに『そっちこそ』と微笑むのでした。
私がじんわりと目を開けるとそこには、ピアノの音すら聞こえない、生き物のいない、とても静かな世界が広がっていました。その光景は私が勝手に瞼の裏側でイメージしていたお屋敷の物語とは真逆のはずなのに、不思議と温かな気がするのは、物語の中で私が想像していた先生の笑顔と一花を見つめる先生の笑顔が同じだからでしょうか。
「一花ちゃん。今日の演奏はすっごくよかったわよ。頑張ったのね」
レッスン後、またいつものようにレモンティーを啜っている一花に対して先生は撫でるような優しい声で言いました。
「えへへ、そうですかへへへへへ……クッキーいただきます」
こっちは褒められて嬉しさ丸出しの姉の返事です。妹としてちょっと恥ずかしくらい品がなくアホっぽいです。
「ええ、一皮剥けたって言うのかしら。しっかり課題に取り組んできたのがよくわかったわ。二声のインベンションの集大成に相応しい仕上がりになっていってる。あとはもう少しだけ左手の旋律を聴いてあげられたら完璧になると思う」
「えへへ。ありがとうございます」
「発表会が終わったらいよいよ次は三声のシンフォニアね」
「えへへ、へへへ……それはちょっと」
「ね?」
「えへへへへへ……えっ、マジっすか」
「もちろんマジよ。一花ちゃん」
そう言ってカップに口をつける先生の優しい微笑みに対して、見事に笑顔が引き攣っていく一花。どうやら、このインベンションさえ終わればバッハからは逃げられると勘違いしていたようです。
「三声が終わったら四声、五声そして平均律とどんどん音楽が広がっていくわよ。楽しみねえ。ピアニストとバッハは一生付き合っていく相手だから」
「へへへへ……」
さらりとバッハ終身刑を言い渡された被告一花はもはや笑うことしかできなくなっています。
「ふふふ。一花ちゃんはすぐ顔に出るから楽しいわ。でもね、一花ちゃんも実は気づいているんじゃないかしら、二つの旋律が独立して影響しあっていくこのポリフォニーの楽しさに」
「それは……」
「今日の演奏ね。まだミスもあったし、表現ももっと詰めるところはあるんだけど、二つの旋律はそれぞれしっかり鳴っていたわ。それは他でもない一花ちゃんが二つの旋律を、声を、しっかり聴けているからこそできることよ。右手だけでもダメ、左手だけでもダメ、二つの旋律がしっかり自立しているからこそ、この二つの旋律はお互いを支え合い助け合うことができる。それが美しい音楽を編んでいく。想像してみて。たった二本でこれほど美しい音楽が編み上がるのならば、その糸が三本四本と増えて先に編み上がる音楽がどれほど美しいか、ワクワクしてこない?」
「…………」
一花は黙ったままテーブルの上に置いたカップを見つめます。
「ふふふ。やっぱり私、一花ちゃんのそうやって顔に出ちゃうところ好きよ」
先生にそう言われて一花はハッとしたように口を手で覆い、少しだけニヤけてしまっていた自分の口元を隠しました。
「この先が、楽しみねえ」
紅茶の香りを楽しむようにゆっくりと目を閉じた先生の、その口から部屋の空気へと滲むように漏れ出た言葉に、一花は今度こそ素直に、小さく頷きます。
「はい。とても」
私たちが約束の時間の数分遅れで着いた時には、彼女はもうすでにそこにいました。
「ごめーんくるみー。待った?」
くるみちゃんは一花が待ち合わせ場所に指定した中学の校門に背中を預けて寄りかかり、オレンジ色に染まる空を眺めていましたが、小走りで駆けてくる一花に気付くと一度ぱあっと顔を明るくした後、慌ててフンっと鼻を鳴らします。
「うん。待った。超待ったよいっちー。呼び出しといていい度胸だね」
「ごめんてー。でも、女の子はデートには遅れていく方がかわいいって言わない?」
「そんなテクはもう古いよ。一秒でも先に到着しといて相手に罪悪感を抱かせて精神的に優位に立つのが今のトレンドだから」
「うへー怖い」
二人は向かい合ってクスクスと笑ったあと、数秒間無言で見つめ合います。そのせいか二人の間を吹き抜けるサワサワとした風の音だったり、夕日を惜しむように鳴くひぐらしの声だったり、遠くから聞こえる犬の遠吠えが妙に鮮明に聞こえてきます。
何かに似ているなあと思って考えていたらあれですね。ボクシングの試合でゴングがなる直前の選手同士の睨み合いのシーンに似ていますこれ。もしくは巌流島の佐々木小次郎と宮本武蔵でしょうか。
昨夜、一花にくるみちゃんを呼び出したと聞かされた時は少し驚きました。理由を聞くと珍しく真剣な表情で「涼介との事で話をつけたい」とそれだけ。が、もうそれだけで私には十分です。あの日、くるみちゃんからの宣戦布告を受けてからこの一ヶ月近くの間で一花の中でどんな心境の変化があったのかわかりませんが、兎にも角にも姉は姉なりにもがきながら何かしらの結論を出したのでしょう。
だとしたら、私は妹としてそれを見届けてやるのが義務というものでしょう。あと、ちょっと修羅場とかみてみたいなって好奇心もあるといえばあります。
見つめ合う二人の間のレフェリーのような立ち位置で、私は成り行き見守ることにしました。
先に仕掛けたのは一花でした。
「ねえくるみ。せっかくきたんだし、ちょっと入っちゃおうよ」
一花はそう言うと締め切った校門の横の少し低くなっている塀にひょいっと飛び乗り、くるみちゃんに笑顔で手を伸ばします。
「だめだよいっちー!もう学校閉まってるのに勝手に入ったりしたら……」
くるみちゃんは驚いたように一花の顔を見上げて言います。
「怒られたら謝ればいいんだから、ほら、行こうくるみ。手を握って」
「でも……」
「デートはちょっとドキドキするくらいの方が楽しいでしょ?」
その言葉にくるみちゃんは迷いながらも一花の手を握ります。
「もし先生にバレたらその時は全部私が悪いってことにしていいから」
「ほんと?信じていい?」
「任せんしゃい!」
そう言うと同時にぐいっと、一花がくるみちゃんの手を引いてその体を塀の上へと引っ張り上げます。
塀の向こう側へと降りた二人は、そのままゆっくりと歩き出して校舎へとつながる坂道を登っていきます。
道の両脇に植えられた木々が風で揺れて音を立てるたびにくるみちゃんがビクリと身体を震わせます。
「あはは。大丈夫だよ。夏休み最終日のこの時間に先生なんていないって。先生達だって二学期にもう備えて休んでるんだよ」
「そ、そうなの……?」
「まあ知らんけど」
嘘でしょこいつ信じらんないとでも言いたそうな目で一花の顔を見るくるみちゃん。一花はそのくるみちゃんの顔に堪え切らないと言った様子で吹き出します。
「ちょっといっちー。何がおかしいのさ」
「ううん。別にー」
ちょっとだけ顔を上げてそう言うと、一花はスキップするようにトントンっと坂道を二、三歩先へと駆け上がります。
「くるみ。私ね、今日は告白をしにきたんだ」
「……なあに?」
そう返事をしたくるみちゃんの声と、肩が、少しだけ強張るのが後ろから見ていてわかります。
一花は一つ呼吸をすると、くるりとまるで踊るように振り返り笑顔で言いました。
「私やっぱり、涼介のこと好きみたいなんだ」
またびゅうっと一つ風が吹いて木々が音を立てて揺れます。でも今度はくるみちゃんは狼狽えませんでした。そのかわり、グッとその手を握って一花の言葉に応えます。
「うん。知ってたよ。一年の時からずっと見てたんだから。二人のこと」
「そうなのかー……私自身は最近気付いたんだけどなぁ」
少し照れるようにして頭を掻く一花に、くるみちゃんはグッと距離を詰めて正面から顔を見つめて言いました。
「幼馴染だもんね。昔からずっと一緒にいたからこそ自分の気持ちに気付くのが遅くなっちゃうってことあるのかもしれないね」そこまで言うと、彼女は一つ大きく息を吸って力を込めて続けました「でも、私だっていっちーに負けるつもりはないから」
そうはっきりと言った彼女の目からは、かつての宣戦布告の時と同じように強さと僅かな寂しさが滲み出ています。
「負けるつもりはない。か。うん。そう、だよね」
一花は俯いて坂道の上へと雫を落とすみたいに細切れな言葉を呟きながら、うん。うん。と自分を納得させるように小さく数回頷きます。
しかしやがて、うん。と大きく頷くと、パッと顔を上げてくるみちゃんの瞳を見つめ返して言いました。
「あのね、くるみ。私が今日告白したかったのは実はこれだけじゃないんだ」
「……どういうこと?」
「私さ、くるみのことが大好きなの」
「……えっ?」
呆気に取られた表情で固まるくるみちゃんをよそに、一花がなんだか照れ臭そうな表情でモジモジとしながら言葉を続けます。
「今日はそれを伝えたくてここまできてもらったわけなんだけど……いやーやっぱり本人を目の前にするとなんか照れちゃうなあへへへ」
「…………いーいやいやいやいや!おかしいよいっちー!」
「へ?そう?」
一花の気の抜けたアホ丸出しの返事にくるみちゃんはぶんぶんと首を振って言います。
「そうだよ!絶対変だよこんなの!だって今の私達ってライバルじゃん!涼介君をめぐる敵同士だよ!?そんな私に告白してどうすんの!」
「えーでも、くるみは私に愛の告白してくれたよね?」
一花の迷いのない真っ直ぐな瞳に思わず言葉が詰まるくるみちゃん。
「う……それは……それとこれとはまた別っていうか」
頭を抱えるようにして首を振るくるみちゃんの様子にに一花はクスッと笑うと「複雑な乙女心だね」とだけ呟いて、くるりと反転して再び坂道を登り始めました。
「ところでくるみ。世界にある登り坂と下り坂ってどっちが多いか知ってる?」
「……何急に?」
「いいから、どっちだと思う?」
「どっちってそんなの……」くるみちゃんは一花の背中を追いながら少しの間考えていましたが、やがて「あっ」と閃いたように言いました。
「同じじゃん!登り坂も下り坂も!」
「あははは。正解。流石くるみ。私これ解くの結構時間かかっちゃったんだけどなあ……」
「……それがなんなの?」
「なんて言うかさ、同じ坂でもその人の見え方や立ち位置次第で登り坂になったり下り坂になったりするのってすごく面白いなって思うんだよね私。ちなみに今私たちがいるこの坂はどっちだと思う?登り?くだり?」
「今、まさに登ってるから登り坂なんじゃないの?」
「じゃあさ」と一花はぴょんっと飛ぶように走って坂の最後の数メートルを一気に登り切って平な地面に立ってくるりと振り返って叫びました「今はどっちだと思う?」
「それは……」
「くるみには私がどう見えてる?男を奪い合うライバル?憎い相手?敵?」
「へ?」
「私の目にはね、くるみは親友に見えてるんだよ。大好きで、これからもずっと一緒にいたい大切な人。同じ相手を好きになっても、それは何も変わらない。たしかに私は涼介のことがどうやら好きみたい。でも、涼介がいてもくるみがいない未来は私にとっては幸せじゃない。何かを手に入れるために戦ったり奪ったりするんじゃなくて、大好きな人達と繋いだ手を離さずに進み続けた先にある未来の方が私は幸せだと思う。誰がなんと言おうと関係ない。夢みたいだって笑われてもいい。これが私に見えてる世界だから。だから私は手を伸ばすよ、大切な人には」
一花の言葉にくるみちゃんは俯いて何度も首を振ります。それは一花にというよりも、自分自身に対して何かを必死で否定しているようでした。そして数秒の沈黙の後、くるみちゃんは顔を上げて諭すような優しい笑顔で言いました。
「ううん。それは違うよいっちー。本当に欲しいモノがあるなら、誰かから奪ってでも手に入れないといつか奪われるんだよ。それが大人になるってことだよ。私達はもう十四歳。いつまでも子供みたいなことは言っていられないの。だから」
「嘘だよね」
「え?」
「もちろんくるみにとってそれが幸せだって言うんなら私は諦める。けど、くるみは今本気で言ってないよね?少なくとも私にはそう見えてるよ」
「……どうしてそう思うの?」
「本気でそんな風に思ってる人は、きっとそんな泣きそうな顔で笑わないから」
くるみちゃんはハッとした様子で慌てて顔を隠すように手で覆い俯きました。
「これは……ちが……」
「くるみって実は顔に出やすいタイプだよね。私はくるみのそんなところも好きだよ」
そう言って恭しく手のひらを上に向けて差し出す一花。
「大丈夫だよ。私はこの先どんなことがあってもくるみと一緒にいるから。信じて」
その姿は絵本に出てくる王子様のようでした。
目の前に差し出された手を見つめながらくるみちゃんは言葉を落とします。
「本当に……本当にずっと一緒にいられると思ってるの?この先、どっちかが涼介君と付き合ったりするかもしれないんだよ?それでも私達は親友でいられる?」
「いられるよ。きっと」
「ほんとに?信じていいの?」
恐る恐る一花の手のひらに重ねるくるみちゃんの手をグッと握って一花は言いました。
「任せんしゃい!」
そのドヤ顔にくるみちゃんが堪えきれずにプッと吹き出し、それと同時に一花も釣られて笑い出します。
稜線の向こうへとその体を沈みはじめた夕日が、二人の横顔を染め上げます。
「夏休み終わっちゃうなあ」
「やっぱり寂しい?」
「うん。でも、それだけじゃない。少しだけワクワクする気持ちもあるんだ」
「えっ!?あのいっちーが?」
くるみちゃんが大袈裟に目を見開いて言うと。一花はその様子に少し苦笑しながら続けます。
「くるみのおかげだよ。くるみがずっと海の底に沈んでいた私達の世界を壊してくれたからだよ」
「……どう言うこと?私達って?」
「どこから話せばいいかわかんないんだけど……でも私、くるみのおかげで久しぶりに明日が楽しみって気持ちを思い出せたんだ。ありがとう」
訳のわからないままお礼を言われてますます戸惑うくるみちゃんに構わず、一花は続けます。
「一年前にこの坂で出会った時は、まさかこんなに仲良くなれるなんて思わなかった」
「一年前の私……」
そう呟いたくるみちゃんの声と肩が震えているのがわかります。一花はそっとその体を抱き寄せ頭を撫でます。
「ねえ、いっちーはあんな私すら好きになってくれてた?」
「当たり前じゃん。お人形さんみたいで本当に綺麗でびっくりしたもん。もちろん今のくるみも素敵だけどさ、あの頃のくるみとももっとお話してみたかったよ私」
「いっちー……私は……私はね…………」
どんどん震えが大きくなって、消えてしまいそうなほど声がか細くなっていくくるみちゃんを一花はぽんぽんと優しく撫でるように叩きます。その手に後押しされるように最後に一言だけ「ありがとう」と呟いたきり彼女は日が沈むまで一花の胸で泣きました。
その涙は数年分の雨を一気に放出したみたいにいつまでも枯れることなく彼女の頬を伝い続けていくのでした。
もしもこの世界が一冊の絵本だとしたら、私に与えられた役柄はなんでしょう。
そんな風に自分がまだこの世界に在る理由を探すなら、私はきっと世界の読者なのでしょう。一花という主人公をずっと側で見ているのに何もしてあげられない、その幸せを祈ることしかできない読者。それが私です。
だとしたら、今日という日は一体この世界の何ページ目になるのでしょうか。
坂の上に立ち、消えゆく今日を惜しむこともなく明日に希望を抱いて笑う一花を見ていると、今日という日が私の読む世界の最終ページなのだと思わずにはいれません。
いつだって幸せと終わりは同時に来ます。だから、一花の幸せを願う限りいつかはこんな日が来ることを覚悟していました。なのにどうして、私はこんなにも悲しいのでしょうか。
私は自分という存在を過信していたのかもしれません。死んだはずの自分がこの世界に残っているのにはきっと何か重要な意味があるのだと、自分は一花を助けるためにここにいることを許されているのだと、そう信じていたかったのかもしれません。
けれど、結局私は彼女に何もしてやれず、一花は自分自身で幸せの花を見つけました。やっぱり私はただ隣で彼女の幸せを見届けるだけの読者でしかありませんでした。
めでたしめでたしで本が閉じるように、幕が降りて客席に明かりが灯るように、私は消えてしまうのでしょうか。
太陽は夏の忘れ物を全て抱えて世界の底へと沈んでいきます。海も青空もささやかな思い出も、そしてきっと私すらもその体に抱えて。
まだ伝えたいことが沢山あったはずなのに。手を伸ばせばずっとそこにいたのに。
『ねえ一花ちゃん、二葉ちゃん』
不意にいつかの先生の声が頭をよぎりました。
『これから学ぶポリフォニーに大切なのは、二つの声を聴いてあげること。右手だけでも左手だけでもない、二つの旋律がお互いの声を聴いて会話をするように弾くことで初めて二声のポリフォニーは美しく鳴るの』
ねえ先生。もし先生の言う通りだとするのなら、一花のポリフォニーはまだ鳴らないのでしょうか。
だとしたら、私にも最後にこの世界に自分の意味を持たせることができますか。