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瀬戸一花③

 先に飛び出したのは私だった。理由はもう忘れてしまったけれど、あの日公園で、二人並んでブランコに乗っていた私は急に家に帰りたくなった。ただの気まぐれ。きっとそうだ。幼い子というのはなんの秩序もなく瞬間的に興味が切り替わる。だから、気まぐれ。気まぐれで私がブランコから飛び降りて言ったんだ。「二葉、家までかけっこしよう」

 今でも考えることがある。もしもあの時、私より二葉の方が足が速かったら、ブランコをもう一漕ぎしていたら。走り出すのがあと一秒だけ遅かったら。

 景色はもう覚えていない。

 ただここに在るのは、二葉の私を呼ぶ声と耳を貫いたクラクションの音、何かが潰れたような奇妙な音。そんな耳に残った記憶の断片と、泣くことしかできない無力な私が握った二葉の冷たい右手の感触。それらは普段は心の奥の見えない部分に隠れて息を潜めているけれど、ふとした瞬間にその手を暗闇から伸ばして私の襟首を後ろからぐいと引っ張る。そして引き戻される。七年前のあの地点に。

 そんな時にやっぱり考えてしまう。なんの意味もないことだけれど。

 

 もしも、あの時。


 八月二十五日

 苦しい。痛い。死ぬ。

 頭の中にはそんな言葉ばかりがフラッシュみたく光っては消えてまた光る。

 泳ぎが苦手とは言っても、私にも多少の心得くらいはあったはずだ。けれど、際限なく寄せる波と、右足の痛みと、飲み込んでしまった海水によってそんなものはあっという間に私の中から消え失せた。

 何も考えられない。ただ、次の一秒を生きるために必死でもがく。もがくほどに攣った右足に激痛が走り力が入らなくなる。それでも無理に息をしようとするから海水を飲み込んでしまい激しい嘔吐感に見舞われ気が遠くなっていく。

 何度目かの息継ぎで私は全身の力が抜け、もがくことすらもできなくなった。

 あぁ、死ぬんだ。その瞬間、なんだか心の底から冷静にそう思った。死ぬんだ私。さっきまで楽しく遊んでいたのに。こんなことで急に。

 右足の激痛が鉄球付きの足枷みたいに私の体を海の底へと沈めていく。さっきまで雲に隠れていたはずの太陽がまた顔を出したのか、水の中がキラキラと光っている。その光を掴もうとするかのように力なく差し出した右手を、覚えのある小さな手が握った。

 私はこの手を知っている。小さくて、柔らかくて、幼くて、無力な右手。七年前に私自身が差し出したどうしようもない手。届かないこと、なんの意味もないこと、全てわかっていていたのに。

 私達はあの日から何も変わらない。二人合わせてようやく一人前の幼い双子。それなのに大事な時には手を握ってやることしかできない、お互いを救ってあげられない別の人間。それが私達。

 だから、泣かないで二葉。きっとこれでいいんだよ。私が生きている方がおかしいんだ。だって、私なんて。

 「一花!」

 聞こえないはずの声が響いた。それは水を伝って私の中を揺らすほどに強く。


 ただどうしようもなくて、目が覚めた。

 視界には暗闇の中にぼんやりと浮かぶいつもの天井があって、隣には二葉が静かに寝息を立てている。一瞬の混乱から、脳の電源が立ち上がったみたいに現実が流れ込んできて今この瞬間が夏休みの深夜だということを、ただの日常だということを把握する。緊張が解けて体が頭の先から弛緩していく。

 二十八度でエアコンが作動しているはずなのに体中がベタベタと汗ばんで気持ち悪いし、そっちに水分を持っていかれたせいか喉は枯れ切れたように痛い。

 私はそっと体を起こすと二葉の眠りを邪魔しないようにヒョイっと飛び越えて部屋を出る。

 階段を踏み外さないようにそっと一階へ降りて、暗いままのリビングでコップに半分だけ水を注ぐと、喉を鳴らして流し込む。あっという間に飲み干してしまったのでもう一杯注ぐ。

 どうしようもない夢を見た。だから目が覚めた瞬間、ここが家で、隣に二葉がいて、そんな当たり前の現実で本当に良かったと安堵の息が漏れた。けれど、たった数分前のその夢の記憶には靄がかかっていて何も思い出せない。流れ込んできた現実に海馬の奥へと追いやられて見えなくなってしまったみたいだ。

 水を飲み終えると私は脱衣所でTシャツを着替えてまたリビングへと戻る。そのまま二葉の眠る二階の部屋へと戻ろうかとも思ったけれど、リビングの大きな窓から差し込んだ月の光が部屋の真ん中に設えてあるテーブルとソファをぼんやりと青白く照らしていて綺麗だったので思わず導かれるようにしてそこに座った。

 しんと闇に沈む静けさの中で時間の感覚すら失って、見えるのは月影に照らされ曖昧な輪郭を浮かび上がらせるこの部屋のうっすらとした全体像だけで。そんなどこか非現実的な感覚の中に身を沈めると、いつもの見慣れたリビングの風景なのに全く知らない場所のように感じる。だからだろうか、いつもは気にも留めない棚の上の数枚の写真立てが目に入った。

 私はソファから立ち上がると、まるで宝物でも見つけたようによろよろとその写真立ての並ぶ棚へと近づく。

 毎日目に入っているなのになんだかとても久しぶりに見たような気がするそれらをかすかに届く月明かりに晒すと、褪せた写真の中に私達姉妹の幼い笑顔が写っていた。

 家族四人で写っているもの、赤青のドレスを着てピアノの葛城先生と一緒に写っているもの、涼介と三人で写っているもの。そのどれも私と二葉を真ん中に据えて撮られたものばかりだった。

 薄闇の中でそれぞれの写真を手に取って指でなぞりながら、この場所はいつか映画で観た沈没船の中みたいだと思った。

 七年前のあの日、突如ぶち当たったどうしようもない現実は私達家族を静かな海の底へと沈めた。

 あれからずっと、私達は永遠に続く日常をこの場所で演じている。それはとても静かで、曖昧で、優しい深海色の時間だった。

 だけど、と私は写真の一枚を顔に近づけて目を凝らす。

 ここに写る私はもう今の私とは全く違う人間だ。無邪気に笑ったふくふくとした丸い顔も、短い指を立てて必死にピースサインを作る大福みたいな手も、キャラクターものの小さな靴も、全て今の私には無いものだ。

 溺れる私の名前を呼んだあの時の声が現実のものだったかはわからない。でも、その声とともに私の身体は抱きかかえられ想像もしていなかったような力で海中から救い出された。

 あの日と同じだと思っていた。何もできない私達はお互いの手を握りあってただ自分の無力さに泣くことしかできず、遠のいていく意識の中でその短い人生を閉じていく。そう思っていた。なのに。

 私を抱えた涼介の体は大きくて、力強くて、泣き虫の幼馴染はいつの間にか異性の中学生へと変わっていた。そんな彼に引っ張られようやく辿り着いた砂浜ではくるみが泣きながら飛びついてきた。

 再びその光で世界中を照らし始めた太陽を仰ぎながら、ようやく落ち着いてきた呼吸と意識の中で私はその気まぐれな燃える恒星が数時間前よりも傾いていることに気付いた。

 どれだけ深い夜もいつかは明けるように、どんなに暑い夏もいずれ木の葉が朱に染まるように、世界は止まっているようで回っている。

 私もきっともう、この場所にはいられない。抜け出さないといけない。自分自身でそう感じながら、それでも逃げ続けてきた。それはきっと曖昧な事実を見つめることが怖かったからだ。

 写真の中にいるあの頃の私と二葉。

 やんちゃでイタズラを繰り返しては怒られてばかりだった私と違って、大人に対していつも敬語でご挨拶ができて偉い偉いと褒められていた二葉。一緒に始めたはずなのに私よりずっとピアノの上達が早かった二葉。私にいつも泣かされていた泣き虫涼介を優しく慰めていた二葉。

 ここは二葉の思い出の沈む場所。私よりも、ずっと出来が良くてみんなに好かれていた双子の妹を消さないための場所。

 今でも時々考える。なんの意味もないことだけれど。

 もしもあの時、私より二葉の方が足が速かったら、ブランコをもう一漕ぎしていたら。走り出すのがあと一秒だけ遅かったら。死んでいたのが私の方だったら。みんなはもっと幸せだったのかな。

 そんな想いが足に絡みついて重い枷となって私をこんな海の底まで沈めてしまった。

 私は二葉の替わり。きっと家族も、周りの人達も、二葉が生きることを望んでいた。なのに何かの気まぐれで私の方が残ってしまった。だから、私は二葉の代替品として生きていかなくてはならない。ずっとそう思っていた。

 けれど七年という月日は、気候を変え、情勢を変え、私の周りも変えていった。もし、今私が手を伸ばせば、その手を掴んでくれる誰かが私をずっと遠くの沖まで連れて行ってくれるんじゃないか。今はそんな予感がある。

 きっとそれはとても恐ろしくて、悲しくて、積み上げてきた日常を全て壊してまうような行為だけど、その先にはきっと私だけの人生が、「二葉のお姉ちゃん」ではない瀬戸一花の人生が待っている。

 だから、どれだけ怖くても、私は手を伸ばさないといけない。彼女の元へと。

 私は、もう一度ソファに座ってスマートフォンのダイヤルをタップする。その指が小刻みに震えるのを感じる。

 ルルルルル。ルルルルル。と二度の発信音の後、彼女の溶け落ちるような声が耳元で響いた。

「やっほーいっちー……こっちはまだ夜だよぉ……」

「そっか。こっちも夜だよ。くるみ」

「あれぇ……そっかぁ。同じ町内じゃ時差は発生しないのかあ……」

「ごめんねくるみ。こんな夜中に」

「ううん。どうしたのぉ?」

 寝ぼけた声のままの彼女の問いに私は一つ大きく息を吸う。

「いっちぃ?」とまだむにむに眠そうな声でこちらを心配するように伺ってくる電話の向こうの親友。

 この暗い部屋に飾られる写真達の中にはいない彼女。

「あのねくるみ」

「うーん……?」

「涼介のことで大事な話がある。夏休み終わる前にもう一回だけ会えないかな?」

 左耳の向こうで、小さく息を飲む音が聞こえた気がした。


 通話を切って改めてスマホのロック画面を見ると午前三時前だった。二階へと戻る前にもう一度だけリビングを見渡す。

 七年前に時を止めたこの場所。もしかしたらもう二度と戻ってこれないかもしれない静かな海の底。

 私は、一歩ずつゆっくりと階段を登っていく。私達家族を守ってくれたこの場所に別れを告げて。

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