瀬戸二葉③
まあ私が言うのもなんですが、生きていた頃の私はおばけが怖い子供でした。おばけに限らず暗闇だったり見上げても全容が解らないような大きなモノだったり得体の知れないモノだったりを怖がる子供でした。
そんな平凡な少女もこの世で七年生きて七年死んで暮らしていれば流石にこの世界に怖いものなんてほとんど無いと言えるほど精神的には成長できたのですが、成長してしまったが故に生まれてしまう新たな恐怖というものも当然あって、ここ数年の私はその恐怖に毎日苛まれて生きています。間違えました。死んでいます。
おばけの私がおばけが故に怖いもの。それは夜です。といっても夜の持つ暗さや静けさではなく、夜に眠るという行為。より正確に言えば、ベッドに入り瞼を閉じ、夜のしじまに自分の意識が溶けていってしまうあの瞬間。私みたいな不条理な存在を許してしまう、こんな不安定で得体も全容も知れない世界に自分の存在を預けて目を閉じること。
世界の気まぐれで存在しているような私の明日なんて、また些細な気まぐれによっていつ来なくなるとも知れない。そう気付いてしまった時、初めて私は夜というものの恐ろしさに気付いてしまいました。
それでもまたやってくる夜に私は存在を委ねて眠り、朝を迎えられた奇跡に感謝して、当たり前じゃない当たり前の今日を過ごしていくのです。
そんな積み重ねる一歩一歩の先に何かがあると信じて。
八月十七日。
私の弱みを独白したところで、双子の姉の弱点も漏らしてしまうと、一花は今、離岸流が怖いみたいです。十四年生きてきて初めてその言葉に出会ってしまった彼女は、明日に控えた海水浴を前にそれはそれは怖がっています。
きっかけは二時間前に見たテレビ番組で、それは夏によくある海難事故のドキュメントでした。
それは海水浴をしていた大学生のグループが、足がギリギリ届かないくらいのエリアに入った途端突如海中の嵐のように吹き荒れた強烈な潮流に巻き込まれて沖に流されるといった話で、晩御飯の麻婆茄子をぱくぱくと口に運びながら横目でその番組を見ていた一花の箸が口の前で静止し、同時に茄子がぼとりと彼女の取り皿の上に落ちた様は漫画のように見事で今思い出しても笑ってしまいそうです。
「無理……絶対無理……私そんなに泳げないし……死ぬ。絶対死ぬ……」
灯りを落とした部屋の中、ベッドの中で先ほどから呪文みたいなテンションでぶつぶつと呟いている一花は私よりよっぽどおばけみたいです。
「大丈夫だよお姉ちゃん。普通、女の子二人でそんな沖までいかないでしょ」
私が隣で寝返りを打ちながら気休めを言うと、一花は真っ暗な天井に向けて鋭く言い放ちます。
「くるみだよ!?」
「あぁ、そっか……」
くるみだよ。の一言で姉の言いたいことが大体伝わってしまうのは双子マジックでもなんでもなく、くるみちゃんという女の子の突拍子も無さのせいでしょう。なにせ愛の告白をしてきた直後に宣戦布告をしてくるような人です。普通の女の子、という物差しがどれほど役に立たないかを私達はよく知っています。彼女になんとなくついていって気付いたら取り返しのつかない場所にいる。なんてことが十分起こりうる、存在が離岸流みたいな女の子です。
「うぅ……眠れん。明日になるのが怖くなった」
ほんの数時間前まで、散歩直前の犬みたいに未来を待ち侘びていた姉が、今は動物病院に連れてこられた犬みたいに震えているのがとても可笑しく、もとい気の毒になってきたので、私は体をすりすりと横にズラして一花の肩が触れるところまでこの体を寄せます。
「お姉ちゃん。眠れないなら私が安心させてあげる」
「どうやって?」
その質問に私は自分の左手で一花の右手を握ることで答えます。
「ほら、安心した?」
「キモい」
「んなっ」
数秒の沈黙の後、どちらからともなく飛び出したクスクスと押し殺した笑い声が真っ暗な部屋の中に響きます。
確かに、恋人や親ならまだしも姉妹で手を握って眠らせてあげるなんて気持ち悪いかも知れません。だけど、それでも少しでも彼女の心が安らぐのなら手くらいいくらでも握ってあげます。一花に私ができることなんてそれくらいしか無いのだから。
一通り笑い終わった一花が、おばけにしか聞こえないほど小さな声で「ありがと」と呟いたのを最後に私達の今夜は終わり、数分後には彼女は私の手を握ったまま静かな寝息を立てていました。
本当はちょびっとだけ、私自身もこの手に確かに感じる彼女の体温に、今日を閉じる恐怖に打ち勝つ勇気を貰えた。なんてのはもちろん一花には秘密ですよ。
次の日の朝、一花はものの見事に沖に流されました。
と言っても物理的な意味ではなく、強いて言うのなら人生の潮流に攫われていきなり青春の沖まで流されたと表現するのが近いでしょうか。早い話が待ち合わせ場所の駅にはくるみちゃんだけでなく涼介君まで現れたのです。
女の子同士でキャッキャとはしゃぐ浅瀬な青春を刻もうとしていた一花は、涼介君の登場により突如三角関係という魔のデルタ海域に放り込まれることとなったのです。
「ええと……くるみさん?これはどういう……」
一花達と同じように夏休みの学生と思われる若者達で賑やぐ改札の前、対面に並ぶ二人の顔を見比べながら動揺を隠しきれない様子で一花は言います。
「サプライズだいせーこー!どう?びっくりした?せっかく海に行くんだからやっぱり男子もいたほうがいいよね!?」
えへへへ。となんの悪びれも見せずに言うくるみちゃんの綻んだ笑顔はそれはもう眩しいくらいに純粋で柔らかで、引き攣ったカチカチの笑顔を顔面にこびりつかせている一花とは真逆です。
「サプライズってなんでわざわざ……」
「まあまあ細かいことはいいから!さあレッツ海!」
くるみちゃんは一花の言葉を遮るようにそう言うと、スキップするようにして改札を通過して行きました。なんだかいつもより一層子供らしく、楽しげに見えます。
「いやぁ、先週くるみに誘われたんだけど口止めされてて……なんかごめんな一花。俺も来ちゃって」
夏らしく短く刈り上げた頭をぽりぽりと掻きながら申し訳なさそうに言う涼介君。
「べ……別にあんたが来たことに怒ってるわけじゃないから!勘違いしないで!」
なんだかツンデレヒロインみたいな口調で別にツンツンしていないことを言う一花。動揺の色が伺えますね。
「なにうだうだやってんの二人ともー!電車来ちゃうよー!」
その声に振り向くと、改札の向こう側で、二人がうだうだしている原因そのもののくるみちゃんが大きくこちらに手を振っているのが見えて、一花と涼介君はやれやれと言った様子で二人同時にため息をついて笑いました。
なんだか子供に振り回される夫婦みたいだね。なんて隣でぽつりと呟くと、右手で頭の上からこめかみを掴まれ孫悟空ばりに締め付けられあだだだだだだだ痛い痛いごめん。ごめんって。
しかし、そんな動揺や気まずさもどこへやら。車窓から視界一杯に広がる見事な水平線が見え始めたあたりから三人はソワソワし始め、到着した駅の外に出る時には我慢できずに我先にと走り出しました。
「海だー!!!」
「いえーい!!!!海ぃいいい!!!」
「うおおおおおおおお!!!」
ホームを出てすぐ向こうに広がる海に向かって三人は叫びます。
三人の間に束の間渦巻いた様々な感情は、海に攫われたのかはたまた中学二年生という大人と子供の両面を併せ持つ彼女達の子供の側面のおかげか、いつの間にやらこのよく晴れた夏の空へ昇華して消えていったみたいです。
私は横に並んだ彼女達から一歩前に出て振り返ると、姉、ではなく真ん中に立つくるみちゃんの顔を仰ぎ見ます。彼女はその綺麗に揃った前髪の奥に隠れた目の端をいっぱいに下げて笑顔を見せています。
その瞳の奥に宿る心がいつも曇りガラスのように不透明で見えない彼女。いつもどこか人とは違う何かが見えている気がする彼女。けれど、一花と涼介君に挟まれて海を見つめる彼女の瞳に在るのはそんないつものミステリアスさではなく、ただそこにある幸せを疑わない子供のような透明さだけでした。
それからの私は保護者のような気分で、パラソルの下に寝転がりながら海ではしゃぐ一花達を見守っていました。
二人の水着姿に思わず目を背けて見ないふりをする涼介君。泳ぎが苦手なくせに真っ先に海に飛び込んでいく一花。かき氷を三杯も食べてしまい、頭痛に苦しめられるくるみちゃん。八月のコバルトブルーの海が反射させる太陽のせいかみんなの全力で楽しむその笑顔がなんだか本当に眩しくて、そんな様子を見ていると私の心にもう何年も追い出していた思いが首をもたげてきて慌てて消し去ります。
夏の海は生まれたての感情を攫ったかと思えばずいぶん昔に捨てたはずの感情が流れ着いたりしていけません。
『もし私が生きていたら』なんて無駄なこと、どれだけ考えても虚しいだけだって私は知っているはずなのに油断してしまいました。
「ちょっと男子ー!力出てないよー!」
「真面目にやってー男子ー!」
くるみちゃんと一花がそれぞれ乗った浮き輪から声をかけると、涼介君が振り返って「うるへー!」と叫びます。
「一人で浮き輪二つ引っ張るの大変なんだぞ!お前ら降りろ!重い!」
「あー今禁句言っちゃったね涼介」
「これはお仕置きだねいっちー」
正午を過ぎギラついていた太陽の日差しが少しだけ優しくなってきた頃、一花達三人は少しだけ沖の方へと行ってみようと話になり浮き輪を二つレンタルしたのです。
「なんで三人で割り勘したのに俺は馬役なんだよ……」
そう不満を漏らしつつも代われとは言わないところが涼介君らしいところですが、まるで女王様みたいな態度で両手両足を浮き輪の端に掛けて体を鎮めたまま顔を見合わせ悪戯っぽく笑う女子二人を見ると彼も大変だなあと幼馴染として同情してしまいます。とはいえ私も一花の方の浮き輪にこっそりと乗っているのですが。
「ハァ……ハァ……流石に疲れた……てかこの辺もう足全然つかねえわ」
涼介君が立ち泳ぎしながらそう言い出したので振り返ると、いつの間にか砂浜からは随分と離れていて、周りにも人はほとんどいなくなっていました。
「結構沖の方まで来ちゃったね。そろそろ戻って……」
くるみちゃんがそこまで言ったところで「あっ、やばいかも……」と浮き輪の上でうずくまりました。一花が慌てて身を乗り出します。
「くるみ!?どうしたの?」
「いや、ちょっとお腹が痛くて……あれー?なんでだろ……」
「いや絶対それかき氷のせいでしょ!」
「えへへへへ……」
そう笑顔を見せつつもどんどん青ざめていくくるみちゃん。これはマズイかもしれないと思ったとき、ヘトヘトだったはずの涼介君がぐいっと彼女の浮き輪の紐を掴んで泳ぎ始めました。
「涼介大丈夫!?」
「おう!でも二人分引っ張ってる時間はないからお前はそこで待っててくれ!」
「うぅ……いっちーごめんねえ……」
そう言い残してどんどん小さくなっていく二人の後ろ姿を見ながら私は久しぶりに声を出します。
「くるみちゃん大丈夫かなあ……」
「海入ってる時にお腹痛くなるってキツイからなあ。可哀想に……」
「だよねえ……キツイよねえ……」
私たちはなんとなく自分のお腹をさすっては深刻な顔で頷き合いました。
数分後、周りが不意に暗くなった気がして空を見上げると、いつの間にか太陽は分厚い雲の向こうに隠れていました。
「なんか、ちょっと波が高くなってきた」
一花のそんな言葉で意識してみると、先程まで穏やかにぷかぷか漂っているだけだった浮き輪が今は上下に揺れています。風が吹いてきたようです。
「涼介君、まだ帰ってこないね」
「……うん」
一花は二人の消えていった砂浜の方を見ながら少しだけ不安げな表情を見せます。冷たい風が音を立てて吹き抜け彼女の前髪を揺らしています。ほんの少し、さっきよりも砂浜が遠くなったように感じます。
「私も自分で浅瀬の方に泳ごうかな」
そう言って一花が浮き輪の上で体勢を変えようとした時でした。先程までより大きな波がきてバランスを崩した一花は一瞬で浮き輪から投げ出されてしまいました。
「お姉ちゃん!!」
私はそう叫んで辺りを見回しますが海面に一花の姿は見えません。もう一度叫んだ時、二メートルほど先に一花がブハッと顔を出しました。しかし、一瞬安堵したのも束の間、一花は苦しそうな顔で何度も息継ぎしながら私に向かって途切れ途切れに言葉を紡ぎます。
「ふた……ば……ヤバい……足攣ったかも……」
私は慌てて浮き輪を掴み、一花に向かって投げようとします。けれど、私にはそれができません。私は、一花以外のこの世のものには一切干渉ができません。そんなことわかっています。だけどそれでも、今この時だけ、あんなに軽い浮き輪を目の前の一花に投げるだけ、それだけでいい。他に何もできなくて構わないからそれだけの力をください。私は私の存在を許してくれた気まぐれな誰かに必死で祈ります。
もし私が生きていたら。そんな言葉が今までのどの瞬間よりも重く私の心に絡みつきます。私が生きていたら。私が死んでさえいなければ。私がおばけなんかじゃなければ。一花を救えるのに。
一花は何度目かの息継ぎの後再び波に襲われ、今度は海面に出てきません。海水を飲んでしまったかもしれない。私は慌てて海に潜ります。
すると目線のすぐ先に今にも沈んでいきそうになっている一花がいました。
一花は失いかけている意識の中、それでも生きようと、息をしようと懸命に海面に向かって手を伸ばしていました。私は無我夢中でその手を掴み叫びます。
「お姉ちゃん!大丈夫だよ!絶対大丈夫だから!」
水の中の私の声が一花に届いているのかはわかりません。それでも強く握り返してくれた彼女に届くように私は何度も叫びます。
大丈夫だから。私が手を握っていてあげるから。だからきっと大丈夫。私には手を握ってあげることしかできないけれど、絶対に離さないから。
私の意思に反してゆっくりと沈んでいく一花の水着の青色が、海の色に溶けていくようで、それはまるで海が一花をゆっくりと取り込んでいくような。一花自身が海に溶けて消えてしまいそうなそんな錯覚を覚えます。
ダメ!私は何度も叫びます。世界に溶けて消えるなんてのは私一人で十分なんです。お願いだから一花を攫っていかないでください。私の大切なお姉ちゃんを連れていかないで。
私が最後にそう強く願った瞬間。物凄いスピードで近づいてきた大きな体が一花の体を抱きしめて海面へと持ち上げました。
「おい!しっかりしろ!!」
涼介君はそう叫んだと同時に近くにあった浮き輪、私があんなに引っ張ろうとしてもびくともしなかった浮き輪を一瞬で引き寄せて一花の上半身を引っ掛けるようにしてそれに乗せました。
「一花!!大丈夫か!?」
涼介君の声とほぼ同時に一花は激しく嗚咽して海水を吐き出しました。そして、何度か嗚咽を繰り返した後、時間をかけてなんとか息を整えた一花は虚な目をしたままゆっくりと隣にいる涼介君を見つめます。
「ハァ……ハァ……りょう……すけ……?」
かろうじで絞り出したその一花の言葉を聞いた涼介君は、一つ大きく息を吐くと張り詰めていた顔をようやく解いてニカっと笑いました。
「よーしよく頑張った!あとは俺が引っ張って行ってやるから。そのまま乗っかっててくれ」
「うん……わかった」
ようやく意識がはっきりしてきたらしい一花に私は思わず飛び付きます。
「お姉ちゃん!よかったぁああああ!もう私どうなっちゃうかと……」
しかし、その時の一花は意識ははっきりしているはずなのに無反応でした。まるで、私のことなんて見えていないみたいに。
「ありがと。涼介」
浮き輪を引っ張って必死に泳いでいる涼介君の背中をじっと見つめながら呟いた一花の言葉はあまりにか細く、おばけにしか聞こえないほど小さな声でした。
俄かに明るくなった空を見上げると、雲に隠れていたはずの太陽はいつの間にかまた顔を出してこの世界を照らしています。そんな気まぐれに振り回される自分達がなんだかとってもちっぽけに感じて悔しくて私はその神様みたいに偉そうに燃え盛っている大きな星に向かって舌を出しました。
「いっちー。本当にごめんなさい。私のせいで……」
帰りの電車の中、一花の隣に座ったくるみちゃんはもう何度目かの謝罪を一花にしました。その声にはいつものキャンディみたいな甘さや夏の日差しみたいな張りはなく、ただ心の底からの悲しみと後悔の色だけが伝わる裸の声でした。
「だからー全然大丈夫だって!ほら、もうこうやって元気になったわけだし!ていうか私が勝手に馬鹿やっただけでくるみのせいでもなんでもないんだから!」
あの後、水を飲んでしばらく砂浜で休憩した一花はあっという間に回復して空元気でもなんでもなく言葉通り本当に元気になっていました。
「でも、私のせいであの時いっちーが一人になったんだし……そもそも海に誘ったのも私だし……」
「くるみ!」
一花はそう強く言うと俯くくるみちゃんの頬を両手でぎゅっと挟んで顔を上げさせました。
「私は!今日めちゃくちゃ楽しかったの!こんな楽しい海に誘ってくれたのもくるみだし、最初はびっくりしたけど涼介を誘ってくれたのもくるみ!私はこの三人で海に来れてよかったよ。だから……」
一花はそこまで言うと、目をまん丸に見開いたくるみちゃんの顔に満面の笑みを向けました。
「今日は本当ありがとう。すっごく楽しかった。だから、また来年も行こうよ。ね?」
その言葉を聞いたくるみちゃんの目が一瞬で潤んでいくのが見えました。慌てて俯いた彼女の瞳から感情が雫になって落ちていきます。
くるみちゃんを挟んで座る一花と涼介君は、初めて見た彼女の姿に驚いて思わず目を見合わせて微笑みます。その瞬間、一花の頬にほんのりと紅が差したように見えたのは、車窓から差し込む夕日のせいでしょうか、日焼けのせいでしょうか、それとも……。
そしてまた夜が来ました。
「ねえお姉ちゃん」
いつものように暗闇に落ちた部屋で仰向けに寝転がりながら、これもいつもと同じように隣に眠る一花に話しかけます。
「……んー?なあに?」
時刻はまだ十九時前。けれど流石に今日一日疲れ切った私たちはいつもよりかなり早くベッドに横になっていました。
「ううん。なんでも」
「何よそれぇ……」
一花はもうよほど眠いのかちょっとそうめんどくさそうに呟くと、寝返りを打って私に背を向けます。これはきっと最後通牒だ。これ以上私がちょっかいをかけて眠りを妨げようものならいつでも後ろ足で蹴り上げるぞ、いや、この姿勢だと寝返りを打つ勢いでの裏拳でしょうか。とにかくそんな意志を感じる背中です。この状態の一花はとぐろを巻くコブラと同じくらいの危険度です。触れてはいけない。私の本能がやめろと言っています。
「……お姉ちゃん」
私がそう呟いた瞬間、一花ががばりと体をベッドに起こします。あぁやってしまった。この体勢から飛び出す技はなんでしょう。やはり絞め技でしょうか。袈裟固めでしょうか。腕ひしぎ十字でしょうか。いやいや、ボディプレスからのジャーマンスープレックスという形も有り得ます。私は口元を決して見られないようにガードを顔の前で固め、亀のように身を固くします。
しかし、そんな私の淡い予想は全て外れてしまいました。
一花はそのまま黙ってベッドから降りると、部屋の電気を点け、ベッドに横たわる私の視線の高さを合わせるようにしゃがみ込んでから優しく私の頭を撫でました。
「どうしたの二葉?眠れない?」
「……なっ、お姉ちゃん!?どうしたの?」
不意を突かれてしまった私は思わず素っ頓狂な声を上げます。同時に、なんだか自分がとても幼くなってしまったようで恥ずかしくなりタオルケットを目元まで引き上げます。
「どうしたのって……あんたが何度も呼ぶからでしょ。どうしたの?怖かった?」
「ちっ、違う……!」
かまって欲しかった。なんて死んでも言えません。いや死んでるけど。ともかく、こんな幼稚な自分を双子の相方に見せることだけは絶対に嫌だったので私はむっつりと黙り込んでしまいました。数秒そうしていると、それがまたいっそう幼稚な気がして私はもうどうしたらいいのかわからなくなってしまい、タオルケットを今度は頭まですっぽりと被りました。あぁやればやるほどますます幼くなってしまう。
一花はそんな私の様子を少しの間黙って見ていたかと思うと、クスりと笑って「眠れないならさ……」と立ち上がりました。「子守唄でも歌ってあげようか?」
「……ピアノがいい」
自分でもなんでそんな甘えた言葉が出たのかわかりません。けれど、タオルケットから少しだけ顔を出した私は、いつの間にか私よりずっと大きくなってしまった双子の姉に向かってそんなリクエストをしてしまいました。
一花はにっこりと笑って言いました。
「まかせて」
夜への恐怖。きっとこれは私がこの世にとどまる限り永遠に消えることのない悩みで、生死の理を超えてしまった私が背負い続けなければならない十字架だと思っていました。
しかしこの日、静かな夜に響いたポリフォニーの音色は、まるで心ごと撫でるような柔らかさで、私のこの小さな手を引くように優しく夢の中へと導いてくれました。
現実から遠ざかっていく意識の中でも道標みたいにゆったりと流れ続けてくれるそのメロディはやっぱりどこかもの悲しくて。悲しくて。
夢の中の私は涙を落として歩き続けていました。
この道が、永遠に続くことなんてないと知っていたのに。
それでもまだどこかで彼女の隣に居続けられると思っていたのでしょうか。
時間という抗うことのできない強烈な流れに攫われながら、それでも背伸びをして、もがくように泳いで、人は大きくなっていくのでしょう。
七年前のあの日そこから弾き出されてしまった私はやっぱり今日も小さなまま大海原の真ん中を漂っていて。少しづつ離れていく一花の姿が完全に見えなくなる時、きっとそれが私の旅の終わりなのだと、今更気付いてしまったのです。




