瀬戸一花②
言い出したのは二葉だったはずだ。あの日、私達家族は居間のソファで寛ぎながら金曜夜のロードショーを観ていた。そこで流れていた舞踏会のシーンになると急にお父さんの膝から飛び上がってあいつは叫んだんだ。
「お姉ちゃん。私、プリンセスになる!」
「だめ!プリンセスは私!」
「お姉ちゃんはイジワルな姉でしょ!」
「ならあんたはネズミよ!」
私達は二人でお父さんを挟んだまま威嚇するレッサーパンダのような恐ろしいポーズで構える。が、しかし。
「はいそこまでー!」
始まりかけた恒例の取っ組み合いはお母さんのブレイクにより強制終了。双子のレッサーパンダもお母さんの前では首根っこを掴まれた猫みたいに無力だ。
「全くあなた達は……ほら、明日本番なんだからもう寝なさい」
背中を押された私達は「はーい」と二人同時に返事をして二階へと上がった。いつもならそのまま寝入ってしまうのだけれど、その日はどうにも興奮して眠れなかった。
「ねえ、踊ってみない?」
これ、どっちのセリフだったかな。二葉に言われたと思ってんだけど私が言ったような気もする。二人同時だったかも。ともかく私たちは妙に浮ついていて、ベッドから飛び起きた。部屋の壁には次の日の発表会で着る予定の二人分の小さなドレスがかかってあった。
私達はそれをパジャマの上からすっぽり被って向かい合わせに手を繋いだ。そしてベッドを小さなステージにして、映画の舞踏会のシーンを思い出しながらめちゃくちゃなステップでワルツを踊った。くるくる回るのが楽しくて私達は赤と青の絵の具を垂らした渦みたいにと回り続けた。たまにお互いのドレスを交換したりして。回っている間は背景がボヤけて溶けて、目の前にいる二葉だけしか見えなくなって、この世界にまるで私と二葉の二人だけみたいな、そんな気分でくるくるくるくる。目が回ってもくるくるくる。更に反対周りでくるくるすると一気に世界がぐにゃぐにゃになってもう何が何だか訳がわからなくなって二人でゲラゲラ笑った。
プリンセスというより不思議の国に迷い込んだアリスみたいにぐちゃぐちゃな世界の中でベッドに倒れ込んだ私達にとってあの瞬間唯一確かなことは繋いだままのお互いの小さな手だけだった。
八月十四日。
「混沌……ってやつかな」
窓の外に溢れる人の波を見ながら私は誰にともなくつぶやいた。
最寄り、と言っても車で三十分はかかるが、私たちの家から最も近くにあるこのショッピングモールはいつ行っても人で溢れている。
親と一緒に水着を選ぶという行為がなんだか恥ずかしくて思ったより時間がかかってしまったけれどもなんとか買い物を終えた私達は、人いきれから逃げるようにモール内にあるカフェで一息入れていた。
「混沌?」
向かいの席に座ったお母さんが首を傾げて聞き返す。私は、本当は最近知った言葉でよく定義もよくわかってないけどなんかかっこいいからつぶやいてみた。今はまさか聞き返されるなんて思っていなかったのでとても焦っているところです。と正直に言うわけにもいかないのでどうにか平静を装って答える。
「ほら、こんなに沢山人がいて、皆あっち行ったりこっち行ったりバラバラに動いて予測がつかないでしょ。こういうの混沌って言うんだよ……たしか」
後半は消え入るような声になってしまった。
「へぇそうなの。よく知ってるねお姉ちゃん」
お母さんはニコリと口角を上げてそう言うと、アイスコーヒーを啜った。大きな氷がグラスの中で転がり、カロンっと心地よい音が鳴る。
褒められてちょっといい気になった私も真似してストローを啜ると、キャラメル風のクセある甘味が口の中に広がった。隣に座る二葉がニヤニヤしている。うるさい。顔がうるさい。
私は改めて『混沌』のモール内を眺める。この人工の街に溢れる人々は皆思い思いの方向に流れ、服屋、レストラン、ゲームセンターとあらゆる欲求を満たしてくれる場所へと吸い込まれていく。なんだか世界を凝縮したみたいだと思った。だとしたらそんな混沌とした世界を他人事みたいに見ていられるここは天国かな。でもエアコンの効いた店内で飲むカフェラテは確かに天国みたいな味だし間違ってないかも。
なんてくだらない妄想をしていたら、お母さんが自分の隣の席に座らせた紙袋をポンポンと叩いて言った。
「よかったわあ。お姉ちゃんにぴったりの可愛い水着見つかって」
私は慌ててテーブルに大袈裟にひれ伏して誠意を表する。
「お母様。本日は誠にありがとうございます」
「いいのよ。久しぶりにお姉ちゃんの着るものを選べて楽しかったし」
お母さんがそう言って愛おしそうに見つめるその紙袋の中には、お母様のポケットマネーで買って頂いたばかりの鮮やかなコバルトブルーの水着が入っている。
「ちょっと派手じゃなかったかな?」
「いいの!若いんだから!それにお姉ちゃんは青がよく似合うよ」
「お母様もお若いですよ」
「あからさまなお世辞は逆に失礼に当たるからよく覚えておきなさいね」
そう言ってにっこりと笑った瞳から逃げるように目を逸らして「ごみんなさい」と謝ると、お母さんはプッと噴き出したので私も釣られて笑う。
とはいえ、お母さんはまだまだ若さを保っている方だと思う。お洒落にも気を使っているし、同級生の親と比べても若く見える。ギリ三十代でも通じるよと以前言ったら盛大に拗ねられたので「ギリ二十代って言った方がよかったかな」と二葉に聞いたらギリが余計なんだと叱られた。
「あーあ。歳なんて取りたくないのに……」
なんだか寂しそうな声で呟くお母さん。そのメガネの奥に映る瞳の色に少しだけ昔を懐かしむような感情が滲む。そういえば、ずっと昔もこんなことがあった気がする。
あれは、たしかまだこのショッピングモールが出来たばかりの頃だっと思う。まだ幼かった私達姉妹は夏物の洋服を買うためにこのモールに連れて来れられた。初めて見るモールと人の多さに私達は痛く感動して、二葉なんかここをテーマパークかなんかと勘違いしてはしゃいでた。馬鹿だなあいつ。
そして、あらかた買い物が終わった後今日のようにこのモール内のどこかのレストランで私達はお昼を食べた。そうそう、あの時は二葉の馬鹿がミートソースを……いや、こっちは私だったかも。
今、お母さんの目に映るのは目の前に座る十四歳の私だけで、あの頃とは違う景色が広がっているんだろう。けれど、実は二葉は今も私の隣にいて七年以上の時を経ても私達はまたあの日と同じようにここで三人で座っている。なんて、また心配させるといけないのでもう口に出しはしないけれど。
私は、横目でチラリとあの頃と同じ姿形をした妹を盗み見る。床につかない足をぶらぶらと揺らして座る二葉はあの事故の日と同ワンピースを着ている。あの日、初めて行ったこのモールでお母さんの選んでくれた服。私の赤と色違いで海みたいに澄んだ青のワンピース。あの頃の私達は姉妹でいつもお揃いの色違いを着せられていたっけ。
お母さんが慣れないメガネを外し目頭をぎゅっと摘んで二度三度と擦る。今日はこの後メガネ屋さんに行って最近なんだかコンタクトをしているのに視界がぼやける言っているお母さんの視力を測り直す予定だ。
それってもしかして老眼じゃないの。と言いかけたが、それっても、のあたりで二葉に思いっきり足を踏まれた。
お母さんがなんかでっかい機械に顔を突っ込んで視力を測っている間、私と二葉は沢山あるメガネフレームを顔に当てがっては遊んでいた。
「どう?」
「さすが似合ってる。売れないお笑い芸人って感じ」
「じゃあこっち」
「いいね。PTA会長とかやってそう。そうザマスって言ってみてよ」
こいついい度胸だな。ちょっと軽くぶん殴ってやろうか。と思ったが、ふと昔のことを思い出し振り上げた私の拳が止まる。
「……どうしたの?お姉ちゃん」
両肘で顔の前にしっかり固めたガードの隙間から不思議そうな顔でこちらを覗く二葉。
私は誰にも聞こえないようにヒソヒソと小声で答える。
「いや、昔来た時もこんな風にあんたと洋服の試着とかして遊んだなって」
「あぁ、あったね。そんなこと」
あの日の私達はお母さんの目を盗み子供服売り場の試着室にいっぱい持ち込んでは二人でファッションショーのようなことをしていた。あの時点でもうすでにプリンセスはどっちかみたいな争いも始まっていた気がする。そして数分後に息を切らして試着室に入ってきたお母さんにしこたま叱られ、あの日の私達の愚行はその後しばらく夕食時の語り草にされた。
「あの時のママは怖かったなあ」
「あんたが試着室で遊ぼうなんて言い始めたのが全ての元凶だけどね」
「え?あれお姉ちゃんが無理矢理私を連れ込んだんじゃん」
「は?何言ってんの。私はやめようって言ったのにあんたがお姫様ごっこがしたいからって……」
ここまで言ったところで、いつの間にか声が大きくなってしまってることに気付いた私は慌てて口をつぐみ、キョロキョロと辺りを見渡す。幸い、店内には私達の他に客はまばらにしかおらず、店の隅で私が急に喋り始めたことには気付いた人はいないみたいだ。
全く危ないところだ。二葉のせいで街の変な子になってしまうところだった。
私が十四歳の威厳でギロリと二葉を睨みつけると、二葉は七歳児の幼稚さでアホみたいな変顔で返してきた。
「……ブッフォ」
耐えきれず吹き出した私の背中からお母さんの探るような声が聞こえきた。
「お姉ちゃん?どうしたの?」
私は慌てて背筋を伸ばして笑顔で振り返る。
「ううん!なんでもない!」
「そう?とりあえず終わったから帰りましょうか。お父さんにもお迎えの連絡しといたし」
お母さんはもうメガネを外したままで歩き始めたので私は慌てて後を追う。
「お母さん大丈夫?見えてる?」
「ちょっとボヤけてるけど大丈夫よー」
そうは言っても、メガネ無しでこのモール内の人波を一人で歩かせるのは危険だろう。私はお母さんの右腕を取ってエスコートするみたいにして一緒に歩く。
「ふふふ。お姉ちゃんったら王子様みたいね」
お母さんが嬉しそうに呟く。
「危ないから支えてるだけだっての」
私のぶっきらぼうな答えが妙に気に入ったのか、お母さんはますます嬉しそうに笑う。
「ありがとう。お姉ちゃん」
お母さんの瞳。そのボヤけた視界に何が映っているかなんて私にはわからない。だって、お母さんの左側を歩いている二葉の事が私以外の誰にも見えないほど信用できない世界なのだから。
正面から、スマホに夢中にになって歩いてる人がくる。やばい、と慌ててお母さんの手を引いて二人で身を躱す。
「大丈夫大丈夫。これくらいは見えてるから」
「ならいいんだけど……」
朝は専門店へと流れていく客が多かったけれど、今はランチタイムなのでレストラン街の方へと向かう人が多い。混沌とした予測不能の動きを見せる人の波も時間という一つの指針だけは共通して持っていて、皆その確かな流れに従って行動しているのだろう。
私はチラリとお母さんの顔を見上げる。カッチリしすぎていないお洒落な服も、上手なナチュラルメイクも、艶のある栗色の長い髪の毛もとても綺麗だけれど、一方で視界がボヤけてしまう内面から崩れかけていえる体。そのアンバランスさがどうにも危うくて、いつか何かが壊れてしまいそうだと思った。
きっとお母さんはあの日から時間という指針を失ってこの人波を彷徨っている。視界がボヤけているのは最近だと言っていたけれど、もしかしたあの日からずっとお母さんの視界は私の想像とは違っていたのかもしれない。
私はもう一度お母さんの腕をグッと掴み直し、大好きなその顔を見上げて幼い子供みたいに尋ねる。
「ねえお母さん、ちゃんと見えてる?」
「ええ、もちろんよ」
お母さんが、笑顔で私の目を見て答えてくれる。
その人が見えている世界は誰にもわからない。わからないなら他人は言葉を信じるしかない。
私は、人を避けた拍子に自分の肩からずり落ちそうになった紙袋をしっかりとかけ直し、お母さんの腕をもう一度しっかりと掴む。
紙袋の中に詰め込まれたかつて『二葉の色』だった青色の水着を落とさないように。何も壊さないように。
「ねえ、あれってフリマってやつかな?」
出口付近の広いスペースの真ん中に机を並べて何かを売っている人達がいて、それを囲むようにして人だかりができていた。
「あら、本当。最近はこんなところでもやってるのね」お母さんは私の指さした方に目を細めながら呟く「せっかくだからちょっと寄っていきましょうか」
「いいの?」
「うん。お父さん道が混んでてまだ着いてないみたいだし、ちょうど時間潰しになるし見ていきましょう」
「やったー」と、叫んで走り出したのは二葉だった。
私はあんなガキとは違うのでお母さんの腕を取ったままそろそろと歩いてその人の群れに中心に近づく。
そこに並んでいたのは家に飾るような欧州風のお洒落な置き物や花瓶、木製のおもちゃにアクセサリーなんかで、私の想像していた古着やガラクタだらけのフリーマーケットとは随分雰囲気が違っていた。
「わぁ、可愛い……」
私が思わず呟くとその机の内側にいた販売員のお姉さんがとても嬉しそうな声で反応してくれた。
「ありがとうございます!一つ一つ大切に作った物なのでよかったら手に取って見ていってくださいね」
「えっ、これお姉さんが作ったんですか?」
「はい。このエリアは全て私の手作りです!」
ニコッと笑ったお姉さんの顔があまりにも眩しくてなんだか私は照れてしまった。
「素敵ねぇ」とお母さんも積み木のおもちゃを手に取っている。
そういえばこういうモノづくりの仕事を作家というのだとくるみが言ってた気がする。じゃあこのお姉さんは販売員じゃなく作家のお姉さんかぁ。いいなあ、器用な人は。こんなの作って売る仕事なんて楽しそう。なんて、ぼーっと考えながらなんとなく手に取ったアクセサリーの欠けたような花のデザインがとても綺麗で私は思わず見入ってしまった。
「それ自信作なんですよ!いいでしょ!」お姉さんが身を乗り出して更に嬉しそうに言う。
「あっ、はい。この半分だけのお花……可愛い、ですね」
作家のお姉さんの明るさに押されてなんだか挙動不審な受け答えになってしまう私。お姉さんはそんな思春期な私にお構いなしに情熱をぶつけてくる。
「これ、二つ合わせて一つの花になるんです!イヤリングなんで片方づつでも十分可愛いんですけど、やっぱりこういうのって二つ揃って一つの表現っていうか。なのでもし片方だけ付けたいってなったらもう片方は誰か大切な人にプレゼントとかでもいいと思うんですよね。そしたら大切な人と自分とで二つで一つになれるの。こういうのって素敵じゃないですか?だから私、イヤリングとかピアスとか、ペアリングとか作るの大好きなんですよね。ほらこれとか、後これも」
お姉さんは火がついたのか次々と私の前に対になっているペアアクセを並べてくれる。何気なく手に取っただけだったのに思わぬ熱量を流し込まれた私は一つ一つを見る余裕もなく「わー」とか「すごーい」とか相槌を打ちながら内心では誰かがこの熱の釜から助け出してくれるのを待っていた。
「お姉ちゃん」
一部始終を見ていたお母さんがそう隣でささやいた時。私は救世主に縋るような気持ちお母さんの方を向いた。
「いいじゃない。これ、涼ちゃんに買うの?」
「はい?」
救世主どころじゃなかった。もはや悪魔だ。私は一瞬で真っ赤になった顔を俯いて隠しながら小声で呟く
「ちょっ、なんで涼介が出てくんの?」
「だって大切な人にって」
「ただの幼馴染だから!」
「あれ?もしかしてその年でもう恋人がいるんですか?いいなー最近の子は」
なぜか作家のお姉さんまで参戦してきて居た堪れなくなった私はお母さんの腕をつかんで逃げるようにその場を後にする。
「あら、もう見なくていいの?」
「お父さんもう着いてるよ!多分!」
恥ずかしさを誤魔化すようにふんふんと鼻を鳴らしながら私はお母さんの腕を引っ張る。どこにいたのかひょっこりと現れては後ろからついてくる二葉のニヤニヤと笑う憎たらしい顔が見えてないのに想像できてムカつく。
「まだ期間あるのでよかったらまた来てくださいねー」
私たちの背中に向かって後ろから大きな声で呼びかけてくれたお姉さんの方を振り返りペコリとお辞儀をする。その時、改めて見たお姉さん手作りのアクセサリーはやっぱりどれも素敵でまた少しだけ見惚れてしまう。
あんまり見ているとまたお母さんが余計なことを言いかねないので、私はすぐにくるりと踵を返してショッピングモールからなんとか抜け出した。と、ほぼ同時にお母さんのスマホが鳴ってお父さんの到着を知らせた。
『大切な人と、二人で一つ』
お父さんの車に乗り込んでからも私の頭にはお姉さんの言葉と花のイヤリングがくるくると回っていた。
いや、それだけじゃない。膝に抱えた紙袋に入った水着、お母さんの優しい瞳に映る自分、花のイヤリング、子供の頃の二葉との思い出。ピアノの発表会。涼介。くるみの宣戦布告。そんなモノ達が脳裏でくるくるくる。なんだか皆で私の目を回さんばかりにくるくるくるくる。
車の窓から見える空はまだ陽が高くて、一日はまだまだ長い。なのになんだか疲労感が強く襲ってきて眠ってしまいそうだ。私にとって、この場所は、今日という一日は。ていうか、最近なんだか人生が……。
「混沌としてきたね」
そう呟いて、こちらに向かってニヤリと口角を上げた二葉の鼻の両穴に指を突っ込む。