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瀬戸二葉②

 ここ数日は窓から差し込む朝日ではなく窓の外側に打ちつける雨の音と、時折遠くに鳴る笛のような風の音で目が覚めます。

 夏の盛りに気温が上がりすぎないのはありがたいけれど、それも数日続けば分厚い雲が空だけでなく心まで覆ってしまいそうであの暑い暑い晴れの日が恋しくなります。


 八月十三日。


 今日の私を叩き起こしたのは残念ながらそんな情緒的な自然音ではなく感情を鍵盤に叩きつけた喧喧たる三拍子でした。

「お姉ちゃん。うるさい」

 ベッドの上に半身を起こした私の抗議は荒れ狂う子犬の旋律にかき消されてしまい、一心不乱に鍵盤を叩く一花までは届かないみたいです。

 私は一度起こした身体を再び柔らかなベッドに沈ませ、夏用の薄いタオルケットに潜り込みます。こういう時の姉には何を言ってもダメなので気の済むまで叩かせておきます。うるさいけど。

 動揺。困惑。混乱。一花は感情がすぐに音に出る子です。先日のくるみちゃんの宣戦布告を受けて以来、一花のピアノは突然の来客に錯乱する愚かなチワワみたいに荒れ狂っています。

『私は涼介君のことが好き』 

 彼女の放った言葉は一筋の風になって二人の間を抜けました。そして彼女の起こした小さな旋風はあれから一週間近く経った今、立派な嵐へと育ちこの部屋に吹き荒れています。おかげで私は耳がどうにかなってしまいそうです。

 しばらくの間、子犬のワルツ超高速バージョンを聴きながらぼんやりと天井を眺め、ふと壁にかかる丸い時計を見ると針は午前十一時を回っていました。朝といえば朝。でもう昼の方が近いともいえます。もう一眠りしても良い時間ですが今日は火曜日なのでそういう訳にもいきません。

 私はあくびをしながらベッドから降り、先ほどから一度も止まることなく壊れたレコードみたいに同じ曲を繰り返し弾き続けている姉の肩を叩きます。

「わっ!二葉いつの間に起きてたの?」

「さっきから」

「えー全然気づかなかった。今何時?」

 一花はそう言うと体を反らせて部屋の壁にかかる時計を見上げます。いつもこれくらいの集中力を持ってピアノを弾いてくれるとよいのですが。

「もうお昼だよ。お姉ちゃんどうせ朝ごはんも食べてないんでしょう?」

 そういえば、と姉が自分のお腹をさすると、ぐううっと可愛らしい鳴き声のような音が響き、私たちは同時に吹き出しました。

「お姉ちゃんはお腹にちっちゃいモンスター飼ってんだね」

「部屋におばけも飼ってるよ」

「変わってるね」

 さっきまでのキャンキャン吠えるチワワ状態が嘘のようにいつもの姉に戻っています。

「なんか食べてないって思ったら途端にお腹空いてきたぁ。もうだめだぁ。死ぬぅ」

 そう訴える一花の背中を押すようにして一階へと降りると、一花はそのままキッチンで電気ケトルに水を溜めて沸かし始めました。カップラーメンでも作るつもりでしょう。

「ヘイ二葉!私の今日の予定は?」

「午後十六時から葛城先生のお屋敷でピアノのレッスンです」

 なるべく無機質な声でノッてあげるのがコツです。

「あー今日はお屋敷か。そうだった忘れてた……」

 大袈裟に項垂れながら姉は沸騰したお湯をケトルからカップラーメンの容器へと移し替えます。

「全然練習できてないな……あっ、アレクサ。二分半測って」

「それは普通にアレクサに任せるんかい」

「だってあんたタイマー機能ないし」

「別にスケジュール機能もないんですけど」

 今日みたいに両親のいない日はリビングで堂々と一花とおしゃべりができるので私は好きです。一花には秘密ですよ。

 アレクサのカウントする二分半の間に、一花はテキパキとお箸やお茶を出してはダイニングテーブルの上に並べていき、全ての準備が終わり椅子に座ったと同時にタイマーが鳴りました。

 料理できないくせにカップ麺を作る時だけは妙に効率的な動きを見せる姉です。

「そろそろ発表会の曲決めじゃない?」

「んーショパンかなあ今年も……あっ、これうんまい」

 私は、一花好みのやや硬麺に調整されたラーメンを啜る彼女と向かい合わせに座り、じっと姉の姿を見つめます。

「欲しいの?」

「いらない。お腹空かないし」

「そんなんだから大きくなれないんだぞ」

「でもこんなんだから太らないんだよ?」

「ずるいなあ」

 手持ち無沙汰な私は、椅子の上で自分の小さな手の平を何度も開いて閉じて観察します。この身体はあの日からずっと変わらないまま、私の時計は止まったままです。もしもあの日、事故に遭っていなかったら今頃私はどうしていたでしょうか。

 目の前の事例を改めて見つめます。

 「んあ?なに?」

 十四歳の私はこんな風に寝癖の跳ねた頭で、時折Tシャツの下からボリボリとお腹を掻きながらズルズルとカップラーメンを啜っているのでしょうか。うーん。それはないような気がします。それだけはないと思いたいです。

「あんたも生きてりゃ今頃二人でラーメン食べてたのかもね」

 なんでもないような顔で私の心に話しかけるように喋り出す一花にちょっとびっくりします。これが双子マジックというものなのでしょうか。

「お姉ちゃんってエスパー能力あったっけ」

 私が怪訝な顔で言うと、一花は太麺をダイナミックに啜りあげてから得意げな顔で言います。

「私はあんたと違ってオカルトな存在じゃないけど、姉なんだからこれくらいわかるよ。それが双子ってもんでしょ」

 そう言ってニッと口角を上げた一花。歯にネギがついています。

「あんたが味噌ラーメン好きだってことくらいね」

 姉の満足そうな笑顔にこちらも優しい笑顔を返し、私は椅子から飛び降ります。一花の奏でる鼻歌と食卓を片付ける音をBGMにして窓辺に向かうと、外では相変わらずの勢いを保ったままの雨が強く窓を叩いています。そんな荒れた外と窓一枚隔てただけの静かな我が家で、私はいかにも夏休みらしいゆったりとした時間に溶けるみたいにこの身を委ねながら、やっぱり双子マジックなんてないのだなあ。なんて、しみじみと感じていました。

 

「終わった。なにもかも。もうダメ……」

 薄暗くなり始めた二階の部屋にたどり着くなり一花はそう呟いてベッドへ倒れ込んでしまいました。

 時刻は十七時半過ぎ。季節的にまだ日が沈む時間ではないのですが、外は厚い灰色の雲に覆われ、外気を漂う湿気が部屋の中までジトジトと湿らせていました。なんだか部屋の隅からキノコでも生えてきそうです。

「もーいつまでもぐちぐち言わない」

 私は部屋の灯りをつけると、ベッドに飛び乗りカーテンを閉じます。陰鬱なキノコと化した一花がシクシクと泣き言を吐き出します。

「なんで……どうして……私、何もしてないのに」

「何もしてないからだよ」

 うがーっと内向的な野獣みたいに静かに喚きながら一花は手足をバタバタさせてベッドの中を泳ぎます。私の身体ならまだしも中二の娘がやるのはなかなか痛々しい光景です。あとベッドがギシギシ揺れてうるさいです。

『一花ちゃん。十月はバッハでいきましょう』

 葛城先生は、メガネの奥にいつもの優しい目を細めて笑顔でそう言いました。レッスンが終わりいつものように先生の家のリビングで暖かいレモンティーをほくほくと飲んでいた一花は、突如突きつけられたその宣告に石像みたいに固まってしまい、隣に座っていた私は思わず吹き出してしまいました。

「えっ……十月って、その……」

「もちろん、発表会よ。あと一ヶ月あるんだから大丈夫。今やってるインベンション十三番、がんばって仕上げましょう。二声の集大成よ」

 ね?とカップの取っ手を持った右手を口へ運びながら先生は微笑みます。その指はピアニストらしい繊細さでゆっくりと優雅に動いてソーサーの上へと音も立てずにカップを戻します。今年で七十五歳を迎える先生は私たちの住む住宅街の外れの大きな家に一人で住んでいて、一花を赤ん坊の頃から可愛がってくれています。もちろん私のことも、大変可愛がってくださったとても上品で素敵な大人です。

 私達は五歳から先生の元でピアノのレッスンを受けてきました。とは言っても私は二年間だけでしたが。

「……ガチっすか」

 一方こちら品のかけらもない姉が苦虫を舌先に乗っけたような顔でそう尋ねると、先生はふふっと静かに笑って、綺麗にブローされた柔らかそうな白髪を耳の後ろへと優しく撫でつけながら悪戯っぽい声で言いました。

「一花ちゃん。ガチよ」

 

 で、現在。ガチでバッハをガチらないといけなくなってしまった姉は雨に湿った服を着替えもせずに枕にウーウー呻きながらこのどうしようもない感情をクロールやら平泳ぎやらに変えてベッドの上でジタバタと表現してくれています。あぁ、なんて滑稽で可愛い姉でしょう。 

「もう決まっちゃったんだから、諦めて頑張るしかないよ。お姉ちゃん」

 私はベッドの端に腰掛け、泳ぎ疲れてうつ伏せになっている姉に優しく声をかけてあげます。こういうのは妹の役割ですからね。

「やだやだやだやだ絶対ヤダ!…………ヤダ!」

 なにその間。

「なんで!?ねえなんでバッハなの?あんなん一音ズレたら暗譜飛ぶって!発表会で弾くとか絶対無理じゃん!地味だし!」

「って先生に言えばよかったじゃん」

「言えるわけないじゃんバカー!」

「内弁慶だなあ」

 とはいえ、姉の気持ちも少しわかるのです。葛城先生はとても素敵で、優しくて、いつも正しいことを言ってくれます。だからこそ、逆らえない圧を感じる人です。逆らう場合はこちらが絶対に間違っている時だから。

 実際姉も、先生にガチ宣言された後は涙目になりながらも何も言えず、今こうして私とベッドに全ての不満をぶつけているわけです。

「先生、なんで私にインベンション弾かせようとするんだろう」

 枕に顔を伏せたままモゴモゴとした声で一花が言います。

「心当たりないの?」

「わかんない。サボりまくってなかなか進まなかったくらい」

「それじゃん」

 集大成。と先生は言いました。確かに、この一花がぐずぐずと足踏みしている十三番は二声のインベンションの最終課題曲です。この曲をクリアすれば次はいよいよ三声のファンタジアへと入ります。だからこそ最後のこの十三番を人前で弾くレベルまで仕上げさせたいのでしょう。

「はぁ、十月かぁ……バッハかぁ……マジかぁ……」

 一花が沈んでいくように呟いたので、私は立ち上がってその頭をぽんぽんと叩き、虚ろな目でこちらを見る姉になるべく上品な声で囁きます。こんな時に元気付けてあげるのがやっぱり妹の役目ですから。

「一花ちゃん。マジよ」

「似てねえよクソガキ」

「なっ」

 ゴングが鳴りました。私はすごいスピードでベッドの上に飛び乗りマウントを取りに行きます。しかし、クソ姉もすぐに身体を起こし応戦してきます。残念ながら七歳と十四歳の体格差ではまともにやりあっては勝ち目がありません。一花は足を相手の体に絡めての絞め技を得意とするので捕まったらおしまいです。しかし私も伊達に何十戦も姉妹喧嘩をしてきたわけではないのです。向こうがパワーならこちらはスピード、弁慶には義経です。まずはバカの一つ覚えみたいに私の身体を捕まえにくる姉の両腕を八艘飛びさながらヒラリとかわし……。

『ブーッブーッ』

 机の上のスマホの振動で、私たちの野生動物のようなそれは興をそがれ一瞬で終わりを迎えました。一花は命拾いしましたね。

「あっ、くるみからだ」

 ベッドから抜け出してスマホを取った一花が呟きます。

「くるみちゃん?なんて?」

「ええと……おっ!来週海に行こうって!」

 一花の表情がパァッと明るくなるのを見て私は少し心配になります。もう先週のことは忘れてしまったのでしょうか。さっきまであれほど吹き荒れていた嵐はもう通過していってしまったのでしょうか。

「二人でいくの?」

「じゃない?わかんないけど。あの子他に友達いないし」

 悪気もなく酷いことを言う姉です。

「二人で行って大丈夫?沖に沈められたりしない?」

「何それ?」

 私の物騒な心配をよそに一花は早速水着を探すためにクローゼットを漁り始めます。

「嬉しそうだね」

 私はベッドに寝転がり、ご機嫌に鼻歌を奏でる一花の背中に話しかけます。

「えー、だって海だよ海。やっぱ夏だし私女子中学生だし、夏休みはそういうとこ行かないと……てか、グラサンいるかな?海だし」

「持ってなくない?」

「お父さんの借りよかな」

「女子中学生がディアドロップは渋すぎん?」   

 なにそれぇ、と笑って準備を進める一花の鼻歌ががますますテンポを上げていきます。

「うーん……流石に学校の水着ってわけにはなぁ……あっ、そうだ」

 弾むようにそう言うと一花はくるりとこちらに向き直って満面の笑顔を私にくれます。

「二葉!水着買いに行こう!」

 やたらテンションの高い一花とその無限に続く鼻歌を聴きながら私は気づいてしまいます。

 私の姉はやっぱり子供です。感情は全て音に乗ってしまいます。何も知らないふりをしていても彼女が出す音が全てを物語ってしまうのです。

 外にはもう闇が落ち始め、カーテン越しに雨の様子はわかりませんが、相変わらず風の鳴き声は止むことを知らずこの街に夏の嵐を巻き起こし続けているようです。

 私は一花の横顔に時折覗く翳りに、音一つでその隠した心の向こう側まで筒抜けになってしまう私達はやっぱり双子なんだなあ。なんて。

 


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