瀬戸一花
二葉が私の目の前で車に轢かれたのは七年前の夏の日だった。なぜかその日のことはあまり覚えていない。雲の少ないよく晴れた日だったこと、ドンっという鈍い音、病院の外観、そんな断片的な記憶が幾つかあるだけ。けれど、確かに二葉はその日死んだ。
なのに、次の日からもあいつは普通に居た。会話もできるし触れることもできる。まだ幼かった私は、ああそうかこいつおばけなのか。おばけってこんな感じなのか。となぜか納得してしまった。
はじめの頃は、両親や周りの人に二葉がここにいるよって伝えてみたりもしたのだけれど、なぜか可哀想な人間を見るような顔をされたり怖がられたり挙げ句の果ては病院に連れていかれそうになったので面倒くさくなってやっぱり居ないことにした。どうやらこのおばけ妹のことが見えるのは私だけのようだし二葉もそれで別に問題なさそうなので別によかろうという話になった。まあおばけってそんなもんなんだろう。知らんけど。
歳を重ね私も中学生になって、やっぱこれどう考えても異常だろということには流石に気づいてしまったけれども、だからと言ってどうすることもできないし、私にしか見えない妹が確実にここにいるという現実にも慣れ過ぎてしまったのでとりあえず深くは考えないようにしている。
八月六日。
私は姿見の前で二週間ぶりの制服に身を包み、爽やかな朝にそぐわない憂鬱な気分で支度を整えていた。
「久々の学校楽しみだなー」
などとほざいてベッドに腰掛けて短い足をぶらぶらとさせている二葉を鏡越しに睨む。
「ついてくるだけなんだから気楽でいいよねあんた」
「えーでもお姉ちゃんも楽しみでしょ?久しぶりにみんなと会えるよ?」
「ぜんっぜん」
私は春前から伸ばしっぱなしで重くなってきた髪をポニーテールに結いながら答える。暑い。夏休みのうちに美容室にもいかなきゃいけないかもしれないと思うとまた気が重くなる。
「あー髪切りたいけどめんどくさいなあ。予約の電話がもうめんどくさいなあ。って思ったでしょ」
「うるさい。超能力使うな」
「私そんなエスパータイプのおばけじゃありませんー」
ベーっと舌を出した二葉の髪はこけしみたいなおかっぱで、七年前から全く変化がない。楽で実に羨ましいのだが本人は「むしろ伸びた方が心霊現象っぽいのに」と何故か悔しそうにしていたのが可笑しかった。
そして、髪が伸びてないということは当然身体も七年前、つまり七歳児の頃のまま。もし他人が私たちを見てもその姿を双子だと思う人はいないだろう。
チリリン。と窓の外から聞き慣れたベルの音がする。同時に二葉がひょこっと窓から身を乗り出す。
「あっ、涼介くんだ。おはよー」
そう言って手を振るが当然涼介に二葉の姿は見えているはずがないので、代わりに私が顔を出す。
「ごめん。三十分待って」
「「遅っ!」」
外にいる涼介と目の前にいる二葉、二人から同時にツッコまれてしまった。
八月の日差しは朝でもまあまあ容赦がない。歩いているだけで汗が吹き出しそうになる体を並べて、私と自転車を引いた涼介は学校へと向かう。あとなぜかいつも私の隣にいる二葉も一緒に。
「人がせっかくいい気持ちで休んでんのに、なんで登校日なんてあるかねえ」
私が右手を団扇代わりにしてパタパタと仰ぎつつ嘆くと、涼介がへっと鼻で笑った。
「そうやって緩みきってるお前みたいな奴を締め直すためだろ」
「とおっ」
私のローファーキックが涼介の尻に炸裂し、彼の口からうぎゃあと情けない悲鳴が発せられる。
「痛っっ!一花てめえ!」
そう言いながらも左手は自転車、右手は尻を抑えないといけない涼介は反撃ができないし、なにより、いくら幼馴染とはいえ女に手を上げるようなことだけは絶対にできない。そういう奴だってのも知ってる。だから遠慮なく蹴れる。
「もー涼介くん可哀想でしょ」
と言いつつクスクスと笑っている二葉。
涼介の家は、私達の家から二軒隣にあって物心ついた頃からよく三人セットで遊んでいた。葬儀の時、家族以外で誰よりも泣いていたのがこの涼介だった。
「涼介くん。どうして泣いているのかな」
「あんたが死んだせいでしょ」
葬儀の真っ最中にそんな風に後ろから話しかけてくるせいで、目の前の棺に眠る妹の体はまるで中身のない人形みたいに見えていたのを覚えている。
早起きの太陽は星の速さで空を登り、夏休みボケした私達の心身を焼き切る勢いで燃えている。
「ていうか夏休みっていってもこんな風に登校日もあるし宿題もあるしでそんな暇じゃないんだよ私。ピアノも弾かなきゃだし」
「へえ、もう宿題やってんだ」
「やってないけど」
「だと思った」
涼介が意外でもなんでもないといった声色で相槌を打ってくる。
「ていうか今日って何するんだっけ?全校集会だけ?」
「あれじゃね?平和学習。戦争のビデオ観たりとか」
「あー私あれ絶対寝ちゃうわ」
「それは……ダメだろお前。なんていうか、人として」
「お姉ちゃんサイテー」
涼介と二葉が汚物を見るような目でこちらを見てくるので私は慌てて手を振って弁明する。
「あっ、いや、違くて。ほら夏休みで頭ボケボケだし、教室がクーラーで冷えてるし、話も難しいし……あと、早く帰りたいし」
「うわっ、結局本性だしたぞ!最低だこいつ」
「やーい人間のクズ」
「とおっ」
澄み渡る青空の下に蛙の鳴き声みたいな嗚咽が響く。
「ってーなくそッ。今のは完全にお前が悪いだろうが」
二度目の八つ当たりローファーキックを喰らった尻を涙目でさすりながら涼介がこちらを睨む。
「涼介のくせに私を煽ったのが悪い」
フンっと鼻を鳴らした私に「どこの女王様だ」と呟いて前を向く涼介を斜め後ろから眺めていると、二葉がボソッと囁く。
「痴話喧嘩ってやつだね」
「うらっ」
私のローファーが今度はこの生意気な妹の尻を捉えた。か、に思えたが二葉はするりと飛んで身を躱し、着地した反動でこちらにタックルを試みる。よし来い。こいつがさっきどさくさに紛れてクズ呼ばわりしてきたことを聞き逃す私ではない。相手が七歳児の体だろうが双子の妹相手に手加減する私でもない。私は二葉のぶちかましをがっぷりと受けるとそのまま体を持ち上げ土俵外へと……。
「……なにしてんの?」
「ううん。ちょっと筋トレ」
怪訝そうな顔でこちらを振り返った涼介にとびっきりの笑顔でとぼけてスクワットを始める私。
暑さで頭おかしくなったのかこいつ。みたいな悲哀の目を向けつつ再び前を向いて歩き始めた涼介の向こうから照りつける太陽が眩しい。思わず細めた目に映る水色の空とサラウンドで響く蝉の声が、どこまでも平和な夏を感じさせてくれて私はなんだか嬉しくなる。
「ずっとこのままだったらいいのに」
「なにが?」
私の呟きに涼介が首を傾げる。
「ずっと夏のまんまでいいし、ずっと朝でいい」
「俺は冬とか夜とかのが好きだけどなあ。だって暑いよりは寒い方がマシだし、夜の方がテレビとかも……」
そんなくだらないことを隣で喋っている幼馴染も、二人の間にある車輪のカラカラと回る音も、全部このままだったらいいな。このままなんじゃないかな。なんて、絵空事を描きながら永遠みたいに続く長い通学路を私は一日ずつ踏みしめて歩く。
反撃できないのをいいことにここぞとばかりにゲシゲシと隣でけたぐってきている二葉は後でシメるとして。
「いっちー!ひっさしぶりー!」
教室に入るなり全力で飛びついてきたくるみを私は全身で受け止める。
「おーよしよし。待て待てくるみ」
私が頭を撫でると、くるみはますます甘えるようにこの薄い胸に顔を埋めてくる。
くるみは中一の夏に転校してきたクラスメイトで、まあ親友と言っていい間柄だ。中二女子としては平均的な身長の私より頭一つ分小さい彼女は、その性格も相まって、こうして抱いているとまるで幼い妹のように感じる。どこかのおばけと違って大変可愛らしい。
「会いたかったよーいっちぃいいい」
「うんうん。本当に可愛いな。お前は」
「まるで可愛くない誰かがいるみたいな言い方ですけど」
二葉がそう言ってふんっと子供みたいにそっぽを向いた。あっ、今のはちょっとかわいかったな。
二週間ぶりの教室の空気はどことなくふわふわと浮いているようで、心なしかみんなの声が普段より騒々しく感じる。夏休みど真ん中に設えられたこの一日は、私にとっては心地良い長い夢から束の間叩き出されたような気怠い時間なのだけれど、みんなにとっては退屈な夏休みを間延びさせない為のちょっとした刺激になっているのかもしれない。全然理解できんけど。
心を無にして立っているだけの修行のような全校集会が終わり、みんなのテンションもぼちぼち通常通りに戻ってきた頃、担任の林先生が何やら冊子を配り始めた。
案の定そこには私たちと同じ十四歳の少女の青春が戦争の渦に飲み込まれていく残酷な物語が描かれていた。
その感情を乱すあまりに救いのないストーリーに、教室に漂っていた甘い空気は氷を投げ込まれたようにしんと冷えていく。
1945年。当時の空もこんなに青かったのだろうか。窓際の席に座る私は片肘をついたまま蟬の鳴くグラウンドを眺める。モノクロ写真でしか見たことない時代の空はいつもどんよりと曇っているように見える。
「感想文、書かないと帰れないよ」
白紙の上でペンを遊ばせているといつもの幼い声が耳元に響く。顔を上げると暇を持て余している様子の二葉がいたずらっぽく笑う。
はいはい。と口には出さずに返事して、私は右手に持ったペンを走らせる。こういう時、どんな内容を書けばとりあえずはよしとされるのか、長い義務教育の間で身につけてきた。
可哀想だと思った、今の時代に生まれた自分たちは恵まれているので、もうこんな悲しいことが起こらない社会にしなければならないと思った。なんて、無難な言葉がするすると脳から心を通らずに直接指先に飛び出しては白紙を埋めていく。
やっぱり平和学習は苦手だ。ほんの八十年前にこの晴れた青空が赤く染まり、沢山の人が何もかもを失ったこと、そんな絶望の中からそれでももう一度立ち上がり壊れた世界を作り直した人たちがいたこと。今を生きる私にはどれだけ聞かされても現実感がなくて別の世界の話のようにすら思える。だからこそ心にもない言葉がするすると出てしまう。そんな自分の冷たい部分を自覚させられて嫌になる。
チャイムが鳴ってそれとほぼ同時に教室内には椅子を引く音が溢れる。今日は昼までなので感想文を提出したら学校は終わりだ。教室には一気に賑やかさが戻り、どうにか白紙を埋めることのできた私もほっと息をついて両手を伸ばす。さあ、午後からまた夏休みの続きだ。帰って寝るべ寝るべ。
「いっち〜!帰りどっかでお昼食べて帰ろうよ!」
などと思った矢先にくるみが跳ねるようにして私の席までやってくる。
「あー……お昼かあ。そうだねえ」
私としては早く帰って寝たいし、昼食なんて家の冷凍チャーハンかカップ麺で十分なのだけれど、中二女子としてはそんなこと言うべきではないのは流石にわかる。
しゃあない。と重い腰を上げようとした時、不意に教室の隅にいた涼介と目が合った。合ったのでなんとなく逸らした。
「じゃあファミレスでもいこうか」
「やったー!いこいこ!私もうお腹すいて死にそう!」
くるみはそう言うと、カバンを肩にかけて教室を飛び出す。
「いっちー!早くー!」
「待ちなさいってば」
廊下から催促するようにこちらを見てその場駆け足でソワソワと私を待つくるみ。その欲望に純粋でまっすぐな様子は思春期真っ盛りの私たちの中ではちょっと浮いていて、私はちょっと羨ましい。さっきは妹みたいと思ったけれど、これはどっちかというと……。
「犬みたいだね」
それな。と私が相槌を打つと二葉が口を押さえて楽しそうに笑った。
「いっちーは、夏休みの宿題やってないよ」
「断定やめんかい。せめて『やってないよね?』って訊いてよ」
「まさか、やってないよね?」
「それもなんか違う」
あはーと可愛らしく笑うくるみの声が蝉の鳴き声にかき消される。
「でも本当は?」
「やってないよ」
「やっぱりー」
そう言ってくるみは私の腕に抱きついてくる。暑い。二人の汗でベタベタして気持ち悪い。勘弁してくれ。
「くるみ」
「んん?」
「暑い、汗がベタベタして気持ち悪い。勘弁して」
「いっちー、なに思ってもいいけど思ったこと全部言っちゃダメだよ」
くるみは不満げに言いつつも私の左腕に巻き付けた両手を離す。ちょうどそのタイミングで涼やかな風が私たちの間を抜けた。
「いっちーって毎回宿題ギリギリまでやんないよね。どうして?」
横並びに歩きながら私の顔を覗き込むくるみ。目的のファミリーレストランの看板がようやく見えてくる。
「だって、宿題やったら夏休みって感じがしちゃうじゃん」
「夏休みだから当たり前だよ」
「いや、そうなんだけど……うーんなんていうのか。夏休み好きなんだけど。夏休みなっちゃったら夏休みが終わっちゃうから夏休みになってほしくはないっていうか」
私は腕を組んでくるみに伝えるための言葉を探る。自分ですらよくわかってない感覚を他人に伝えるには私は言葉を知らなすぎる。
「ふむふむ。つまり」
繰り出す足をちょっとだけ早めて、私より二歩ほど前に出たくるみがこちらを振り返る。
「いっちーは、楽しみは始まっちゃうと終わっちゃうから、始まってほしくない。遠足の前日みたいなワクワク感をずっと楽しんでいたい。だから宿題をやって夏休みモードになりたくない。だから宿題をやらない!そういうことだね!」
「あっ、そうそうそんな感じ!」
「いっちーってすごいバカ!」
「なにっ」
人には思ったこと言っちゃダメだよとか言ってたくせにどの口がぬかすのか。しかし、いたずらっぽく笑った彼女の顔があんまり可愛かったもんだからやっぱり私はこの娘の尻は蹴れないなと思った。
「はぁー……美味しい。私は一生これ食べ生きてたい。マカロニになりたい」
エアコンをガンガンに効かせた天国みたいな店内で、私の宿題論よりよほどバカっぽいことを言いながらあちあちと呟きつつマカロニを頬張るくるみ。
「よくグラタンなんて食べられるね。八月なのに」
明太パスタをフォークに巻きつけながら尋ねる私の言葉に、くるみは首を傾げて答える。
「グラタンは一年中美味しい食べ物なんだよ?」
アニメのキャラクターのような可愛らしい声と共に黒目がちな丸い瞳が綺麗に切りそろえた前髪の隙間から上目遣いにこちらを覗く。制服を着ていないと小学生に間違われそうな背の低さと顔の幼さを持つくせに胸だけはやたらと成長しているこのくるみという少女は、私以外のクラスの女子達にめたくそに嫌われている。
「そういう意味で言ったんじゃないんだけど……ていうか口、着いてるから拭きなさい」
「拭いてー」
私は紙ナプキンを一枚取ると砂糖みたいに甘い声を出して無防備に目を瞑る彼女の口を拭ってやる。まあそら嫌われるわなこんな女。
「ありがとー。私、いっちーのこと好きー」
くるみがマカロニをフォークに刺してこちらにひょいと差し出すので反射的にパクりと口に入れる。美味い。でも。
「熱い」
「いっちーも私のこと好きでしょ?」
再び上目遣いに尋ねてくるくるみに、私は舌の上で転がしていたマカロニを噛み砕いて答える。
「どうだろ」
えーなんでさー、と嘆きテーブルの上にヘナヘナとしなびるくるみの頭をとりあえず撫でてやる。撫でるとエヘヘへと嬉しそうに笑う。可愛いなこいつ。
実際のところ私はこのくるみが割と好きなんだと思う。
くるみの甘え上手なところ、年齢の割りに声も喋り方も幼いところ、それでいて周囲の人間の自分に対する目なんて気にしないところ。私は全てひっくるめて彼女を素敵だと思っている。でもクラスの女子達からの評価は多分真逆だ。私がくるみの長所だと思うところ全て彼女達にとっては疎ましく見えているのだろう。
二の腕が少し冷たい。エアコンの冷風は束の間この体を癒してくれたけれどやはり半袖で長く当たるのは辛い。
風の直接当たる左腕を反対の手で摩っていると、さっきのマカロニのおかげで口の中だけは少し温かいことに気付く。
「くるみってさ」私は残り少なくなってきたパスタの切れ端を中央に集めながら語りかける。「実は割と大人だよね」
「そりゃあもう十四歳だもん」
「まだ十三でしょ」
くるみの誕生日は確か八月の終わり頃だ。いつも夏休み真っ只中なので誰かにまともに祝ってもらったことがないといつか嘆いていた。
「夏になった時点で私的にはもう十四歳だから。デザートとか奢ってくれてもいいんだよいっちー?」
そんなわけのわからない持論を掲げてタカろうとするくるみをあしらいながら、私は一年前に出会った少女の姿を思い出していた。
中一の夏休みの終わり、校舎へと伸びる坂道の途中ですれ違った少女。見知らぬ制服を着て猫背で歩いていた人形みたいな綺麗な瞳をした女の子。スーツを着た母親らしき人と居た彼女とすれ違いざま一瞬だけ交わした視線に感じた憂いの色は私の心を捉えて離さなかった。
私は目の前で綺麗にホワイトソースを削ぎ取って食べていく親友を改めて見つめる。
そのあと二学期になって現れたこの陽気な転校生があの時の少女と同一人物だとはしばらく気づかなかった。あの日見た彼女は俯きがちで、まるで罪人みたいに重い足取りで歩いていたから。くるみの天真爛漫な雰囲気とはどうしても一致しなかった。
「いいなあグラタン……」
くるみの隣に座った二葉が、その小さな体を横に乗り出すようにしてくるみの横顔をジーッと覗き込んでいる。生前の二葉はくるみとは当然面識がないが、少なくとも今の二葉は彼女のことを気に入っているようだ。そこら中の女に嫌われている彼女のことを妙に気に入っている私たち姉妹はこういうところでやっぱり双子なのだと実感する。
もし、二葉が生きていたら三人で遊んだりできていたのだろうか。なんてあり得ない夢想をしてしまう時がある。まあ、実際は他の人に見えていないだけで今もこうして三人でファミレスのいるのだけれど。
それにしても、さっきから超至近距離でくるみの食べ様を見続けているけどどんだけグラタン食べたいんだ二葉の奴。ちょっと見過ぎだろ。死んでからはお腹空かなくなったって言ってたのに。
「いっちー?」
「あっ、いや美味しそうに食べるなって思って」
「あーん?」
「もう大丈夫です」
マカロニを二本刺して突き出したフォークをちょっと残念そうに引っ込めるくるみ。いかんいかん。二葉の様子が気になりすぎてくるみごと凝視してしまっていた。
「ふーお腹いっぱい!ごちそうさまでした!」
丁寧に手を合わせてお辞儀する彼女を見て、先にパスタを食べ終えた私も釣られて手を合わせる。彼女のこんな行動ですら『狙っている』などと影口を叩かれているところ以前見たことがある。そしてきっとくるみ自身も知っている。それでも、恥じるでもなく毎食後に必ず手を合わせる。彼女の内側にあるそんな小さな花みたいな部分が私は好きだ。
「……あのね、いっちー」
空になった皿を端に寄せて、ドリンクバーから注いできたジュースを飲みながらスマホをいじっていた時、不意にくるみが口を開いた
「なに?」
「私ね、」
くるみがそう言いかけた時、ガシャンっという音とともに彼女のグラスが倒れた。同時にくるみが飛び上がるようにして小さな悲鳴をあげる。
「あーもうなにやってんの」
「わーごめん、手が滑って!」
そう言って慌てて立ち上がろうとした彼女を手で制して私は小走りでドリンクバーへと向かう。先程ジュースを注ぎに行った時にそこに布巾が置かれてあったのを覚えていた。
「うぅ……ごめんね。いっちー、ありがとう」
「珍しいね、くるみがこんな粗相するなんて」
そう言って私は持ってきた布巾をくるみに手渡す。幸い、グラスの中身は半分以下だったため、被害はテーブルの上だけで済んで彼女の制服は無事だった。
「やっぱ私はいっちーいないとダメだなあ……」
丁寧な手つきでテーブルを拭き上げながらくるみが息をそこに落とすようにして呟く。
「そんなこともないでしょ」
「ううん」
くるみは小さく首を振って拭き終わった布巾を綺麗に折り畳んでテーブルの端に置く。
「ねえ、いっちー……私、いっちーのこと大好きだよ」
「なあにそれ」
「えへへ、愛の告白」
「そりゃどうも」
「……」
くるみは三秒黙った。おや、と思った。いつも通りのやりとりだったはずだ。いつも通りくるみが私に重い愛を伝えて私がすげなく返して。くるみが不満げに嘆く。そんないつも通り、数分前にもやった気がする予定調和がこの時も訪れるものだとなんの疑いもなく思っていた。
さっきまでグラタンに夢中だったはずの二葉がくるみの隣で真顔で私を見るその目が、妙に気になった。
くるみの潤んだ桜色の唇が何かをこじ開けるようにゆっくりと、しかし力強く動く。
「ねえいっちー、私ね」
この瞬間まで、私は、どうして忘れていたんだろう。
「うん?」
いつも通りの同じ時間、同じ一日、同じ空、そんな日々に。
「私ね、涼介君のことが好きなんだ」
ある日突然終わりが来るなんてこと、とっく知っていたはずなのに。
「えっと……それも愛の告白?」
自分でもよくわからない感情で顔が引き攣り声が震えているのがわかる。そんな私をあやすようにくるみは優しい笑顔をこちらに向ける。
「ううん。宣戦布告」
その瞳は、確かに一年前に見た少女と同じ色をしていた。