interlude:花咲く場所へ
えー?ちょっとなんでよー、と独り言ちながら主電源を連打していたらようやく『ピッ』と言う電子音と共に温度表示のランプが赤く灯り私は安堵の息を吐く。
よかった。IHコンロまで壊れたらどうしようか思った。なにせ先日玄関の鍵が壊れたばかりだ。まだ中学生の娘がいるっていうのにこれじゃあお金がいくらあっても足りやしない。
それに今日は年に一度のあの子の発表会の日だ。別にコンクールや受験というわけではないけど、大切な日に朝から躓かせるような縁起の悪い事態にはしたくない。
それにしても、と私は改めてこの愛すべき我が家を眺める。掃除は毎日欠かしたことはないし、手入れも自分でできる範囲は細々やっている。けれど購入して十五年近くになるのこの家は最近その端々に綻びが表れている。あっちを塞げばこっちが噴き出る。まるで雨漏りみたいにこの家は隠しても隠しても老いが出てくる。
「今年の発表会、お母さんにも観にきて欲しい」
あの子がいつになく真剣な面持ちでそう言ってきたのは先週のことだった。
私は発表会がどうしてもダメになっていた。あの子達が小学一年生の時に初めて発表会に出た時の二人のドレス姿、一つの椅子に並んでちょこんと座って小さな体で大きなピアノに向かうかわいくも誇らしい後ろ姿、そして最後に並んで手を繋いでお辞儀した時の天使のような立ち姿。そんなものをどうしても思い出してしまう。
だから、発表会の付き添いはずっと夫に任せて私は家の掃除をして料理を作って、何事もなかったかのようにあの子を待つ。それが私の役割だった。
けれど、今年はあの子から観にきて欲しいと言ってきた。その瞳の真剣さに、私は頷くことしかできなかった。
焼き上がったオムレツを皿に乗せながら、そろそろあの子を起こさないとなどと考えているとリビングの扉が開いた。
「おはよーお母さん」
「あらお姉ちゃん。今日は自分で起きれたの?」
「そりゃこんな日くらい起きるよ」
あの子はそう言ってさっさと洗面所へと歩いていく。
去年までもそうだったかしら。なんて思いながら皿を持った瞬間、足がもつれて危うくオムレツをひっくり返しそうになる。
綻びかけているのはこの家だけじゃないのかもしれない。なんて少し苦笑した。
「お久しぶりです先生。すみません最近は夫にばかり任せきりにして」
「いいえ、こちらこそ久しぶりにお会いできて嬉しいです」
ホールに着くと、控室の近くでちょうど葛城先生とすれ違ったので頭を下げた。数年ぶりにお会いしたというのに先生はほとんど変わっていないように見える。これくらいの年齢になると数年程度じゃ見た目は変化しないのだろうか。
「お母さん、私もう行ってもいい?」
隣に並んで挨拶を済ませた一花が楽譜の入ったトートバックを握りしめソワソワと控室を指差す。
「あら、そうね。本番前なのに呼び止めちゃってごめんなさいね一花ちゃん。どうぞ、準備しててね」
先生にペコリと頭を下げ控室へと早足で入っていく我が子を見ながらも私ももう一度頭を下げる。
「すみませんあの子緊張してるんだと思います。では私も客席の方に回るのでこれで……」
「あっ、待って」
「はっ、はい?」
先生に腕を掴まれ、私は驚いて思わず声が上ずる。
「ごめんなさい。でも、久しぶりにお会いできたんだし、少しだけお話ししません?」
思いも寄らない申し出に私はただ困惑の表情を浮かべながら曖昧に頷いた。
「すみません。あの子、何かまずいことしちゃいましたか……?」
ほとんど人の通らない静かな廊下のベンチに腰掛け、私は隣に座る先生に恐る恐る尋ねる。ピアノ教室とはいえ、先生と保護者だ。先生から『話がある』なんて言われる時は大概はろくでもないことと相場が決まっている。万引きってわけではないだろうが、宿題を真面目にやらないだのレッスンの時に態度が悪いだのという注意はは大いに有り得る。
しかし、私の心配をよそに先生はふふふっと可笑しそうに笑った。
「ごめんなさいね。急に呼び止めちゃったから何かと思いますよね。でも安心して、一花ちゃんは素直でいい子よ」
「よかった……」
私は心の底から安堵してため息をつく。
「でも、それならどうして」
「私はね、二十年以上前に夫と息子を同時に亡くしました」
「えっ……」
突然の告白に、相槌も打てないでいる私に先生は「ごめんなさいね」と微笑む。
「急にこんなこと言っちゃっておかしいわよね。けれどあなたにはこの話をしておきたかったから」
「……はい」
以前、息子さんがいたというのはチラッと聞いたことがあった。旦那さんが亡くなっているのは察していたけれど、息子さんに関しては私はてっきり自立してどこかに暮らしているものだとばかり思っていた。けれど、同時に亡くしたということは……。
「事故だったの」
私の心に浮かんだ疑問に答えるみたいに淡々と発せられたその言葉が、心の底に鋭く突き刺さる。先生は、何も言えないでいる私に再び「ごめんなさいね」と気遣う。
「今のあなた、あの頃の私と似ていたから」
「私と先生が?」
「私ね、とっても幸せだったの。夢だったピアニストになれて、夫と出会えて、息子が生まれてきてくれて、ついでにあんなお城みたいなお家にまで住めちゃって……あぁ、私の人生は絵本のお姫様みたいなハッピーエンドだったんだって」
私は黙ったまま小さく頷く。私はピアニストではないしお城みたいな家に住んではいない。けれど二人が生まれて今の家に暮らし始めたあの頃の私は確かにそんな気持ちだった気がする。
「けれど、現実はそうじゃなかった。人の一生は絵本よりもずっと長い。痛いくらいに」
そう呟く先生の声は消えてしまいそうなほどに細く、耳を澄まさないと聞き取れないほどなのに、その言葉に込められた感情は私の中に細いままはっきりと届いてしまう。
ホールの片隅の小さなベンチに並んで、私達は海の底みたいに静かで澄んだ悲しみの中に沈む。
数秒の沈黙の後、先生はまた穏やかに続けた。
「絶望した。この先あの子達のいないこんな世界になんの用があるんだろう。なんて思ったりもした」
その言葉は葛城先生の口から発せられたはずなのにまるで自分の中から滲み出たような錯覚を起こすほどに心を揺らす。
「先生、あの……」先生の言葉を制すようにして発した自分の声が震えるのがわかる。私は一体何を言おうとしているのだろう。わかっているのに、言葉が止められない。
「先生は今、どうして死んでないんですか」
世界から音が消えたみたいな静寂が私達の間に流れる。私の横顔をじっと見る先生の目を見つめ返すことができずに目を伏せる。
三度の瞬きほどの短い間の後、先生は落ち着いた声で私からの剥き身の問いを受けてくれた。
「それはきっと、あなたが今生きている理由と同じじゃないかしら」
「私は……生きてますか」
「えぇ、とても。力強く」
私はそれ以上声を出すことができなかった。僅かでも口を開くと、感情の全てがあちこちから漏れ出して止められなくなってしまいそうだった。
「あなた、とっても綺麗よ。一花ちゃんもとてもいい子。あなたが今まで現実の縫い目をどれだけ丁寧に編んできたのかがよくわかるわ。少しでも綻ぶと、そこから色んなものが溢れてしまうのが怖かったんでしょ?」
私は先生の言葉に静かに首を振って言葉を絞り出す。
「私は、先生みたいに強くないんです。だから逃げて、逃げて……だけど、最近はどれだけ塞いでも間に合わなくて……あの子が、二葉が消えていくみたいで……」
堪えるために必死でスカートを握りしめた右手の甲の上に数的の雫が落ちる。滲んだ視界の中でその手を先生が自らの白く細い手で優しく包み込んでくれるのが見える。
「胸を張って。普通の人が背負うには重すぎる喪失感と絶望の中で、それでもあなたは明るいまま、綺麗なまま耐えてここまで生き抜いてきたの。本当によく頑張りました」
熟れたトマトみたいに脆く腫れ上がった心が先生の言葉一つ一つにほぐされてしまい決壊していくのがわかる。私は幼い子供のように何度も洟を啜り上げながら、切れ切れに言葉を絞り出す。
「先生……私は……これからどうしていけばいいですか……」
「そうねえ……」先生はいつも通りの落ち着いた声で答えを探す。そのいつも通りの安心感がまた少しだけ私を幼くする。
「一花ちゃんのピアノを聴いてから考えてみると良いんじゃないかしら」
「一花に?」
そう!と先生は両手を合わせて嬉しそうに声を弾ませて少女のように笑う。
「何も考えず、目を閉じて、あの子の音楽を聴いて。今のあの子のピアノはすごく成長してるからきっと驚くと思う」
「でも……それを聴いたって……」
「大人が動けなくなった時、案外子供が答えを導いてくれるものよ。まるで絵本のページを捲るみたいにあっさりとね」
そう言って先生は、廊下の向こうに目を細める。
「私も、あの子たちにたくさん助けられたから」
その慈愛に溢れた視線の先に目を向けると、色鮮やかな衣装で着飾った低学年の部の生徒たちが緊張や興奮を抑えきれないといった様子ではしゃいでいるのが見えた。同時に、ずっと遠い記憶。心の隅に眠らせておいたいつかの光景が瞼の裏に蘇ってくる。
「あの子達、あんなに小さいのに今から一人でステージに立って自分自身と勝負するの。不安も恐れも全部飲み込んで。そんなのを見てるとね、せめてあの子達の次に立つステージくらいは見てから死にたいなって思っちゃうの。そんな風にして一年、また一年とあの子達に引っ張られてここまで寿命が伸びちゃった」
そう言って笑う先生の横顔を見て、この人があんなに大きくて静かな家に一人で住み続ける理由が少しだけわかった気がした。あの家にはきっと、家族の思い出も生徒達の思い出も入りきらないほど溢れている。それは他の誰にも見えなけれど、ソファの隙間に、鍵盤の傷に、床のシミにと刻まれていて彼女にだけはずっと見えている。そしてそんな溢れるほどの幸せな過去が彼女を未来へと引いているのかもしれない。
先生は立ち上がり、最後にもう一度「長くなっちゃってごめんなさいね」と微笑み私の手に綺麗なハンカチを握らせると、子供達の本番が始まるからと控室へ去っていった。
私は瞼を拭うハンカチに涙が滲まなくなるまで、ベンチから動くことができなかった。
ロビーや控室の外を賑わせていた声がいつの間にかしんと消えている。いよいよ始まる本番を前に保護者や子供達が会場内へと入って行ったのだろう。
私がこんな誰もいない世界の端で立ち止まり泣いていても、こうして時は過ぎていく。
一花と二葉、一卵性双生児として生まれてきてくれた二人は本当にそっくりで、可愛くて、私の両手を二人で分け合って引いていくその姿は天使そのものだった。けれど七年前を境に、二人の時間は少しずつずれていった。
写真の中で笑う幼いままの二葉と、目の前で一日ずつ成長していく一花が遠くなっていく。それが耐えられなくて私は時間を止めた。いや、止めたフリをしていた。
けれどそんな生活は長くは続かない。家がくたびれ、私の身体は老いて、一花の心と身体は成長していった。
もうすぐ一花の演奏が始まる。立ち上がらなくてはいけない。
それなのに体が固まってしまって動かない。きっと今日の一花の演奏は、あの子にとって私達家族にとって大切なものになる。だから、もしそんな演奏を聴いてしまったらもう二度と私達はあの頃に戻れない気がする。それが怖くて、私は立ち上がることができない。また私はあの子から逃げてしまうのか。
静まり返った誰にも見つからない場所で、涙が溢れないように必死で瞼を瞑る私の左手に誰かがそっと小さな手を乗せた。
それは確かに触れているわけではなかった。けれど、まるで小さな温もりに覆われているようなそんな不思議な感覚でその何かは確かにそこにあって私の手を優しく包んでいる。それは懐かしくて、けれど日常みたいに気安くて、涙が溢れてくる。
あぁ、と息が漏れた。たしかに、いる。
手には触れない、目にも見えない、それでもわかる。この子が生まれた時から、いや、生まれる前から知っている感覚。愛おしくて何度も握りしめた天使みたいな手。
ねえ二葉。もしかして、あなたはずっとそこにいたの?
あなたが消えてからの世界は瞼の裏側みたいな暗闇で、自分が進んでいるのか戻っているのすら見えない日々だった。けれど、そんな日々の中でもあなたはずっとこうやって私の手を握ってくれていたの?
小さな手で私の手を一生懸命引っ張っていたあの頃みたいに。
左手の温もりは答えの代わりに同じ温もりを右手にもくれる。
そうだ。あの頃私の手を引いていたのは二葉だけじゃない。反対の手をいつも一花が引いていた。二人で私を取り合うように引っ張っては、おっちょこちょいですぐ転びそうになる私の足取りを支えてくれていた。
私にとってそんな日々は人生で最も幸せな時間で、そしてもう二度と見ることのできない夢だったんだと思っていた。
けれど違った。私は今日までもずっとこの子に、この子達に支えられてきたんだ。手を引いて、支えられ、確かな時間の中でここまで歩いてきた。
私は目を閉じたまま大きく息を吐いて呼吸を整える。大丈夫。と自分自身を勇気づけるように心で唱える。
大丈夫。きっと歩き出せる。私には愛する子供達がいる。それは生きていないから、目に見えないから、そんなことで変わるものでは決してない。この先に何があっても私があの子達の母親であることは永遠に変わらない。だから怖くない。
グッと足に力を入れて立ち上がる。まだ少しだけ視界がぼやけているけれど、こんなの今まで歩いてきた暗闇に比べたらずっとマシだ。
もう立ち止まらない、振り返らない。
記憶の中のあの子が手を引いて、この先で手を差し伸べているあの子の待つ未来へと連れていってくれるから。




