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瀬戸二葉

 朝の光はいつも少し怖いです。

 瞼を開くとここは雲の上かもしれない。そんな思いがどうしても私を躊躇わせます。

 それでもこの目に光を入れて暗闇を裂かない限りどちらにしても私の今日は始まりません。

 だからまた今日も私は瞼に縫い付けられた糸をそっと解くように恐る恐る両目を開いていきます。

 意識の端に僅かに聴こえるピアノの音色が彼女のものでありますように。なんて願ったりしながら。

 

 七月三十日。


「お兄ちゃああぁあん待っでよぉ〜!」

 目を開けた途端窓の外から響いてきたその情けない声に、私はベッドに仰向けに寝転がったまま思わず吹き出してしまいました。

 私はそのままゆっくりと体を起こし、叫び声の主を見るためベッドの上に膝立ちになり光の差す窓の外を覗きます。

 昼には三十度を超えるであろう真夏の明け離れの空の下。我が家の前のアスファルトの上をまだ小学校に上がったばかりと思われる幼い男の子が補助輪付きの自転車をフラフラと不細工に揺らし漕ぎながら横切っていくのが見えます。

 彼の視線の先にはその子より少し背が高い男の子が、こちらは補助輪無しの自転車を優雅に操ってその場でクルクルと大きな円を描いたり蛇行したりと退屈そうに補助輪付きの到着を待っている様子です。

「早くしろよー俺もう腹減ってんだよー」

 補助輪無しがそう言って意地悪げに先に進むそぶりを見せると、補助輪付きがまた情けない声で叫び返します。

「待っでぇえええ」

 太陽の光を受けた二人の短い髪の毛が艶々と輝いていて、その正体を一瞬汗かなと思いましたが、自転車の前かごにお揃いの半透明のエナメルバッグを積んでいるのを見るに市民プールの帰りかもしれません。

 日本の夏らしい、ある種牧歌的とも言える平和な光景で心が安らぎますが、この通りは住宅街でいつ車が来てもおかしくありません。

「車には気をつけないと危ないよー」

 私は窓から身を乗り出してそんなことを叫んでみますが、その音は風の囁き声のようなもので当然彼らの耳に届きません。

「何やってんの?」

 部屋に響いていたピアノの音が止まり、一花が怪訝そうな声をこちらに投げてよこします。

 私は彼女の方は振り返らないまま、この小さな体を更に窓の外へと乗り出し幼い兄弟の行く末を見守ります。

「少年達は元気だなーって思って」

「あっそ」

 その声とほぼ同時に再び部屋にはピアノが鳴り始め、柔らかな音が開いた窓から澄んだ夏の空へと逃げていきます。

 バッハ『二声のインベンション第十三番イ短調』この短調の憂いとバロック期特有の神秘性を帯びたメロディはしかし夏真っ盛りの空の下を跳ねるプール帰りの少年達とはあまりにミスマッチでした。

 半ベソの弟が、なんだかんだ言いつつもその場で待っていた兄にどうにか追いつき、二人並んで角を曲がって行ったのを見届けた私はベッドの上でくるりと半回転して部屋の中に向き直り腰を下ろします。

 窓とは反対側の壁際に備え付けられたアンティーク調のアップライトピアノは木目の猫足で可愛らしく、インテリアとしても素敵です。ずっと前におばあちゃん家から貰ってきたものらしいのですがその時のことはあまり覚えていません。

 その艶やかで美しい猫足ピアノの前に猫背に座って美しい音楽を奏でている私の双子の姉、一花は寝巻きのTシャツと短パン姿で左側頭部が寝癖で跳ねていてあまり美しくありません。

「あーもう!」

 そう苛立たしげに呟いては指を止め、また最初に戻り曲の頭に戻る。こればかり繰り返すものだから最初の八小節だけがやたらに上手くなっています。

「お姉ちゃん。覚えたとこだけやってもピアノは上手くなんないんだよ」

「先生みたいなこと言わないで」

 姉は譜面台に立てかけた楽譜から目を離さず答えます。そしてやはり九小節目の頭で指が転けてまた最初から弾き始めます。

「ほらまた」

「うるさい」

 いつもこんな調子で指が覚えた箇所からなかなか先に進もうとしないので、一花は曲を覚えるのが遅く、特に譜読みの難しく覚え辛いバッハではそれが顕著です。おかげで中学二年になった今、周りの優秀な子達は三声四声と進んでいるのに彼女はまだ二声のインベンションをやっています。

「あーもうやめやめ。はいもう今日のバッハ終わり」 

 一花はそう言って両手を思いっ切り上に伸ばして立ち上がると、ピアノの隣に備え付けられた本棚からショパンのワルツ集を引っこ抜いて譜面立てのバッハと入れ替えます。

「あーまたロマン派に逃げる」

 鼻歌交じりに楽譜を捲る一花の背中に向かって呟くと、彼女は振り返って舌を出します。

「ロマン派に逃げてんじゃなくてロマン派が得意なだけですー」

「ちゃんとやっとかないと次のレッスンで叱られるよ」

 私がそう返すと、一花はため息をついてショパンの楽譜を閉じ肩を落とします。ついでにテンションも落ちていきます。

 そしてそのまま再び本棚に向かい「だってさー……」とぶつぶつ呟きながら先程封印したばかりのバッハのインベンションの楽譜を取り出すと、私の座るベッドへつかつかと歩み寄ってきます。

「ほら!これ!見てこれ!この譜面!」

 そう叫んで顔の前に勢いよく楽譜を広げてみせるので私の体はのけぞって後ろへコロンと転びそうになります。

「あーこれ。大変そうだったね」

 開かれたページは『インベンション第二番ハ短調』先月、ようやく合格がもらえたばかりのその曲の譜面には先生からの愛が込めれらたメモが山のように書き込まれています。

「テーマを意識して」「臨時記号気を付ける!」「トリル綺麗に」「脱力!」「切る!」「つなげる!」「ここから左手のメロディを聴いて」「ポリフォニーをもっと意識!」「もっとメロディを聴く!」「もっと歌う」

 先生はこのように遠慮なく生徒の楽譜に注意を書き込むタイプなので、姉が苦戦している曲は必然的に譜面が真っ黒になっていくのです。が、それ自体はバッハに限ったことではなくまあいつものことなのですが、彼女が特別苦戦しているのは……。

「なにこの左手!なんでこんな動くのバッハ!意味わかんない!」

 やはりこのポリフォニーのようです。

 ポリフォニーとは、元は多声声楽のことで簡単に言えば一つの曲に二つ以上の独立した旋律が存在して成り立っている音楽のことです。

 現代の音楽は一つの主旋律とそれを支える伴奏という形で成り立っていることがほとんどでピアノだと右手が主旋律を奏でて左手が伴奏というのが基本の奏法となります。

 対してバッハの時代に多く見られるポリフォニーの楽曲は右手も左手もそれぞれが別の旋律を奏で、それらが絡みあったり離れたりしながら一つの曲を作っていきます。その複数のメロディが織りなす世界は不可思議な魅力を備えていて大変美しいのですが、脳みそが最低二つはいるんじゃないかと思えるその奏法は非常に難易度が高く、姉のようなバッハ嫌いの子供は多いと聞きます。旋律が三つなら三声、四つなら四声と増え、もちろん難易度も跳ね上がっていくので、二声はまだバッハの中では入門編なのですが……。


『いい?ポリフォニーっていうのはこの毛糸みたいなものなの』

 バッハを始めたての頃、一花の前に赤と青の二本の毛糸を並べて先生は説明してくれました。

『この二本の毛糸がお互いにくっついたり離れたり飛び出したり引っ込んだり同じ動きをしたり真逆の動きをしたり……』

 そう言いながら先生がうねうねと動かしていく二本の糸を私達姉妹は並んで眺めていました。

『弾くのはちょっと難しいけれど、そうして出来上がる音楽は一本の旋律だけで作られたそれとは違う美しさを持つ音楽になるのよ』

 ね?と優しく微笑んだ先生の笑顔と二色の糸が織り成した美しい線を見て、新たな音楽の世界への扉が開く期待で一花の目がキラキラと輝いていたのをよく覚えています。


 そしてその一花は現在、頭を抱えて洞窟の魔物みたいな声で唸っています。先生、どうやらこれは『ちょっと』というレベルではなかったみたいです。

「うぅ……ていうかこの左手のメロディを聴くってのがほんと無理。私、脳みそ一つしかないし」

 私と同じような感想でさすが双子の姉だと妙なところで感心してしまいます。二つの旋律が縦横無尽に動き回るその譜面と肩を落とした姉を見ていたらあんまり可哀想になって、妹である私はつい甘い言葉を吐いてしまいます。

「……まあ気分転換にならショパン弾くのも悪くないかもね」

 途端に姉の顔がパッと晴れて、私はしまったやられたと思いました。が、時すでに遅く、バッハはあっという間にぽいとどこかに放り出され、代わりにピアノからは彼女がもう何年も弾き続けているショパンの『子犬のワルツ』がコロコロと軽快に鳴り響き始めました。

「バッハもこれくらいわかりやすくて楽しかったらいいのにー」

 左手でズンチャッチャ、ズンチャッチャと小気味のいい三拍子を刻みながら一花は呟きます。

 そんな姉を見てやれやれと肩をすくめて再びベッドの上に寝転がる私。

 好きな曲や覚えた部分ばかり弾いて先に進もうとしない姉と、それを咎めても結局は丸め込まれてしまう私。うん。まあ、いつものことです。

「あっ、でもさー」

 一花が閃いたといった口調で嬉しそうに声をあげます。子犬のワルツが少しゆったりとした雰囲気の中間部に入ったところでした。

「んー?」

 私は寝返りを打って天井のザラついた壁紙を眺めながら答えます。

「連弾なら弾けそうじゃない?ほら、私が右手で二葉が左手のパート弾いたら」

 優雅な中間部の終わり、音楽が息継ぎをするようにピアノの音が一瞬止まります。

「あーいいかもねー……でも私ピアノ弾けないしなー」

「そりゃそうだー」

 その言葉を合図に子犬のワルツは再び軽快なテーマに戻り、二匹の子犬が戯れあって転げ回っているような可愛らしいメロディが部屋中を転がります。この曲を弾いている時の姉はいつも本当に楽しそうです。

 ようやく曲が終わったかと思いきやまた頭に戻り、間を置くことなく再び愉快な三拍子が始まり徐々にテンポが上がっていきます。一花が何かから逃げたい時ほどこの曲のテンポは上がります。彼女は今、ショパンの子犬に乗ってバッハから逃げているのでしょう。とんでもない女です。

 私は延々と繰り返されるこの心地の良い名曲に甘いまどろみを覚えながら、視界の端、カーテンの隙間に漏れる水色の空を見つめていました。

 

「二葉!二葉ってば!」

 僅かに焦燥を感じさせる一花の声に揺すられ目を覚ますと、いつの間にか空は橙を通り越し藍色へとその表情を変え始めた頃でした。

 私がむくりと起き上がると。一花は安堵したように軽く息を吐きます。

「晩ご飯だって。二葉も降りるでしょ?」

「うん」

 今何時?と聞きながら大きく欠伸をします。

「もう七時半だよ。私お腹すいたー」

 いつの間にそんなに眠ってしまっていたのでしょう。程よく冷房の効いた部屋でのお昼寝は気持ちが良すぎるのが難点です。

 お腹を鳴らしながらも私を置いていかずに、律儀にも扉の前で待っていてくれる姉を待たせないよう、私は眠たい目を擦りながらよっこいしょと立ち上がります。

 「あんたあんまり熟睡すんのやめてよ。死んでんじゃないかと思ったわ」

 「死んでる死んでる」

 軽口を叩きながらドアを開け、二人並んで一階のリビングへと降りると、ちょうどママがサラダボウルをダイニングテーブルの真ん中へと置いていました。それぞれの椅子の前には既にカレーが並べられていて家中に香辛料のいい香りが漂っています。

 いつもの椅子に座っていたパパが二階から降りてきた私達の方へ向けて手を上げていいます。

「おー、お姉ちゃんおはよう。また寝てたのか」

「ちゃんとピアノの練習してましたー」

「ほー偉いなあ。じゃあ宿題も」

「カレーじゃんおいしそー!」

 無理矢理パパの言葉を遮った一花が向かいの椅子に座り、パパがやれやれと肩をすくめて溜息をつきます。わかる。わかるよパパその気持ち。私は一人うんうんと頷きます。

「まあまだ七月なんだしいいじゃない。そのうちやるわよ。ねえお姉ちゃん?」

「その通り、私はやれば出来る子だから」

 ですって、といつもニコニコ笑顔のママが笑いながらパパの隣に座ります。

 三人揃ったところでいただきます。とほぼ同時にまず一花がカレーにがっつきます。おあずけ食らってた子犬みたいな姉です。

「ほらほらサラダも食べなさい」

「ふあい」

「お姉ちゃん、いま服にカレー飛んだぞ」

「うえぇ!?」

「あらあら」

 どこどこ?と慌ててTシャツをパタパタとさせる一花を見てパパが笑い、ママも釣られて笑い、もー最悪ーと嘆きながらも一花も一緒になって笑っています。

 我が家のいつもの明るく賑やかな食卓の風景。私は、一花の隣の椅子に腰掛けてそんな愛おしい家族を見ているこの時間が大好きです。

 壁に掛かる時計が音も立てずに確かに一秒先を刻み、世界もこの街もその時間の分だけの変化をしていくの中で、この場所だけは私が死んだあの日から七年の時を経てもまるで時間が止まったみたいに何も変わらず優しいままで。

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