008 いまのお言葉、そのまま送りますの?
「どうした忘れ物か?」
ミャーコは硬い表情のまま、真っ直ぐに俺に向かってくる。ただならぬ雰囲気に戸惑っていると、
「ミヤコさん、ストップ! ストップですわ! それ以上前に出ると、スカートの中が見えてしまいますわ!」
突然ツヤが爆弾を投下した。反射的に俺の視線は下へ動き、急ブレーキをかけたミャーコは慌ててスカートの前を押さえた。
「見た……?」
低い声。込められているのは明らかに非難だ。ハッと視線を戻すと、赤くなったミャーコがじっと俺を睨んでいた。少し泣きそうな顔にも見える。
「大丈夫ですわ! ご安心くださいませ!」
右手の指で丸を作り、笑顔満面のツヤが気まずい空気を見事に砕いた。ちなみに、俺からはギリギリセーフなところだったが、首下げのツヤからは見えていたんじゃなかろうか。
「見てない。見えてない」
そう言いつつ、立ち上がる。アラフォー独身のおっさんでも、さすがに身内の子どもの下着に興味はない。ミャーコが小さい頃には風呂だって一緒に入ったこともあるくらいだ。
「そうか。ミャーコは土曜休みか」
離れたままのミャーコは無言でうなずいた。癖毛のショートボブが小さく揺れる。
いまさらだが、今日が土曜で、ミャーコが私服だということに思い至る。ニットセーターにチェックのスカートという姿を制服みたいに感じていたが、よく見ればだいぶオシャレだ。
俺は私立だったから、土曜も半日授業があったなぁとぼんやり思う。
「俺になんか用だったんだよな?」
考えてみれば、俺の同棲疑惑についての家族会議にわざわざミャーコが参加するのもおかしな話だ。別件で用事があったと考えるほうが自然だろう。上がってこないところをみると親父たちは帰ったか。
「ちょっと、頼みたいことがあってさ」
言い出しにくいことらしい。ミャーコは無意識に両手を前で組んで、視線を左に逸らした。
その仕草に俺は少し笑う。妹--ミャーコの母親も頼み事があるとき、同じ仕草をしていた。サクラの場合、普段から俺のことをボロクソ言ってる自覚があったんだろうな。てか、お願い事する時だけ妹になるんだよなアイツ。
「まあ、座れよ」
再びダイニングテーブルへ。今度はミャーコと向かい合って座る。俺が席に着くと、ミャーコはすぐに話を始めた。
「来月、部活の試合があるんだけど……」
話しながら、ミャーコの視線は俺の顔と胸の辺りをチラチラと行ったり来たりしていた。俺もつられて視線を落とすと、画面には得意顔で椅子に座るツヤ。なぜこいつはドヤッているんだろうか。少し悩んでから俺はサイドボタンを押してスリープにする。どうせ聞こえてるから、いいだろ。さて、
「部活って剣道部だよな」
俺も妹も、中学生にあがるまでは剣道をやっていた。いわゆる親がさせていた習い事で、二人とも特段やりたかったわけではない。親父曰く精神鍛錬。近所の道場に連れて行かれ、厳しい先生に礼儀作法からしっかりと叩き込まれた。ただ、嫌だったかというとそうでもなく、大人になったいまでは、やって良かったとさえ思っている。一人娘に同じことをしているところをみると、そこは妹も一緒だったらしい。
「一年生で試合なんてすごいじゃねえか」
「すごくない。ウチ、中学からはじめた人の方が多いし」
素直に褒めたのだがミャーコはあっさりと否定した。ミャーコは剣術道場に通ってすでに六年の経験者。都の大会では上位入賞していたこともある。中学から部活だけで剣道をしているレベルなら、先輩であってもまず勝てないだろう。
「俺だって、もうミャーコの相手にはならねえぞ」
ミャーコが道場に通い始めた頃は、俺も送り迎えのついでに、道場で相手をしたこともある。しかし、俺自身がまともに竹刀を振ったのは高校の授業が最後だ。現役剣士のミャーコ相手じゃ文字通り瞬殺だろう。
するとミャーコは半眼で顔で俺を見た。
「ケイくんに稽古相手なんか頼まないし。勉強、みてほしいの」
「勉強?」
問い返すと、急にミャーコの表情がしぼむ。
「明後日から中間テストなの。点数悪いと補習で、試合に出してもらえないんだよ」
声も尻すぼみだ。極端な変化に俺は思わず苦笑した。
「あー……お前、勉強嫌いだもんなあ。そういうとこ、ほんと母親似だな」
「うぅ、うっさいな!」
なんとなく事情はわかった。親父にお袋、妹の顔ぶれでは勉強を見るのは厳しい。残るミャーコの父親は、長期の単身赴任で家を空けている。いまはたしかアメリカだったか。消去法で俺というわけだ。
「てか、テスト明後日からかよ。付け焼き刃だなあ」
「だって、今週補習のこと言われたんだもん……」
どんどん小さくなっていくミャーコ。俺は腕組みをして唸る。一応、それなりの大学は出ている。どちらかというと成績は下から数えた方が早いくらいだったが、さすがに中一レベルの勉強ならわかる。だが、教えるとなると話は別だ。夏休みの宿題を手伝うのとはわけが違う。
「ケイタさん。わたしくでよければ、お勉強みてさしあげますわよ?」
ツヤが、文字通りぱっと顔を出した。思わずびくっと肩が跳ねる。
「急にでてくるなよ。びっくりするだろ」
「まあ。お言葉ですけど、ケイタさんだって、急に画面オフにしたのですわ!」
ツヤは少し口を尖らせた。やっぱちょっと気にしてたか。そこはいろいろ酌んで欲しいのだが、いまは勉強のほうが大事だ。
「ツヤ、勉強教えたりもできるのか?」
「あら、わたくし、毎日ケイタさんにお料理教えてますわよ?」
納得しつつ黙る。なんなら仕事も毎日見てもらっています。はい。
普段のツヤを考えれば、中学生の勉強を教えるくらい余裕でできそうだ。
「あー、ミャーコ。ツヤが勉強見てくれるってことだけど、どうだ?」
俺が言うと、ミャーコは品定めするようにツヤを見て「このアプリが?」と眉をひそめた。
「ケイくんは教えてくれないの?」
「俺よりもツヤの方が確実だと思うぞ」
ミャーコの試合がかかっている大事な試験だ。より確実な提案をしたつもりだったが、ミャーコの顔はどこか不満そうだった。まあ、見た目ゲームアプリっぽいもんな。ツヤ。ミャーコは少し俯いて、逡巡すること数十秒。
「わかった。それでいい」
渋々といった感じだが、ミャーコは承諾した。
「よし、じゃあツヤ頼むわ。あ、予想問題とかはナシな。ミャーコのためにならねえから」
ツヤの予想問題とか的中率がエグいことになりそうだ。
「わかりましたわ! ご安心くださいませ」
なんでだろうな。ツヤの「わかりましたわ!」はどことなく不安だ。まあ、仮に何かあってもミャーコのテストの点数が跳ね上がったりするくらいなら問題ないか。
「そういやミャーコ、勉強道具とか持ってきてるのか? 手ぶらっぽいけど」
ミャーコの荷物はスマホーと財布が収まるくらいの小さなポーチが一つ。最近はテキストも電子化してるらしいし、もしかしてスマホ学習とかなんだろうか。
「そんなわけないじゃん。これから取ってくるの」
「なんだよ。持ってきたらよかったのに」
「あのねえ、ケイくんが、その彼女とかと住んでたらお願いとかできないでしょ……」
最後の方は聞き取れないくらい小さい声だったのだが、ミャーコなりに俺に気を遣ってくれていたようだ。ミャーコは立ち上がり、出入り口へ向かう。
「じゃ、いってくるね。あ、部屋はママの部屋つかうから!」
「は? 部屋?」
「テスト終わるまで、泊まるの! よろしくね、ケイくん!」
ミャーコはニッと笑顔を見せると、軽快な足取りで部屋を去っていった。
「あらあら! ミャーコさんお泊まりされるんですのね! わたくし楽しみですわ!」
両頬に手を当ててご機嫌そうなツヤ。
直後、『よろしくねん』と一言、半年ぶりに妹からのメッセージが届いた。
「聞いてねえし! 理不尽だなおい!」
軽そうな感じのスタンプがついた画面を見ながら思わず叫ぶ。
「いまのお言葉、そのまま送りますの?」
メッセージ画面の端で、デフォルメキャラになったツヤが首を傾げた。
「送ってよし!」
俺は即座に承認し、席を立つ。コーヒーでも飲んで落ち着こう。
ああ、ミャーコが帰ってくる前に部屋の片付けしないとか。今日の飯どうするかなあ。
そんなことを考えていると、首の下でスマホが震えた。
「妹さんからご返信ですわ」
「なんだって?」
今度は画面を見る気も起きず、ツヤに尋ねた俺は、
「『お願い。お兄ちゃん。はぁと。』だそうですわ!」
その場に思いっきり崩れ落ちた。
膝をつき、額を抑える。深呼吸を一つ。息を落ち着ける。
「ツヤ、あれだ。その、『お兄ちゃん』はメッセージにあっても読み上げなしで頼む」
棒読みならまだダメージは少なかっただろうが、ツヤのそれは妹属性を熟知した「お兄ちゃん」だった。
「はい。わかりましたわ!」
その「わかりましたわ!」は不安なんだよ。そう思ったが、口に出す気力は残っていなかった。