二十五話 クゼド・アルフェリア
────クゼド・アルフェリア。
程なく告げられる事となった一人の名前。
ヨシュアの血縁上の兄の一人に当たるその人物の事は、私も知るところであった。
なにせ、八年前に一度だけ実際に私は彼と顔を合わせた事すらもあるから。
私の記憶違いでなければ────とんでもなく嫌味ったらしい人だった筈だ。
とはいえ、私が王女という立場だった事もあり、流石に面と向かって嫌味を言われる事はなかったけれども。
ただ、そういう事情もあってヨシュアの兄君と聞いて私の表情が反射的に歪んでしまった事も、仕方がないと言えば仕方がなかった。
そして、場がざわつく。
その内容は主に、クゼド・アルフェリアが何を考えているんだという困惑から来るもの。
しかし、そんな場の空気を切り裂かんと言わんばかりに、ヨシュアの冷ややかな声が異様なまでに響いた。
「────俺に兄はいない。追い返せ」
およそ情というものを感じさせない声音。
けれど、ヨシュアのこれまでの境遇を考えれば、この対応が至極当然でもあった。
たとえそれが、血を分けた兄弟であっても。
だけど、ここまで怖い顔を浮かべるヨシュアを私は初めて見た。
「で、ですが」
「たとえ公爵家の人間だった者だとしても、今現在、城に足を踏み入れる権利は彼らにはない。どんな理由があれ、そこに例外は存在しない。それは、三年前に取り決めた筈だ」
『リルドの湖』でヨシュアから少しだけその事について話を私は聞いていた。
ヨシュアの血縁上の家族が三年前にアルフェリア公爵家から追われた事も、それなりに。
「……陛下が制約を設けてたんだよ」
豹変程ではなかったけれど、明らかに尋常でない敵意を滲ませるヨシュアの態度にやや尻すぼみになってしまっていた私を気遣ってか。
事情を知らないからと、クラウスさんが耳打ちをするように小声で私にそう教えてくれる。
「そうでなければ、ヨシュアを公爵家当主に据える事が叶わなかったから」
私と同様に、ヨシュアは貴族嫌いだった。
そんな彼が、貴族から離れられる可能性を手放してまで、当主になった事については少しだけ疑問だった。
……成る程、制約を設けていたからヨシュアは貴族家の当主になる事を受け入れたのか。
その制約の一つに、城へ足を踏み入れる権利云々があったのだろう。
「メルトさんは分かってるとは思うけど、当初、ヨシュアは己が公爵家の当主に望まれた時、ひたすらに固辞してたよ。魔法師として名をあげた事も、それは自分が望んだ事じゃない上、少なくともこの力を国の為に使う気はない、とまで言ってた」
国の為に使う事。
それ即ち、巡り巡って忌み嫌っていた貴族の為に使ったという結果が付随してくる事となる。固辞するのもよく分かるし、そうした結果、反感を買って国を追われる事となったとしてもヨシュアとしては寧ろ、望むところだっただろう。
「だけど、その態度が陛下の琴線にどうしようもなく触れたんだ。元々、ヨシュアを当主にと望んでいたんだけど、更にそれが加速した」
過去を思い返すように、瞳に懐古の色を奔らせながらクラウスさんは言葉を紡ぐ。
「元々、アルフェリア公爵家には色々と良くない噂があったんだ。ただ、家格が家格なだけに安易に取り潰す訳にもいかなかったし、アルフェリアの名前の影響力も無視すべきものではなかった」
代々、一族が治めてきた領地だ。
その色が根強く染み付いているだろうし、軽視すべきものでない事もよく分かる。
「それもあって、後継は出来ればアルフェリア公爵家の血を継いでいる人間が良かった。そんな時、ヨシュアの存在が浮き上がった。代々受け継がれてきた魔法師の名門という看板も形骸化しつつあったアルフェリア公爵家にあって、魔法の才に恵まれた天才にね」
────本当に勘弁して欲しいよ。そのせいで、まるで僕がいつかヨシュアを公爵家当主に据えたいが為に近付いた。みたいな事になっちゃったからさ。
ため息混じりに、クラウスさんはわざとらしく呆れてみせる。
でも、ヨシュアが国を去る事なく、自国の貴族家の当主になってくれるのであればクラウスさんとしても嬉しかったのかもしれない。
心なし、嬉しそうに語っていた。
「とはいえ、ヨシュアが家の中で孤立していた理由も、きっとそれが一因していたんだろうね。正妻の子であったなら、きっと蝶よ花よと愛でられたんだろうけど、ヨシュアの場合はそうじゃなかったから」
そうでなければ、本妻の子達からすれば、嫌悪の対象だ。何故。どうして。
そんな感情が黒々と渦巻き、それが嫌がらせに発展する事なぞ透けて見える。
『────常に優秀たる魔法師たれ。アルフェリアはノーズレッド王家の矛であり、盾故に』
これが、アルフェリア公爵家に代々伝わる家訓。八年前に私はヨシュアから聞いた。
でも、その家訓は数代前より形骸化している。理由は単純明快、魔法師としての質が単純に下がったから。アルフェリアの地位が揺るぎないものである事からくる増長もあっただろう。
だからこそ、家族に己の存在を認められたいが為に家訓を愚直に守り、そしてそうする事で認められようと努力を重ねたヨシュアは認められるどころか、更なる反感を買った。
ただ、認められたいだけだったのに、罵倒すら投げられた。
亀裂は最早、修復不可能なところまで至ってしまった。
彼の努力が報われるどころか、正妻の子でないならば、相応の生き方があるだろう。
そんな言葉を当然として掲げ、貶し、蔑み、卑しめ────そんな日々を送っていたと私は聞いている。
心を閉ざすのも当然だ。
己に兄がいないと答えるのも当然だ。
誰がヨシュアを責められようか。
「……お待ち下さい。アルフェリア公爵閣下」
そんな中、一つの声が場に響く。
私の知らない貴族の男の言葉だった。
ヨシュアの言い分が何一つ瑕疵のないものと理解した上で言っているからなのか。
その物言いはどこまでも控え目であった。
「三年前に行われた取り決めについて、異を唱える気は毛頭ございません。ですが……」
言い辛そうだった。
その声音には、僅かながら怯えの感情も滲んでいるような気がする。
「ですが、クゼド殿をみすみす追い返すというのは如何なものなのでしょうか」
発言主に、抜き身の刃を思わせる冷ややかなヨシュアの視線が向けられる。
しかし、それでも尚と言葉を重ねる。
「今回の一件、間違いなくクゼド殿が少なからず関わっている事でしょう。であれば、あえて迎え入れるのも手なのではないでしょうか……? ここで対処しておいた方が、累が及ぶ可能性を潰せるのではないでしょうか……?」
今現在、一番怪しいとも言える危険人物だからこそ、遠ざけるより近くに置いてしまえと。
何かを企んでいる事は間違いないだろう。
それでも、あえて側におき、いつでも対処出来るようにすべきだろう。
彼のその発言には、一理あった。
事実、周囲にいた貴族の一部からは「確かに」といった言葉も聞こえて来る。
「クゼド殿に限らず、元々アルフェリア公爵家に籍を置いていた者達と、公爵閣下に確執があった事は承知しております。ですが、だからこそ、ここで対処すべきではないでしょうか」
「…………」
口が真一文字に引き結ばれる。
ヨシュアが何を考えているのか。
それは分からないけど、投げかけられた言葉に一理あると判断し、その言葉が考慮するに値するものと認識したのだろう。
怒鳴る事も、呆れる事も、ましてや一蹴も無視もする事なく物憂げな表情を浮かべ、そこに皺を僅かに刻んだ。
「────どうする、ヨシュア」
クラウスさんが声を張り上げた。
「三年前の取り決めを反故にする気はない。ただ、彼の言う事にも一理ある。ここまで大事になってしまった以上、何かを企んで近付いて来たであろうクゼドに見張りを付けられるなら付けた方がいいのも事実だと思う。それに」
そう言って、クラウスさんは意味深な視線を私に向けて来る。
言葉がそこで終わっていたせいで、「それに」が意味するところが分からない。
だけど、ヨシュアはそれで理解したらしく。
「……あいつなら、やりかねないか」
「事実、ヨシュアは一度殺されかけている」
────ただ、目障りだったから。
それだけの理由で、血縁者でありながら一切の躊躇いなく殺そうとしたと聞いている。
そして現状。
失敗に終わり、全てを失い、辺境の地で隠居のような生活を強いられていた彼らからヨシュアは間違いなく、恨みを買っているとクラウスさんは訴え掛ける。
故に、何をされてもおかしくは無いと。
「人の兄を悪く言うのは気が引けるけど……、僕から言わせれば、真っ当な倫理を期待する方が間違っている」
「あれは兄じゃない。俺に兄はいないし、家族といえる人間はここに居るメルトだけだ」
だから、二度と俺の兄と呼ぶなと付き合いの長いクラウスさんに対してであって尚、その物言いは強いものだった。
それだけでよく分かる。
彼らの間に如何ともし難い溝がある事は。
何を以てしても埋められない決定的な溝がある事は。
しかしだからこそ、ヨシュアは枷を付けるべき。という言葉に揺れ動かされていた。
肺に溜まっていた空気を一度吐き出す。
程なく、
「……分かった。今回だけは、構わない。だが、条件がある」
「……まぁ、当然だね」
情勢を考えれば、必然とも言える選択。
とはいえ、ヨシュアの感情を考えれば、その選択も苦渋の決断に他ならなかっただろう。
故に条件があるであろう事はクラウスさんも分かっていたのか。
特別驚いた様子はなかった。
「クゼドを俺達に近づけるな」
俺達とはつまり、私も含まれているのだろう。
「何があっても、だ。それが条件だ」
言葉を繰り返し、それを最後にヨシュアは私の手を取り、足早にその場を後にすべく歩き出した。
これ以上、この場にいる理由はない。
又はいたくない、からなのか。
一方的に言葉を吐き捨てるヨシュアの後を、私はついて行く事しか出来なかった。
†
「『穏やかじゃないねえ』」
「当然だ。俺は冗談抜きで一度殺されかけている。俺だけにその悪意が向けられるのならまだ良い。だが、その悪意がメルトに向かう可能性もある以上、キレ散らかしたくもなる」
神出鬼没。
そんな言葉が誰よりも相応しい気まぐれな性格の精霊────〝シルフ〟が何処からともなく現れ、ヨシュアに言葉を投げ掛ける。
「『でも、キミの判断は一番ベストなものだったと思うよ』」
そして、褒める。
「『あれがクゼドって人間なのかは知らないけど、ちょうどさっき、面倒臭いものを持ち込んだ人間が一人いたから』」
状況から判断するに、それはクゼドだろうと。ならば、追い返す事をしなかったヨシュアの判断は一番ベストであった。
〝シルフ〟はそう言葉を締め括る。
「……面倒臭いもの?」
「『うん。二人は────〝闇瘴石〟ってものを知っている?』」
聞いた事もない言葉だった。
側にいたヨシュアに視線を向けると、イマイチピンと来ていないようだった。
ヨシュアも、〝シルフ〟が口にしたその言葉について、何も知らないようであった。
「『魔物が暴れた後に、黒い鉱石のようなものが転がっている。そんな話をしてたのは覚えてるでしょ。その、答え合わせだよ』」
そう言って〝シルフ〟が教えてくれる。
「『その正体が、〝闇瘴石〟って呼ばれる人工鉱石。転がってた炭のような鉱石は、それを使用した後の残骸。流石のおいらも、使用者すらも蝕む欠陥品を使っているとは思わなくてねえ』」
だから、当然のようにその選択肢を除外してしまっていたと〝シルフ〟は言う。
「『しかも、その欠陥が理由でタブー扱いにもなってた物を掘り返して使うとは流石に思わないでしょ』」