女神
ハチ公とユースッド・トレインが首の長さを争っている
待ちくたびれカメレオンボーイの刹那な顔色、密着後の変色
ユースッド・トレインは寂しげにうつむいていた
物憂げな湿度は、スクランブル交差点を舐めた
ビルにはめられた巨大スクリーンが、天気予報を告げる
ユースッド・トレインがオブジェとして呼吸をしていた
もう一度レールの上を走りたい
机上のレールは錆び付いていた
だがその瞬間、オブジェの中から女神が飛び出した
刃渡り十五センチのナイフを手にかざし
薄手のトレーナー、ハーフパンツ、黒いタイツ、黒のパンプス
ショートカットは黒装束に花を添えた
夏陽はあと十時間で落ちる
一重まぶた、張り出した臼歯、その瞳は濡れているようだった
うわずえ百五十八センチメートルの中肉中背
女神は坂道を滑り落ちるような勢いで、腰掛けた背広男を押し倒した
衝撃を反動にして、ハチ公に寄りかかるカップルをなぎ倒す
うずくまった女は口が裂け血を垂らす
男は黙って女を抱きしめていた
背広男は女神から逃げようと、タクシーへ手を挙げた
傷は軽かった
生暖かい風が、日本一有名な待ち合い場を漂う
真っ赤に染まった女神は、ホスト男と取っ組み合う
交番に人影はなかった
中目黒駅の人身事故へ応援に出ていた
「世界最悪の偶然!」
女神はサバをよんで生きているホスト男をひざまづかせ
かき分けた金髪が土下座の上に散らばる
映画の撮影ではない
円を描いた群集は絶句していた
目を逸らす者、無関心に急ぎ足を緩めない者
女神は母性を感じ、彼に背を向けた
巨大スクリーンへ歩き出そうとした瞬間、背後から抱き付かれ
刹那の切り返しで突き刺した
サイレンがこだまを繰り返す
女神は巨大スクリーンを見ていた
彼は嗚咽しながら命乞いを止めなかった
天気予報が終わると、映画宣伝が映り始めた
女神はその醜い顔を雲一つ無い、青空へ向け
最後のざんげを始める
「一生懸命、女神に近付くのは疲れました」
ざんげを終えた女神はカウントを三つ数えた
目を閉じ、自ら腹を突き刺す
阿鼻叫喚の荒波は、渦潮高く待ち合い場に叩き付く
巨大スクリーンは電源を切られ、微粒子だけを映す
そこへわたしが通り掛かった
好奇心から女神を抱き上げた
「それじゃあなたはあたしを愛してくれるの」
わたしはどもりながら答えた
「……イエス」
わたしは「ノー」という言葉を力付くで、飲み込んだ