09 真夜中のSOS
調子がいい時の遥香はよくしゃべる女の子だった。
「今度一緒にここに行こう」、「今度一緒にこれをしたい」など、雑誌に載っている記事を見つけては嬉しそうに誘ってくる。そして、学生で時間の有り余っていた僕たちは色々なところに行って、たくさんの二人の時間を作った。
幼馴染がゆえに、食べ物の好みや、好きな映画や小説、漫画やゲーム、行きたい場所なども似ていて、二人でいることに苦痛など感じたことはなく、発作のことなど忘れてしまいそうな日々が続いた。しかし、それはいつも突然やってくるのだ。
大学三年生の夏だった。
深夜、スマホが鳴った。暗がりに青白く灯るモニターには『遥香』と表示されている。
半分寝ぼけたまま通話ボタンをタップした。
「……淳一君?」
遥香のか細い声が震えている。瞬間、寝ていた脳が覚醒する。
「どうした? 大丈夫か?」
「ごめん……、こんな夜遅くに……、あの……、……」
「何かあったの? 大丈夫だから言って」
僕は気持ばかり焦り、問い質す。
「会えないかな……。今から……」
遥香の声は相変わらず震えている。
僕はそばに転がっている目覚まし時計を見やる。
深夜二時すぎ。
発作か、と思ったところで、遥香が怯えたような声色で言った。
「あ、あの、ごめん。いい。やっぱり嘘だから」
「すぐ行く。少しだけ待ってて」
間髪いれずに答え、電話を切った。暗闇の中、既に右手は車の鍵を掴んでいた。
駐車場に止めている車に飛び乗り、遥香のアパートに向けて急発進する。
遥香のアパートは僕の家から札幌の中心部を隔てて反対側へ車で三十分ほどのところにある。
豊平川を渡り、既に車の少なくなった深夜の国道一二号線に乗って、札幌中心街へ入った。遥香のアパートまでもうすぐだ。
市電の線路を踏み越え、西一八丁目駅交差点の信号につかまり停車していると、脇の歩道から、ふらふらとおぼつかない足取りの女の子がヘッドライトの輪に一瞬だけ入り再び歩道の方へ消えた。
今のは、間違いなく、遥香。
僕はすぐさまハザードランプを焚いて、歩道沿いに車を停車させる。
勢いよくドアを開け、遥香の傍に駆け寄った。
「遥香!」
「淳一君……」
遥香は僕の姿を確認すると、崩れるようにその場に座り込んだ。
僕も遥香の正面で膝を折る。
薄暗い歩道に、やけに明るく明滅するハザードランプが僕たちを刻むように夜に映す。
「どうした? 何かあった?」
僕はできる限り優しく、焦りを感じさせないように訊く。
「ううん。なんにも」
遥香は両腕を僕の首に絡ませてくる。
「ごめんね。私、淳一君と再会してから弱くなったのかなぁ……」
遥香は殆ど独り言のように呟く。
「ううん、違うかな。昔から弱かったんだね。あまりに身のまわりで色々あったから。これは私のことなんだよって認めることができなかったから。いつももう一人の私がいて、凄く悲しい出来事とか、酷い出来事とかが自分の身に起きると、これは私のことじゃないって言い聞かせていたんだ」
遥香は腕に力をこめる。
「でも時々、はっと目が覚めたように気づく時があって、息ができなくなって……、震えが止まらなくなってしまう……」
耳元でささやく遥香の声。
いったい何のことを話しているのだろう?
僕にはただ曖昧に相槌を打つ。
「淳一君は優しいね……。本当、昔と一緒。淳一君に話さなきゃいけないことがまだ沢山あるの。話せる時がきたらきちんと話すね」
僕は遥香の闇の真相を知らない。
東京に引っ越してから、何があったの?
知りたくて仕方がなかった。
「今はまだ話せないの?」
繊細なガラス細工を扱うように、そっと訊く。
遥香はそれには答えず、消え入るような声で言った。
「淳一君、どこにも行かないでね。私を見ていてね。私は私が大嫌いだから。淳一君が見ていてくれるから、私はここにいられる……」
最後は聞き取れないくらいのか細い声だった。そして、急に、どさりと遥香が身体を預けてきた。
「遥香?」
僕はよろけながらもどうにか体制を整える。
「大丈夫? 遥香?」
返事が返ってこない。
ぐったりとした遥香の上体を起こして、額に手をあてる。
かなりの熱があることを瞬時に悟る。
僕は意識を失った遥香を担ぎ、助手席に寝かせた。
このまま帰すわけにもいかず、僕のアパートまで連れて帰った。
ベッドに遥香を寝かせ、汗で額にはりついた前髪を掻きあげて冷却シートを貼る。そして、タオルで遥香の顔や首筋の汗を拭った。
再会した頃、短すぎるくらいのショートカットにしていた髪は、いつの間にか肩ほどにまで伸びていた。
もう付き合い始めて四ヶ月。
まだ僕たちは寝ていない。
再会してから初めて見る遥香の寝顔だった。
大学での遥香は明るかった。一見、友達も多いように見えた。僕と付き合うようになって、「淳一君といると昔の自分でいられるんだ」と言った。
会う日々が重なるにつれ、今の遥香を知るにつれ、僕は生まれて初めて必要とされる歓びと、心の器から溢れてしまいそうになる彼女の闇とを、ぎりぎりのところでバランスを取っていた。
遥香の化粧けのない寝顔を見つめる。
今更ではあるけれど、幼い頃とは顔つきが違うな、と思った。
顎がシャープになり、唇には厚みがあって、眉は適度に整えられている。
大人の遥香の寝顔に、強い恋心を覚え、胸が締まる。
突然、遥香が僕の方に寝返りを打って、薄らと目を開けた。
「……淳一君……」
囁くような声で僕の名前を呼び、そしてまた眠りに落ちた。
僕の右手の人差し指をまるで小さな子どものように両手でぎゅっと握りながら。
―― 私を見ていてね。
分かったよ。
この娘はきっと、僕がいないと、生きられない。
確かな実感としてそう思う。
本当に必要とされている感覚、歪みにも似た満足感が僕を強くする。
この日、僕は何があろうとも、遥香と寄り添って生きることを誓った。




