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07 日本人同士、名前で呼び合うのは照れるね

 街灯の灯るチェリーヒントンロードから大通りのヒルズロードへと曲がり、北へ向けて自転車のペダルを漕ぐ。目指す先はこの町の中心街でもあるシティセンターだ。

 そこはケンブリッジでは中心街といわれているものの、ロンドンなどの都市部と比べるべくもなく、ビルの大きさも中規模ばかりのこぢんまりとした地方の繁華街だ。

 洒落た石造りのショップが並ぶ道から路地に入った場所に地下へと降りる階段があり、そこが『シカゴ』というディスコらしい。

 ようやくたどり着いたスーパーの駐輪場に自転車を突っ込み、徒歩でその場所へと向かう。


 薄暗闇の裏路地には既に開場を待つ長蛇の列ができていた。

 赤や青のネオンに照らされた地下へと続く入口には、屈強そうな黒人のセキュリティが二人、列を整えている。

 僕は、ざっと列に並ぶ人を見渡し、クラスメイトを探す。


「Hey! ジュン! 遅いじゃんか!」


 僕が見つけるより先に、カリンが僕を見つけて声を上げた。

 咄嗟に腕時計を見る。ちょうど午後八時。約束の時間ぴったりなんだけどな、と思いつつ、軽く手を上げて返す。

 苛立たしげなカリンの隣では、フィンランド出身のアニカがにっこりと目尻を下げて手を振ってくれている。

 アニカはカリンを諭すように言った。


「カリンは急かしすぎだよ」

「だって、楽しみじゃん? みんな、もっと気合いれて来いって感じ」

「他のみんなは? あのドイツ人の子、やっぱりこないのかな?」

「いいの、来たくないヤツはこなくて」


 何気ない僕の問いに、カリンは表情を曇らせて即座に言い捨てた。

 アニカが再びカリンに何か言おうとした時、僕たちの背後からよく通る声が響いた。


「おう、悪い。遅れちまった。俺が最後か?」


 トルコ出身のエンディだ。

 再びカリンがエンディに悪態をつき始め、アニカがフォローする。

 一通り、文句を言い終えたカリンは最後の遅刻者を待つため、僕らの前で仁王立ちした。

 待ち合わせから十分ほど遅れて亜衣子が現れた。


「ごめん、待った? ホストママにつかまっちゃってさー」


 息をはずませて駆け寄ってくる亜衣子は、薄らと額に汗を浮かべて頬が上気している。

 カリンは口を尖らして、ため息を吐き、一言だけこぼした。


「日本人が時間に几帳面なんて、もう信じないからね」


 僕と亜衣子は互いに顔を見合わせて苦笑する。

 カリンは気を取り直し、アニカに腕を絡ませて声を上げた。


「これで、みんな揃ったよね。よし、行こう! 行こう!」


 アニカを引きずるようにしてカリンは地下への階段を下りてゆく。

 僕も、亜衣子、エンディに続いて赤いネオンに照らされた階段を進む。


 重い扉を抜けた途端、分厚い音圧が吹き抜けた。

 重低音を伴った爆ぜる音の連続が腹を打ち、宙を飛び交うカラフルな光線が目を眩ませる。フロアはあらゆる国籍の生徒で溢れかえり、奥のダンスフロアでは数十人がいっせいに飛び跳ねているのが見える。壁際に備えられた幾つかのテーブルセットでは、男女が絡み合っていて、その濃厚なシチュエーションに思わず視線を逸らせた。

 慣れた様子のカリンとアニカはバーカウンターで早速ドリンクを注文している。

 ディスコになど来たことのなかった僕は、人いきれで蒸した煌びやかなフロアに圧倒されて、呆然と立ち尽くした。


「淳一」


 突然、背後から日本語で声をかけられた。

 振り向くと、照れくさそうな表情の亜衣子がいた。


「淳一、でいいかな」


 僕も少しこそばゆい想いで曖昧に頷く。

 どうやら亜衣子もこんな場所には慣れていないらしく、緊張した面持ちで周囲を見渡している。


「なんだか、日本人同士、名前で呼び合うのって照れるね。でも、苗字で呼び合うのってもっと浮いちゃうみたいだから」

「そうみたいだね。淳一でいいよ。僕も、亜衣子、でいいかな」

「うん。でさ、淳一はこんなところ日本で来たことあった?」

「ううん、初めて。一応地方都市の大学に通ってたけど、行きたいって思ったことがなかったというか」

「私も初めて。縁遠い生活だったから。なんだか緊張するよね」


 二人して周囲を見渡す。


「そういえば淳一って何歳だっけ?」

「二十三。そういえば、亜衣子は? 自己紹介の時に言わなかったでしょう」


 亜衣子は、ばれたか、というような茶目っ気ある表情で答える。


「私、実は淳一よりお姉さん。二つ年上」

「二十五? あれ? 大学を休学してるって言わなかったっけ」


 亜衣子は軽く肩をすぼめる。


「私、高校を卒業してすぐ就職してたんだけど、学費が貯まったところで辞めてさ。それから学生に逆戻りしているの。周りが年下ばかりでイヤになっちゃうけどね」

「凄いね。頑張ってんだ」


 感心して答えたところで、爆音に負けじとした大声が聴こえた。


「Don’t speak Japanese please」


 エンディが二人の背後から肩を組むように割り込んできた。


「おい、ここまで来て日本語はなしにしようぜ。英語を勉強しに来たんだろう?」


 エンディはわざと怒った顔を作って言う。


「OK, ごめんね、エンディ。そう、私はスチュワーデスになるために来たんだ。頑張ろうぜぃ」


 亜衣子は右手の拳を掲げ、鋭気に満ちた表情を見せた。そして。


「淳一はどう? どんな目標を持ってここに来たの?」


 じくりと胸の中に化膿した傷のような痛みが疼いた。

 微笑むこともできなかった。

 一瞬の沈黙ののち、エンディが場を取り繕うように口を開いた。


「なんだなんだ、ジュン。しけた顔してねえで踊ろう。カリンとアニカはもう全開だぜ。ほら、いくぞ」


 エンディは僕の肩をどんと叩くと先頭を切って人ごみの中へ戻っていった。

 亜衣子も、無理して言わなくていいよ、と優しげな目配せをし、エンディに続いた。


 身体の中心で疼いた痛みは、すぐに腹に響く重低音と混ざって分からなくなった。

 亜衣子のあとを追うように、僕も雑踏を掻き分けてダンスフロアへと進む。

 大勢の学生に紛れ、カリンが激しいビートに身体をのせている。

 その横で控えめに身体を揺らすアニカがいる。

 エンディと亜衣子に追いつき、僕も不器用に音楽に身を乗せた。

 初めて踊った。

 腹を打ち続ける重低音。耳に突き刺さる大音響。眩暈を起こしそうなほど、無数に飛び交うカラフルな光線。僕の身体を取り巻く非現実的な空間が幾つかの感覚を麻痺させた。


 逃げ出した?


 自分でもよく分からない。

 ただ、ほしいものだけは分かっている。

 それは、たぶん元気と呼ばれるもの。

 あの日から失ってしまったもの……。


 胸に疼く痛みはこれからもずっと背負ってゆく。

 ただ、痛みに支配され、うずくまったままじゃ嫌なんだ。

 歩みたいんだ。

 痛みを強さに――、いや、強さになんか変わらなくてもいい。

 歩けるくらいの、ほんの少しの元気がほしいだけ。

 ここに来たのは、遥香に繋がるものが何もないから。

 それだけだよ。


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