06 幼馴染と恋人になった日
「人が恐いんだ。凄く恐い。大勢の人がいるところにいると、心臓が早くなって、喉が塞がったみたいに苦しくなるの。分かってるよ……。変だって。ごめんね」
二人とも無事に進級することが決まった、まだ冬真っ盛りの三月。
深い雪に埋まった大通公園を一緒に歩いている最中、僕は「遥香が好きだ。小さい頃の好き、とは違う意味で」と告白した。遥香は笑って、「小さい頃の好き、っていうのも気になる」と言ったあと、先の言葉を発した。
人が、怖い、と。
そして、「でもね」と続ける。
「淳一君といるとね、あまり恐くならないの。心臓もドキドキしないの。凄いね、幼馴染みのチカラって」
「それじゃ、いいのか」
「いいって?」
「付き合ってくれるか、ってこと」
僕は遥香の表情を窺う。遥香は、困ったように微笑む。
「だって、もうずっと、付き合ってるみたいだったじゃん」
不純物のない、嬉しい、という感情が溢れた。衝動に任せて遥香を抱きしめる。
鼻にふれた彼女の髪からいい匂いがした。それは幼い頃とはまったく違う知らない匂いで、また彼女の胸の膨らみを胸下あたりに感じて、言葉にできない感慨が溢れた。
遥香は僅かの間、身を任せたがすぐに僕を押し返すように抵抗した。
「すっごく恥ずかしい。大通の真ん中って意味でも、あの淳一君って意味でも」
僕は「分かる気がする」と笑う。
「身体、ゴツくなったね」
「遥香もなんか、身体が」
そう言った瞬間、遥香は僕の腕から逃れて睨んできた。
「それ以上、言ったら殴る」
僕は肩をすぼめて、両手を上げる。
その瞬間、二人で同時に笑った。
笑いながら、嬉しいという感情に中に、黒いインクを落としたような冷静な思考が混ざる。
人が恐い、とはどういう意味だろう。
人が恐いと口にしたのは、この日が初めてだった。再会してからも、僕以外の人といる時はそんな素振りは全く見せず、明るい女の子にしか見えなかったのだけれど。
しかし、彼女の中に、闇は、確実に存在していた。
闇は、僕と二人きりの時はたびたび顔を出すようになっていた。
大勢の人の中で優等生を演じたのち、僕と遥香だけになると、彼女はふさぎ込むことが多くなった。言葉をかけても「大丈夫」と「ごめん」しか答えない。そんな時はもう、ただそばにいる、という行為しか手段はなく、やり場のない気持ちを抱えたまま見守るしかなかった。
何日か気分の起伏が大きい日が続いたのち、鈍色の分厚い雲が垂れ込め、また雪が降りそうな日曜日、それは、起きた。
その日は朝から上機嫌の遥香が、ご飯を作ってあげるよ、と僕の部屋に来ていた。
ちなみに、部屋デートのときは、いつも僕のアパートだった。なぜなら、彼女は僕を自分のアパートには絶対に入れてくれなかったから。冗談めかしに遥香の部屋を見たい、と訴えても、「それは本当に嫌だ」と頑なに拒否されていた。
久しぶりに気分が良さそうな遥香を見て、僕も嬉しくなる。
「何が食べたい? 料理なら任せて。私のお母さん、料理人だって知ってるでしょう? もちろん娘も負けてないよ?」
遥香は得意顔で訊いてくる。
「そうだな、定番の肉じゃが? あ、シチューが食べたい。ジャガイモごろごろ入ったの」
遥香はシチューか、と呟き「淳一君ち、ローリエあったっけ」と訊く。
「ローリエ? 何それ」
「あ、いい、いい。じゃあ、今から買い物行ってくる」
「一緒に行く?」
「ううん、心配しないで。一人で大丈夫だから。ってか、絶対、お菓子とか食べちゃダメだからね。ちゃんとお腹すかせて待っててね」
遥香はそう言うと、機嫌よく一人で近所のスーパーに買い物に出かけていった。
そこは歩いて五分ほどの距離だった。のんびり屋の遥香でも一時間ほどで帰ってくるはずだった。
何をするわけでもなくテレビを眺めながら、僕は既に一時間が経過している時計の針を、嫌な予感を拭い切れないまま目で追っていた。
ためらった末、遥香のスマホに鳴らした。僕の傍から着信音が響いた。ソファーの上で遥香のスマホが震えながら鳴っていた。
更に三十分が経過し、僕は部屋を飛び出した。
スーパーには走って二分で着いた。いつものスーパーが巨大な空間と化していた。
休日で溢れた買い物客が遥香を覆い隠す刺客に見え、懸命にそれらを割って進む。陳列棚の間を一列ずつ確認しながら走り、店内に遥香がいないことを確認した。
友達と会ったのかも知れない、急用ができたのかも知れない、起こりうる様々なことを想像しても、どれも説得力に欠けていた。
一旦、家に戻って置き手紙を残し、車の鍵を持って再び外に出た。
雪が降っていた。
雪に覆われ始めた薄黒い道路を慎重に運転し、街をあてもなく走る。
除雪された雪が背丈ほどの壁となって車道と歩道を隔てており、一定間隔で停車しては、雪壁の切れ目から中を覗き込んだ。何度もそれを繰り返したが、遥香はいなかった。
何一つ遥香の手がかりを得られぬまま二時間が経ち、途方に暮れたまま家に帰った。
疲れと焦りを抱えて部屋までの階段を上る。ドアの前に立ち、部屋の鍵をポケットから出そうとした時、左手の小窓から光が漏れていることに気づいた。急いで、ドアを開け、中に駆け込む。そこには座布団の上でひざを抱える遥香がいた。
「遥香!」
「淳一君……」
「どうしたの? 何があったの? 大丈夫なの?」
立て続けに質問する僕に、遥香はぎこちない笑みを見せた。
「病院に行っていたの。というより、運ばれちゃった。発作が起きちゃったの」
遥香は、貼りつけたような笑みを崩さずに言う。
「発作……?」
「うん、発作。淳一君と再会してから、殆ど出ることはなかったんだけど……。久しぶりでびっくりしちゃった。油断してたんだね、きっと」
「えっ……と、その、どこか、悪いの?」
僕は遥香の言葉をぎりぎりで受け止めながら訊く。
遥香は考えるように俯いた。何か、懸命に言葉を探しているようだった。
顔を上げると、眉尻を下げた泣き笑いのような表情をしていた。
「あのね、買い物してたら、前から早足で歩いてきたおばさんに思いきりぶつかられて……、邪魔、って怒鳴られて、そこから身体がだんだん痺れてきて、息が苦しくなって、心臓がドキドキして」
ぷつん、と言葉を切った遥香を見つめる。
はあぁ、と遥香から息が漏れて、そして。
「たったこんなことで、本当にゴメ……ン。やっぱり、私……、変……なんだよ……」
ぽつりぽつりと座布団に涙の染みを作りながら、言葉は次第に崩れていった。
肩を小刻みに震わせながら、遥香は濡れた顔を背ける。
僕は遥香の正面に座りそっと抱きしめた。
「大丈夫だよ、もう大丈夫……。もう恐い人はどこにもいないから……」
髪を撫でながら、小さな子を慰めるように、僕は何度も耳元で繰り返した。
遥香を一人にしたくなかった。
でも結局、その日も彼女は夜の十時に自分のアパートに帰っていった。
あれから一ヵ月が経った。
僕と遥香はまだ寝ていなかった。
正確には頑なに彼女が関係を持つのを拒んでいた。
それでも、彼女を抱けない苛立ちよりも発作の不安が先行し、僕は何度も一緒に暮らそうと持ちかけていた。
ある土曜日の夜、映画を見た車での帰り、助手席から窓の外を眺めている遥香に再度その話を持ちかけた。
「駄目なの。十時を回って家にいないと怒られるから……」
「でもおばさんも知っているんだろ? 発作のこと」
「ううん、知らない」
「どうして? ちゃんと言うべきじゃない?」
「言えない」
頑な遥香の言葉に溜息をつく。
「それにしても、おばさんも気づくべきだよ。一人娘なのに、どう」
「やめて」
大きな声だった。僕は一瞬、遥香の方を見やる。
「ごめん」
すぐさま遥香は小さな声で謝った。
冷静を保ったふりをしながらも、黙りこむ。
「私ね、お母さんが大好きなんだ。もうすぐ二十歳にもなるのに親離れができてないよね。分かってるんだけど、二人でずっと生きてきたから」
遥香は声のトーンを落として続ける。
「最初は、ちゃんと家に帰っているのかを確認するために家の電話にかけてきてたんだ。でも、最近はね、確認っていうよりも、私とゆっくり話せる唯一の時間、って感じでかけてくるの」
故郷に住んでいた頃の、遥香の母親の姿を思い出す。
いつも笑顔の人だった。馬鹿みたいにニコニコしている印象しかない。
しかし、片親であった遥香があんなに元気で天真爛漫だったのは、あの母親の存在があったからだ。当時、十歳前後の僕たちから見てすごく大人に見えたが、今思えば母親は三十代半ばだったはずだ。そんな若い年齢で、あんな田舎町で、一人娘に負い目を感じさせることもなく、しっかり育てていた。立派な人だったんだな、と初めて思った。
「だから、かかってくる電話、絶対出てあげたいし、出ないとそれはそれでやっぱり怒るんだ。お母さん、私がいなくなって凄く寂しいんだと思う」
そう言うと、窓の向こうにひらひらと舞う雪に視線を投げたまま、以降は何も語らなかった。
遥香はいつもアパートの手前で降ろしてほしいと言った。そしていつもの降車場所に着いた。
最後にもう一度だけ、遥香に訴える。
「おばさんに僕から約束してもいい。遥香に変なことは絶対しません、って。本当に心配なのは一人の時に発作が起きたらどうするの?」
遥香は泣き出すのを堪えるように眉根を寄せて、一瞬、僕を見つめたあと口を開いた。
「なんて説明するの? 人が恐いって? 人ごみにいるだけで倒れそうになるって? 分かってもらえるわけないよ。余計に心配させちゃうだけだよ」
そこで、遥香は一度、言葉を切って、言いにくそうな口調で続けた。
「それにね、分かってほしいの。淳一君とその……、関係になるのは嫌じゃないよ。ただ……、上手く説明できないけど、もう少し待っていてほしいの」
遥香の切羽つまったような目を見て、僕は何も言えなくなる。
「分かった……。ただ……、ヤバイと思ったらすぐ電話して。深夜でもいつでもいい。とにかく電話してくれ。一人の時に発作が起きることだけが心配なんだ」
僕は遥香を引き寄せ、キスをした。
「ゴメンね……」
口癖になった言葉を残し、遥香はアパートへ帰っていった。




