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22/22

FIN ひまわりのコンパス

 静かな眠りから低くうなる重低音の空間に引き戻された。


 小窓から入り込む陽射しは、旋回する機体とともに弧を描く。

 傾く機体に微かなGを感じながら、ぼやけた目を何度かこする。

 腕時計を見やると、出発して十二時間が経過していた。


 成田空港で乗り継いだブリティッシジュン・エアウェイズは巨大なユーラシア大陸を横断し、ヨーロッパの空を跨ぎ、小さな島国、グレートブリテンのヒースロー空港に近づいていた。


 ぽん、と丸みを帯びた電子音が鳴り、いっせいに灯りが点いた。

 続いて英語の機内アナウンスが流れる。あと十五分ほどで着陸するようだ。

 膝の上で閉じられている文庫本をリュックに仕舞い込み、到着の準備を始めた。


 イギリス人スチュワーデスの笑顔に会釈をして、ジャンボ機から降り立つ。

 周囲から聴こえてくる英語にイギリスに帰ってきたのだと実感する。


 入国カードに記入し、審査を待つ人の列に加わった。すぐに僕の順番が回ってきた。

審査員が僕に幾つか質問する。


「What’s the purpose of your visit? Sightseeing?」


 女性の審査員は真剣な目の下に事務的な微笑みを浮かべて訊いてくる。


「No. I’m a student of the language school in this country」

「Stay in this country until when do you plan?」

「I plan to stay in this country during another half a year」


 僕はユーロスクールの学生証を提示し、更に幾つかの質問に答えた。

 女性審査員が僕のパスポートに軽いタッチでスタンプを押した。


 僕はあと半年間イギリスで過ごすことを決めた。

 病院で、何も考えずに遥香に言った一言を実行しようと思ったからだ。

 僕はケンブリッジ英語検定試験を受けようと思っている。


 今は、何かに打ち込んでいたかった。がむしゃらに頑張れる何かがほしかった。

 ちょうど、十二月に試験がある。今の語学力では合格は無理な話だが、あと三ヶ月ある。

 とにかく、他のことを一切考えず、勉強しようと思った。

 目的を持って、前を向いて、歩み出そうと思った。


 キングスクロス駅を発車した電車は一時間ほどでケンブリッジ駅に到着した。

 初めてこの国に来た時は重たいスーツケースを引きずって、地下鉄に電車に長距離バスを乗り継いでやって来た。あの頃を思えば、随分イギリスの生活にも慣れたと実感できる。


 空港から一応シャロットには無事に着いたことを連絡していたが、もう一度、ケンブリッジに到着したことを伝えるために、改札の傍にある公衆電話の受話器を取った。そして、プッシジュンボタンに指をかけた、その時、改札の向こう側から声が聞こえた。


「あっ! ジュンを発見! アイコ、ジュンが帰ってきたよ」


 僕は受話器を置いて、改札の向こう側を覗く。

 視線の先、まばらな人ごみに紛れて、金髪ショートカットの後頭部が揺れていた。身体全体を使って、誰かを手招きしている。

 カリンが手招きする先に、小走りで向かってくる亜衣子の姿が見えた。


「もう、カリン、フェックが怒ってるよ」


 カリンにそう言ったあと、改札を挟んで立つ僕に気がついた。


「ジュンイチ、お帰りなさい」


 亜衣子は大きな声で言って、爽やかな笑顔を見せた。

 続いて、エンディとフェリックスが人ごみを分けてやって来る。


「カリン、お前、自分の飲んだジュース代、ちゃんとあとで払えよな」


 フェリックスが大きな声で怒鳴りながら近づいてくる。

 エンディは改札に近づくにつれ、歩を早めて言った。


「おう、ジュン。アジア最果ての地からよく無事で帰ってきた。お帰り」


 エンディの言葉に苦笑が漏れる。アジア最果ての地、か。


 僕は改札をくぐり、みんなの前に立った。

 エンディ、カリン、フェリックス、亜衣子の顔を順に見渡す。

 誰も、何も、訊かなかった。

 ただ、僕に向けてとても優しい微笑みを投げかけてくれるだけだった。


「ただいま、みんな」


 僕からも、自然と笑みがこぼれた。

 カリンと両頬を交互に重ねてただいまの挨拶をする。エンディとフェリックスとは握手を交わし、軽く抱き合う。さすがに、日本人同士、亜衣子とは頬を重ね合うのは照れくさくて未だにできない。ただ、目と目を合わせた。亜衣子は微かに頷いて、言った。


「待ってたよ、ジュンイチ」


 僕も頷いて、亜衣子の肩を軽く叩いた。

 僕は、もう一度みんなの顔を見渡した。


「でも、どうして、みんなここに?」


 僕の問いに、カリンがにやりと悪戯っ子のような顔になる。


「実はねー、ジュンのホストママさんに教えてもらったんだ、ジュンが今日の昼頃帰ってくるの。だから、昼前にみんなで集まって、そこのカフェで待ってたんだ。もう、一時間以上も待ったんだからね」


 カリンの言葉にフェリックスが思い出したように噛みつく。


「あ、カリン、ジュース代払えよ。ったく、駅に電車が着くたびに店から飛び出しやがって。ジュンが着いたかどうかって、店からだって見えるじゃないか」

「あーあ。フェックってそういうところ冷たいのよねー。それに、ジュース代、ジュース代って、心が狭いったらないよ」


 途中から話を無視して、フェリックスはカリンに向かって手を突き出していた。渋々、カリンがお金を払っている。そんなやり取りをみんなが優しく見守っている。

 みんなも感じているのだろうな、と思った。この、いつものカリンとフェックのやり取りも、見られなくなる日が近づいていることを。

 僕はこの国に残ることを決めたが、今の仲間との別れが延びたわけではなかった。数日後にオールシーズンテストが実施され、その翌日、僕たちのシーズンは終了する。


「みんな、決めたよ。僕は、あと半年間イギリスに残ることに決めた。そして、ケンブリッジ英検を受ける。真面目に勉強してみる」


 突然の僕の言葉に、みんなは、いいじゃない、という顔をする。僕は続けた。


「半年前、みんな語学力を上げるためにこの国に来たんだよな。カリン以外は」


 途端にカリンは睨んで、わき腹にパンチを入れてくる。僕は肘で攻撃を防御しながら、続ける。


「僕も、半年前のみんなに今、やっと追いついたんだ。頑張ってみるよ」


 エンディが相変わらず、よく通る声で言う。


「ジュンはたいして勉強もしてないのに、今は随分英語を話せるようになったもんな。ジュンも、勤勉な日本人だから、きっと、英検受かると思うぞ」

「ちょっとはやってたんだけどな」

「いや、そうは全く見えなかった」


 エンディが返した言葉にみんなが笑った。

 亜依子が嬉しそうに言う。


「じゃ、私と一緒に受験生だね」

「よろしく、先輩」

「困ったことがあったら、なんでも言っておいで」


 亜衣子と見合わせて、ふふっと笑いが漏れた。


「なんか、いいな、二人とも。おれも残りたくなってきたよ」


 フェリックスが呟いた。

 ケンブリッジ駅の雑踏の中を寂しげな秋の風が通り抜ける。

 僕は明るくみんなに向かって訊いた。


「そういえば、アニカは?」


 亜衣子とカリンが見合わせて、「あっ」っと声を上げる。


「そうそう、これからアニカを迎えに行かなきゃ」


 亜衣子の言葉にカリンが続く。


「あの子も今日の二時頃、コーチで帰ってくるんだ」

「帰ってくるって、どこから?」


 続いてエンディが答える。


「ジュンが日本に帰った直後に、アニカもフィンランドに一時帰国したんだ」

「どうして?」


 今度はフェリックスが口を開く。


「ジュンも知ってると思うけど、あいつ、両親とシーズン終了後に帰国する約束をしていたんだ。でも、まだこの国にいたいって、それで……、あいつ、親父さんを説得しに帰った」

「そう。私がやっちゃえ、やっちゃえ、って焚きつけてたら、本当に帰っちゃってびっくりしちゃった」


 カリンがこともなげに言う。全員、呆気にとられて、カリンを見た。そして、エンディが言った。


「俺はお前にびっくりするよ」

「お前なー、人の人生をなんだと思っているんだ。ノリでやっていいことと悪いことがあるんだぞ」


 フェリックスの言葉に、カリンが真面目な顔つきになり、返す。


「じゃ、自分の意思をはっきり伝えな、って言ったことはいいこと? それとも悪いこと?」

「それは……、その……」


 フェリックスが困惑したような表情で答えに窮した。


「いいこと、だね」


 亜衣子は確信めいた口調で言う。


「たとえ自分には敵わない相手でも、自分の意思さえ言えなければ何も始まらない。アニカにとって、本当に勇気のいることだと思うけど、それを乗り越えたら、あの子、また変われると思うよ」


 エンディも「確かにな」と頷く。


「そう……、だな。カリンはアニカの憧れだもんな。きっと、少しでもカリンに近づけるよに、あいつはあいつで戦ってるんだな。すまない、カリン。お前が正解だよ」


 そう言ったのはフェリックスだった。

 フェリックスがカリンに謝るなんて初めてのことで、他の全員が状況を飲み込めないまま、立ち尽くした。更なる反撃に備えていたカリンも目をまん丸に見開いて、固まった。

 慣れない不思議な空気が僕たちを包み、亜衣子が慌ててそれを払うように言った。


「ねえ、コーチステーションに行こうよ。アニカを迎えに」

「おう、そうだな、行こう。ところで、本当にコーチで帰ってくるんだろうな。コーチステーションで待っていて、実はジュンみたいに電車で帰ってきたりしねーだろうな」


 エンディの言葉にカリンが得意顔で返す。


「大丈夫、ちゃんとアニカのホストママさんにも確認済み。ヒースロー空港からアニカが長距離バスで帰るって連絡あったって」

「あ、でも、僕は自転車がないよ。一度、取りに帰らないと」


 僕は今帰ってきたばかりで移動手段がない。

 するとカリンが「大丈夫、大丈夫」と言って、遠くを指差した。


「ジャーン。あれを見て」

「あっ」


 少し離れた場所にあるカフェの前に、みんなの自転車が並べて置いてある。そして、その一番端に僕の自転車とアニカの自転車もあった。

亜衣子が補足する。


「アニカを迎えに行って、それから、ちょっとした計画を立てているんだ。カリンと私で計画したから、ぬかりはないよん」

「そういうこと」


 カリンが続けて言ったあと、亜衣子と同時に「ねー」とハモった。

 僕たちは早速自転車に乗り、ミルロード沿い、クライストカレッジの傍にあるコーチステーションへ向けてペダルを漕ぎ始めた。


 街路樹の続く大通り、ミルロードを五人と六台の自転車が北上していた。

 左手には秋晴れの広がる空の下、広大なパーカーズ・ピースの芝生が鮮やかな緑をさらしている。

 先頭をカリンと亜衣子の自転車が風を切って走る。フェリックス、僕が続き、最後にアニカの自転車を左手で器用に操りながら、エンディが「もっとゆっくり走れー」と叫んでいる。全員、笑いを堪えてそ知らぬ顔を作り、スピードを緩めず、コーチステーションを目指した。


 コーチステーションには何台かの出発を待つバスが横並びで停車していた。まだ、アニカのバスは到着していないようだ。

 僕たちは、自転車を止めて、アニカのバスを待った。


 暫くして、アニカの乗ったバスがミルロードをこちらに近づいてくるのが見えた。豆粒のような大きさだだったバスが次第に大きくなってゆく。バスは定刻通り、コーチステーションに到着するようだ。


 バスは速度を落とし、僕たちの前で停まった。バス前方のドアがぷしゅうと音を立てて開き、乗客が降り始める。

 カリンがバス後方のスモークがかった窓の向こうにアニカを発見した。


「あー、いたいた。アニカ発見! あら、全然気づいてないじゃん」


 カリンはバス前方のドアの前で待つ僕たちのところに駆け戻ってくる。

 アニカはぼんやりした顔で最後にバスのステップを降りてきた。そして、前に立ちはだかる人の壁に、顔を上げた。

 大き目のリュックを担いだアニカは僕たちを見渡し、面喰らったような顔をして動かなくなった。


「アニカ、お帰りー」


 僕たちは声を合わせて言う。

 状況を飲み込めたアニカの顔が崩れた。愛らしい笑顔を見せて、言った。


「ただいま、みんな」


 一人ずつ全員と両頬を重ねて、もう一度「ただいま」と言った。

 全員が見守る中、カリンがアニカの前に立ち、表情を引き締めて訊く。


「どうだった?」


 カリンの問いかけにアニカは顔を伏せて、黙り込んだ。

 僕たちはお互いの顔を見合わせる。


「え……、アニカ……」


 カリンが呟いた瞬間、アニカが顔を上げた。

 にこっと満面の笑顔になり、僕たちに親指を突き出した。

 全員から歓声が上がった。


「もう、びっくりするじゃん」


 カリンがアニカを軽く小突き、そして抱きしめた。

 そして、アニカは僕の前に立ち、言った。


「ジュン、私、頑張ったよ。初めて、お父さんに逆らっちゃった。好きなだけ行ってろ、って半ば諦められた感じだけど、それでも、私、少し変われたような気がする」


 僕は力強く頷く。


「ジュンも変われそう? 新しい自分に」


 僕は口元にほころぶ笑みをそのままに目を閉じた。

 全員が僕を見ているの感じる。

 そして、ゆっくりと目を開けて、言った。


「うん。長く続いた全ては終った。僕も新たに歩み出そうと思う。新しい世界がこれから始まる」

「うん!」


 僕の言葉にアニカは元気に頷いた。


「これで、全員そろったね!」


 亜衣子が大きな声で言った。


「ああ、それぞれの未来も決まった」


 エンディが続く。


「よし、アイコ、行こうよ」


 カリンが亜衣子に向かって言う。


「よーし、出発!」


 亜衣子が全員に向かって叫んだ。

 僕たち六人は自転車に跨り、街路樹の続く道を南に向けて走り出した。


 緑色の絨毯のような果てしない草原を貫くクイーンズロードを南に下り、エルティスレイアベニューに入った。

 ケンブリッジから十五分ほど南に下るだけで、そこからはもう、草原地帯が地平線の先まで続く。周りには民家すらなく、唯一、草原の中を一本の道がどこまでも伸びているだけだ。


 僕の視界から見えるのは、ただひたすらに伸びる轍だらけの土の道と、左手に道と平行して伸びる木の柵。遠くの方に、点々とまばらに見えるのは丸く枝を伸ばしたマリモのような木々と、細長く空に向かって伸びる木々。草原の果てには蒼く澄みわたる午後の空との境界線。優しい風。大自然が織り成す静かな音に僕たちの漕ぐ自転車の走る音が混ざり、心地よいハーモニーを奏でている。


 アニカが自転車の速度を落とし、最後尾を走る僕の自転車に並んだ。


「ねえ、ジュン。これからどこに行くの?」

「いや、教えてくれないんだ。カリンもアイコも」


 アニカは前に向かって叫んだ。


「ねー、カリン、どこいくのー?」


 先頭を走るカリンが振り向き、大きな声で返す。


「内緒! もうちょっとで着くから。アイコと見つけた私たちの隠れ家だよ」


 もう、と言って、アニカは速度を上げ、カリンと亜衣子の方へ向かった。

 今度は、フェリックスと並んで走っていたエンディが速度を落とし、僕に並んだ。


「おう、ジュン。お前、もう、大丈夫なんだな」


 エンディが訊き辛そうに言う。


「ああ。もう大丈夫。エンディ、サンキューな」

「いや、いいんだ。それより、これからお前も、もうちょっと周りを見ろよ。……あ、仲間を思いやれって意味じゃなくて」


 僕は意味が分からず、エンディの顔を窺う。エンディは真っ直ぐと前を向いている。


「あのさ……、お前が日本に帰っている間……、俺、ふられたんだわ」


 突然の話にわけが分からず、更にエンディの顔を見つめる。

 エンディも僕の方を向いた。


「もうすぐ俺たち、はなればなれになっちまう。だから、その、後悔したくなかったからアイコに気持ちを伝えた。そして、ふられた」

「そっか」


 エンディの気持ちを薄々気づいていた僕はそれしか答えられなかった。


「アイコには好きなヤツがいる」

「そうなんだ」


 少し驚いて答える。

 エンディが僕の顔を見て、渋い表情をしたあと、深いため息をついた。


「そうなんだ、じゃねーよ、ジュン。まったく。だから、もう少し周りを見ろって言ってんじゃねーか」


 そう言うと、エンディはまたフェリックスの隣まで速度を上げた。


 暫くして、遠く、僕たちの前方に白塗りのカフェらしきものが現れた。

 前の方から、カリンの大きな声が聞こえる。


「ほらー、あれだよー。かわいいでしょー」


 そこは緑の中にぽつんと佇む小洒落たカフェだった。周囲にはテーブルとデッキチェアが煩雑に置かれている。どこか、懐かしい感じのするカフェだった。

 僕たちは近くの柵際に自転車を並べて置いた。


「ここのスコーンがとても美味しいらしいの! あと、紅茶が絶品みたいだよ」


 亜衣子がみんなを急かすように宣伝する。


「行こう、行こう」


 カリンがエンディとフェリックスの背中を押しながら声を上げる。


 僕たちは柵の内側に入った。

 何というか……、特別手入れなどせず、草原の中でティータームをしたら気持ちいいと思ってここにカフェを置きました、という感じの自然そのままのカフェだ。カフェの店内は広く、二十席ほどのテーブルが用意されているが、客たちはみな外のテーブルでティータイムを楽しんでいた。


 それぞれ紅茶とスコーンを持って、カフェから離れた柵際の席へと移動する。二つのテーブルを繋ぎ、全員が席に着く。

 エンディが周囲を見渡して言う。


「いい感じのカフェじゃねーか」

「でしょ? そりゃそーだよ。私とアイコで選んだんだもん」


 カリンがドヤ顔で答える。


「でも、知らなかったな。ケンブリッジの近くにこんな長閑でいい場所があるなんて」


 フェリックスが頷き、感心する。


「草の匂いがする。風が気持ちいい」


 僕の言葉にアニカが続く。


「眠くなっちゃいそう」


 アニカの言葉を最後に、話す者はいなくなり、みんな空を仰いだ。


 空はどこまでも青く、澄んでいた。そよそよと流れる風が鼻をくすぐる。

 静かな別れの気配の中、エンディはぼんやりと空に視線を投げ、亜衣子も黙ったまま草原の果てを見つめた。いつしか、フェリックスとカリンは席を立ち、近くのテーブルに座っていたイギリス人家族の小さな女の子と追いかけっこをして遊び始めた。


 とても、穏やかな時間が流れていた。つかの間の日本滞在だったが、やはり、イギリスと日本では時間の流れる速さが違うと思った。時に人間はこのようなのんびりとした流れに身を委ねる時間が必要なのかもしれない。


 僕は幾つもの偶然が重なり合って、今、ここにいる。

 重なり合う偶然は名前を変えて、エジンバラでエンディが言ったように、奇跡という名になるのだろう。

 僕たちは奇跡の中で、今を生きている。


 フェリックスたちと遊んでいた女の子が僕たちの席までやって来た。

 外国人が珍しいのか、緊張した面持ちをしている。亜衣子、アニカが「こんにちは」と言って、腰を屈めて握手をする。続いて、エンディが屈んで挨拶しようとした途端、女の子は背を向けて逃げ出した。フェリックスの背後に回り込み、足にしがみついて隠れてしまった。


「ほら、エンディ。強面なんだから、あんまり近づいたら駄目だよ。怖がってんじゃん」


 カリンの言葉に全員が笑った。エンディが手を額に当て、「そりゃ、ひでーよ」と嘆いた素ぶりを見せ、再度笑いを誘った。


 結局、女の子は僕たちのテーブルに腰を落ち着け、一緒にティータイムをとることになった。隣の席を見やると、その女の子の両親が僕たちのテーブルを微笑みながら見ていた。


 ウェーブがかった長い金髪を揺らして、まるでフランス人形のような女の子は色々な外国の話を聞きたがり、僕たちはそれぞれの国の話をした。中でも日本の話に一番興味があるらしく、執拗に僕と亜衣子に色々な質問をしてきた。


 ねえねえ、日本じゃ、真夜中もお店が開いているって本当? ねえねえ、日本人ってみんな髪の毛が真っ黒なの? ねえねえ、日本人ってみんなシャイなんだよね?


 際限のない質問に僕と亜衣子は答え、まわりのみんなも笑ったり、新事実発覚といわんばかりに女の子を焚きつけたりしていた。


 三十分ほどして、女の子の両親が僕たちの席にやって来た。

 母親が申し訳なさそうに言う。


「すいません、子どもの相手をしてもらって」

「よし、そろそろ、行こうか」


 父親が促したとき、女の子は「あ!」と声を上げた。慌てた様子で「なくなった」と叫ぶ。両親が女の子に問い質す。どうやら、お気に入りのブローチを失くしたらしかった。

 女の子は、胸辺りを指して、ここにあったもん、と泣き出した。


「追いかけっこしたときかなあ」


 カリンが申し訳なさそうに言う。

 もう既に陽は暮れて、店員が席を片づけ始めていた。


「よし、みんなで探そう。俺は店の人に事情を話してくる」

 

 エンディの一声で、みんな一斉に周囲を探し始めた。

 

 しかし、どれだけ探しても見つからなかった。

 一時間が経ち、「いい加減にしなさい」と怒った声が聴こえてきた。ふり向くと、父親が女の子を叱っていた。母親が「申し訳ありません、もう結構ですから」とみんなの所に謝りまわっている。

 すっかり暗くなった頃、元いた席に全員が戻ってきた。

 アニカが女の子の頭を撫ぜて、「ごめんね」と声をかける。

 嫌だ、と駄々をこねる女の子の手を両親が強引に引っ張る。しかし、女の子は「もう少し探すー」と言って踏ん張り、譲らない。そして、また激しく泣き出した。

 その場の全員がやりようもなく、ただ、泣き続ける女の子を慰めるしかなかった。


 僕の心は静かだった。

 僕は女の子の前に歩み寄り、同じ目線の高さまで屈んで頭にそっと手を載せた。


「君は外国人が恐くないの?」


 女の子は洟を啜りながら、ぶるぶると首を振る。


「僕がここに来た時は、英語を話すだけで緊張していたのに、君は凄い子だなぁ」


 涙をいっぱいに溜めた女の子は泣き笑いのような顔をした。


「それじゃ、ご褒美をあげるね」


 僕は女の子の首に両腕を回した。

 銀色のひまわりがその小さな胸元に揺れた。

 遥香のひまわりは新しい居場所を見つけて輝いていた。


 女の子は一瞬で天使のような笑顔に変わり、ひまわりのネックレスを両手に受けて、はしゃいだ声を上げた。女の子の両親がしきりに辞退を申し出るのを遮って、僕は言った。


「いいんです。僕にはもう、必要のないものですから」


 女の子がはしゃぎながら喜ぶ姿にとうとう両親も折れて、何度も「ありがとうございます」と言った。


 父親に肩を抱かれ、女の子は母親と手を繋ぎ、「バイバイ」と手をふった。両親に挟まれて去って行く女の子の後ろ姿にみんなで手をふる。突然、女の子は思い出したようにふり返り、両親の手をほどいて、僕たちのほうに駆け戻ってきた。そして、僕の前に立ち、見上げた。


「これ、あげる」


 女の子はスカートのポケットに手を入れ、大事そうに何かを取り出した。そして、屈んだ僕の手のひらにその何かをそっと置いた。


 小さな種だった。

 小さな、小さなひまわりの種だった。

 僕の中に、突然ある光景が舞い戻る。

 僕は立ち上がり、もう一度、周りを見渡した。

 そして、息を飲んだ。

 ここは――。


 ずっと続く、見渡す限りの草原。その真ん中にぽつんと真っ白なカフェ。そのカフェを中心にしてテーブルとデッキチェアが敷地いっぱいに広がっている。


 僕の記憶に舞い戻った写真には更にある光景が写っていた。


 敷地を埋め尽くすように咲き乱れるひまわり。

 草原をひまわりによって切り取ったような場所。


 僕は呆然としながら、カリンに訊いた。


「なあ、カリン、ここのカフェって何て名前なんだ?」


 カリンは一瞬考え込んで言った。


「確か……、あっ、グランチェスタ・テラスだったと思うよ」


 それは、遥か昔に遥香と約束した場所だった。

 たしか、最後の約束。


「冬も近い今はないけどさ、真夏にはひまわりで溢れるんだって、このカフェ」


 僕は全身が微かに震えているのを感じていた。


 女の子は「バイバイ」と、何度も何度も手をふって両親のところへ走ってゆく。

 去り行く女の子の胸に遥香のひまわりが揺れ、僕の手には種が残った。


 手のひらに載った小さなひまわりの種を眺めた。

 秋の風に周りの草木がさわさわと音を立てて揺れる。

 小さな種は僕の手のひらで静かに夏を待っているようだった。


 僕はまたしても、大きな流れの存在を感じていた。

 遥香も僕もきっとこの種なんだと思った。いや、ここにいる誰もが、小さな種なんだと。

 みんな、静かに咲き実る季節を待っている。

 僕の手の上で佇むこの種はこれから厳しい冬を越え、来年の夏にはきっと夜明けに向けて大輪の花を咲かせるだろう。

 そして、僕たちも。

 きっと。

 僕は空を仰いだ。

 僕と女の子のやり取りを見ていたみんなも空を見上げ、感嘆の声を漏らした。

 そこには眩い星の海が地平線の果てまで広がっていた。(了)




最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

心からの感謝を。 著者

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― 新着の感想 ―
[良い点] イギリスと日本を行ったり来たりして過去と現代が同時進行で進んでいき重たい過去が一気に押し寄せないで良かった。二人はどうしても戻れないけれど未来に歩み出せて嬉しい。結末に心が震えた。
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