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21 帰国

 僕は今、東京、山手線の電車に揺られている。浜松町から新宿に向けて走る車内は出勤途中のサラリーマンや学生で溢れていた。


 ドア際に立ち、流れるビル群に重なって薄らとガラスに映る自分の顔を眺めていた。

 半年前に比べると随分ふっくらとしていた。こけていた頬はもうあの一件以前の厚みを取り戻していた。時間は僕を連れて確実に流れていた。


 遥香の母親から手紙を受け取ったあの日、僕はすぐに日本へ一時帰国する手配をした。申し訳ないと思いながら、シャロットには嘘をついた。日本語の分からないシャロットに遥香の母親の手紙を見せて、親族に不幸があったと告げた。急遽、日本に帰る手配を手伝ってくれるシャロットの姿に心が痛んだが、あまりにも時間がなかった。


 昨日の夜、成田空港に到着し、実家に電話を入れた。一応、両親はこれまでの一連の出来事を全て知っている。錯乱し、号泣しながら日本から逃げ出すための金を無心したその日以来、両親は沈黙を守り、無言で見守ってくれている。僕はその深い愛情を身に染みて感じていた。それだけに、昨晩、生気のある僕の声を聴いた両親が涙ぐみながら喜んでくれたことが嬉しかった。


 楽しげな女子高生の声があちこちから聴こえる。その隙間を縫って、眉間に皺を寄せた年配の会社員や、イヤホンで耳を塞ぎ、視線を宙に漂わせている若い会社員がいる。

 真夏の太陽のように明るい高校生たちと、年中厚い雲に覆われたような会社員たちが織り成す不思議な空間の中で、自らが異物のように感じられた。朝から疲れを滲ませている会社員たちは、日々どれだけのものを背負っているのだろう。輝くような学生たちはこれから背負うものと出会ったあとも輝いたままでいられるのだろうか。どちらにも属していない僕はこれからどんな決断を下し、何を背負うのだろう。


 新宿駅に着き、病院まで歩いた。その途中、森林公園を通り、僕は秋空の下にざわめく木々を仰いだ。木々はもう既に紅葉に彩られていた。美しい、と思った。でも、この美しい景色も永遠の中に生きてはいない。やがて紅葉は散り、すぐに剥き出しの木々がここを覆い尽くすだろう。そして、冬を越え、やがてまた緑に染まり、新しい息吹に包まれるのだろう。繰り返される自然の営み。そこにもまた、人の意思など介在しない。何も介在しない。ただ、大きな流れがあるだけだ。


 僕は遥香を救えなかった。

 人が人を救えなかったと悔やむこと自体、おこがましいことなのかもしれない。

 僕はただの人だ。

 ただ、大きな流れの中で、強くありたいと願う小さな存在だ。

 強くなることが大切なのではない。強くあろうと願い続けることが大切なのだ。

 公園を抜ければ、もう病院はすぐそこだ。


 病院のロータリーを渡る。自動ドアの前で、遥香の母親が穏やかな表情をして僕の到着を待っている。遥香の母親も最後に会った時より幾分ふっくらとしていた。もう、擦れてしまったような雰囲気も、やせこけて、追いつめられたような雰囲気も全くなかった。ただ、穏やかな微笑みを浮かべて佇む母親が、そこにいた。


 僕は母親に深々とお辞儀をした。母親は僕の方へ歩み寄り、両手で僕の手を包み込んで「遠いところを本当にありがとう」と笑んだ。小鼻から口角に彫り込まれた笑み皺は、遥香を見守り続けている証のようだった。

 遥香には今日、僕が訪れることを伝えている、とのことだ。母親は、案内するわね、と僕の前を歩き出した。


 僕は数ヶ月ぶりにこの大きな病院に足を踏み入れた。もう二度と訪れることはないだろうと思っていた場所。

 当たり前だが、目に入る景色は何も変わっていなかった。ただ、一つ、僕だけが変わっていた。あの時のように高揚することもない。ましてや絶望することもない。ただ不思議と静かだった。青白い月を映す一つの波紋も立たない湖面にいるような静寂。気持ちは凪ぎ続けていた。


 エレベータに乗り二階で降りた。ざわつく廊下を通り抜け、少し広めの部屋の前に立った。ドアは開いており、中を窺うことができた。

 黄朽葉色の絨毯が敷かれ、色々な器具が一定の間隔で並べられていた。小さなスポーツジムのようだった。母親がふり向いて「リハビリセンターよ」と言った。数人の患者がそれぞれ、見たこともない器具を使って身体を動かしている。見渡した先の、部屋の一角。そこに、看護師に付き添われる女の子がいた。


 二本の長い手すりが腰ほどの高さで平行して置かれている。その手すりの間、両手で手すりを力強く握り、小さな身体いっぱいに汗をかいて、真剣な眼差しで、遥香はそこにいた。


 壁の高い位置に並ぶ窓から陽光が射し込んでいる。その陽光は部屋を斜めに横切り、幾本もの輝く路を作っている。遥香は自然光のスポットライトの中で、輝いていた。

 遥香から溢れるほどの躍動感と生命力が発散されている。

 遥香は自らの力で前を向き、歩こうとしていた。

 僕はそんな遥香を暫くの間、眺めていた。

 時間をかけて手すりを往復した遥香は、看護師に支えられながらその場にゆっくりと腰を下ろした。汗を拭い、ふと顔を上げ、母親に気づいた。「お母さん」と手をふり笑顔を見せ、そして、隣に立つ僕に気づいた。

 遥香から笑顔が消えた。

 時間が止まった。

 遥香と見つめ合った。

 遥香の瞳からは、何も読み取れない。

 過去が蘇ろうとしていないか、瞳の中に苦悶の色がないか、僕は遥香を見つめ続け、そして怯えた。

 僕は結んだ口の両端に力を入れ、真横に引き、笑顔を作る。駆け巡っていた怯えが身体から抜けた。僕の中は空っぽになった。

 時間は未来へと向かおうとしているのか、過去へと向かおうとしているのか、僕には分からなかった。

 随分時間が経ったようで、一秒にも満たないような感覚。

 心の中には何もない。

 ただ、大きな流れに身を委ねる遥香と僕がいた。

 そして、遥香の顔が一気に崩れた。

 そこには無垢で全く穢れのない、生まれたばかりの赤ん坊が見せるような、笑顔があった。


「鳴海先輩!」


 遥香と僕の時間は未来に向けて進み出した。



「鳴海先輩、いつ日本に帰って来たんですか? 今日、突然お母さんが、先輩が来るっよ、て言ったんで、びっくりしたんですよ」


 秋の柔らかな陽光がそそぐ病院の中庭に僕と遥香はいる。僕の隣を進む遥香は車椅子に乗っている。


「二日前だよ。ビザの関係で一時帰国しているんだ」


 遥香の左足は背骨に受けた衝撃によって、麻痺を患っていた。ただ、今後、回復の見込みがあるとのことで、遥香も懸命にリハビリを続けている。


「イギリスで何をやっているんですか?」

「語学学校に通っているんだ。これからケンブリッジ英検でも受けようかと思ってさ」

「わっ、何か格好いいですねぇ」


 遥香は大きな目を細め、過去のない笑みを見せる。爽やかな風が遥香の短い髪を揺らす。


「全然、全然。語学学校なんて、誰でも入学できるんだから」

「ううん、外国で暮らそうって思えることが凄いですよ」


 中庭の中心には円状に芝生が敷かれ、その真ん中に大きな樹が植えられている。その樹の傍にあるベンチに僕は腰かけ、遥香が正面に車椅子を進めた。


「あー、早く私も自分で歩きたいな」


 遥香が両腕を軽く上げ、伸びをしながら言う。


「私の左足にね、まだボルトが何本か入っているんです。何だか、折れ方がよくなかったらしくって。だから、また抜き取り手術があるんです。それに、まずは足を動かせるようにならないといけないし」

「大丈夫、飯島だったらできるよ」


 僕の言葉に遥香は考え込む素ぶりを見せた。僕が不思議に思っていると遥香は小さく「そっか」と言った。


「そっか、って何が?」

「え、あ、いや……、鳴海先輩、私のこと飯島って呼んでたんだって思っただけですよ」

「ん?」

「あ、あの変な意味に取らないで下さいね。私、何だか、先輩のこと、凄く印象に残っていて、なぜか気になって……。意識が戻った直後にちょうどお見舞いに来てくれていたからかなぁ、とか色々考えてみたんだけど……」


 僕の胸の下あたりが、キュッと締めつけられる。


「もしかして、消えちゃった私の大学生活で、私、先輩のことを好きだったのかな、って思ったりもしてたんだ」


 遥香の言葉は僕の心にあった穴をゆっくりと満たしていった。僕は気づかれない様に深く息を吸って、静かに吐く。そして。


「俺が飯島のことを好きだったのかもしれないよ」

「え? そうだったんですか?」


 遥香が照れたように一瞬、顔を赤らめる。


「ウソ」

「もー、ひどいですよ。じゃあ、私だって、意識が回復してすぐ会ったのが先輩だったから、気になってただけですよーだ。きっと、あれだ。生まれたての雛が最初に見たものを親だって思い込むやつだ」

「刷り込み?」

「そう、刷り込みだ」


 僕たちは同時に笑った。

 瑞々しく清々しい空気が僕たちを包んでいた。

 遥香は過去の遥香ではない。

 そして、僕も過去の僕ではない。


「ね、先輩。またイギリスに戻っちゃうの?」

「ああ。すぐ帰らなきゃならないんだ」


 僕たちは未来に向けて歩き出している。

 時間は前にだけ進んでいる。


「そっか。また寂しくなるなー」


 それから、暫く遥香と穏やかな時間を過ごした。遥香は病院での生活のことを話し、僕はイギリスでの生活のことを話した。カリンやフェリックスの話で遥香は笑った。遥香はこんな風に笑えるのだ、と思った。


 大きな樹は葉いっぱいに秋の太陽を受け、芝生に木漏れ日を落としている。枝で羽休めをしていた数羽の小鳥が、木漏れ日の作るまだら模様の芝生に舞い降りて、何かをついばんでいた。その中の一羽が遥香の足元までやって来た。遥香がそっと右手を近づけると、その小鳥は小さな羽をいっぱいに広げ、空に舞った。僕と遥香はその小鳥の行方を追って、空を見上げた。


 話が途切れて、少しの沈黙があった。

 それは緊張感の伴う沈黙ではなく、自然で心地よい無音の時間だった。

 心地よい自然な空気をそのままに、遥香が口を開いた。


「ね、先輩、一つだけ変なお願いしていいかな」

「なに?」


 遥香の柔和な瞳を受け止め、答えた。

 少し俯いて考えたような表情をしたあと、顔を上げ、言った。


「抱きしめてもらっていい?」


 僕は遥香を見つめた。

 遥香も僕を見つめていた。

 澄んだ瞳。真っ白な肌。俯いて考えながら話し出す瞬間の表情。日向の匂い。温もりと確かな厚み。柔らかい声。全てはそこにあった。


 ベンチから立ち上がり、遥香の傍に寄る。遥香はそっと目を閉じた。僕は腰を屈めて、遥香を抱きしめた。

 ふわりと遥香の香りが鼻腔の奥まで届き、溢れ来る何かに胸が震えた。


 遥香の耳元で囁く。


「お互い頑張ろうな。前を向いて、歩こう」


 遥香も僕の耳元で答える。


「うん。リハビリ頑張るね。早く歩けるように」


 小さな羽根が風に揺られて舞うように、音もなく僕は遥香から離れた。

 僕は遥香の目の前に右手を差し出した。遥香はその手をしっかりと握り返した。


「元気でな」

「先輩も」


 中庭の中心にある大きな樹。その樹の傍に遥香を残し、僕は歩き始めた。

 あの日、カリンが言ったように。

 背筋を伸ばして、しっかりと前を向いて。


 背後から遥香の叫ぶ声が聴こえる。


「鳴海先輩、また会えるかなぁ!」


 僕は振り向かず、右手を高々と掲げ、一度だけ手を振った。

 その右手の更に空高く、イギリスと同じ、澄み渡る秋の青空が広がっていた。



 かつて慣れ親しんだ地下ホームが車窓に飛び込んでくる。新千歳空港からJRを乗り継いで新さっぽろ駅で乗り換えた地下鉄はかつての最寄り駅に滑り込んだ。

 ドアが開き、一斉に大勢の人々がプラットホームに吐き出される。改札へ続く階段に向かって人が流れ出す。ホームに降りた僕はその場で立ち尽くした。みんなが迷惑そうな顔をして僕を避けていく。避け損ねて肩をぶつけてくる人がいる。発車ベルが響き、駆け込み乗車を注意するアナウンスが流れる。電車は吐き出した数より幾分少ない数の人たちを新たに飲み込み、慌しく口を閉じる。そして、ゆっくりと重たそうな身体を順に動かし始め、それは視界から消えた。

 地上に出て、街を見渡した。ここの景色も以前とまったく変わっていなかった。ただ、僕がこの街のサイクルから外れてしまっただけだった。

 僕は、遥香とともに暮らした街に帰ってきた。

 やり残したことを終らせるために。


 僕は目の前にある小奇麗でいてチープ感の漂う建物を仰ぎ、備えつけの駐車場に入る。夕暮れ影が伸びるその向こう、アパートと駐車場の間にツツジの植え込みが見える。真上には僕たちの部屋のベランダ。そう、遥香の命を救ってくれたのが、目の前で静かに佇むツツジだった。当時、枝が広範囲に渡って折れ、痛々しい姿をしていたツツジ。今はもう、その場所がどこなのか分らなかった。ここにも平等に時間は流れ、ツツジの傷も癒えていた。


 僕はアパートの階段を上り、等間隔に幾つも並ぶドアの一つの前で立ち止まる。ポケットから鍵を出し、がちゃりと音を立ててドアを開けた。


 静寂と暗闇が広がっている。部屋の空気が久しぶりの訪問者に戸惑っているようだ。キッチンを右手に奥へと進む。引き戸を開け、部屋に入った。


 フローリングの床、薄らと埃を被ったベッド、空の本箱、空のタンス、テレビもコンポも乗っていないサイドボード、壁にかかかったままの額の中には遥香と二人で作った太った猫のパズル、テーブル、座布団、写真の入っていない写真立て、止まったままの目覚し時計、止まったままの時間。


 電気もガスも水道も止まっている。二人がかつてともに生活をしていた部屋。

 この部屋は遥香の記憶障害が判明してから、治療に役立つかも知れないと、大学側に無理を言って卒業後も借りたままにしていた。


 カーテンを開け、夕陽を部屋に招き入れた。コンビニで買ってきたおにぎりとお茶の入った袋を床の上に置いて、ベッドに腰をおろした。ふわりと埃が舞い上がり、弱々しい陽射しをきらきらと反射させる。僕はぼんやりと部屋を眺めた。


 たった一年半。一緒に暮らした時間。幸せだった。手を伸ばせば愛する人がいた。愛する苦しさと切なさを学んだ。愛される歓びを知った。ともに生きる幸せを震えるほど感じていた。


 もう、過ぎ去ってしまった時間。

 戻らない時間。


 僕はきつく目を瞑り、後ろを振り返る心を止めた。

 ベッドに座ったまま手を伸ばし、コンビニの袋を掴んだ。そのとき、僕は何かを踏んだ。想像もつかぬまま、手を伸ばす。ベッドの下からその何かを引っ張り出した。


 銀色のひまわりのネックレスだった。


 先端のひまわりが射し込む夕陽に鈍く煌く。

 間違いなく、それは僕が遥香の誕生日に贈ったネックレスだった。


 暫く、呆然と眺めた。

 留め金が歪んで壊れていた。無理やり引きちぎられたように。


 遥香と再会した春、遥香と恋人として過ごした時間、遥香の闇との戦い、僕の未来への希望、全力で生き抜こうとした季節、告白、崩壊、遥香が消えた夏、僕が消えた冬、二人の小さな歴史。


 過去を振り返る心を抑えきれず、解き放った。

 今日だけだと、今夜が最後だと言い聞かせながら。

 そして、泣いた。

 遥香と僕の小さな歴史を想って泣いた。

 遥香が今、生きていることを想って泣いた。

 僕には今、帰る場所があることを想って泣いた。

 そして、人のふれることのできない、大きな流れの存在を感じて、泣いた。


 その夜、僕はフローリングの床の上で大の字になって眠りに着いた。

 翌日、残った家具を処分して、部屋を解約した。

 僕は遥香との歴史に、さよならを、告げた。

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