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20/22

20 差出人のないエアメール

 イギリスに来て、もうすぐ半年になろうとしている。

 のんびりと、夜の九時まで空に居座っていた太陽も、段々と帰る時間が早くなってきていた。あと数日で九月に入る。それは、今のクラスが残り一ヶ月ほどで終ることを意味していた。


 僕たちの学校、ユーロスクールは半年を一シーズンとして、四月、七月、十月、一月と三ヶ月毎に新シーズンがスタートする。四月開講の僕たちのクラスは九月中旬をもって終了する。


 仲間の今後の予定は様々だった。

 フェリックス、エンディ、それにカリンは今シーズンをもって、帰国する。

 フェリックスとエンディはそれぞれの大学に復学するそうだ。

 カリンはアルバイトをして貯めたお金がこの半年で底をついたらしい。一度、スイスに帰ってまたアルバイトをして別の国に行く、と息巻いている。

 亜衣子は来年四月まで大学を休学していることもあって、十月開講のシーズンを受講するそうだ。

 アニカはまだ決めていないと言っていた。


 そして、僕。

 ずっと迷っていた。


 スコットランドから帰ってきてからの僕は、自分でも驚くほどに気持ちが落ち着いていた。多分、初めて全てを受け入れることができたのだろう。

 日々の生活や町の風景、仲間との時間が以前とは明らかに違っていた。いつも、何をしていても傍にいたはずの遥香の気配が消えた。日本を飛び出して、異国で送る生活を初めて楽しんでいる。

 しかし、僕は他のみんなと違って、目的を持ってこの国に来たわけではなかった。当時の僕はただ日本から逃げ出せればそれでよかったのだ。結局、内定を貰えた札幌のソフト会社も断ってしまい、今は目的もなく金を消費しているだけだ。

 金は一年間滞在できる分は用意してきた。遥香の学費に、と借りた祖父母からの五十万円と、両親から百万円の合計、百五十万円。祖父母も両親も、お金はすぐに返さなくてもいいと、言ってくれてはいたが、甘えすぎている状況であることは分かっていた。


 もう、帰国すべきなのかもしれない。現実を受け止めることができたならば、日本に帰り、働き出すべきなのだ。

 そう、思い始めていた。


 金曜日、担任のミセス・アンが教える、『Grammar(文法)』の授業もあと十分ほどで終ろうとしていた。


「OK. Listen, everyone」


 一段落したところでミセス・アンがテキストから目を離して言った。


「みなさんの中で、次のシーズンを引き続き受講される方はいらっしゃいますか?」


 亜衣子だけが手を挙げた。


「あら、アイコだけかしら?」

「私はお金がなくなりましたー」


 カリンが大袈裟にお手上げの仕草をする。


「ふふふ、偉いわねカリン。私も大勢の生徒を見てきたけど、カリンくらいの歳で、自分でお金を貯めて来ている子なんて珍しいわよ」


ミセス・アンの言葉にカリンは自慢げな表情になる。


「私、またスイスに帰ってバイトをするよ。一年もすれば、半年分くらいの滞在費ができるから、またスイスを出るんだ」

「お、また、帰ってくるのか。ここに」


 エンディが口を挟む。


「分かんない。色んな国に住んでみたいから、次はドイツかフランスかな」

「ドイツにすればいいじゃねーか。フェックもいるし、近くの学校を選んで、また夫婦漫才を復活すればいいんじゃねーか」

「エンディ、勘弁してくれよ。夫婦って……」


 フェリックスが渋い表情でエンディを睨む。


「いいじゃない。姉さん女房で」

「なっ、ジュンまで。何だよ、ジュン。性格変わったんじゃない?」


 カリンが片目を細め、悪巧みをしている時の顔になって言う。


「どうしよっかなー。フェック、また私に会いたい? ちゃんと、会いたい、って言ったら、考えてあげてもいいよ」

「なっ……」


 フェリックスが驚いた顔で固まった。


「フェック、かわいい! 顔が真っ赤になってる」


 亜衣子の野次にフェリックスの目がキョロキョロと踊る。


「何言ってるんだ、ア、アイコまで。ふ、ふざけんなよ」


 フェリックスは俯いてしまい、クラスに爆笑が起こった。

 ミセス・アンが手を叩いてなだめる。


「はいはい。とにかく、アイコだけでいいのかしら?」

「俺とフェックは国に帰って大学に復学する予定です」


 エンディが答える。


「そう。ジュンイチはどうするの?」


 僕はまとまっていない今後の予定をそのまま口にする。


「分かりません。今はまだ考え中です。いつまでに決めなければならないですか?」

「そうね、次のシーズン開始一週間前くらいまでに申請が必要かしら。でも続けて受講するなら、オールシーズンテストが次のクラス分けに大きく響くから注意しなさいね」


 オールシーズンテストとは終了試験のようなもので、この半年間の学力を見るためのテストだ。シーズン最終日の前日に行われる。


「アニカはどうしますか?」


 ミセス・アンが続ける。

 返事がなかった。


「アニカ?」


 全員がおしゃべりをやめ、カリンの隣に座るアニカの方を向いた。

 アニカは伏せ目がちにミセス・アンを見ていた。


「どうしたのですか、アニカ。体調でも悪いのですか?」


 アニカは首を横に振る。そして、視線を逸らせた。


「私……、私、まだ分かりません。フィンランドにも帰るところがないし、まだ、どうしたらいいか分からないもん……」


 アニカの言葉に全員が戸惑うような顔をした。

 僕はアニカの表情を窺いながら訊く。


「アニカ、帰る場所がない、ってどういうこと?」

「私、みんなみたいに、大学に行ってるわけじゃないし、特技もないし、フィンランドに帰ってもやることないもん」


 カリンが手を伸ばしてアニカの背中に添える。


「そんなの、私だって一緒じゃん。私なんか、アニカより二歳も年上で、お金もスッカラカンで、その上、スイスに帰っても就職先もなし。特技もなし。未だにアルバイトだよ。それに、これからも就職する気はなし、お金を貯める気もなし。アニカと同じだよー」


 カリンの言葉にアニカは力なく微笑んだ。


「ううん、カリンは違うよ。カリンは特技を持ってるもん。カリンはみんなを楽しくさせてくれる。その場の雰囲気をパァーって明るく照らしてくれる。私、そんなのできないもん」


 全員が黙り込む中、静かに亜衣子が口を開く。


「そんなことないよ。アニカだって私たちをいつも優しい気持ちにさせてくれるんだよ。それに、旅行に行った時だって、アニカが一番気を使ってくれていたの、みんな知ってるよ。エンディがリーダーだったら、アニカは副リーダー。国も歳もバラバラで、たいした英語も話せない私たちが、こんなに仲よくなれたのはアニカのおかげだよ」


 ミセス・アンは優しげな皴を目尻に寄せて、亜衣子の言葉を引き継ぐ。


「ね、アニカ。さっきも言ったけど、私も長年、語学学校の教師をしてきたわ。色々な生徒、色々なクラスを見てきたけど、特にこのクラスは仲がいいわ。時々、全然打ち解けないままシーズン終了を迎えるクラスがあるの。それぞれ、相手の国の文化や習慣を理解しようと努力をしないまま終るのね。大体、そんなクラスの生徒は他のクラスの同じ国出身の生徒とずっと一緒にいる。それでは、せっかく留学に来た意味がないわよね」


 ミセス・アンはアニカから視線を外し、全員を見渡した。


「こんなに明るく活き活きとした仲のいいクラスは珍しいくらい。このクラスに授業に来ている他の教科の先生からも、いいクラスですね、ってよく言われるのよ。先生も鼻が高いわ。騒がしいところは厄介ですが、って一言がつくけれどね」


 アニカを除く全員が苦笑する。


「人はそれぞれ、必ず何か役目を持っているの。これは、分かりやすい人と、見えにくい人がいる。アイコやカリンみたいに、クラスの雰囲気を明るく、楽しく、活き活きとさせることのできる人。エンディのようにみんなの先頭に立って、引っ張っていくことのできる人。彼らなんか、分かりやすい人ね」


 次に、並んで座る僕とフェリックスの方を見た。


「そして、みんなの前でも、決められたことをきちんと守ることができるフェリックス。これも難しいことよ。雰囲気に流されずに間違っていることを、間違っている、と意見することは。それに、いつも冷静で感情に流されず、客観的に物事を考えることのできるジュンイチ。このクラスはジュンイチに助けられたことも多いのではないかしら」


 ミセス・アンの言葉にくすぐったさを感じて、曖昧に笑む。ただ、本当に助けられたのは僕の方なのだけれど。


 ミセス・アンは最後にアニカに語りかける。


「では、アニカ。あなたの果たしてきた役目って何か分かる? といっても先にアイコが答えを言ってしまっているのだけど」

「私の役目……」

「そう、アニカの役目。それはね、これだけバラバラな個性を持った人たちをまとめる力。誰もがね、アニカには自然に接することができるの。アニカには格好をつけたり、虚勢を張ったりせず、素直な自分でいることができる。ということは、もし相性の悪い人たちがいたとしても、アニカを介して本当の自分を見せ合えるってこと、友達になることができるっていうことよ。これはとても素晴らしい力。それもインターナショナルな力をあなたは持っているの。だから、自信を持ちなさい。ね、アニカ」


 全員がそうだよ、とアニカに声をかける。

 伏せていた顔を上げ、アニカが涙ぐむ声で答える。


「うん。私も、みんなが私を必要としてくれているの、感じてた。だから……、嫌だよぉ。このクラスとサヨナラするの。初めてだもん、人から頼りにされたりするの。みんなともっと一緒にいたい。別れたくないよぉ」

「アニカ……」


 ミセス・アンは戸惑ったように声を失くす。

 全員、複雑な表情のまま、黙り込む。


「私、本当はこのシーズンが終ったら帰るって約束なんだ。でも、帰りたくないもん。帰っても、私を必要としている人なんていない。だから、ここにいたい……」


 アニカの言葉は全員の胸に小さな波紋を立てた。

 みんなも分かっていた。もうすぐこのクラスに別れが訪れることを、こうしてはっきりと言葉にする者が誰もいなかっただけで、全員、漠然と寂しさや、切なさを感じていた。


 僕も同じだった。

 ようやく、記憶の束縛から解き放たれた。

 しかし、その解き放ってくれた仲間たちとともに生きることのできる時間はもうすぐ終わる。あまりに短いと思う。アニカの気持ちは痛いほど、よく分かった。


 アニカは目を伏せたまま、他のみんなも黙り込んだまま、授業終了を告げるチャイムが鳴った。いつもと変わらない音色のはずなのに、場違いに明るい音に聴こえた。誰もが正確に心情を口にすることができず、ただ、その音を聴いていた。



 翌日、土曜日の朝早く、惰眠をむさぼる僕に階下からシャロットの声が響いた。


「ジュン、まだ寝ているの? 面白いものが届いているわよ。下りてらっしゃい」


 まだ朝食の時間まで三十分はあるのに、と思いながら渋々ベッドから這い出し、階段を下りる。階段の下でシャロットが待っていた。白色のフリースにジーンズというとても六十歳間際とは思えない若々しい格好をしている。シャロットの右手が何かを持ってヒラヒラと揺れていた。


「モーニン、シャロット」

「モーニン、ジュン。これが私とジュン宛に届いたわよ。それともう一通」


 シャロットは僕に一通のエアメールと一枚の葉書を手渡した。エアメールには差出人の名前はなかった。シャロットが急かすように「ほら、葉書を見てみて」と言う。葉書には雪に覆われたとても美しい山の写真が載っている。


「もう、ジュン、どこ見ているの、裏を見なさい、裏を」


 促されるままに葉書を裏返す。


「あっ」


 裏を見て、驚いた。懐かしい文字が躍っている。


「そう、ニックからよ。アイコちゃんのことも書いているから知らせてあげたらいいわ」


 シャロットは電話をする仕草をし、ブレックファーストを作りにキッチンに戻った。


 葉書は隅から隅までぎっしりと小さな文字で埋められていた。こんなに小さな字で書くくらいなら手紙にすればいいのに、と思いながら葉書に目を通した。


< Dear.シャロット&ジュン&アイコ&べスィー&ドキー&ドジー。元気ですか? >


 長いよ……。笑いを堪え、ツッコミながらリビングのソファーに腰を下ろす。

 べスィーがのそりとやって来て、僕の足元で寝始める。ぐりぐりと頭を撫でてやり、再び続きに目を通した。


< 早いもので、スイスに帰国してもうすぐ三ヶ月が経とうとしています。


僕は今、兵役に就いて地獄の日々を送っています。

もう、ここに書く気も失せるほど、むさ苦しい男の園です。

毎晩、脱走する夢を見るほどです、と、こんな話はどうでもいいよね。


それより、聞いてください。

あれから、ヒメーナとはSNSで連絡をとっているんだ。驚いたでしょ? 

ヒメーナも帰国して、すぐに許婚と会わされたらしいんだ。

でもね、なんと! この前のメッセで、破談になったって! 

どうやら、相手の男がかなりナヨナヨしたオタク野郎だったみたい。

といっても僕にチャンスがあるわけではないんだけど。

これでヒメーナもちゃんと恋愛させてもらえればいいな、なんて心にもないことを思ったりしているよ。

あ、段々スペースがなくなってきた。

ジュン、アイコは元気? アイコにもヨロシク伝えてよ。

シャロットも歳を考えて、無理しないように。


With Big LOVE, NICK >


 どんどん小さくなっていく文字を追いかけ終え、僕はキッチンに向かって声をかけた。


「これって、ニックの近況じゃなくて、殆どヒメーナの近況みたいだねー」


 キッチンから調理の音に紛れて、笑い声が聴こえた。


 僕は玄関横の電話をとり、亜衣子のホームステイ先の番号をプッシジュンした。

 「Hello」と軽快な亜衣子のホストママと思われる声が返ってくる。 僕は名前を告げ、亜衣子に繋いでもらった。


「もしもーし、亜衣子だよー」


 思いきり日本語が返ってきた。


「よっ、おはよ。起きてた?」

「当たり前じゃん。せっかくの休日にゆっくり寝てられないって」

「あのさ、今日、少し会えないかな? 面白いものを見せたいんだけど」


 亜衣子が一瞬沈黙した。


「もしもし?」


 小さな笑いが漏れたあと、亜衣子の声が返ってきた。


「あのさあ、淳一。だから、私とデートしたいなら、そんな手の込んだことしなくていいって。素直になりなよ」

「だから、違うって」

「そこで違うっていうかなあ。もう、そういうところ空気を読めてないよね。真面目っていうかさ。しかも、ため息ついたでしょ、今」


 何だか、懐かしい会話だ。僕も思わず頬がほころぶ。


「じゃあ、いいよ。もう」

「あー、ウソウソ。で、何? もちろん面白いものなんだよね?」

「それは、見てのお楽しみ。時間ある?」

「うん、あ、でも、今日カリンとアニカとで買い物に行く約束してるんだ。じゃ、淳一もおいでよ」

「え、でも、女の子三人の中に男、一人だけ?」

「いいじゃん。羨ましいわねぇー。美しい花に囲まれて」

「毒のある花ばっかりだけどね」

「うっさいよー」


 ひとしきり、バカ話をしたあと、待ち合わせの約束をして、電話を切った。

 朝食を食べ終え、待ち合わせ場所のシティセンターに向かった。


 シティセンターにある映画館近くのカフェに着いた。ここは、ニックと僕と亜衣子で大乱闘を繰り広げたカフェだ。

 店内を通り抜け、テラスに出る。既に亜衣子とカリンが着いており、僕の姿を見つけて手を振っていた。


「モーニン、カリン、アイコ」

「グッモーニン、ジュン」


 カリンが笑顔で返してくれる。


「アニカは少し遅れるって。ジュンイチも何か頼んで来なよ。私たちはもう注文済みだから」


 僕は店内に戻り、カウンターでコーヒーを注文する。

 席に戻ると、亜衣子とカリンが昨日のアニカについて神妙な顔で話し合っていた。


「でも、昨日のアニカ、なんだか、普通じゃなかったね。フィンランドに帰れない、って言っていたし」


 亜衣子が怪訝な顔をしてカリンにふる。しかし、カリンは何やら考え込んだように、黙ったままだ。椅子に腰かけ、僕も口を開く。


「フィンランドに帰れないって、どういう意味なんだろう。フィンランドでやることがないって意味かな? それとも、嫌なことがあって戻りたくないって意味かな?」


 亜衣子が分からない、という風に首をふる。

 突然カリンが、ふう、と大きくため息を吐いたかと思うと、「実はね」と切り出した。


「私、知っているんだ。アニカがどうして帰りたがらないか。昨日も知ってて、あんな風に励ましたんだけど」

「え?」


 亜衣子と僕が同時に訊き返す。


「あの子ね、実はいいところのお嬢様なんだ。えっと、なんて言っていたっけな。確か、魚なんかを缶詰にして輸出している会社の社長令嬢だったと思う」

「あらら、アニカってお嬢様なの?」


 亜衣子が驚いたように声をあげ、僕もふき出す。


「金持ちって雰囲気が全然ないなぁ」


 カリンは顔をしかめて、首を振った。


「アニカ自身は、そんな気軽な状態じゃないみたいだよ」

「ごめん」

「あ、いや、あのね、他人から見ればそんな深刻な状況では全然ないみたい。急に結婚しろとか、跡を継げって話じゃないし。ただ、これはアニカ自身の問題なんだよね」

「どういうこと?」


 亜衣子が訊く。


「うん、あの子ね、兄妹が多いの。確か、お兄ちゃんが二人とお姉ちゃんが一人。アニカは末っ子。それで、そのお兄ちゃん二人とお姉ちゃんがすごくできる人らしいの。長男はフィンランドでも有名な大学を出て、次期社長としてその会社で働いているらしいし、二番目のお兄ちゃんは、なんと医者の卵。更に、三歳年上のお姉ちゃんが、驚くことにこの国にいるんだって」

「え? お姉さんも留学に来てるの? 全然、アニカそんなこと言わなかったじゃない」


 亜衣子の言葉に僕が頷く。カリンが首をふって続ける。


「それが、どこにいると思う? なんと、オックスフォード大学。私たちみたいに語学学校で英語を勉強してまーす、ってのと次元が違うの。ってことで高校を卒業して、何になろうかなって未だにふらふらしているアニカは家族から白い目で見られているって話。特に、お父さんが厳しい人みたい。語学留学なんて無駄だと最後まで反対されて、お母さんの応援で何とか半年だけ認めてもらったんだって。半年後にお父さんの会社で事務仕事に就くことを条件にさ」


 話を聞き終えた亜衣子は眉間に皺を寄せる。


「それはキツイね。できる兄妹たちと比較され続けて生活するのって地獄だよ。でも、私なら、そんなの関係ないやー、って開き直っちゃうけどなぁ」


 亜衣子の言葉にカリンが再度、首を振った。


「最初は私もそう思ったよ。私もこんな性格じゃん? 私だったら、自分の道は自分で決める、とか言って飛び出しちゃう、と思ったけど、それって、できる人とできない人がいるんだよね」

「確かに、二人にはできても、アニカにはできないだろうな。すごく優しい子だし」

「どういう意味よ。私たちは優しくないってか?」


 僕の言葉にカリンが怖い顔で睨む。


「い、いや、失言。言葉が足りなかった。アニカはとても優しい子だけど、少し、自分の意思を伝える勇気が足らないのかも。昨日のミセス・アンの話しにもあったけど、やっぱり、自分に自信がないのかな」

「でも、そんな兄妹に囲まれたら誰だって自信なんて持てないよ。出逢った頃のアニカってすごく大人しかったよね。きっと、家でもあんな風に存在感を出さないようにしていたのかもね」


 亜衣子の言葉にカリンが寂しそうな顔をして答える。


「でも、それって、とても悲しいよね。私なら、耐えられない」


 カリンが言った直後、亜衣子が声を上げた。


「あっ、アニカが来たよ」


 店内を横切って出てきたアニカは、混み始めたテラスをきょろきょろと見回している。


「アーニカ、こっちだよ」


 カリンが立ち上がって手をふる。

 アニカは僕たちを見つけて、手をふり返した。そして、驚いたように両手で口を覆った。

 アニカが小走りで僕たちの席までやって来る。


「あれー、ジュン、どうしたのー?」


 アニカが満面の笑みで僕に訊いた。


「もう、アニカったら、嬉しそうな顔しちゃってさ」


 カリンがアニカの肩を軽く小突く。


「えー、何よ、そんなことないもん」


 アニカを含めた女の子三人はキャッキャとじゃれあい、一瞬にして僕は取り残された。

 突然、カリンが思い出したように僕に訊く。


「そういえば、なんでジュンがここにいるんだっけ?」

「あ、そういえば、面白いものって何よ」


 亜衣子が間髪入れず続く。


「え、なになに? 何かあるのー」


 アニカまで興味津々と、訊いてくる。


「あー、そんなに面白いものでもないかな。アイコしか分らないし。これ……」


 僕はジーンズの後ろポケットに突っ込んでいたニックからの葉書を取り出した。


「ウソ、ニック君からじゃん」


 亜衣子は僕の手から葉書をひったくり、早速、読み始めた。

 その間、僕はカリンとアニカにニックの説明をする。


「すごいね。ニック君、頑張ってんじゃん。ちゃんとヒメーナと連絡取ってるみたいだし」


 亜衣子は嬉しそうに葉書を指で弾く。


「ねえ、ヒメーナって誰よー。ちゃんと教えてよ」


 カリンが膨れっ面になる。亜衣子が「それがさー」と説明を始めた。ふと、アニカが視線をこちらに向けた。


「ね、ジュン、後ろに何か落ちているよ」


 アニカが僕の足元を指差している。

 そこには、朝、シャロットから渡された差出人の書いていないエアメールが落ちていた。ニックからの葉書で開封をすっかりと忘れていた。

 亜衣子の説明はニックと僕との武勇伝へと発展している。

 僕はエアメールを開封した。そこには丁寧な日本語の文字が縦書きに並んでいた。


心臓が大きく跳ね、冷や汗が滲んだ。



< 拝啓


淳ちゃん。いかがお過ごしですか。元気にやっているんだろうな、と思いながらも、異国のことなど分からないもので、遠い地から無事を祈っております。


私から連絡する時は、遥香の記憶に変化があった時、と出国前に約束しましたゆえ、心配かと思いますが、この半年間、やはり一連の記憶の戻る気配はありません。幼い頃から娘を守ってくれた淳ちゃんにとって、この事実は厳しいものと思います。ごめんなさい、しか言えないことを、許して下さい。


ただ、記憶は戻らないのですが、最近、やたらと遥香が、淳ちゃんに会いたいと言ってきます。意識が戻った日に一度だけ会った鳴海さんに、もう一度会いたい、と。


私の一存で、病院からの記憶障害に関する治療の申し出を一切お断りしている現状は変わりません。ただ、今の病院生活の中で一切我が儘を言わない遥香が唯一、そのことだけを一生懸命訴えるもので、どうしたらよいか分からず、筆を取らせて頂きました。


ごめんね、淳ちゃん。

残酷なお願いを、聞いて下さい。

もし、日本に帰国した時は、一度、遥香に会ってもらえませんか。

淳ちゃんと会って、もし記憶が戻り、苦しむことになろうとも、それもまた運命だと思うのです。そして、どんな運命が待っていようとも、娘に寄り添い、ともに生きていく決意をしています。


こんな連絡でごめんなさい。

淳ちゃん。

あなたの存在が、私は嬉しい。

小さな頃からずっと遥香のそばにいてくれたこと、私は生涯忘れない。


異国の地、水や食べ物が違う中で、お身体だけはどうかお気をつけて。


敬具

八月吉日                             


飯島真紀子

鳴海淳一様 >



 僕はむさぼるように遥香の母親の手紙を何度も読み返した。動揺を抑え切れなかった。

 この数週間、消えつつあった遥香の面影がハレーションを起こしたように脳裏に溢れ、立ちくらみを起こしたような錯覚を覚える。

 手紙を凝視する僕の腕に軽い衝撃が走った。


「ねぇってば! 聞いてるの?」


 隣に座るカリンが腕にパンチを入れていた。


「え? なに?」


 我に帰るが、何が何だか分からない。


「ジュン、凄く勇気があるね、って言ってるの」


 カリンが呆れた顔で言う。


「何が?」と訊く僕に、カリンは亜衣子とアニカの方を向き、肩をすくめた。


「どうしたの? 何か変だよ、ジュンイチ。誰からの手紙?」

「それは……」


 僕は亜衣子の質問に答えるのをためらい、言葉を濁す。

 アニカは僕の目を覗き込み、言った。


「もしかして……、ハルカさん?」


 僕はアニカに笑顔を作って向ける。しかし、それもすぐ引きつり始めた。観念して小さく頷いた。


「……日本で何が起こったの?」


 亜衣子が静かな声で問いかける。


「ハルカが会いたがっているんだ……」


 半ば放心した状態で答える。


「記憶が戻ったの?」


 カリンが続けて訊いてくる。


「いや、記憶は戻っていないみたい。何となく気になる存在っていう程度だと思うけど」

「ジュン、どうするの……?」


 アニカは唇を噛んで、目を伏せた。


 僕はどうするのだろう。

 遥香に会うのは危険すぎる。遥香にとって、記憶が戻ることと苦しむ日々が始まることは同じ意味を持つ。時間がすぎれば、僕の存在は薄れていくだろう。今でさえ、きっと僕は陽炎のようなゆらゆらとした存在なのだろうから。

 僕は遥香に会うべきではない。


「来週、少しの間だけ日本に帰る」


 誰かの声がした。それは僕の声に限りなく近く、遠い声だった。

 僕の意識とは無関係に誰かがしゃべっている。


「もう一度だけ会って、確かめたいんだ。僕らは本当に前を向いて、歩き出せるのかを」


 遥香と会ってはいけない。彼女にとっても、僕にとっても。

 今、会う必要性は全くない。

 もう、それぞれの道を歩み始めている。


「僕と会うことによって記憶が戻るなら、それも運命だと思う」


 僕の意思を無視してその声は続けた。


 運命?

 運命とはなんだろう。

 この世に本当に神という絶対的な存在がいて、その彼による意思のことか?

 神。信仰。それらを僕は持ち合わせていないはずだ。都合のいいときだけの神頼みなんか、僕が何より嫌っていたはずだ。

 エンディやフェックを見て思う。本当に神とともに生きる姿はとても厳粛なものだと。例え、神の存在が進化論や遺伝子による生命の継承と矛盾する存在だとしても、決して疑わず信じ通す姿は気高く、そして、崇高だ。


 信じ通すこと。僕は何を信じているのか?

 親、友人、愛する人。僕は答えを持っていたはずだ。

 では、運命とは彼らの意思なのか?

 いや、違う。もっと大きな力。大きな流れだ。

 きっと、神が神の意思として運命という絶対不可侵の現象を生み出しているのではなく、運命と呼ばれる絶対不可侵の流れを定義する為に神は在る。

 人がふれることのできない大きな力はこの世に存在する。

 それを神と呼ぶ人がいる。僕は漠然と大きな流れを感じている。

 結局はたいした違いはない。

 それはそこに確かにあるのだ。


 僕は遥香を助けてと大きな力にすがり、遥香の中から僕の存在は消え去り、遥香は生き延びた。泣きながら全く縁のないこの異国まで逃げおうせ、足を失ったマーティンやクラスメイトと出逢い、彼ら活力を分けてもらい、精神は解放され、今、遥香が会いたいと言っている。

 これら全てに誰の意思も介在しない。

 ただ、そこには大きな流れがあるだけだ。


 僕は、流れに逆らわず、身を任せよう。

 会いたいのだ。遥香に。もう一度だけ。


 黙り込む亜衣子とアニカ。

 カリンの手が伸びて、放心したような僕の頬にふれた。


「ジュン。会ってきなよ、ハルカちゃんに。この半年間、ジュンは頭の中でばっかり、答えを探してきたでしょ。そこにはないよ、きっと。ジュンは私たちといて、随分明るくなったと思うよ。でも、本当にジュンを解き放てるのはハルカちゃんだけだと思う。記憶が戻ったら、もう、ここに帰ってくるな。ハルカちゃんとともに生きろ。そして、記憶が戻らなかったら、ジュンも歩き出せ。背筋を伸ばして、しっかりと前を向いて」


 カリンは真っ直ぐで強い眼差しを僕に向ける。

 僕はゆっくりと、強く頷いた。

 アニカはいつまでも俯いたままだった。

 亜衣子は切ない瞳を空に向けていた。


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