02 異国の町探索
薄らと目を開けた。
朝陽の溢れる見覚えのない部屋が広がり、慌てて上体を起こす。
一瞬の間を置いて、ここが日本ではないことに気づき、安堵の吐息をこぼす。
枕もとのスマホに手を伸ばし、モニターを見やると、午後五時。一瞬戸惑ったが、日本時間の表示であることに気づき、失笑する。サマータイムの始まっているイギリスと日本の時差は八時間。イギリスでは午前九時、ということ。
暫くモニターを見つめたあと、スマホの電源をオフにした。
今は日本にいる誰とも連絡を取るつもりはない。そのために、こんな場所までやってきたのだから。
ベッドから立ち上がり、スマホをテーブルの引き出しに仕舞う。時刻を合わせてある腕時計を腕に巻くと、ジーンズにTシャツ、腰に上着を巻いたラフな格好に着替え、地図を片手に外に出た。
幾分、渡航の疲れが残っているものの、雲もないほどに晴れた空の下、異国の道を歩くのは気持ちがよかった。
家の前の道、チェリーヒントンロードを西に十分ほど歩けばメイン道路でもあるヒルズロードに出る。ヒルズロードとの交差点を右折し、のんびりと北上する。地図に目を落すと、ケム川に囲まれて密集する平面の町の中心部に、ぽっかりと大きく口を開けた空間があり、強調文字で『Parker’s Piece』と記されている。暫くして右手にそのパーカーズ・ピースが見えてきた。そこはドーム球場がすっぽりと収まるほどの芝生に覆われた公園らしい。
パーカーズ・ピース公園は後回しにし、まずヒルズロード沿いに建ち並ぶ店舗の中に、シャロットから教わった自転車屋を探した。
ポストオフィス(郵便局)やスーパー、雑貨屋、パブなど色採りどりの看板の中にそれを見つけた。
自転車屋は日本のそれと大差はなかった。店舗自体が工房になっており、油の匂いが充満する中、カラフルな自転車がところ狭しと並べられている。ただ日本と違う点が一つだけある。それは、それらが販売されている商品ではなく、レンタル商品だということ。
この町は大学や語学学校が密集しており、町中、多国籍な学生で溢れ返っている。車など必要のない小さな町で、しかし自転車を買っても自国に持って帰ることのできない学生たちのジレンマを解消する手段が、レンタル自転車だった。
レンタル代を払い、半年間、相棒になる自転車に跨って、早速次の目的地に向かった。
ヒルズロードから幾つも折れる小道の一つに入り、看板を探す。
住宅街の一角に、それを見つけた。僕が通う予定の語学学校、『ユーロスクール』だ。
何の変哲もない石造りの四階建てビルだった。今は学期間休みなので扉も閉まっていた。
幅広の石段を登り、手でひさしを作ってガラス張りの一階を覗き込む。
すぐ手前がロビーになっており、床からレセプション(受付)、椅子、机に至るまで全て木製で、洒落た雰囲気を醸し出していた。ロビーの奥には大きな扉があり、扉の半分を占めるガラス窓の向こうには階段が見えた。ロビーから上は吹き抜けになっており、二階、三階の踊り場が覗いている。
学校が始まるまであと三日もある。
あまりあれこれ考える時間など要らないのに、との想いでビルを見上げた。
腕時計を見ると、短針と長針は重なって真上を指していた。
小腹が減ったので、あらかじめ決めていた店を探そうと自転車にまたがる。
ヒルズロードの一角、フィッシュ&チップスという看板はすぐに見つかった。
店の内装は白いタイル張りで、飲食スペースなどは設けておらず、幅広のカウンターの上に巨大なショーケースが置かれているだけだった。ショーケースの中にはフィッシュである鱈の揚げものがどっさりと積まれ、その隣にはトルコ料理の中でも有名な、子羊の肉と野菜をナンにまいて食べるケバブがやはりどっさりと並べられている。
奥を見ると調理場があり、円筒状にカットされた巨大な子羊の肉の塊が串刺しにされ、板状のヒーターに囲われる中、肉汁を滴らせながらゆっくりと回転していた。
黙々と何かを刻んでいたトルコ人と思しき髭面の店主が僕に気づいた。
「Hey! 少年。旅行に来たんならうちのケバブを食べずに帰ったら損するぜ」
みたいなことを言った。
少年、と、旅行、という言葉は聴き取れたが、反論するボキャブラリーも、英語を発する勇気もなく、素直に答える。
「プリーズ、フィッシュ&チップス」
店主は、軽く肩をすくめて「OK」とだけ返した。
手渡されたそれは、厚めの紙を三角すい状に丸めて逆さにし、その中にフライドポテトをつめこんで、フィッシュを載せたものだった。
「そこに塩と酢、ケチャップがあるから豪快にかけていきな。こっちは無料だぜ」
店主は緊張気味の僕に向かって、身振り手振りを加えて説明する。
「もし、仲間と旅行に来ているんなら、宣伝しといてくれよ」
塩を振りかけながら、店主の笑みに愛想笑いを返して店を出る。
右手で自転車を押し進め、左手でフィッシュ&チップスを落とさないようにバランスを取りながら、向かいにあるパーカーズ・ピースを目指す。
ヒルズロードを渡り、公園の入り口をくぐった瞬間、ひらけた風景に目を見張った。
「でけぇ……」
その大きさに飲み込まれる錯覚を起こすほどだった。
ぐるりと公園を囲む背の高い木々は波のように緑を揺らせ、その上には紺碧の青空が広がっている。遥か遠く、教会の尖塔だけが見え、鐘の音が聴こえた。
果てしなく続く芝生の至るところで、少年と大人が混ざりあってサッカーに興じていたり、中年夫婦がフリスビーのような円盤を飛ばしあっていたり、若い恋人たちが互いに腕枕をして昼寝をしていた。
僕のすぐそばを二匹の小型犬が駆け抜け、十代と思しきブロンド髪の女の子が追いかけてゆく。
誘われるように公園の真ん中まで進み、自転車を倒して腰をおろした。
そして、ぐるりとこの活力にあふれた風景を見渡した。
芝生の匂いが鼻をかすめ、一瞬、胸が締めつけられる。
空には日本と変わらない幾つかの雲がゆっくり流れていた。
ぼんやりと、その流れる雲たちを追った。どこにいても空は変わらなかった。
本当に何も変わらない。
ただ、一緒に見ていたはずの遥香がいない。
それだけだった。
学校が始まるまでの三日間、自転車で町を探索したり、シャロットに英会話の勉強相手をしてもらったりして過ごした。時々、ギュッと刺し込む、痛みを伴った遥香の記憶に耐えるために、じっとしてはいられなかった。
遥香のいない生活を札幌で半年ほど過ごしたあと、僕は日本を飛び出した。日本にいても成長することもできず、朽ち果てることもできずに、ただ、何も変わらなかった。心が潰れたまま毎日が流れるだけだった。
しかし、日本を離れてまだ数日しか経っていない異国の生活で、僕は微かな変化を自分の中に感じ取っていた。
笑うこと、驚くことを努めて感じるように心がけていた。
そして、時折――、例えば慣れない英会話をシャロットに挑んでいる時など、自らそうしようと思わずとも、痛みを忘れている自分がいることに気がついた。
ここに来てよかった、と思った。




