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19 異国の空の虹の橋

 アニカが僕の左手を握り続けてくれていた。ぼろぼろとこぼれる涙をそのままに、くしゃくしゃの顔をして。


 話の途中、何度も言葉につまり、黙り込んだ。

 しかし急かす者は誰もおらず、ただ静かに僕の言葉を待ってくれた。


 何度か単語が分からず、日本語で亜衣子に助けを求め、訳してもらった。その亜衣子の声も震えていた。

 カリンはずっと俯いたままだった。

 フェリックスは無言のまま天井を見つめ、エンディは両手の拳を握り締めたまま、どこか、一点を睨みつけていた。


 僕は全てを話し終えた。


 部屋には静寂が戻った。

 アニカの嗚咽だけが響く。

 僕は右手でそっと、アニカのクリクリの髪の毛を撫ぜる。

 アニカは澄んだ青い瞳で僕を見上げた。


「ごめんね。ジュン、ごめんね。いっぱい辛い想いをしてきたんだね。しかも、私はそれを話してって……。ごめんね、私、無神経に色々言って。ごめんね……」


 僕はもう一度、アニカの頭を撫ぜた。


「ううん、最後まで聴いてくれてありがとう。僕自身、このことを口にできるとは思ってなかったんだ。なんだか自分でも不思議なんだけど、心が楽になったような気がする」


 僕は亜衣子の方に向き直り、続ける。


「それに、アイコ。ありがとう。ずっと気にしてくれていたこと、気づいていた。でも、話す勇気がなかった。ハルカの名前を口にするだけで、あの頃の記憶に支配されてしまいそうな気がして、どうしても話せなかった」


 亜衣子は両手で口を覆ったまま首をふる。そして、悲しみに濡れる瞳で訊いた。


「ジュンイチは本当にそれでいいの? ハルカちゃんの記憶を取り戻さなくていいの? 方法ってないのかな。ハルカちゃんが記憶を取り戻すことが、どういうことは分かっているけど……、それじゃ、あまりにジュンイチが――」

「いいんだ。アイコ、ありがとう」


 僕は亜衣子を遮った。


「方法は色々あるんだ。催眠療法やショック療法なんかもそうらしい。でも、僕はもう二度とハルカが苦しむ姿は見たくない」


 亜依子は沈痛な表情で眉根を寄せる。


「僕はハルカと一緒に、あの苦しみと戦った。ハルカが苦しみのすべてを封印しようとするならば、僕の存在は切っても切れない。僕と生きた日々を思い出すことと、もう一度、過去に縛られ苦しみながら生きることはイコールなんだ。その二つを切り離すことは不可能で……」

「ジュンイチ……、悲しすぎる……」


 亜衣子の言葉が僕の心に沈む。


「それでも……、僕は多分、もう、苦しみ続けるハルカを見てられない。一緒にいたい想いよりも、彼女が苦しまなければ、それでいい」


 自分に言い聞かせているようだった。


「ジュン、やっと分かった気がするよ。実は、兄貴とジュンがケム川のボランティアで口論した日の夜なんだけど……」


 フェリックスがそっと口を開く。僕はフェリックスに顔を向ける。


「兄貴が言ってた。ジュンは昔の自分とそっくりな目をしているって。兄貴、事故で足が麻痺してから一年ほど、荒れたんだ。本当に、酷い荒れようだったんだ……」


 フェリックスは記憶の糸を解くように、どこか宙に視線を留めて続ける。


「兄貴さ、足が動かなくなってから、上半身の骨折を二回もやっているんだ。腕や、鎖骨なんかをさ。車椅子のまま、階段を降りようとしたり、横断歩道のない道路を渡ろうとして車に轢かれかけたり、その度に死にかけたんだ。それで、病院のベッドの上で喚き散らすんだ。どうして昔はできたのに今はできないんだ、って。家族もどう接していいか、分からなかったし、普通に話をするにも気を使ってさ」


 フェリックスは僕に視線を向ける。


「でも一年が過ぎて、急に落ちついたんだ。ただ、それは今のように全てを受け入れて前を向いた感じではなく、諦め。全てがどうでもよくなったような感じだった。目に見えていることよりも、大切なものは別のところにあって、それ以外はあまり意味がないような感じ」


 そこで一つ息を吐き、フェリックスは探るような表情で続ける。


「一見、大人びた姿のようにも見えるけど、全然違う。それは、全てを許せているのではなく、無関心。生への執着心を捨てただけだった。兄貴とのその頃の記憶や、今、ジュンが話してくれた過去を聞いて思う。ジュンの心はまだ日本にいるんじゃないかって……。すまない。生意気なことを言ってしまって」


 そうなのかもしれない、と思った。多分、そうなのだろう。

 だから、僕は今日、エジンバラ城の中郭で誓いを立てたんだ。


「フェック、謝らなくていい。むしろ、僕の方こそ本当にすまなかった。僕は正直、みんなが僕を見てくれていたことに気づいていなかった」


 僕はみんなの顔を見渡す。


「日本では途方に暮れて動けなくなったままだった。だから僕は日本を出た。新しく歩み出すために。でも、結局は、自分のことしか見えていなかった。僕はすごく弱い人間だったんだって、思い知った。僕は……、強くなりたい。歩んできた道に胸を張って、堂々と生きたい。仲間を思いやることもできない、自分を変えたい……」

「待ってよ、ジュン!」


 カリンが声を上げた。沈痛な表情を浮かべるカリンを初めて見る。


「待ってよ。私だって……、私たちだってきっとそんなに強くない。強いことと、仲間を思いやることって全然違うよ。私だって、すごく弱いよ。独りぼっちは嫌だし、悲しいことがあると、どうしていいか分からなくなる。でもね、だから、みんなと一緒に居るんじゃん。みんな、それぞれの国を出て、独りぼっちになって、寂しくて、辛くて、だからこうして友達になれたんだよ」


 カリンは真剣な瞳で僕を見つめ、「分かる?」と言い、続ける。


「人はね、みんな弱いよ。弱いことは悪いことなんかじゃない。弱いから、痛みが分かるし、悲しみだって、少しは共有できる。だって、ジュンの話しを聴いて、私、痛いもん。心がすごく痛いもん。強くなんなくたっていいよ」


 亜衣子が小さな声で続く。


「人は強くなることが大事なんじゃないと思う。強くなろうと想うこと、その想いが大切なんだと思う。自分は弱いってことを認めて、だからこそ、支え合って、助け合っていこうって思える謙虚さが強いってことじゃないかな。……綺麗事かな」

「そんなことないさ。そうありたいと思うし、そうあるべきだと思う」


 エンディが亜衣子に合いの手を入れる。


「ジュンは仲間を思いやることもできない、って言ったけど、今、ジュンはそれほどまでに心が潰れているんだ。そんな時こそ、信じることのできる仲間に甘えてくれ」


 エンディは僕の目を真っ直ぐ見つめる。


「ジュンは言ったよな。あの日、マーティンに神ではなく何を信じるのか、って訊かれた時、俺を……、仲間を信じている、と。驚いたよ。正直、仰天した。俺もフェックも、生まれた時から神は違えど、その存在は絶対だった。そんな神と俺たちを同列に扱って、そう言った。それは俺たちには絶対に出てこない言葉だった。でな、俺は嬉しかったんだよ。お前にそう言われて。喜びを感じている自分自身に一番驚いた」


 そこでエンディは苦笑ともとれる小さな笑みを浮かべ、すぐに真顔になって続けた。


「俺たちには神が見守っていてくれている。だから、幸せなことがあれば、神に感謝する。ただ、悲しいことや、辛いことがあっても、神の試練として納得してしまう。苦しみから逃れたいがためにだ。正直に言うと、それがいいことかどうか分からない」

「エンディ!」


 フェリックスが驚いたような声でエンディを遮る。しかし、エンディはフェリックスを制して続けた。


「待て、フェック。俺たちはお互い理解しなければならない。文化や宗教観念が違うからと、理解することを諦めては駄目だ。ジュン、気を悪くしないで聞いて欲しい。もし、ジュンの過去が自分の身に起きたことだったら、やはり神の試練だなんて、思えないかもしれない。俺はやはりその彼女の継父に殺意を覚えるだろうし、もしかたしたら、実行するかもしれない」

「エンディ……」

「ただな、ジュン。そんな状態になっても、やはり俺たちには神が身近にいることで、救われるんだ。日々、問いかけて、ゆっくり溶かし、乗り越えようとするんだ。神と一緒に。ジュンにとって、信じるものが俺たち、仲間なら、それこそ、ジュン、俺たちに頼ってくれないか」

「そうだよ、ジュン」


 カリンが頷きながら、続ける。


「私はいつも、元気で明るくいたい。私の場合、辛いことがあっても、無理やりにでも笑っていたら、みんなも笑ってくれる。それで、今度はみんなの笑顔から元気を貰うんだ。そして、いつしか、自然に笑えるようになるんだ。ジュン、ゆっくりでいいから、楽しい時は笑って、悔しい時は怒って、違うと思ったら喧嘩して、もっと、本当のジュンを見せてよ。最初は上手く笑えないかもしれないけど……。でもね、いつかきっと……」

「できるさ。ジュンならきっと」


 フェリックスが微笑みながら続く。

 亜衣子は涙を拭いながら言う。


「ジュンイチ、みんなで強くなろうと願おう。一人で生きていこうとしないで。支え合おうよ。そして、自分独りで立っていられない時は助けを求めて。それは勇気がいることだと思う。でも、その小さな勇気を持ってよ……」


 僕も目頭に込み上げる涙を堪えられなくなっていた。

 エンディが目を細め、優しげな口調で続ける。


「ジュン、二十歳やそこらで抱え込むにはあまりに重すぎると思う。分けてくれ。俺たちにも。もしかして、俺たちにできることなんてないかもしれないが、ただ……、俺たちは、お前の心に刻み込まれた大きな傷跡のことを、ずっと覚えておこう。ずっとだ。これで、もう一人じゃない。過去も失ってはいない。そして、ジュンも忘れないでくれ。ジュンが全てを賭けて生き抜いた時間があったことを、世界各国で覚えているヤツらがいるってことをさ」


 エンディはにっこりと微笑みを見せる。そして。


「よく独りで頑張ったな、ジュン」


 じん、と胸の中にあった硬く冷たい氷塊が解けたような錯覚を覚えた。

 エンディは立ち上がり、僕の傍で膝をつく。エンディの腕が伸びて、僕の頭を包み込んだ。


「It’s all right, Jun. You are not lonely any longer」


 耳元で囁き、エンディは僕の髪に軽くキスをした。

 僕の頬を静かに涙が伝った。


 エンディはそっと離れ、座っていた場所に戻った。

 僕の左手にはまだ、アニカの手が添えられている。その手はずっと震えたままだった。


「アニカ」


 僕は涙をぬぐい、アニカに声をかける。俯いていたアニカが顔を上げる。

 アニカの前髪をすくいあげ、額にキスをした。


「ありがとう、アニカ」


 アニカの震えがようやく治まった。

 僕は全員を見渡した。


「ありがとう、みんな。ただ、僕は既にみんなに支えてもらっていたんだ。この国に来てからも、僕の中にある時計は何度も止まりそうになった。でも、その度に、みんなが針を動かしてくれた。それは、エンディとチェスをしている時間だったり、アニカの静かな微笑みだったり、アイコのさり気ない励ましだったり、カリンとフェックの喧嘩だったり」


 カリンとフェリックスが見合わせて、苦笑する。

 僕は声をつまらせながら続ける。


「みんなの活力を分けてもらっているって、いつも感じていた。僕は日本を離れる時、本当に、記憶もないほどに、逃げ出すことしか考えてなかった。そんな状態だったのに、なぜか、この国を選んで、ケンブリッジを選び、僕たちの学校を選んだ。まるで何かに導かれるように。僕は何も信仰していない。でも、みんなと出逢って、やはり、今、何か大きな力を感じる。僕は独りじゃない。歩き出そうと思う。前を向いて」


 一瞬の沈黙があり、遅れて、歓声が上がった。


「よっし、ね、もう一度、乾杯しよう。ジュンの、そして、みんなの新しい門出に」


 カリンがワインボトルを持ち上げて言った。

 エンディがカリンからボトルを取り上げて、全員のコップにそそいで回る。


「それじゃ、もう一度乾杯だ」


 エンディが立ち上がってコップを掲げる。


「Cheers!!」


 全員でコップをぶつけ合ったあと、エンディが「そういや」と僕を見た。


「ジュン、お前、他のクラスのヤツに、味のないガムなんて呼ばれてたの、知ってるか?」


 僕は苦笑し、首を振る。アニカが僕の腕をつかみ、言った。


「ねえ、私、もっとジュンのこと沢山知りたい。もう隠さないで」

「だね。よし、ジュンだけ、自己紹介やり直し! 趣味はありません、ってのもなし!」


 アニカに続いて、カリンが言い放った。

 みんな、とても温かな表情で見守ってくれている。


「趣味は釣りかな。下手だけど。あと、ラジオとか機械を弄るのも好きだ。それに、星を見ること」

「フィッシングか!」


 フェリックスが食いつき、亜依子が「星空とかロマンチックー」と茶化し、エンディが「お前、ショギも強いのだろう?」と突っ込んでくる。

 そこから、趣味やプライベートの暴露大会が始まった。


 スコットランドの夜空に響く国籍も歳も性別も違う六人の声は、明け方まで止むことはなかった。



 僕がエジンバラ城で掲げた小さな誓い。


 二度と戻らない時間をいつまでも探し続けないこと。

 後ろばかり向いている心を前向きに保つこと。

 そして、強くなること。


 強くなることとは遥香を忘れることなんかじゃない。

 独りで生きようとすることでもない。

 弱い自分を認めて、支え支えられ、真っ直ぐと前を向いて歩もうとすること。

 遥香と僕が懸命に生きた時間はちゃんと存在した。消え去ってはいなかった。ここにいるみんながそれを証明してくれる。

 僕の胸の中に燻っていた、何か。それは遥香ではなく、遥香と僕が生きた時間、そのものだったのだろう。消さないで、と必死に訴えていたのだろう。

 僕は歩き出せる。

 ここから、新しく。

 みんなとともに。


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