18 奇跡の代償
あれから二週間が経過していた。大学は既に夏休みに入っていたが、僕は故郷には帰らなかった。遥香の匂いの残るこの部屋で、ただ、生きていた。遥香の帰りを待っていた。
朝と、昼と、夜が繰り返し、訪れ、ただ、それだけだった。僕にとって、それ以上の何も必要がなかった。遥香だけが必要だった。部屋でじっと座っていた。自分の影を見ていた。太陽の動きに合わせて移動する影をじっと。夜は暗闇の中で過ごした。電気を点ける必要もなかった。今更、なるほど、と思う。遥香も必要がなかったんだ。部屋を照らすことに何の意味があるのだろう。遥香以外、何の意味があるのだろう。遥香にとっても、きっと、過去からの鎖を断ち切る以外、何も意味を持たなかったのだろう。今なら遥香の全てを理解できるような気がした。
「ごめんな……、遥香。怖かったよなぁ……、痛かったよなぁ……」
小さく呟いた。
今、遥香は札幌市内の病院の集中治療室にいる。遥香は一命を取りとめた。遥香が飛び降りた場所には、駐車場とアパートを仕切る植え込みがあった。背中から落ちた遥香は植え込みに衝撃を和らげてもらったのだ。左足を複雑骨折、左腕と鎖骨を骨折、全身打撲、それに、背骨に損傷の疑いあり。幸い、頭は植え込みに突っ込んだ為、顔中に擦り傷を負った程度。但し、未だ、意識不明。
遥香が飛び降りた直後から、僕は殆ど記憶がない。誰かが救急車を呼んでくれて、遥香を運んでいった。警察が来て、僕を狭い部屋に閉じ込めた。色々な質問に対して、素直に受け答えした。最初、凄んでいた中年の刑事も途中から僕を疑っている風ではなくなった。どれくらいの時間を留置されていたのかは覚えていない。二日ほどいたような気もする。あとで聞いた話によると、僕が警察で事情聴取を受けている時、遥香の継父が警察に逮捕されたとのことだった。すすきの交差点で、泥酔した男が笑いながら暴れている、と通報があり、保護されたあと、逮捕されたそうだ。僕は気づかなかったが、僕の部屋には相当な数の遺留品があったらしい。喚きながらアパートをあとにする男を目撃した人も多かった。犯行時刻も正確に分かった。当日、僕が面接を受ける直前に振動したスマホだ。そう、三回目の振動はラインではなく、遥香の悲鳴だったのだ。気づかなかった。どうして、あの時、もう一度、スマホを確認しなかったのだろう。このことを考える度に、僕は猛烈な吐き気を覚えるようになっていた。そして、何より後日、決定的な証拠が挙がった。
遥香の体内から検出された体液が、継父のものと断定された。
釈放されて数日後、病院で十年ぶりに遥香の母親と会った。病院には似つかわしくない派手な服を着ていた。多分、今も夜の仕事をしているのだろう。
母親は警察から既に事の経緯を聞かされていた。僕を病院近くの喫茶店に誘い、「遥香の恋人って、淳ちゃんだったのね」と疲弊した笑みを見せ、「何があったか教えて」と言った。僕は何の感情も込めず、遥香が守ろうとしていた過去を含め、全てを淡々と話した。母親はハンカチを取り出し、何度も涙を拭った。深い皺が刻まれ、化粧が剥げ落ち、およそ、美しさとはかけ離れた姿だった。苦労が全身から滲み出ていた。僕が幼い頃から知るいつもニコニコと笑顔を絶やさない母親は存在しなかった。この人も荒れ狂う人生をぎりぎりで生きてきたのだろう、と思った。しかし、この母親の一言が、遥香を精神崩壊に追いやったことは忘れていなかった。多分、僕はどんな理由があろうと、一生、この人を許すことはできないだろう。朝からずっと、吐き気が続いていた。
遥香の母親は遥香から離れようとはせず、今更ながら母親らしいところを見せていた。僕には部屋に帰るように何度も言ってきた。遥香に何か変化があれば、必ず連絡すると言って。僕自身、包帯と機械とチューブに埋もれた遥香を見ていることに限界が来ていた。
それ以来、僕はずっと部屋にいる。ただ、スマホの前に座り、その上を通過する自分の影を眺めている。
遥香が言った、「いかなきゃ」という言葉の意味が分かったのは数日前。警察から証拠品として押収されていた遥香からの手紙が返された。僕はその手紙の存在をその時まで知らなかった。その手紙を読み、泣いた。ひたすら泣いた。そして、散乱した部屋の片づけをしていた時に見つけた、遥香の所有物が全てつめ込まれたバッグの意味が分かった。更に、まさかと思いながらも確認した銀行の残高は、やはり、一円も引き出されてはいなかった。
遥香は大学を除籍になっていた。
遥香はどこかに行こうとしていた。
遥香の目指したどこか。
それは僕のいない場所。
僕の重荷にならないところ。
『淳一君へ
淳一君がいたから、私は生きています。
淳一君が見せてくれた未来、想像するだけで涙が出ます。
私も歩き出そうと思います。
ただ、これ以上、淳一君に迷惑をかけることはできません。
私は淳一君の未来を潰したくない。重荷になりたくない。
だから、私は行きます。
あなたは光でした。
淳一君、ちゃんとした人と一緒になって下さい。
どうか、幸せになって下さい。
愛しています。
元気でね。
遥香 』
僕はただ、遥香の笑顔を見ていたかった。ただ、それだけでよかった。
遥香を愛している。今も変わらず。身が引きちぎれそうになるくらい。
朝、昼、夜。朝、昼、夜。ただ、繰り返される毎日。鳴らないスマホ。朝、昼、夜。朝、昼、夜。秒針の刻む音。僕の呼吸する音。この部屋にはその二つの音しか存在しない。いつしか、涙は枯れていた。ただ、じっと秒針の音に耳を傾けて、時が動いていることを確認する。今日もスマホは鳴らない。
蝉の鳴き声が聴こえたような気がして目が覚めた。蝉は鳴いていなかった。そういえばもうずいぶん前から蝉の声は聴いていない。知らずうちに眠っていたらしい。両手を顔に当てて、唇を歪ませる。頬がこけているのがはっきりと分かる。髪の毛は無秩序に伸び、髭もむさ苦しいほどになっている。遥香がいないのに、僕は生きている。髭は生え、自然に呼吸をして、疲れたら知らぬ間に眠っている。腹が減ったら、何かないかと冷蔵庫をあさり、排泄する。不思議に思う。人間は何て強いのだろう、と。目の前のスマホは鳴らない。とても会いたい。遥香に。
九月も終わりにさしかかり、大学の夏休みもあと数日となったある日、スマホが鳴った。遥香の母親からだった。遥香が集中治療室から一般病棟の個室に移された、とのことだった。左足の複雑骨折以外の傷は概ね回復した、と。しかし、未だ遥香の意識は戻らなかった。
冬の匂いがし始めた十月、大学の後期授業が始まった。しかし、大学に行く気にもなれず、僕は休み続けた。未だに、遥香が受けた恐怖を考えると、胸が破れそうなくらい痛んだ。一週間ほどして、大学で同じゼミだった友人が訪ねてきた。僕の姿を見かねてアパートまで連れ出しに来たのだ。友人が発した一言を受けて、僕はまた大学に通い出した。
「四年生の半分まで来たんだ。残りはたった半年だ。辞めるな」
それは、いつの日だったか僕が遥香に言った言葉だった。
もう、遥か遠い昔のことのように感じた。
秋が過ぎ、冬が訪れた。札幌は連日氷点下を記録し、大雪に埋まっていた。
僕は淡々と毎日を送った。無感情に、無感動に、全ての感覚が麻痺したままで。ゆっくりと、自分が死んでゆくのが分かった。遥香はこの冬、母親が住まう東京は新宿区の病院に転院した。遥香はまだ、眠り続けている。
夜の札幌は煌びやかに飾られ、行き交う人々に明るいざわめきが続く。街角で遥香と同じ年頃の女の子が「クリスマスケーキはいかがですか?」と声をかけてくる。苦笑いをしながら、手を振り「いらないんです」と答える。僕の返事を聞くまでもなく、その女の子はもう、次の人に声をかけていた。
また雪が降り始める。
長靴の足首まで雪に埋もれる大通公園に立ち、さっぽろテレビ塔が放つ眩い灯りの中、夜空を見上げた。
ひらりひらりと、逆光の中に、それはまるで無数の羽根が舞っているかのような光景だった。
手のひらを空に掲げた。
ひとつ、ふたつ、みっつ、と白い羽根が舞い降り、すぐに水の玉に変わった。
去年のクリスマス、僕は遥香と抱き合い、窓の外を舞う雪を眺めていた。
遥香は、もう、雪のない街へと、去ってしまった。
新しい年が明けた。結局、正月も実家には帰らなかった。もう、新年の授業は始まっていたが、僕は今、北海道一周の旅に出ていた。
車は稚内に向けて国道二三八号線を北上している。真っ白に埋まる国道の右手には間もなく流氷が辿り着くであろうオホーツク海が悠然と佇んでいる。濃霧と吹雪によって、二回ほど通行止めを喰らったが、どうにかこの旅も後半に差し掛かろうとしていた。
僕は、遥香と交わした些細な約束のすべてを実行に移していた。
札幌にある穴場のレストランやカフェ、有名な記念公園、水族館や遊園地。あらゆる約束の場所を訪れてまわった。こんなことに何の意味もないことは分かっていた。こんなことをして、遥香が目覚めるなんて思ってもいない。ただ、遥香を近くに感じていたかった。それだけだった。
僕の時間はあの日から止まったままで、僕を残して季節だけが巡ってゆく。僕の時間を動かす鍵は遥香だけが持っていて、遥香は全ての現実を拒否し続けている。親子連れで賑わう遊園地も、恋人たちで溢れる有名なカフェも、やはり、僕に何も語りかけてはくれない。しかし、今の僕にはそれ以外頼れるものは何もなかった。遥香の気配が少しでも漂う約束以外に。
そして、この北海道一周の旅も僕に何も語りかけてはこなかった。
旭川で一泊し、早朝の道央自動車上を南下して帰路に着く。車内には、半年前に流行った曲が流れている。遥香と二人で選曲した、もう街では流れることのなくなった楽曲たち。時間は確かに流れている。僕たちを置き去りにして、これからも流れてゆく。
代り映えしない高速の風景を眺めながら、午前中には札幌に着くかな、と思っていたところでスマホが鳴った。モニターには未登録の番号が表示されている。僕は車を路肩に寄せ、誰との予想もつかないまま通話ボタンをタップした。
「あ、あの、淳ちゃん? 飯島です」
飯島という姓にハッとする。それは遥香の昔の名字。遥香の母親だ。
戸惑う僕を察知したように遥香の母親は続けた。
「あ、ごめんなさい。実は、正式に山岸と離婚したの。それで、旧姓の飯島に戻して……、あの、それより、遥香が――」
「遥香がどうしたんですか!」
僕の心臓が跳ね上がる。
「遥香が、さっき、おはようって……」
母親の声はそのまま、泣き崩れた。
「本当ですか? 遥香が! 遥香がっ!」
僕の声も震え出す。熱いものが込み上げて、我慢ができなくなった。スマホから漏れる母親の嗚咽が遠ざかる。もう、涸れ果てたと思っていた涙が次から次へと溢れ出した。
僕の中にある時計の針が大きな音を立てて時を刻み始める。
今すぐに、遥香に会いたい。
僕は新千歳空港に向けてアクセルを踏み込んだ。
新千歳空港に着き、キャンセル待ちでどうにか航空券を手に入れた。頭上の電光掲示板には「搭乗準備中」の文字。ガラスの向こうで飛行機が離発着を繰り返す。
本当に、奇跡だと思う。
また遥香に会うことができるなんて。
今なら、あの母親でさえ、許せそうな気がした。
少しずつ近づく遥香との再会の瞬間。何を話すべきか。遥香はどんな顔をするのだろうか。笑ってくれるだろうか。僕はどんな顔をすればいいのだろうか。いや、そんなこと、どうでもいい。言葉もいらない。抱きしめたい。ただ遥香の全てを感じたい。遥香の澄んだ瞳を、真っ白な肌を、俯いて考えながら話し出す瞬間のあの表情を、日向の匂いを、温もりと厚みを、柔らかい声を。感じたい。遥香を。
新宿の病院に着いたのは午後六時を廻っていた。大きな総合病院の駐車場に停まったタクシーから勢いよく飛び出し、受付カウンターへと走る。途中、看護師に注意され、歩を緩める。はやる気持ちを抑えられず、カウンターに身を乗り出すようにして、看護師に「鳴海といいます。飯島遥香さんの病室を教えて下さい」と訊く。看護師は一度、面会謝絶です、と言ったあと、訝しげな顔をして、僕に特別許可が下りていることを告げた。遥香の母親が申請してくれていたのだろう。すぐに場所を確認し、走り出そうとする自分を抑えながら、遥香の病室に向かった。
白いドアの前に立った。ドアには『飯島遥香様』とプレートが貼られている。目を閉じ、大きく深呼吸をした。スライド式のドアノブに手をかける。心臓は破裂しそうなほど、高鳴ったままだ。手に力を入れた。ドアは何の抵抗もなく、滑るように視界から消えた。
静まりかえった病室。
真っ白なベッドの上、一人の女の子が上体を起こし、薄暗くなった窓の外を眺めていた。
短めのショートカットの女の子。
間違いなく遥香だ。
再会した頃と同じ髪型の遥香だ。
気配に気づいたように、そっと遥香がふり向いた。
右眉の上に痛々しい傷跡が残っていた。
僕の知っている遥香より、少し痩せていたが、確かに遥香だ。
「は……、るか……」
再会の前に考えていたこと全てが頭の中から消え去った。
鼻腔の奥を切ったようなつんとした痛みが走り、視界が滲む。
「遥香!」
駆け寄ろうとした。
「だれ?」
その瞬間、遥香は首を傾げて不思議そうに言った。
不思議なものを見るような目で。
「遥香?」
僕は状況が飲み込めず、立ち尽くす。
突然、背後のドアが開いた。遥香の母親だった。
遥香の母親は僕の姿を見て驚き、そして僕の腕を掴んだかと思うと、すぐさま病室の外に連れ出した。
遥香の母親は僕の両腕を掴み、僕を見つめた。
以前あった印象とは随分違っていた。もう、夜の仕事をしている雰囲気はなかった。疲れ果て、やつれてはいたが、なにより、お母さんの顔になっていた。ただ、その唇が震えていた。
遥香の母親は急に膝から崩れ落ちそうになった。慌てて両腕で支える。母親は真下を向いたまま何かを言った。ちょうど廊下に流れた院内放送に紛れて聴き取れなかった。
「え? なんて、おっしゃったんですか? 遥香はどうしたんです?」
僕は必死になって訊く。何が起きているか知りたくて気が狂いそうだった。
母親は顔を上げ、もう一度言った。
「遥香、記憶がないんです……」
僕は全身の血液が身体の下の方へ下がるのを感じた。
記憶がない?
「まだこれから検査をしなくては分からないんですが、どうやらある時期の記憶がなくなっているというより、むしろ――」
むしろ?
「あの男、元夫に関わる記憶が全てないと……。そして、淳ちゃんのことも……」
僕は張りつめた弦が弾け切れたように脱力し、よろけた。
壁に手をついて体勢を何とか保つ。
病室から遥香の呼ぶ声がする。
僕を呼んでいるのではなかった。
無邪気な「お母さん」という声が聴こえる。
「さっき、精神科の先生が仰っていました。頭に衝撃を受けたことによる記憶喪失ではないかもしれないと。あの事件やそれに関わる全ての記憶を遥香が自ら深層意識の奥底に封じ込めたのかもしれないと――」
そして、壁に寄りかかる僕の肩を掴んで遥香の母親は続ける。
「ごめんね、淳ちゃん。どう言葉にしていいか分からない。今、遥香は淳ちゃんのことも覚えてない。遥香が認識しているのは私が母親ということだけ。小さな頃の記憶もないの」
余りの衝撃に視界がぶれる。
母親は目を見開いて、「お願い」と大声を出した。
「遥香との記憶、想い出、全てなかったことにして。あの子に記憶を呼び戻させるようなことはしないで! お願い……、あの男のことを忘れているならば、そのまま忘れさせてやりたい……。その方が、あの子は……、あの子は幸せになれる」
ソノホウガシアワセニナレル。
幸せ?
遥香の幸せ。
僕は必死に理解しようとした。現実とかけ離れた話しに頭がついてこない。
現実?
現実。
遥香の幸せ?
遥香が幸せになるんだ。
誰と?
どうやって?
落ちつけ。冷静になれ。
そう、僕は身につけたはずだ。
強く心を保つ術を。
物事をただの現象と捉えて、検証して――。
涙が溢れた。
遥香の母親が僕の頭を抱え込む。
一生許せないと思った人間に抱かれ、僕は泣いた。
遥香の呼ぶ声がする。
母親を呼ぶ無邪気な声が。
そうか。
遥香は手に入れたんだ。
大好きなお母さんを。
大好きだったお母さんを奪い取られ、更に自分自身もずたずたに傷つけられ、逃げ回った日々は終ったんだ。
そう、今日から、遥香はお母さんと二人で生きていける。
遥香が目指した場所。
「いかなきゃ」と言った目的地。
遥香は辿り着いたんだ。
泣き崩れたままの僕を、遥香の母親はいつまでもきつく抱きしめ続けた。
「こちら、鳴海さん。ほら、遥香、覚えてないかもしれないけど、大学の先輩だった方よ」
遥香の母親は笑顔で僕を紹介した。
「こんにちは。鳴海さんでしたっけ?」
遥香は首を傾げて、ぎこちない笑みを浮かべる。
「鳴海です。は……、……飯島さん、よかった。意識が戻られて」
僕も懸命に笑みを作って表情に貼りつける。
遥香が申し訳なさそうに答える。
「すいません。私、なんだか記憶がこんがらがってるみたいで、色々忘れてるみたいなんです。鳴海さんのこともはっきり思いだせなくって」
「いえ……。気にしないで」
「大学生かー。私も、事故に遭わなければ、今ごろまだ花の女子大生だったのになあ」
遥香は残念そうに口を尖らせる。そして続ける。
「先輩、私、どんな感じでした? 真面目な学生? それともウェーイな感じ? ホント、全然、覚えてないや」
僕は消えていこうとする笑みをどうにか維持する。
僕の知らない遥香がいた。
いや、これが、本当の遥香なのかもしれない。
そう、きっと。
これが、暗闇から解き放たれた本当の遥香なのだろう。
間を置かず、病室のドアが開き、看護師が面会時間の終了を告げた。
遥香の母親は何度も何度も「ごめんなさい」と「ありがとう」を繰り返した。その言葉は直接、僕の身体に突き刺さり、遥香を永遠に失ったのだと、心に刻み込んだ。
玄関ホールの自動ドアをくぐる。
冷たく、きんと張りつめた夜気が頬を刺す。
真冬の東京にも雪は降り、駐車場は薄い雪化粧をしていた。
「東京にも、雪、降るんだな」
呟くと同時に、急速に体温が下がっていくのを感じた。
白い息をそっと両手に吐き出し、遥香と僕の、小さく儚い歴史を想った。
僕が目指した場所。
遥香が目指した場所。
いつしかずれてしまっていた、僕たちの願い。
遥香の母親にすがり、幼子のように泣いた。
未来が閉ざされた、などという感覚ではない感じ。
虚無。
何も無い真っ白。
僕はこれから何処に行けばいいのだろう。
駐車場内に灯る弱々しいタクシー乗り場の明かりを目指して歩く。
ふり向けば、永く続く足跡にも静かに雪は舞い落ちていた。
立ち止まり、見渡した。
ゆっくりと足跡はその姿を消していき、生まれたばかりの、無垢なままの白が広がっていく。
静かに目を閉じた。
再び開いた瞼の向こうには、もう、足跡は見つけられなかった。
深々と降り続く雪は止む気配もなく、僕と遥香の記憶の上に降り積もり、全てを白へと還していった。




