16 崩壊のホワイトノイズ
「淳一君、どうして私の名前が遥香になったか分かる?」
日曜日、外は柔らかい陽射しが降りそそぎ、優しい風が春の匂いを運んでいる。
僕と遥香は部屋でコーヒーを飲みながら最近押し入れから発掘した自作ラジオを聴いていた。それは子どもの頃、遥香がお泊りしに来た時によく一緒に聴いていたラジオで、昨日一日かけて修理をしたものだった。
最後に学校以外の場所に出かけたのはいつだろう。たぶん、四ヶ月前。大晦日から元旦にかけての深夜、大雪の中を北海道神宮に初詣に行ったのが最後だ。クリスマスですら、この部屋で遥香の手料理を食べて祝っただけだった。
「この名前ね、本当のお父さんがつけてくれたらしいの。お母さんは賛成したわけじゃなかったらしいんだけど、強引に、遥香、に決めたって」
「亡くなったお父さん?」
「うん。私、お父さんの想い出とか温もりとか知らないんだけど、唯一お父さんが私に残してくれたもの。それがこの名前」
「どんな意味なの?」
「遥か遠く、どんなところまでも香りが届く人になるように、って。大切な人がどんなに遠く離れたとしても、香りで癒せるように、あと、ピンチの時は香りを頼りに、その人が助けに駆けつけてくれるように、って」
「すごくいいメッセージじゃない」
「でしょう」
遥香は嬉しそうに答える。
「俺、遥香の名前、好きだよ」
「ありがとっ」
遥香は今日、最初の笑顔を見せた。
遥香は時々、こうして自分のことを話すようになった。自分のことを自ら語りだすなんて、ついこの間まではあり得なかった。遥香が僕に対して、心を許してくれていることを全身で感じている。
この春に僕は大学四年生、遥香も三年生になった。
僕は数か月前から就職活動を始めている。やりたいことが見つからない、とぐだぐだと甘い思考に浸っていた僕も、こちらが選べる立場ではない、という不況の現状をようやく悟り、商社やメーカー、IT企業など無作為に説明会に参加し、新卒求人を見つけては面接を受けにいく日々を送っていた。しかし、この長期化した不況の中、未だによい返事は一社からも貰えていなかった。大学の友人たちも厳しい状況で、内定を貰えた学生はコネクションを持っている人を除いてまだまだ少なかった。明日からまた会社回りが待っている。
遥香は家事を完璧にこなしていた。全ての作業をゆっくりではあるが、丁寧に、確実にこなした。まるで、自分の負い目を、家事をこなすことによって補おうとしているようでもあった。
激化する就職活動とバイトで一日中一緒に過ごせる日が殆どない状態だった。しかし、この何処にも出かけることのできない状況は遥香には好都合らしかった。遥香は今も学校以外の場所には出かけたがらない。家事を理由に外出を拒むこともしばしばだった。
ただ、発作の頻度は一ヶ月に一回あるかないか程度までに減っていた。仮に発作が起きても、遥香自身、パニックになることもなく、冷静に辛い時間をじっと我慢してやりすごしていた。
キャンパスでの遥香は全く違う顔を見せていた。仲間に囲まれた遥香はとても明るい。二人きりでいる時には時々でしか見ることのできない笑顔も、友達の中ではいつも見ることができる。ただ、友達の中での笑顔は、遥香が刻苦して作り出している笑顔だということを僕は知っている。
遥香はいつも笑顔でいることで、自分の中に他人が深く入ってくること防御している。常に元気で明るい、そういうイメージを他人に植えつけることで、他人はそれ以上入ってはこない。人は人と出逢った時、まず何より相手がどんな人間なのかを知ろうとする。相手がどんな性格か、どんな癖を持っているのかを知ることで、人は安心する。その、相手が自分を知ろうとする行為自体に、遥香はとても恐怖を覚えるのだ。だから、いつも遥香は自分から、『私はこんな人間だよ』と、ニセモノの姿を先にさらして、防壁を築く。
遥香は、あの忌まわしい出来事を心の奥底に封じ込めておくことだけで精一杯なのだ。ただひたすらに、あの出来事が僅かでも自分の外側に漏れないように、全身全霊をそそいでいる。継父が遥香に与えた仕打ちは彼女を深淵の底に引きずり込み、今も痛みを伴った苦しみを与え続けている。
僕は就職活動とバイトをこなしながら忙しい日々を過ごし、遥香は必死に自分の過去を乗り越えようと努力していた。
そんな風に、僕たちの春は流れた。
早朝から、エゾゼミが鳴いている。札幌では蝉の鳴き声を聴くことは珍しいのだが、僕らのアパートの近くに小さな防風林があり、そこから毎朝、ぎぃーという鳴き声が届いている。時間はまるで炎天下のアイスのように溶けて、気づけば夏が来てしまっていた。
結局、未だ一社からの内定も貰えず、もう七月、それも半頃に差しかかっている。僕の頭の片隅で、就職浪人という文字がちらつき始めていた。この時期、求人を出していた会社は次々と内定を発表し始めている。しかし、今もまだ大学の学生課、就職情報誌、ネットを通じて新卒募集をかき集めている状態だった。僕はこの長く続く不況を、初めて肌で痛いほどに実感していた。
朝、もう半年間も着続け、疲れが染みついたスーツを着込み、僕は遥香の作る朝食を待ちながら新聞に目を通していた。
「淳一君、まだ時間大丈夫?」
遥香がキッチンから顔を出す。随分長くなった髪を後ろで束ね、胸にワンポイント入ったTシャツにジーンズというラフな格好をしている。
「まだ大丈夫。あと二十分くらいで出ようかと思ってる」
「そう。もうちょっとだけ待ってね。もうすぐできるから」
遥香はそう言い、先にコーヒーをテーブルに置いた。そして、すぐにまたキッチンから賑やかな調理の音を再開させた。
僕はこんな遥香の姿を見ているだけで、思い通りにならない現状全てを忘れて、ただ幸せを感じることができる。遥香と結婚しても、多分、今と変わらない。ずっとこんな感じなんだろう。
パンとベーコンエッグにサラダを盛りつけた朝食が運ばれてくる。僕は勢いよく食べ始め、テーブルの向かいに座った遥香もいつも通り、ゆっくりとパンを口に運ぶ。
「淳一君、今日、何時頃になりそう?」
遥香は手を止めて、慌しく食べている僕に訊く。
「面接が一時からだから、多分五時くらいには帰れるよ」
「そう。夜ご飯、何か食べたいものある?」
「んー、お任せ」
「分かった。じゃ、何にするか考えておくね。また、何か食べたいものがあったらラインしてね」
「オッケイ」
一気に朝食を食べ終え、鞄を持って玄関に向かう。遥香が食事の手を休め、ついて来る。
「それじゃ、行って来るよ」
「うん、行ってらっしゃい」
僕は腕時計を見やり、急ぎ足で駅に向かった。
今、僕の心の中を焦りの気持ちがぐるぐると駆け回っている。
今の僕たちは余裕のない生活をしている。僕の親からの仕送り数万円と遥香の仕送り数万円、バイト代を足して月十数万円。それで、二つの部屋代から、公共料金、二人分のスマホ代など、全てを負担している。いつも残るのは二万円ほどで、遥香が食費を切りつめ、やり繰りをしてくれている。しかし、その生活でさえ、もう一年を待たずして終わりを余儀なくされる。僕の卒業と同時に学生専用である今のアパートからは出なくてはならない。しかも僕の仕送りは当然なくなる。
早く就職先を見つけたかった。次はどの辺りに住むことになるのか。そこは遥香が大学に通うことのできる距離なのか。僕は早く将来の予想図を手に入れて安心したかった。
切羽つまった気持ちを抱えて、毎日就職活動に明け暮れた。先の見えない暗闇から開放されたくて走り回った。しかし、突然、予告の一片もなく、事態が急変した。
ある日、僕と遥香が大学の学生食堂で昼食を食べていたところに、遥香の友人がやって来た。その友人は遥香に、学生課から呼び出しがかかっている、と告げた。
遥香には全く身に覚えがないという。僕も付き添って、学生課を訪ねた。
「山岸遥香さん、前期授業料の内、半分は四月の時点で納められましたが、残額が未だ納められておりません。納付期限は今月末となっております。このまま未納となりますと、三年生前期取得単位の無効、及び除籍となります。もし、休学や二年生終了時までの単位を持っての退学のお考えがある場合も、前期未納分のお支払いは必要となります」
学生課の担当者は抑揚のない声で通告した。
蒼白な表情の遥香は俯いて黙り込み、「分かりました」と呟いた。
その日の夜、僕は遥香に「事情を説明してほしい」と言った。
「分からないの……。でも、大体分かっていると思う」
「分からないけど、分かっている?」
「ちょっと、お母さんに確認してくる」
遥香はスマホを持って外に出ていった。
遥香が閉めたドアの音のあとに無音の空間が広がった。
テレビも点けず、音楽もかけず、静まり返った部屋で、ただ最悪のシナリオを想像しながら僕は身を固くしていた。
どんな事実を告げられようと、冷静に対応できるよう、心を強くすることにこの一年を費やした。大丈夫だ、と自らに言い聞かせる。僕にもおよその予想はついていた。秒針の動きがいつもより鈍く感じられ、僕を苛立たせる。
三十分ほどして遥香が帰ってきた。
ドアを開けた遥香の目は真っ赤に腫れている。
僕も、今から知ろうとする事実に身構える。
遥香が目の前にへたり込んだ。
「どうだった?」
僕は覚悟を決め、訊いた。
「……うん。予想通りだった」
遥香から表情が消えていた。
「説明して」
「うん」
遥香は暫く黙り込み、考えながら話し始めた。
「……あの人が、お金を出すのを拒んだって。約束を破ったからだって。逆にお母さんに、あんたはいったい何をしたの、って問いつめられちゃった。四月に納められた分もお母さんが出してくれていたみたい。お母さんもわけが分からないって。それはそうだよね。あんなことあったの、お母さん、知らないもん……」
予想したシナリオはほぼ間違ってはいなかった。僕の中に過去に一度だけ経験したことのある痛烈な怒りが沸騰し始める。
まだ……、まだ、遥香を傷つけ足りないのか。
遥香は静かに続ける。
「それと、いつ部屋に電話をかけてもいないって怒られちゃった。ちゃんと、淳一君から留守電入っていたよって聞いたら、スマホでかけ直していたんだけどね。彼氏のところに入り浸っているのかとか、夜遊びが過ぎるんじゃないかとか、とか色々言われて……」
遥香の声が震え出した。
遥香は何かを言葉にしようとして口を動かすが声が出ない。
そして、お互い黙り込んだ。
再び発せられた遥香の声には悲痛な響きが伴っていた。
「お母さんがあの人を問いつめたらどうしよう……。あの人があのことを言ったらどうしよう……。もう……嫌だぁ……」
「遥香……」
「私、お母さんに嫌われちゃうかなぁ」
遥香はもう、目の前の僕に話をしているようではなかった。まるで、独り言のように、絶望した呟きに変わっていた。
「ただ、ただ……、静かに、生きていたいだけなのに……」
そして、ぽつりぽつりと涙がこぼれ落ちた。
僕はそっと遥香の頭を抱きしめる。遥香は静かに泣いた。ただ、僕は嗚咽の漏れる遥香を抱いたまま、頭の中で冷静に計算を始めていた。
もう、一年前の僕ではない。冷静に事実を受け止め、計画を立て、実行する。
遥香と一緒に感情に飲まれては駄目だ。何度も頭の中で予行練習をやってきた。駆け巡る強烈な怒りを力づくで心の奥底にしまいこみ、頭の中でただの現象として捉える。そして、原因を検証し、対応策を絞り出す。
僕たちの学校は前期、後期でそれぞれ三十万円、年間で六十万円の授業料が必要だ。遥香のお母さんが前期分の半分を納めたと言っていたから、前期の残りは十五万。それに、もうすぐ支払い請求の来る後期分の三十万を合わせて四十五万円が必要だ。来年分の学費は仮に僕が就職できていたとしたら、銀行で個人ローンが組めるはずだ。今、急遽必要な分は四十五万円。これをなんとかしなければならない。
遥香に幾分冷静さが戻り、黙り込んだままの僕の顔を見上げた。そして、僕の考えを見透かしたように言った。
「淳一君、何を考えているの? もう、何とかしようなんて考えないでね。もう、いいんだ。何もかも」
「投げ出すな、遥香。考えよう」
僕は遥香を遮って、力強く言う。
遥香は口をつぐむ。
僕も黙り込む。
再び、遥香は顔を上げた。
「考えるのは私。淳一君じゃない。もう、これ以上、淳一君には迷惑をかけられない」
乾いた声だった。
僕は遥香を抱きしめたまま、思考を続けていた。
翌日、僕は岩見沢に住む祖父母に電話をかけた。祖父は七十歳という年齢にも拘らず、未だに地元の大学で特別講師として教鞭を執っている。そして、この祖父母は僕の従兄弟たちを含めた孫の中で、なぜか僕を特別かわいがってくれていた。
二十歳を越えて、久しぶりに電話する内容がお金の無心とは我ながら情けないと思う。しかし、今の状況で格好などつけている余裕はない。
祖父は僕からの電話を想像以上に喜んでくれた。電話口で祖母と何度か交代しながら話をする。今の大学生活のことを色々と話した。話しが幾分弾んだところで、お金の借り入れを申し込んだ。祖父は神妙な声色になり、「事情を話してみなさい」と言った。
僕は、将来結婚するかもしれない女性が大学を辞めざるを得ない状況に陥っていること、両親は僕の学費と仕送りで余裕がないこと、一人暮らしで貯蓄はなく、就職活動中でバイトもあまり入れていないことを説明した。
祖父は静かな声色で一言だけ問うてきた。
「最後までその人を守り抜く覚悟はあるか?」
「はい」と即答した。祖父は暫く黙ったのち「大切に使いなさい」と了承してくれた。安堵のため息が漏れた。
その日の夜、面接を終えてアパートまで帰ってきた。
外から見上げると、三階にある僕たちの部屋の灯りが消えていた。遥香は買い物にでも出かけたのだろう、と思ったが、違った。
ドアを開けた途端、暗闇の中、川の流れるような不快な音が大音量で耳に飛び込んできた。不審に思いながら部屋に入り目を凝らすと、膝を抱えてラジオを見つめる遥香がいた。ラジオはどこの局にもチューニングの合っていないザーというノイズ音を垂れ流している。遥香が振り返った。暗い中でも笑みを浮かべているのが見て取れる。ゾクッと胃が冷えるような感情のない笑顔。僕は急いで電気を点け、ラジオを消した。一瞬の明滅のあと、部屋に光が溢れる。
「遥香! どうしたの? 何やってるの」
遥香の様子がおかしい。
「じゅんいちくん、おかえりなさい」
そう言うと、電源をオフにしたラジオに目を向けた。そして、思い出したように言った。
「あっ。ごめんなさい。ごはんつくらなきゃ」
遥香はふらふらと立ち上がり、キッチンに向かおうとする。僕はその腕を掴んで、遥香を止めた。遥香の両肩を掴み正面から見据える。一瞬だけ目が合い、すぐに遥香は目を逸らせた。
「ごめん、淳一君。すぐ作るから。そんなに怒らないで」
僕はわけが分からず、混乱したまま遥香を見つめ続ける。そして、どうして、大音量であんなラジオを聴いていたのか、説明を求めた。遥香は遠い記憶を探るように考え込み、ゆっくり、ぽつぽつと答え始めた。
遥香が言うには、まずお母さんと継父のことが気になりすぎて、何も手につかず、ラジオで気を紛らわそうと思った、と。暫く聴いていたが、やはり集中できず、どんどん音量を上げていった。それでも駄目でチューニングを色々替えて、行き着いた先があのノイズ音だった。その一切の意味を持たない音を聴いていたら、心が落ち着いてきたような気がしたの、と。気づけば部屋が真っ暗になっていたらしい。
順序建てて話しを聞くと、納得しそうになるが、慌ててかぶりをふる。やはり、おかしい。しかし、当の本人はいつもの遥香に戻りつつあった。
「ほんと、ごめん。なんだか、ぼんやりしちゃってて、部屋が真っ暗になったの、気づかなかった」
「遥香……」
「ごめんね。面接終ってお腹、空いているでしょう。すぐ作るから。あっ、材料買うの忘れてた。あり合わせでいいかな。へへへ、大失敗だね。……淳一君? 怒ってる?」
「……」
「……、今から買ってくるね」
財布を持って外に飛び出そうとする遥香を慌てて引き止める。そして思いっきり抱きしめた。
「淳一君、痛いよ。どうしたの?」
遥香は驚いたような声を上げる。
「もう、大丈夫。全て大丈夫だから」
僕はふり絞るように言う。
ただ、詳細は言わなかった。祖父からの振り込みを確認してからにしようと思ったからだ。
「ほんと? ごめんね。じゃ、あり合わせで」
遥香は安堵したような声を出し、微笑んだ。




