15 エジンバラ国際フェスティバル
気づけばそこは札幌の部屋だった。
開け放った窓から入り込む蝉の鳴き声がとてもうるさい。
部屋は暑く、蒸し風呂のようだ。
「暑いなぁ……」
あれ。
誰かいる。
部屋の隅で泣いている。
遥香?
「どうしたの? 何しているの?」
「……嫌だぁ……」
「ご……ん……い」
え?
「……いかなきゃ」
遥香?
遥香? 遥香?
「遥香ぁ!」
自分の叫び声で目が覚めた。
ベッド際の窓から入り込む朝陽に目が眩む。全身が汗でびっしょり濡れ、短距離を走ったように息切れしている。そして、目からは涙がこぼれていた。
僕は上体を起こし、周りを確認する。
そこは昨日から泊っているシルクハットの部屋だった。僕のベッドから二つ向こうのソファーベッドに寝ていたエンディが驚いたように僕を見ていた。フェリックスは既にいなかった。
僕は涙を見せないようにエンディから顔を背ける。
少しの沈黙のあと、エンディは何事もなかったように明るく言った。
「ジュン、エレナさんが朝飯を用意してくれているみたいだ。お前も早く下りてこいな」
エンディはそう言って一階に下りていった。
こういう時のエンディのさり気ない優しさが身に染みて嬉しい。
しかし、久しぶりにあの日の夢を見た。
まだ動悸が治まらない。
気を許すといつもそう。必ずあの日の夢を見る。
壊れた8ミリビデオのように同じ映像を何度も何度も繰り返し映し続ける。
もうすぐ一年が経つというのに。
汗で濡れたTシャツを脱ぎ、ラフな格好に着替えた。そして、放心したように、窓から届く鳥の鳴き声を聴いていた。
僕は遥香が回復していると思っていた。あの頃の僕には、遥香は普通に笑っているように見えたし、毎日を充実しているように見えていた。
遥香を愛すると同時に、僕はまるでカウンセラーにでもなったかのように、遥香を見守っていた。そして、回復を信じて疑わなかった。何の変哲もない単なる大学生だとはなぜか気づかなかった。
今となってようやく分かった。あの頃、遥香は必死にもがいていたのだ。
遥香に発作が起きれば、僕が悲しむ。遥香が人との付き合いで、恐怖を感じていることを僕に悟られれば、また僕が悲しむ。そして、僕が悲しめば、遥香が悲しむのだ。
僕は彼女に愛されていた。それゆえに遥香が唯一愛していた彼女の母親と同じ立場となってしまっていた。
遥香は僕の前では元気を装うようになっていたし、僕はそれに気づいてあげられなかった。遥香を崩壊へと誘う扉は至るところにあって、きっと、懸命にその扉を避け続けていたのだろう。僕は、その扉が開かれるまで気づいてあげられなかった。
二年も傍にいたのに。一年間、一緒に暮らしていたのに……。
「ジュン! もう全員、揃っているぞ。早く下りてこいよ」
突然エンディの声が階下から聴こえ、放心状態から正気に戻った。
僕は気だるい体をのろのろと動かし、手すりに身体を預けながら階段を下りていった。
キッチンには全員が揃っており、テーブルにはエレナお婆ちゃんが作ってくれたブレックファーストが並んでいる。テーブルの真ん中には昨日にはなかった綺麗な花が飾られ、大きな窓からは溢れんばかりの朝陽が射し込んでいた。
「モーニン! ジュン。さあ、食べようよ。今日は大忙しだからね!」
カリンが元気な声を上げる。
「ああ、午前中はあのエジンバラ城の探索だ。朝はしっかり食べとかないとな」
エンディが続く。
「さあさあ、座ってちょうだい。コーヒーのおかわりなら気軽に言ってちょうだいねぇ」
エレナお婆ちゃんに促され、僕も席につく。
みんなの顔を見回した。
みんな、活力で溢れていた。
とても明るい。すごく眩しい。
「どうかした?」
ぼんやりと視線を泳がす僕を見て、首を傾げた亜衣子が訊いてくる。
「なんでもない。さあ、食べよう」
わいわいとみんな一斉に食べ始めた。
優しい光が溢れる部屋で、大切な仲間に囲まれ、同じ時間を生きている。
僕はみんなに活力を分けてもらっている。生きる力を分けてもらっている。
思わず、じんと鼻の奥に痛みが走り、感情が溢れて目頭に熱が澱む。慌ててウィンナーにマスタードをたっぷりつけて頬張る。酸味と辛味に顔をしかめた僕を見て、アニカが笑い、カリンが野次る。エンディと亜衣子だけは笑わずに、目を細めて微笑んでいた。とても優しい微笑みだった。
僕たちはエジンバラ城の城門前に立っていた。門の傍には衛兵が腕を後ろに組んで身動き一つせず立っている。
衛兵の格好は独特だ。軍服のような威厳ある真っ黒な制服に黒い帽子をかぶり、穿いているのはズボンではなくチェック柄の緑のスカートだった。そのスカートに柄入りの前かけを重ねている。キルトと呼ばれる民族衣装らしい。
それを見たカリンが嬌声を上げ、アニカと腕を組んで衛兵の傍まで走り寄る。一切の表情を示さない衛兵にカリンは話しかけた。
「こんにちは、衛兵さん。一緒に写真を撮らせてもらってもいいですか?」
衛兵は遠くを見つめ、動かない。
「ねぇ、衛兵さん。衛兵さんってば」
カリンは執拗に声をかける。
「カリン、無駄だと思うぜ。衛兵は観光客と話をしちゃいけないんだろ、多分。バッキンガム宮殿の近衛兵と同じで、身動き一つしない訓練を受けているはずさ」
エンディがカリンに追いついて説明する。
「じゃ、勝手に撮っちゃおう。アイコもこっちにおいでよ」
亜衣子とカリン、アニカが衛兵を挟んで並んだ。彼女たちの背後には壮大なエジンバラ城が僕たちを見下ろすようにそびえている。
カリンにカメラを押しつけられたフェリックスが面倒くさそうに、それでも大きな声で「Love & Peace」と叫び、シャッターをきった。瞬間、衛兵は口元に満面の笑みを浮かべ、猿真似のような滑稽な仕草をして写真に収まった。そして、すぐにまた遠くを見つめ動かなくなった。
僕とエンディは見合わせる。
エンディが笑い出した。
「この野郎、芝居していやがるな」
「僕たちをからかっているのか」
そんな衛兵の仕草に気づかなかった女の子三人は「ありがとう」と言って、カリンを先頭に入城券売り場に向かって歩き出した。僕たち男三人もそれに続こうと衛兵の傍を通りすぎる。その瞬間、衛兵はニヤリと唇を歪ませて言った。
「Have a wonderful day, Mr.」
「You too, Mr.Great actor」
エンディも負けじと返していた。
入城料を支払い、僕たちは城門をくぐった。
ぞろぞろと高い城壁に沿って坂道を登ってゆく。空は若干の雲があるものの、緩やかな風のあるいい天気だ。太陽の光に手を翳し、右手の城壁を見上げてみる。凹凸の壁上から砲台らしきものの頭が覗いている。ごつごつとした石畳の感触が靴底を通して伝わってくる。カリンとアニカが腕を組みながら機嫌よく先頭を切って歩き、少し遅れて亜衣子、その隣でエンディがなにやら話しかけている。続いて僕とフェリックスが何を話すわけでもなく遅れないように続いた。
前方で感嘆の声が上がる。ちょうど、カリンたちが落とし格子門をくぐっていた。
暫く坂道を登ったところで広い高台に出た。
「わあ!」
先に着いていた女の子三人からはしゃぐ声が届く。強い風が僕の身体を通り抜けた。そこは柵際に並べられた砲台越しにエジンバラの町並みが一望できる、そんな場所だった。
「淳一、すごい眺めだよ。早くおいでよ」
先にカリンたちと柵際に駆け寄っていた亜衣子が日本語で声をかけてくる。はためく風に亜衣子たちの髪が流されている。
僕はゆっくりと柵際に歩み寄った。そして、その壮大な景色に見入った。周囲から聴こえる仲間の声が消えていった。
どこまでも続く、尖った町並みの向こうに小高い丘が見える。その向こうにはやはり、日本と同じ空があった。遠く、遠く、異国までやってきても、空は同じ色をしていた。遥香と僕がともに生きていたあの空と同じ色。
今、遥香はどうしているのだろう。
遥香が消えたあの日。そして、僕が消えたあの日。
青臭くて、とても幼稚で、それでも一人の人を懸命に愛した日々。
もう、世界中どこを探しても、存在しないあの日々。
泣いても、叫んでも、戻らない。
全て分かっている。あとは心に理解させなければならない。
僕は……、前を向かなきゃいけない。歩き出さなければならない。
二度と手に戻ることのない時間を探して、あてもなくもがくことをやめること。
後ろばかり向いている心を、たとえ力ずくでも前を向かせること。
そして、強くなること。それは遥香を想い出へと変えること。
遥香を――、忘れること。
「また、遠くを見てるね」
背後から日本語が聴こえた。亜衣子だった。
「ああ……。うん。ごめん」
「なにが?」
「分からないけど」
僕は苦笑いをする。
「元気出せ。少年」
「はは。少年はねーだろ」
「ずっと、ずっと、ずーっと元気がないぞ。少年」
「うん、分かってる」
亜衣子は僕の隣に歩み寄り、両手でひさしを作って遠くを眺めた。少しの沈黙のあと、亜衣子が話し始めた。
「私ね、これでも高校二年までちょっとは有名な短距離の選手だったんだ」
「亜衣子が?」
「そっ。私が。でも高三の時に靭帯損傷。しかも二回目。それで声をかけてくれていた大学とか実業団とかの話が全部消えちゃった」
「……」
「もう、絶望だったよー。それまで全てを陸上に捧げてきて、それ以外、私に何ができるのだろう、って。家も裕福じゃなかったし、なにより大学の受験勉強自体、始める気にもなれなくてさ」
「そう……」
いつも明るい亜衣子からは想像できなかった。
「でも、うじうじ悩んでいたのって一ヶ月くらいだったよ。靭帯、切っちゃったものはしょうがない、って。自分が何もできないなら何かできるようになろう、って決めた。それで働いた。やりたくもない仕事だったけどお金を貯めるためって割り切って。そんでもって、今がある」
亜衣子は自慢げに腕を叩いてみせる。
「やりたいことが見つかった、今がある」
亜衣子の微笑みがわけもなく心に染みる。
「スチュワーデスだね」
僕の相槌に、亜衣子の瞳が一瞬、翳った。
「そうなんだけど、ホント言うとね、多分、スチュワーデスは無理だと思う。もう、二十五歳だし、中途採用なんてあるかどうか分からないし」
「え?」
「あ、気にしないで。私も分かっていてスチュワーデスになるって言っていたんだし」
亜衣子は僕の視線を外すように振り向き、柵にもたれかかった。背後から通り抜ける風が亜衣子の髪を流し、顔を隠す。
「なんだかね、かなり厳しいみたい。今は何処の航空会社も客室乗務員の募集はやってないみたいなんだ。それも、新卒でだよ。でもね、空港の中で働きたいって気持ちは変わらない。まあ、あーだ、こーだ考えるりは、まずはここで最低限の英語はマスターしたいと思ってさ。せめてニック君くらいにはね」
「そっか。亜衣子なら大丈夫だよ。頑張れ」
「淳一もだよ」
キュッと胸の中の何かが締まる。
「淳一。別に軽く言うわけじゃないけどさ、もし何か過去に縛られているなら、多少強引にでも前を向かなきゃいけないと思う。どういう経緯でここに来ることになったかは知らないけど、多分、淳一も変わりたくて来たと思うし」
そう、だね、と答える。けれど声にはならなかった。
「……、ごめん。余計なことだったよね?」
苦笑する亜衣子に僕はかぶりをふって「そんなことない」と言った。
「ありがとう。うん、変わらなきゃいけないんだよな。前を向かなきゃいけないんだよな」
「そうだ、そうだ、前を向いて前進しよう」
亜衣子の優しさを痛いほど感じていた。その時、隣から言い争う声が聴こえてきた。聞き慣れた二つの声。僕と亜衣子がふり向くと、やはり砲台を挟んで対峙するカリンとフェリックスだった。どうやら砲台からどういう仕組みで玉が飛び出すかについて、意見が食い違っているらしい。相変わらず……。亜衣子と僕は同時に笑った。
中郭から大きな階段を上り、上郭に出た僕たちは『聖マーガレット礼拝堂』を訪れ、『クラウンスクウェア』、『戦没者記念堂』を見学した。スコットランドとイングランドの凄惨な歴史をもう少し勉強しておくべきだった。とても貴重なものを目の当たりにしていることは分かっているのだが、実感がついてこない。どうやら、それはエンディやカリンたちも同じようで、神妙な顔をしてスコットランドの宝器と呼ばれる王冠や御剣を眺めて頷いたあと、結局は首を傾げていた。
午前中いっぱい、エジンバラ城を隅々まで見学した僕たちは昼食をとるため、ウェーヴァリー駅周辺まで戻ってきた。
ロイヤルマイルは昨日同様、多くの人でごった返していた。路上パフォーマンスも至るところで催されている。僕たち六人は人ごみを分けながらお祭り騒ぎの街を歩いた。
途中、先頭を歩いていたカリンが店先に設置された灰色の銅像に見入り、立ち止まった。
「ねえ、これ――」
カリンが僕たちの方に振り向いた瞬間、銅像が奇声を上げてカリンに覆い被さった。
ぎゃああ、とカリンのかわいくない悲鳴が響く。
背後に迫る銅像を払いのけ、僕たちの方に飛び込んでくる。慌てふためいてエンディの背に隠れるカリン。全身に灰色のペンキを塗りたくった銅像パフォーマンス男は何事もなかったように元いた場所に戻り、再び奇妙な格好をして動かなくなった。
エンディの服の裾を握り、怯えた目で銅像を窺うカリンに、みんな弾けるように爆笑した。特にフェリックスはおかしくて仕方がないらしく、珍しく無防備な笑顔を見せていた。
「なによ、みんな、バカ!」
カリンは顔を真っ赤にして膨れっ面になり、再び爆笑を誘った。
今度は身体中に楽器をくくりつけたピエロを囲む人垣に当たり、僕たちも立ち止まった。
手にアコースティックギター、口元にはハーモニカと縦笛らしきものを並べ、右足でステップを踏んで背中のバスドラムを轟かせ、左足でステップを踏んで頭の真上にあるシンバルを響かせた。
全身楽器の中年のピエロは集まってきた人たち一人一人に音を鳴らして挨拶をしている。そして、うやうやしく深いお辞儀をしたあと、演奏が始まった。見たことのない奇怪な動きで器用に全身の楽器を鳴らし始める。一見、非人間的な動きに嫌悪感を誘うが、驚いたことに鳥肌が立つほど演奏が上手かった。
ビートルズのナンバーだ。『YELLOW SUBMARINE』から始まり、『HELP!』や『IN MY LIFE』等、有名なナンバーを次々と演奏してゆく。最後にはテロや戦争に言及し、愛と平和を訴えてジョン・レノンの『IMAGINE』をしっとりと歌い上げた。
怒涛の拍手喝采を浴び、楽器ピエロの足元に置かれているギターケースに次々とお金が投げ入れられた。亜衣子とカリンもお金を入れようと、人垣の中へ飛び込んでいった。
それからも、ナイフ数本を五メートル程離れて投げあうパフォーマンスや、大きな壺や三脚の椅子を垂直に顎に載せてバランスを取るパフォーマンス、南米の民族楽器隊の演奏を楽しんだ。また、道の曲がり角ごとに、スコットランドの民族衣装キルトを着た人が伝統的楽器バグパイプを演奏していた。様々な路上パフォーマンスを見てまわり、気づけば午後二時を過ぎていた。
「ね、みんな。もう二時を過ぎちゃってるんだけど……。大聖堂に行く時間がなくなっちゃったみたい。まだお昼ご飯も食べてないし」
アニカの言葉にみんな自分の時計を確認した。
「ほら見ろ、時間がなくなっちゃったじゃないか!」
あれもこれもと先頭を切ってパフォーマンスを見ていたカリンにフェリックスが喰ってかかる。
「なによ! 自分だって楽しんでいたでしょ? 今更、自分だけいい子ぶらないでよ!」
ことあるごとに言い争う二人を見て、アニカとエンディがうんざりという顔をしている。
「ね、とにかくお昼ご飯を食べようよ。それからスコッチを飲みにいこう。しょうがないよ。大聖堂は逃げないけど、この路上パフォーマンスはエジンバラフェスティバル中でしか見られないんだから。また来ればいいじゃん」
亜衣子の言葉にカリンが「そうだよ」と、フェリックスに向かってフンと鼻を鳴らす。
「まあ、旅は計画通りにいかないことの方が面白かったりするし、ここは勘弁してくれや」
エンディにいつも通り諭され、渋々フェリックスが頷く。これも、もう馴染みの光景になっていた。
ロイヤルマイル沿いのレストランは午後二時を過ぎているというのに何処も混んでいた。なんとか軽食を食べられそうなカフェを見つけ、簡単なサンドイッチで昼食を済ませた僕らはエンディ待望のスコッチウイスキー博物館へと向かった。
エジンバラ城から続く坂道の一角にスコッチウイスキー・ヘリテージ・センターはあった。ここも他の建物に劣らず厳かで重厚な雰囲気を持ち、アーチ状の扉の上には年代モノの看板が掲げられていた。
事前情報もなく訪れた僕らは最初こそフィルムや模型を使った博物館らしい小ホールを進んだが、奥に入って面食らった。アミューズメントパークにあるような電動カートが用意されており、僕らはそれに押し込まれた。
ぎぃぎぃと古めかしい軋んだ音を立てて進むカート。薄暗い通路を抜けると急に明るくなり、スコットランドの三百年の歴史を再現した箱庭に放り込まれた。カリンや亜依子が歓声を上げる。カートはのんびり進んだ。当時の民族衣装を着た等身大の人形がリアルすぎて怖い。説明アナウンスに紛れて、仄かなウイスキーの香りが漂ってくると、隣のエンディはもう辛抱できないような顔を僕に向けてくる。
カートを下りると、ギフトショップのような場所に案内された。カウンターの棚にはすさまじい数のウイスキーが並べられている。ついにお待ちかねの試飲タイムだ。
係員によってプラスチックの容器に黄金の液体が注がれ、それぞれ六人に手渡された。みんな一様に匂いを嗅いだり、指を突っ込んで舐めたりしている。
「カートはイマイチだったけど、これは間違いなく最高だと思うぞ。乾杯しよう!」
エンディが息巻いて言う。
「それじゃ、乾杯するよ。いい?」
カリンがみんなの顔を見渡す。そして。
「Cheers!」
カリンの高揚した声が響き、六人分のスコッチウイスキーが高々と掲げられた。
ウイスキーのストレートを一気に飲み干した。
そして、全員で見合わせて「旨い!」と叫んだ。
さすが故郷の名産ウイスキーの創業者が学びを求めた地。とにかく濃厚で、まろやかで、それでいて香ばしく、胃に染み渡ってゆく感じ。凄まじく旨かった。
一杯目は無料だが、二杯目からは有料になる。しかし、エンディとカリンは意気投合して二百種以上にのぼるウイスキーを物色し始めた。
乾杯から間もなく、顔を真っ赤に染めたフェリックスが「気分が悪い」と、壁際に設けられたベンチにへたり込んだ。一杯のウイスキーが効いたらしい。亜衣子が肩を貸し、介抱している。
反対側のベンチに腰かけていた僕はそんな光景を微笑ましく眺めていた。暫く亜衣子の隣でフェリックスを眺めていたアニカがふり向き、僕と目が合った。途端にアニカはニッと笑顔を見せ、おぼつかない足取りで僕の方へやって来た。
「Hello, Jun, Jun, Jun……」
アニカの目が座っている。……完全に酔っ払っている。
考えてみればフィンランドでは何歳からお酒が飲めたのだろう。ドイツは十八歳からと言っていたが。
「ハロー、アニカ」
刺激しないようにアニカに合わせる。
「わたしねぇ、すっごく楽しいんですよぉ。毎日」
「カリンとアイコのフォローで大変だろ?」
「んー、そんなことないですよぉ。二人とも私を必要としてくれているし」
似たような台詞を聴いたことがある。……遥香だ。
「まだ四ヶ月しか経ってないけど、私、ここに来てよかったって思えるんですぅ。すっごく。とても、すっごく」
「そう。よかったな」
笑顔でアニカに返す。
普段、殆どしゃべらないアニカが珍しく饒舌になっている。
「ね、どうして……」
「えっ?」
「どうして、ジュンはいつも楽しそうに悲しい目をするの?」
酔っ払っていると思って油断していた。黙り込む。
「みんな、気にしているんですよ、ジュンのこと。今朝のジュンの目、真っ赤だったし」
「そっか。うん。でも大丈夫」
しかし、アニカは執拗だった。
「どうして平気なふりをするんですか? ジュン、ちっとも大丈夫そうじゃないもん。私たち、つたない英語でしか会話できない分、それ以外のちょっとした表情や仕草で色んなことが分かっちゃうんだよ」
「アニカ、今日は珍しくよくしゃべるね。かなり酔っているみたいだけど大丈夫?」
「はぐらかさないで下さい!」
アニカの大きな声に驚いて、絶句する。
「ねぇ、何があったの? どうして悲しい目をしているの?」
周りには他の大勢の人たちも試飲を楽しんでいる。
僕は感情的なアニカを持て余し始めた。
「アニカ、少し休もう。フェックの隣で休ませてもらおう」
僕の言葉にアニカがキッと睨んだ。
「子ども扱いしないで。ジュンから見れば確かにかなり年下の女の子なんだろうけど、私から見れば……、今のジュン、少し前の自分自身を見ているみたい……。いっつもいっつも何かを想っているのに、言葉を飲み込んでいる。言ってよ。ちゃんと言って下さい」
笑みを作ることができなくなった。
「そんなに簡単に話せることじゃないんだ」
言葉が厳しい感じで響いてしまった。
「……」
「あ、……いや……」
直視してくるアニカに僕の方がうろたえてしまう。アニカが意を決したように再び口を開いた。
「話してくれなきゃ分からないもん。別に今すぐってわけじゃないよ。でも、無理に笑顔作っている時って分かるよ。そんな笑顔を見ていたら、私も苦しくなっちゃうもん」
アニカはもう酔っている様子ではなかった。それどころか目に涙を溜めていた。感情の堰が切れたように言葉を溢れさせる。
「私たちだって……、国とか歳とか違っても困っている仲間がいたら助けたいもん。時々……、アイコと真面目な顔して話をしているよね。日本語で。私たちには分からないよ。私、日本語分からないもん! 色々、話してください。私たちにも!」
アニカの目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
ざわざわと周りの人が立ち止まり、何事かと視線を送ってくる。その人ごみをかき分けてカリンがやって来た。
「どうしたの?」
ほんのり頬を赤く染めたカリンが泣きじゃくるアニカを見て、僕の方へつめ寄ってくる。
「ちょっとジュン! アニカに何したの? 何か酷いこと言ったんじゃない?」
僕は無言で立ち尽くしていた。アニカの言葉を何度も反芻していた。
気づかなかった。僕のことをこんなにみんなが見てくれていたことを。そして、みんなを苦しめていたことを。僕は自分のことばかりで、仲間を見ていなかった。
アニカはカリンに肩を抱かれ、先に博物館を出ていった。
立ち尽くす僕の肩を背後から叩く誰かがいた。やはりエンディだった。
「そろそろ帰ろうぜ、ジュン。もうすぐ閉館みたいだから」
帰り道、何事もなかったようにエンディは六人の真ん中で明るく振る舞ってくれた。
ディナーには、牛肉とマッシュポテトのシェパードパイや、羊の肉やオート麦を混ぜて茹でたハギスなどスコットランドの郷土料理をテイクアウトした。更にエンディを先頭に酒を選び、大量のスナック菓子も一緒に買って帰った。
午後六時半、シルクハットに帰宅し、一旦、それぞれの部屋に戻った。
暫くして、旅行の打ち上げのため、男性陣が使用している部屋に亜衣子、カリン、アニカがやって来た。
ベッド類を部屋の隅に押しのけ、広いスペースを確保し、亜衣子とカリンが嬉々としてパイやスナックを絨毯の上に広げてゆく。エンディがワインのコルクを抜き、慣れた手つきで六人分の紙コップに注いでそれぞれに手渡した。
ワイングラスならぬワイン紙コップを持ってエンディが立ち上がった。軽く咳払いをして選挙演説のように語り始める。
「レディース&ジェントルマン。時間をかけて計画を練って、遥々スコットランドまでやって来た旅行も今夜が最後となった」
エンディの言葉に亜衣子とカリンがイェーイと煽る声を上げる。
「思えば四ヶ月前まで、俺たちは互いの国すら知らない他人……、いや、むしろそれよりも遠い存在だった。ドイツ、フィンランド、スイス、日本、そして俺の国、トルコ。本当にそれぞれ違うよな。黒髪に茶色の目をしたジュンとアイコ。赤茶色のクリクリ髪の毛にブルーの瞳のアニカ。すげー綺麗な金髪をしたカリンとフェック」
「そして、髪の薄くなったエンディ」
カリンのツッコミに大爆笑が起きた。「気にしているんだからな!」と返しながらエンディも笑った。そして、続けた。
「しかーし、それぞれ自分の国を離れ遠いイギリスという国で出逢い、今、スコットランドの小さな部屋で向き合っている。俺はこれこそ奇跡だと思うぞ」
みんなが口々に賛同の相槌を打つ。
「このクラスで一緒にいられるのは残り二ヶ月。もう半分が過ぎてしまった。……早いものだな、本当に」
一人でしんみりとするエンディにカリンが野次を飛ばし、「まあまあ」と亜衣子が制する。エンディが続ける。
「これから残り二ヶ月の日々を大切に過ごそう。そしてこれからも助け合っていこう。それじゃ、グラス……、あー、紙コップを持ってくれ」
全員がワイン紙コップを高く掲げる。エンディが全員を見渡し叫んだ。
「俺たちの出会いに乾杯!」
「Cheers!」
他の五人も声をそろえて叫んだ。
みんな一口ワインを飲んだかと思うと、一斉に食糧確保の争奪戦が始まった。
スコットランドの郷土料理は味わわれることなく物凄い勢いで目の前から姿を消していく。カリン、フェリックス、エンディが特に早い。カリンなど小柄な身体によく入るな、と感心するほど勢いよく口につめ込んでいる。そんな中、一人だけゆっくりと、ぼんやり食べている子がいた。アニカだった。多分、ウイスキー博物館でのことを気にしているのだろう。僕自身、アニカの言葉は心の中で何度も反芻していた。アニカが僕の視線に気づき、一瞬目が合った。すぐさま、アニカは視線を外した。
暫くして、食事も一段落した。亜衣子はエンディと、カリンはフェリックスと話しが弾む中、アニカはそっと手に持っていた紙皿を置き、僕の隣へやって来た。
「ジュン……」
「うん?」
僕は出来るだけ自然にふるまう。
「ごめんなさい。私……、私……」
「気にすることないよ、アニカ。それより、ごめんな、アニカが心配してくれているとも知らずに」
「ううん、いいの。私も自分自身にビックリしたんです。最初はお酒を飲んで気持ちがフワフワして。お酒飲んだの初めてだったから」
「そうなの?」
「うん。でも、ジュンに色々話している途中で、私、何を言っているんだろう、って頭が元通りになったんだけど、止まらなかった……」
アニカの声は次第に小さくなっていき、言い終えると項垂れた。
「アニカ、ごめんな。それとありがとう。また今度ちゃんと話すよ。あまり楽しい話しではないし、この場には相応しくないから」
「いや、今、話してくれ」
突然、別の方向から太い声が響いた。エンディだった。
いつの間にか、会話をする者は誰もおらず、みんな僕の方を向いていた。エンディが続ける。
「アニカだけではないんだ。ジュンの辛そうな姿に気づいていたのは。ジュンは知らないだろうけど、一度、他の四人でアイコを問いつめたことがあった。アイコにだけは何か言っているかと思ってな。しかし、アイコも詳しいことは何も知らなかった。よかったら、教えてくれないか。ジュンを縛りつけているものが何かってことを」
鉄の槌で心臓を思いっきり打たれたような衝撃を受けた。驚いた。アニカだけでなく、本当に仲間全員を苦しめていた事実に。
心配そうな顔をした亜衣子が口を開く。
「この前、ニック君……、あー、ニック君ってジュンイチのホームメイトだった男の子なんだけど、ニック君があの金髪の筋肉野郎に殴られている時、ジュンイチ、何て叫んでいたか知ってる? 急に胸を押さえて、うずくまったの、知ってる? あとで全然その話をしないから、言っちゃいけないのかなって思って言わなかったんだけど」
僕は全く身に覚えがなく、首を横にふることしかできない。
あの時、気づいたら、ニックを助けるために人垣に飛び込んでいたはずだ。
亜衣子が続ける。
「あの時ね、いきなり胸を押さえてうずくまって……、多分数秒くらいだったと思うんだけど、いくらジュンイチの名前を叫んでも反応がなかったんだ。それで、私、駆け寄ろうとしたら、急に立ち上がって――」
僕はわけが分からず次の言葉を待つ。
「これ以上、傷つけるな、てめぇ、殺してやる、って日本語で叫んだの。あまりに悲壮感の漂う、……絶望した人の悲鳴のようだった。そして人垣に飛び込んでいった。それから私も急いであとを追ったんだけど。覚えてない?」
覚えていなかった。全く、覚えていない……。
エンディが眉間に鋭い皺を寄せて続く。
「ジュン、覚えているか? マーティンと会った時のことを。あの時、確かにマーティンが言い過ぎだと思ったが、それ以上に、ジュンの身に起こったことに驚いた。ジュン……、お前、発作とか持っているのか?」
発作? 確かに……、僕自身、確かに感じていた。僕の身体の奥深くに燻る何かがいることを。
しかし、これが発作なのかどうか分からなかった。
ただ、今、思った。突然、ふと思った。
遥香が僕の身体の中に生きているのかな? って。
そう思った。
僕は顔を伏せて、小さく微笑んだ。
アニカが悲しみを帯びた声で言う。
「その目なの、ジュン。私はその目を見ると胸が苦しくなる……」
「ジュン、話してくれないか。俺たちに話して、ジュンの心の奥底にあるものが和らぐかどうかは分からないが……。でも俺たちにも何かできることがないか、って探すことぐらい、させてくれてもいいんじゃないか」
エンディが優し気な声色で言い、僕の肩に手を置く。
カリンが呟くように続く。
「ジュン」
「ジュン……」
フェリックスも。
僕は黙り込み、きつく唇を噛んだ。
僕はもう、誰も傷つけたり苦しませたりしたくない。
僕の記憶を引きずっている姿がみんなを苦しませているのならば、話さなければならない。
僕は目を閉じて、大きく息を吸った。
ゆっくりと身体中に遥香が溢れてくる。
止め処なく、彼女を愛した記憶が、何気ない日常の中にあった狂おしいほどの愛しさが。
僕の指先から足の先まで、そして、心の一番深いところまで。
遥香……。
はるか……。
僕は目を開け、みんなの顔を見渡した。
そして、静かに話し始めた。
幼馴染の遥香と再会したこと、彼女に恋をしたこと、彼女が恋人になったこと、そして、彼女に巣喰っていた闇のことを――。




