14 スコットランドのB&Bとエレナばあちゃん
濁流を滑降する古木のような日本の時間とは違い、ゆるやかな渓流を下る木の葉のような時間が流れるイギリス。落ち着いた時間がもたらすものは、心の平静さと、茫漠とした虚無感だった。
つい数ヶ月前までは、遥香との記憶はフラッシュバックのように脳裏をかすめるあの真夏日の光景しかないのか、と思われるほどだったが、最近では二人でゆっくりと幸せに過ごした記憶が一日中僕を支配し、縛りつけた。そして、拭い去ろうともがいたあとには果てしない虚無感に襲われた。
心にぽっかりと空いた遥香の穴。この穴を僕はどのように埋めていいのか未だに分からなかった。
この間までは家に帰ってもニックがいた。ニックの尽きることのないおしゃべりに付き合うだけで紛れていた時間が、ここ数日、僕だけのリアルな時間として存在している。それは良くも悪くも遥香との記憶を冷静に受け止めるように、と与えられた時間のようでもあった。
毎日が新鮮だった時期が過ぎ、鬱々とした毎日を送っていた僕には、放課後、カリンが発した一言に大いに助けられた。
「イギリスの夏は短い。どこかに行こう!」
突然の招集だったが、全員が即、賛同した。
その日から短い夏をどう満喫しようかと、僕たちは作戦を練り始めた。
授業が昼で終わる水曜日、クラスメイト全員でケム川沿いのカフェ、『ボランティア』に集まった。一つのテーブルを六人で囲み、いつもの計画会が始まった。
「だから、スイスに行こうって。私の実家に全員泊めてあげるし、いろんな場所を紹介してあげるから!」
息巻くカリンに対して、フェリックスが臨戦態勢で返す。
「いや、だからさ、連休といっても三日しかないんだから、スイスはやめよう。遠すぎる。それに、みんなが初めてのところに行くべきだ」
エンディがうんうんと頷く。
気に喰わない表情のカリン。
「何よ、せっかく色々紹介してあげよう、って言っているのに」
口をへの字に曲げたカリンをアニカがなだめる。
「どうせなら、イギリスの有名どころをまわらないか?」
エンディが提案する。
「それ、いいね。グレートヨーマスとか、あと、夏だし、ブライトンなんかもいいんじゃない?」
亜衣子が、どう? という顔でみんなを見渡す。
アニカはみんなの表情を窺いながら、自分も意見を言わなきゃという様相で旅行雑誌を手に取る。
「えー、でも、近すぎるよ。それだったら、普通の土日で行けるじゃん」
不満顔いっぱいにカリンが口を尖らせる。
不機嫌そうにフェリックスがカリンを見やったその時、アニカが小さく叫んだ。
「あ! ここはどう?」
アニカがテーブルの上に雑誌を広げ、記事を読み始めた。
「八月第二週から三週間続くエジンバラ国際フェスティバルは必見。芸術祭のオリンピアードと呼ばれる世界最大級の音楽、オペラなどのお祭り。世界中から多くの人が集まり、普段静かなこの町も、このときばかりは興奮と喧騒の渦に巻き込まれる。メインイベントのミリタリータトゥーは一度、見ておくべき、だって!」
エンディも雑誌を覗き込み、なにやら考えたあとに言う。
「ちょうどいいな。スコットランドは遠からず、近からずだし。それに今、まさにフェスティバルをやっているしな。よし、ここにしないか?」
一同を見渡すエンディに、少し納得のいかない様子のカリンを残して全員が頷いた。
出発は土曜日だ。
土曜日の空は、カリンの怨念めいた祈りが届いたらしく、見事に晴れ渡った。
それぞれ泊りがけの荷物を持ってケンブリッジ駅に集合し、チケットを買い列車に乗り込む。これからが長旅だ。
ヨーク、ニューキャッスルを経由してエジンバラまで六時間。
初めは六人でわいわいと盛り上がっていたが、時間が経つにつれ、アニカとカリンが肩を寄せ合って眠り始めたり、エンディと僕がチェスを始めたりと、次第に静かになっていった。結局、三時間ほどした頃には全員眠りこけていた。
一時間ほど経っただろうか。僕はふと目を覚ました。
窓の外には数時間前と変わらない、のどかな草原や牧場風景が流れている。正面の席ではアニカとカリンが肩を寄せ合い眠っている。隣に座っていたはずのエンディの声が横並びのコンパートメントから聴こえてきた。
ちらりとそちらを窺うと、通路側にフェリックスが肘掛に頬杖をついてうたた寝をしており、窓側に亜衣子とエンディが向き合って座っていた。声をかけようかと思った瞬間、思いとどまった。エンディの思わぬ声が聴こえたからだ。
「アイコは日本で恋人はいたのか?」
なぜか僕がどきりとしてしまう。慌てて、寝たふりする。
「え? どうしたの急に?」
「あ、いや、どうなのかと思って」
エンディの声が上ずっている。エンディもニックに負けないほど、分かりやすい。
「ううん、いないよ。高校までは陸上一筋。それから就職して、仕事一筋なのだ」
「そうか」
「なによ、それだけ?」
「ああ、それだけだ」
途端にぶっきらぼうになったエンディの声に笑いを堪えた。そうだったのか。確かに、亜衣子とエンディは性格的にも合うと思う。お似合いだと思った。くすぐったい気持ちを胸に再び眠りに落ちた。
それから随分寝たような気がする。突然、肩を揺すられた。
「ジュン、もうすぐ着くぞ」
エンディだった。確かに列車の速度は落ち、停車の準備にはいっているようだ。
そのままエンディは全員を起こしてまわる。最後のカリンが目を覚ました時、列車はエジンバラのウェーヴァリー駅に滑り込んだ。
大きなリュックを背負ってプラットホームに降り立つと、そこはまるで大地の裂け目に落ちたかのような峡谷の底だった。
一斉に、みんなで一つの地図を覗き込む。どうやら、エジンバラという町は、東西に伸びる峡谷によって町が南北に分断され、その峡谷の底に這うように鉄道が敷かれていたらしい。列車もこの谷底を走ってきたのだ。
僕たちは早速、町を一望出来る『ノースブリッジ』という橋に向かうことにした。その橋は谷底にあるウェーヴァリー駅の真上を垂直に跨ぎ、町の北と南を繋いでいる。
這い登るように駅舎から一度、駅前通りのプリンスズロードに出て、ようやくノースブリッジに立った。真下には先ほど降りたプラットホームがあり、群れる蟻のように人が蠢いている。背筋がひやりとするほどの高さだ。僕は顔を上げ、町を一望する。そして、息を飲んだ。
そこはまるで、中世の世界に迷い込んだ、と錯覚を覚える町だった。
尖った屋根の大小様々な石造りの家がなだらかな丘に沿って建ち並ぶその景色は精巧な彫刻のようだった。そして、迷路のように入り組んだ石畳の小道が隙間を縫って所狭しと走っており、キャッスル・ロックと呼ばれる切り立った崖には、壮大なエジンバラ城が圧倒的な迫力でそびえ立っていた。
六人とも、暫しその筆舌に尽くしがたい景観に見入っていた。
「なんだか、歴史の教科書に入り込んだみたい」
亜衣子が感嘆の声を上げる。
「ホント、こんな格好いい景色、見たことないよ!」
カリンが続き、アニカもフェリックスも無言で口を半開きにして景色に見入っている。
「確か、あの城は昔、イングランド軍と戦争をやっていた時の最前線の要塞だよな。スゲーなぁ、まったく」
エンディの声に僕が頷く。本当に、タイムスリップした感覚だ。鎧をまとった騎士が馬に乗って駆けてきても不思議ではない、今にも蹄の音が聴こえてきそうな雰囲気だった。この景色だけでも、遥々スコットランドまで来た価値があったというものだ。
暫くしたのち、エンディがみんなに声をかけた。
「よし、まずはB&Bに行くぞ」
「おー!」
一瞬でスコットランドに魅了された僕たちは小気味よい返事をして歩き出した。
『B&B』とは『Bed & Breakfast』の略で朝食とベッドのみのサービスで、一般のホテルより低価格で泊ることができる宿泊施設だ。高級感は一切なく、どちらかというと、その町の一般家庭に泊らせてもらう感覚に近い。簡易ホテルみたいなものだ。
三十分ほど歩き、ミントストリート沿いのB&B、『シルクハット』に到着した。みんな一様に大汗をかいていた。
「あぁら、いらっしゃい」
突然、僕たちは声をかけられた。七十代くらいだろうか、上品なお婆ちゃんが玄関先の鉢植えに水をやっていた。エンディが一歩進み、お婆ちゃんに挨拶をする。
「こんにちは、ミセス」
「はぁい、こんにちは。予約をしてくれたお兄ちゃんかねぇ?」
物腰の柔らかい話し方をするお婆ちゃんだ。
「エンディ・クントです。二日間、お世話になります」
「はぁい。こちらこそ、お願いしますねぇ」
B&Bシルクハットは、他の家々と同じく、石造りで屋根も尖っていた。僕たちはお婆ちゃんに男女三人ずつ二階の二部屋にそれぞれ案内された。
僕たち男性陣の部屋はとても清潔感があり、温かみのある部屋だった。正規のベッドが二つと、ソファーベットが一つ並べて置いてあり、壁際にはレンガ造りの暖炉があった。もっとも、使用している様子はなく、暖炉の隣にある暖房器具を使用しているようだ。
僕たち三人はそれぞれ荷物を置いて、一階に下りていった。キッチンではお婆ちゃんが紅茶を人数分用意してくれているところだった。亜衣子たちはまだ下りてきていないようだ。
「今、紅茶をいれているからねぇ。もう少しお待ちなさいねぇ」
お婆ちゃんはそのゆっくりとした話しぶりとは逆にせかせかと動き回っている。
「あ、申し訳ありません。ありがとう」
エンディが答える。
「あなたたち、お名前は何と言うのかねぇ?」
たしか名前を記帳したと思ったけれど、僕たちは丁寧に答えることにした。
「俺は、エンディ・クント。トルコ出身です。それから、彼は――」
エンディは僕を目で促した。
「僕はジュンイチ・ナルミです。日本人です」
「俺はフェリックス・コッフェ。ドイツ出身です」
それぞれの返答を柔和な笑みで受け止め、お婆ちゃんが答える。
「そうですかぁ。みなさん、それぞれ遠いところからお越しになって。私の名前はエレナと言うんですよ。気軽にエレナと呼んでちょいうだいねぇ」
暫くして亜衣子たちも下りてきた。エレナお婆ちゃんは亜衣子たちにも名前を訊いて、「ティータイムにしましょう」とみんなを席に促した。
リビングにある大きなテーブルを囲んで、僕たちはエレナお婆ちゃんが語るスコットランドの文化や歴史に耳を傾けていた。そんな中、僕たちは残念な事実を知らされた。
「えぇ! ミリタリータトゥー、見れないの?」
カリンが驚いて叫んだ。
ミリタリータトゥーとはここに来た主目的でもあるパレードのことだ。開催期間中はエジンバラ城内に特設の観覧席が組まれ、エスプラナード広場に設営された巨大なステージでオペラやジャズなど、世界中のエンターテイメントが千種近く催される。
エレナお婆ちゃんは同情したような面持ちになる。
「あらあら、あれを見ようと思ったら、その日に来ていきなりチケットを手に入れようなんて絶対に無理だねぇ。随分前から電話で予約を入れないと駄目だねぇ」
「わぁ……。残念。本当に残念」
亜衣子がカリンと見合わせながら言う。
「でも、エジンバラ城内の見学はできるからねぇ」
なぜかエレナお婆ちゃんが申し訳なさそうな顔をして言った。
それから、暫く話しが弾み、気がつけば午後六時になっていた。
「そろそろ、晩飯を食いにいこうぜ」
エンディが提案する。
「そうだね。もう一度、ウェーヴァリー駅の方に行ってみようよ」
亜衣子の言葉にみんなが頷いた。
「夜は一応、十一時を回ったら鍵をかけてしまうけど、ベルを鳴らしてくれたら開けますからねぇ。今夜は二部屋ともお兄ちゃんたちだから、気にせず鳴らしてくれたらいいですからねぇ」
エレナお婆ちゃんに見送られ、僕たちは再びウェーヴァリー駅を目指して出発した。
荷物がない分、今度は十五分ほどで駅周辺の賑やかな場所まで出ることができた。
エジンバラにはウェーヴァリー駅の峡谷を挟んで北にはニュータウン、南にはオールドタウンという町が広がっている。僕たちはオールドタウンを探索することにした。
オールドタウンには、エジンバラ城とホリールード宮殿、その両方を結ぶ観光名所として名高いロイヤルマイルという道がある。僕たちは今まさにそのロイヤルマイルの石畳の上に立っていた。
ロイヤルマイルの両側には、灰色にすすけた石造りの店がひしめき合うように建ち並んでいる。ウール製品を扱う専門店、みやげ物屋、小さな博物館など魅力的な店が次々に目に飛び込んでくる。
面白そうな店を発見する度、カリンが入っていこうとするのをアニカが必死に止める。僕たちは溢れんばかりの人波を掻き分け、ディナーを食べられそうな店を探してぞろぞろと歩いた。
もうすぐ午後七時になろうかという時間だったが、通りはフェスティバルに高揚する雑踏に溢れ返っていた。
道の途中、等間隔で路上パフォーマンスを囲む人垣にぶち当たる。口から火を噴いている人もいれば、目にも止まらぬ速さで十個近い数のお手玉を回している人もいる。鎧を身にまとった騎士が戦っている。一メートルにも及ぶ剣を飲み込む人もいれば、空中に投げたトランプを一瞬で消し去る人もいる。
本当に楽しい町だ。路上パフォーマンスにはカリンだけでなく亜衣子も興味を抑えきれない様子で、隙をみては二人で人垣に潜り込もうとする。僕とエンディはその度にアニカをサポートして二人を阻止した。
「なによぉ! せっかくこんなに楽しい場所に来て、どうして止めるわけ? 全部見ようよ!」
カリンが怒って僕たちに吠える。
「だから、ディナーを食べてからにしよう。店が閉まっちゃうぞ。それに、間違いなく、明日も同じ場所で同じパフォーマンスをやっているさ。明日ゆっくり見れるって」
エンディが困った顔で答える。
カリンが納得できない表情で拗ね、亜衣子も苦笑いしながら諦める。
しかし、この様子を見て、僕は断言できる。亜衣子はカリンに合わせて無理にバカをやっているわけでは絶対にない。明らかに、カリンと同じノリを持っているのだ。少しだけ大人の亜衣子は、それこそほんの少しだけカリンより諦めがいいだけだ。
僕の隣では、相手にしてられないよ、との素ぶりで、フェリックスがクールにディナーを食べられる店を探していた。
暫く人ごみを分けて歩いたところで、僕たちは一軒のピザ屋を見つけ、そこでディナーをとることにした。
四人がけのテーブルを二つ繋げて六人で座った。
アニカがエジンバラのガイドブックを広げて口を開く。
「ねぇ、明日の予定を決めませんか? 二泊三日と言っても、自由な日は明日だけだし、見たいところを先に決めておいた方がいいと思うの」
「そうだな。エジンバラ城の見学は絶対に行こう。それと――」
エンディはガイドブックを覗き込む。他のみんなも覗き込み、小さなガイドブックに六人の頭が集まった。
「セント・ジャイルズ大聖堂はどう?」
亜衣子が写真を指す。
「いや、それもいいが、ホリールード宮殿はおさえるべきだよ」
「宮殿とかよりスコッチウイスキー博物館に行こうよ!」
フェリックスの宮殿案は間髪入れずカリンによって抹消された。
露骨にフェリックスが嫌な顔をしてカリンを見やる。カリンは涼しい顔をして、どう? とみんなに訊いている。
エンディが賛同の表情をカリンに向ける。
「スコッチウイスキー・ヘリテージ・センターか。ナイスなアイデアだな。やはり、スコットランドに来たのならば、行っておきたい場所だな」
途端にフェリックスの反撃が始まる。
「でも、俺もアニカも酒が飲めないんだ。そこに行っても俺たちは楽しくない」
「ドイツは十八から飲めるでしょ」
「法律の話じゃない」
「じゃあ、二手に分かれようよ。フェックたちは宮殿に行けばいいじゃん」
「え、でも、せっかくみんなで来たんだから、みんなで行こうよ」
カリンが噛みつき、フェリックスがいなし、再びカリンが応戦し、亜衣子がフォローする。そして、案の定、僕とアニカを残して収集のつかない口論が始まった。対峙するカリンとフェリックスにエンディと亜衣子が口を挟む、という構図だ。
五分ほどもめたあとに突然、カリンが苛立った視線を僕に向けた。
「ジュンはどうなの? 何処に行きたいの? はっきり意思表示しなさいよ。いつも、いつも僕知らないって顔してさ。こうなったらジュンが決めて。私はそれに従うわ!」
言いがかりだ……。そう思ったが、なぜか対立していたフェリックスがカリンに賛同して、分が悪くなった。
「そうだ。ジュンはいつも大人ぶった顔をしている。そんなクールなふりをしていないで、行きたい場所をはっきり言うべきだ。俺もそれでいい。ジュンに従う」
エンディは両肩をすぼめ、さじを投げたように「任せた」と言った。
亜衣子はニヤニヤしながら、この状況を楽しんでいるようだ。
アニカはいつも通り心配そうな顔でみんなのやり取りを聞いている。
僕は「OK」と返し、改めてガイドブックのページをめくった。とりあえず、近場でまわれる有名どころをピックアップしてゆく。
「じゃあ、午前中はエジンバラ城を見学、午後からセント・ジャイルズ大聖堂、最後にスコッチ博物館に行ってお酒を買って帰り、B&Bで打ち上げなんて、どう? これならウェーヴァリー駅周辺に密集しているし、一日でまわれる限度じゃないかな?」
カリンが「さすが日本人。無難ー」と嫌味を言いながらも賛同し、フェリックスを除くみんなが頷いた。ホリールード宮殿を見学したかったであろうフェリックスもエンディに諭され、渋々頷いた。カリンがフェリックスに見えないように舌を出していた。
僕たちはピザを食べたあと、そのまま寄道せずにシルクハットに帰り、明日に備えて早めに寝ることにした。
全員、電車の中でかなり寝たはずなのに、夜十一時にはもう、眠りに落ちていた。




