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13/22

13 故郷の天文台と星の海

 遥香との生活は穏やかに流れた。お互い学生の身であり、金銭的にも余裕がないこと、遥香が外出をしたがらないことも手伝って、僕たちは堅実な生活を送っていた。


 あの日から遥香は自分のアパートには帰っていない。もっとも、今、遥香のアパートにあるのはフローリングの床にぽつんと一つ、固定電話だけだった。週に一度、僕が留守録がないかをチェックしに行く、それが唯一あの部屋と今の生活を繋げる接点だった。

 スマホは着信拒否を設定し、メアドも変えた。僕たちは、あの男を完全に遮断し、新しい生活を始めたのだった。


 二人で暮らし始めて、一つ初めて知ったことがあった。遥香は夜に電気をつけることを怖がったのだ。理由を訊いても、彼女自身も分からないという。僕は遥香の過去を知った日のことを思い出していた。

 あの日、遥香は自分のことを「この世から消えてしまえばいいのに」と言った。今でも僕の心臓を無造作に鷲掴みする言葉。

 遥香はきっと暗闇の中に居すぎたのだと思う。だから闇の中で光を放つことに怯える。でもこのまま遥香を闇に溶かすわけにはいかない。僕が彼女を陽射しの下に連れ出し、まとわりつく全ての負の要素を拭い去る。そう、固く心に誓って暮らした。


 人ごみを怖がるようになった遥香に付き添い、夏休みまでの間、僕は彼女の講義にできる限り一緒に出席していた。しかし、秋になり、後期の授業が始まる頃になると、遥香は自ら変わろうと努めるようになった。一人で講義を受ける努力をし、精神的に厳しい時も自ら高揚感を煽って友人たちに混ざって受けるようにしていた。


 あの男によって、どん底まで引きずり落とされた僕らも、ようやく光が見えてきたような気がした。

 季節の流れとともに、発作の頻度も減ってきていた。

 なにより、遥香自身が顔を上げて、まっすぐと前を向くようになった。

 それは、とても喜ばしいことだった。


「それじゃ、また、五限が終ったら、いつものとこでね」


 遥香は手を振って、眩しいくらいに黄色く染まった銀杏並木の道を走ってゆく。

 昼休みが終わり、別の講義を受ける遥香と一旦別れたところだった。

 僕が三年生、遥香は二年生の、冬の匂いがし始めた季節。

 数ヵ月後の僕に待っているのは就職活動だ。一応、経済学を専攻していたが、別段、なりたい職業もなく、人生の岐路に対する準備は何もできていない。若干の焦りを感じるものの、遥香との生活に心は満たされていた。


 四限で今日の授業が終った僕はいつもの待ち合わせ場所、グラウンド脇の芝生が生い茂る土手に仰向けに寝転び、ぼんやり空を眺めていた。グラウンドからは、ラクロス部の甲高い掛け声が届き、少し肌寒い風が芝を揺らす中、いつしかうたた寝をしてしまっていた。


 髪を揺らす風に目を覚ました。薄らと目を開けて隣を見やる。

 そこには遥香が膝を抱き寄せるようにして座っていた。

 僕は身動きせずに、暫くの間、遥香の横顔を見つめた。また少し伸びたな、とうなじの上辺りで短く結んでいる髪を見て思う。遥香は練習試合をしているラクロス部の更に遠くを見つめている。

 僕の視線に気づいて遥香がふり向いた。優しげに目を細めると、言った。


「よく寝てたねえ。風邪ひいちゃうよ?」

「そんなに寝てた?」

「うん。私が来てからも十五分くらい」

「マジで? じゃあ、三十分は寝たなあ」


 遥香はふふと笑い、寝転んでいる僕に覆い被さるようにキスをした。

 心というマグカップにココアのような甘くて温かい飲み物を注がれるような感覚。

 幸せとはこんな感じなのかもしれない、と思った。



 日曜日の朝、目覚めるとコーヒーのいい匂いが部屋に漂っていた。どうやら先に起きていた遥香が淹れてくれているようだった。

 ベッドから起き上がり、キッチンで洗い物をしていた遥香に声をかける。


「おはよ。早いな」

「おはよー。何となく目が覚めちゃって」


 今日は遥香の二十歳の誕生だった。幼い頃、何度か僕の家で誕生日会をしたこともあったが、今の彼女は誕生日が近づいても、まったく素振りには出さなかった。僕は気づいてないふりをしつつも、実はプレゼントを用意していた。

 洗面所に赴き、歯ブラシを咥えながら遥香に言う。


「なあ、今日は久々に出かけようよ」


 途端、遥香の渋った返事が返ってくる。


「えー、お出かけかあ」


 顔を洗って部屋に戻ると、テーブルには湯気立つマグカップが二つ置かれていた。遥香が絞り目の音量で流行りの音楽をかけている。

 僕はコーヒーに口をつけ、何気ない感じで言う。


「今日はちょっとだけ、遠出したいな、って」

「でも……」


 相変わらず、遥香は部屋から出るのを躊躇する。そして、いつもと同じ言葉を口にする。


「せっかくの休みなんだから、家でのんびりしようよ」


 以前の僕たちは色々な場所に出かけた。遥香は、僕と一緒にいるとあまり緊張しないの、と言ってくれていた。しかし、あの日以来、極度に外に出るのを拒むようになった。北海道一周の旅はおろか、いつか一緒に行こうと決めた些細な約束も宙に浮いたまま、何処かへ消えてしまっていた。


 ただ、今日は遥香の誕生日だ。

 今日ぐらいは家の中ではなく、外に連れ出してあげたい。


「久しぶりによくない? まだ、一緒に住みだして一度も外でデートしてないし」


 僕の言葉に遥香は目を伏せる。


「ごめんね。私といると、外に出られないね」

「あー……、ごめん。そんなつもりで言ったんじゃなくて。その……、今日は遥香と行きたい場所があるんだ。そんなに人がいるところじゃないから」


 遥香は暫く黙り込んで考えたあげく、僕の顔を窺い、覚悟を決めた難しい表情で「分かった」と言った。


 コーヒーを飲み終え、気乗りしない遥香の背を押すように部屋を出た。

 秋晴れの空の下、僕らの乗った車は久しぶりに学校以外の場所に向けて出発した。


 小樽市街を抜けた車はのんびり西に向けてひた走る。全開にした窓から心地よい風が潮の匂いを連れて入り込み、カーステレオに繋いだ遥香のスマホからは彼女が選曲した流行曲が流れている。

 最初は口数の少なかった遥香だったが、徐々に話をするようになり、さざ波に煌めく真っ青な石狩湾が視界に開けた頃にはいつもの彼女に戻っていた。


「気持ちいいねー」


 遥香は本当に気持ちよさそうに言う。窓からばたばたと音を立てて入り込む風に遥香の髪がはためく。


「ねえ、淳一君。何処に行くの?」


 左手を窓から外に出し、風を受けて楽しんでいた遥香が、風の音に負けじと大きな声で訊いてくる。

 僕も大きな声で返す。


「内緒!」

「内緒になってなーい」


 遥香は笑う。


「やっぱバレた?」

「分かるよ」


 遥香は優しげな笑顔に柔らかい声で答え、見え隠れする蘭島海岸の碧い海と白い砂浜に視線を投げる。その表情はどこか嬉しそうに見えた。

 遥香が笑顔でいてくれるなら、それ以外は何もいらない。本気でそう思える。

 僕と遥香を乗せた車は故郷に向けて潮風の中をひた走っていた。


 昼下がり、小さな果樹園の町、故郷に帰ってきた。駅前交差点近くの駐車場に車を入れて、降りる。

 駅前は大きなカラオケ店ができた以外は昔からたいして変わっていなかった。今は廃校となってなくなってしまったが、すぐ近くにはかつて平屋の小学校があり、この道は僕たちの通学路だった。僕は時折、帰省していたので感慨はないが、遥香はおよそ十年ぶりだった。


 駅を背にして道路の向こうを見やると、古城のようなウイスキー工場のアーチが見える。


「懐かしい……」


 遥香は周囲を眺めながらふらふらと歩く。そして、突然、立ち止まり、澄み渡った秋の空に顔を向けて瞳を閉じ、動かなくなった。

 僕はすぐ横に歩み寄り、遥香の肩を抱く。

 遥香は何かを掴むようにぎゅっとこぶしを握り、そっと口を開いた。


「懐かしくて、嬉しくて、心が喜んでいるのに、悲しくて、苦しくて、逃げたい」


 静かな声だった。

 暫くの間があって、気を取り直すように遥香は小さく息を吐いた。

 僕は固く閉じられた遥香のこぶしを解き、指を絡めた。


「行こう」


 そして、努めて明るく続ける。


「ハラ、減ったし」

「あ、そういえば、おばさん」

「思い出した? うん。まだあそこで働いているよ」


 僕は遥香の手を引いて歩き出した。


 数分で僕の母親が働く二階建ての大きな海鮮商店に着いた。

 一階は威勢のいい声が響く水揚げされたばかりの魚介類が並ぶ店舗で、二階は海鮮食堂になっていて、店舗への階段には数人が列を成していた。

 僕たちは列に並び、二階の店舗へと入った。そこは、大きな大衆食堂で、通常は入り口で注文して席で待つのだが、僕は受付の店員に母の名前を出して素通りさせてもらった。


「ちょっと、待ってて」


 長机の一角に遥香を座らせ、厨房に赴き、母の呼び出しをお願いして席に戻る。

 店内を見渡し「なんか、変わっちゃったね」と呟く遥香とお茶を啜りながら母を待つ。

 暫くして、声が響いた。


「ハルちゃん!」

 

 遥香はぱっと表情を明るくさせ、席を立って振り向いた。

 濃紺の作業着にベレー帽をかぶった制服姿の小柄な母が小走りで駆け寄ってくる。


「おばちゃん!」


 遥香は眉尻を下げて、何かを堪えるような表情をした。

 母の顔を見た瞬間に、いつも遥香から放たれている緊張感のような尖った空気が凪いだ。

 母は遥香の前に立つと、両手で遥香の頬を挟み、愛でるようにぐりぐりと揉んだ。


「ハルちゃん、こんなに美人になって。大きくなったわね。淳一からハルちゃんのことを聞いたときは、本当にびっくりしたわ」


 遥香は頬を挟む母の手の甲に自らの手を重ねる。


「お母さんはお元気かしら? 東京では元気でやっていたの?」


 遥香は母の顔を、唇を噛んで見つめる。


「向こうで病気とか怪我とかしてないわよね? 昔からハルちゃんは興味のあることにはムチャをする癖があるから。淳一のあとをついて、外を駆け回って、擦り傷ばっかりつくって。女の子なのに、いつもヒヤヒヤしていたわ」


 遥香は眉根を寄せて、何も答えない。


「ハルちゃん?」


 母は何かを察したように質問攻めを止め、遥香の前髪をふわりと掻き上げた。


「おばちゃんね、ハルちゃんとまた会えて、本当に嬉しい」

「……おばちゃん」

「うん?」

「ただいま」


 そう言った瞬間、遥香はぽろぽろと二、三粒の涙の雫を落とし、すぐにそれを拭った。

 母は驚いた顔をし、一瞬、周囲の客たちを窺ったのち、すぐに目尻に皺を寄せて遥香の頭を胸に抱き寄せた。


「お帰りなさい、ハルちゃん」


 母に抱かれる遥香の背中が再び小刻みに震えた。


 暫くの間、遥香をあやすようにして落ちつくのを待ち、母は厨房へと戻っていった。

 十五分ほどして再び母が盆を持って僕たちの前までやってきた。


「おばちゃん特製スペシャル丼。どうぞ」


 母は僕と遥香の前にどんぶりを置いた。カニ、ウニ、いくら、エビ、マグロが載ったどんぶりだ。ちなみにこれらはホッキ飯の上に載っている母特製のもの。


「これ、メニューにないから、他の人にバレないように食べるのよ」


 遥香は色鮮やかな丼をじっと見つめて、嬉しそうに目を細めた。

 小さい頃、遥香がお泊りする日は、母がまかない用の海鮮食材を家に持ち帰り、よくこれを作ってくれた。またこの丼を一緒に食べられる喜びと、余りの懐かしさに、二人とも感慨に耽りながら、黙々と食べた。


 しきりに母は僕と遥香に「今晩は泊まっていきなさい」と誘ってきた。

 しかし、それはできなかった。なぜなら、僕の両親は必ず遥香に東京時代のことを細かく訊くだろうから。

 どうにか母の猛烈な誘いを振り切り、車に乗った。


 大きな橋を渡り、北に少し走って、車は湾に面した海水浴場に着いた。

 車を止めて、僕と遥香は海岸に出た。勿論、北海道の十月の寒空の下、海水浴をしている人は誰もいない。


 母と会ってからの遥香は子どもの頃に戻ったようにはしゃいでいた。車でもおしゃべりは止まらず、ここについてからも、いきなり「やばーい! 懐かしいー」と大きな声を出しながら、靴と靴下を脱いで、波打ち際まで走っていった。そして、恐る恐る裸足のつま先を海に落とてふり向く。


「ひゃー、つめたぁい。ねぇ、淳一君もはやくおいでよ!」


 遥香は楽しそうに、ゆっくりと近づく僕に向かって叫ぶ。

 海辺は風が強かった。遥香も僕も髪が風に流される。


「あ! ほら、見て!」


 遥香は小さな貝殻を見つけ、僕の方へ腕を突き出して見せた。


「ほら、虹色。きらきらしてる」


 拾い上げられた貝殻はぽつぽつと雫を海に還している。

 無邪気にはしゃぐ遥香。周りはひと気のない秋の海。視界にあるのは唯一、空と海を隔てる真っ直ぐな一本の水平線。陽射しを分散しながら反射させる遠くのさざ波を背に、片手で髪を押さえる遥香が輝いて見える。それは、素朴な額縁に飾られた一枚の優しい絵画のように見えた。


 今、この瞬間、遥香は、暗闇から解放されている。


 そう思えて、自然と笑みがこぼれる。


「サイコー!」


 僕は叫ぶ。

 遥香はこちらを向く。

 僕は大の字になって砂浜に寝転ぶ。

 視界は青空に夕暮れを混ぜ込んだ美しいグラデーション。

 砂浜を踏む足音が聴こえ、もぞもぞと左の小脇に何かが動き、重くなる。遥香も寝転び、僕の腕を枕にして空を見上げていた。


「あ、一番星」

 

 遥香の視線を追って西の空を見やる。ほんの僅かに赤みを帯びた西の水平線の上に小さく光る星があった。


「なあ、遥香」

「うん」

「見にいこう」

「うん」


 行き先を確かめ合う必要もなかった。

 僕らは車に乗り、小さな天体観測所に向けて、走り出した。


 陽も暮れた薄暗闇の中、鬱蒼と茂る山道を抜け水産博物館に着いた。

 旅館を彷彿させる白塗り三階建ての建物は、今も、弁財船のミニチュアや船箪笥、明治時代の定置網漁の木版画、ニシンの加工に使ったさまざまな道具などが展示されている博物館だ。ただ、もう入館時間を過ぎているので、建物の灯は消えており、しん、としていた。

 

 僕と遥香は入り口に近づき、中を窺う。


「入れないね」


 遥香は少し緊張した声色で言う。


「なめてもらっちゃ困る」

 

 遥香の手を引いて、博物館の裏側にまわる。背丈を越える雑草をかき分けて、奥から二番目の窓の前までやってきた。


「ちょっと、淳一君、まずいよ」

 

 心配そうな遥香に、得意顔を返す。


「ほら」

 

 僕が手に掛けた窓は、あっさりと開いた。


「うそ」

「もう十年以上、この窓の鍵は壊れたままなんだ」

「よく、そんなこと知ってるね」

「観測所が閉鎖されたあとも、時々来ていたから」


 僕は窓によじ登り、遥香に向けて手を差し伸べる。


「大丈夫かな」


 遥香は周囲を窺うように僕の手を握り、僕は彼女を引っぱり上げた。


 博物館の中は暗闇だった。携帯電話のフラッシュ用ライトを点けると、目の前に巨大な弁財船の模型が浮かび上がった。僕と遥香は息を殺しながら、船の脇をすり抜け、三階まで階段を上った。


 三階は壁一面がショーケースになっていて、水産加工用の古い器具が数多く展示されていた。僕たちは忍び足で屋上の観測所に続く階段に辿り着く。早速、遥香とアイコンタクトを交わし、段ボールや束ねられた書類などが無造作に置かれた階段を上ってドアの前までやってきた。

 

 鍵を開け、そっとドアを開けた。途端、ひんやりとした風が僕らを包み込む。

 外は既に夜の帳が落ちていて、遥香は寒そうに両腕を組んで身震いをした。

 目の前にはドーム型の天体観測所が聳えていた。


 銀色のドームの中には八センチと六センチの望遠鏡が二基ずつあり、更には十五センチ望遠鏡まで設置されている。ここは小さいながらも、かなり本格的な天体観測所だった。設備の老朽化で随分昔に閉鎖になってしまったが。


「懐かしい……。今日、何回、この言葉を言ってるんだろ」


 遥香が観測所を見上げて呟き、笑った。

 僕は屋上の隅にある朽ち果てたプランターを持ち上げ、ライトで照らす。そこには、昔、内緒で作った観測所の合鍵が隠してあった。雨ざらしの中にあったので鍵はかなり錆びていた。小さな鍵を手に遥香のもとまで戻る。


「使えるかな、これ」

 

 鍵を見せると、遥香は苦い表情で言う。


「無理だと思うよ」

「いや、折れないように気をつければ」

「そうじゃなくて」


 遥香はドアを指さした。ドアは南京錠でガチガチに施錠されており、張り紙が貼ってあった。


『不法侵入者の報告があり、施錠しております。老朽化により大変危険ですので絶対に入らないで下さい』


「これって、絶対、淳一君のことだ」

「まじか……」


 折角、ここまで来たのに……。

 と、そこで、遥香が僕の腕を掴んで、夜空を指さした。


「凄いよ」


 僕も夜空を仰ぐ。そして、息を飲んだ。

 天空には光の砂をぶちまけたような数えきれないほどの星々が煌めいていた。三等星の儚い瞬きさえも見える。瞬間、光が一つ流れた。


「流れ星!」


 遥香の嬉しそうな声が響く。

 まあ、いいか、と思った。遥香が嬉しそうなら、それでいい。

 僕たちは屋上に寝転んで夜の天空を見上げた。


「オリオンみっけ」


 遥香の指の先を追うと、そこには有名な星座が光り輝いている。


「オリオン座の左上の明るいのは?」

「なんだっけ……。シリウス?」

「シリウスはその下、ギリ見えてる一番明るいやつ」

「あ、ベテルギウス!」

「当たり。で、あれがプロキオンで」

「冬の大三角!」


 僕は、じゃあ、あれは? と星空を指さす。


「えっと……、カペラ?」

「正解。じゃあ、その右下の明るいのは?」

「アルデバラン。おうし座」


 遥香は僕の方を見て、自分の言葉に驚いたような声色で言う。


「意外と覚えてる。凄いね、記憶って」

「そりゃ、覚えてるさ。どれだけ一緒に星を見にきたと思ってるの」


 僕は遠い昔に戻ったような錯覚を起こす。小さな遥香が僕の服の裾を引っ張って、あれはなに、あれはなに、と矢継ぎ早に質問ばかりしてくる記憶。

 秋の夜空にはその他、カシオペヤ座、ペルセウス座など、もう冬の星座が並び始めていた。また、雪の季節が来るんだな、と思った。


「淳一君」

「うん?」


 遥香は何かを言おうとして、言葉を飲み込んだようだった。

 僕は身を起して、遥香を覗き込む。遥香は腕を僕の首に絡め引き寄せた。僕は遥香に覆いかぶさるような格好で抱きしめられた。

 暫しの沈黙があって、耳元に遥香の声が聴こえた。


「おばさん、元気いっぱいで昔と変わってなかった。海も星空も変わっていなかった。淳一君も変わっていない。嬉しいな。そして、ちょっと悲しいな」

「悲しい?」

「私だけ変わっちゃって、ごめんね」


 その言葉に僕は身を起こし、遥香を見下ろす。


「遥香は変わってない」


 遥香は瞳に翳りを揺らせて、頷かなかった。

 僕はポケットからラッピングされた細長い箱を取り出し、ヒラヒラと箱を揺らせて見せる。


「なに……?」


 遥香は身を起こして、首を傾げる。


「誕生日おめでとう。遥香」


 途端に遥香は驚いて、両手で口を押さえた。


「憶えてたんだ……」


 遥香は嬉しそうな顔をしなかった。


「困ったな……」


 遥香の呟きに、僕は、くん、と喉が閉まった圧迫感を覚える。


「……、遥香?」


 遥香は曖昧な笑みを浮かべ、言葉を探すかのようにじっと箱を見つめる。

 沈黙。そして。


「淳一君。私……、あの時から……、あの日から、私が生まれてしまったこの日を嫌悪するようになってしまってるの」


 あの日とは、遥香が高校二年生のあの日のことだろう。


「どうしても、嬉しいと思えない。いつも誕生日になると、どうして生まれてしまったのだろう、とそればかり考えてしまう」

「遥香……」

「私が生まれなければ、私もこんなに苦しい想いをせずに済んだし、お母さんにだって、一生言うことのできない秘密を持つこともなかった。そう。誕生日って、私がここに存在する理由を一日中問われる日。私にとって、不必要で、長くて、キツい一日」


 僕は今、きっととても悲しい顔をしていたのだろう、と思う。

 僕の顔を見て、遥香が言葉を一度、切った。そして、次の瞬間、渚のような優しい静寂を瞳に揺らせ、続けた。


「でも今日は、あまり辛くないの。淳一君がそばにいてくれるから。淳一君が私にここにいていいよ、って言ってくれるから」


 遥香は微笑みを絶やさない。

 星空の下、僕は遥香を抱きしめる。


「淳一君にこうされると、凄く安心する。淳一君が私の生きている理由。そして、淳一君を好きな自分を少しだけ好きになれる……」


 僕は夜空を見上げ、星の位置から方角を確認する。


「遥香、ちょっとあっちを向いて」


 僕は遥香の肩を掴み、ある方角へと向かせる。そして、その背後でプレゼントのラッピングをはがし、出てきた長細い箱を開けて、ネックレスを取り出した。

 それはひまわりをモチーフにしたシックなシルバーのネックレスだった。

 

 僕は、遥香の首の後ろから手を回し、彼女の胸元にひまわりを飾る。

 遥香はひまわりを手にとり、感嘆の溜息をこぼす。


「きれい……」


 僕は背後から遥香を包むように抱きしめ、言った。


「今、遥香が向いている方角、分かる?」

「ううん」

「東だよ。夜明けの方角」

「うん」

「これからはそのひまわりが方角を教えてくれるよ。もう遥香が迷子にならないように」

「……」

「誕生日おめでとう。遥香」


 遥香はもぞもぞと僕の腕の中で振り向き、至近距離で見つめたった。


「私、自分の誕生日をこんなに嬉しく思えたの、初めて。今日は本当に――」


 遥香は続けて、初めての言葉を口にした。それはいつも口癖のように言っていた「ごめんね」とは違っていた。


「ありがとう」


 泣き笑いのような顔で遥香は僕にキスをした。


 翌日から平穏な毎日に戻った。

 相変わらず、遥香の対人恐怖症は治ってはいない。ただ、バイトで帰りが遅くなった夜、見上げたアパートの三階の部屋から漏れる明かりが彼女の心の変化を映し出していた。

 緩やかに遥香は回復している。そして、そんな彼女が僕の心を満たしてくれている。

 遥香は僕を生きる理由だと言った。

 僕にとっても遥香は生きる理由だった。

 この時の僕たちは、確かに、繋がっていた。

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