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12 コロンビアの悪魔な美少女と不細工な勇者

 どんよりと重たく気だるい雲が低い空を塗りつぶしている。

 到着した当初、快晴ばかりが続いてが、ここにきてようやくイメージ通りの日々が続いていた。灰色の町、ケンブリッジ。ロンドンは霧も加わって、更にひどいのだろうな、と想像する。

 六月中旬。日本ならば梅雨のど真ん中だ。あの気分さえも滅入らせる雨ばかりの季節を、今年限りとはいえ、回避できたのは嬉しかった。なにより、滅入ることすらできないほど腐敗していた僕の心は、明らかにここでの生活に癒されていた。


 マーティンと出逢ったあの日、僕は感じた。この胸の奥深く、埋もれ火のように燻る何かを。この国に来て初めて感情を抑えきれなくなった時に、心臓が爆発しそうなほど激しく胸を打ったあの脈動を。まるで、その何かが存在を認めろと自己主張をするような。

 遥香を襲っていた発作とはこのようなものだったのだろうか。

 無気力だった日本での日々。

 それは、僕が知らずうちにその何かを抑え込むためにとった手段だったのかもしれない、と思った。


 いつもと変わらず朝八時に起きて、シャロット、ニック、僕の三人で朝食の席についていた。

 イングリッシュ・ブレックファーストはいつも同じメニューだ。

 パンとコーヒー、メインの目玉焼きに脂の乗りすぎたベーコン三枚。それにフライドポテト。思わず野菜を探してしまうがどこにも見あたらない。

 日本ではいつも朝食を抜いていた僕にとって、このこってりとしたシャロットスペシャルは未だに重たい。

 しかし、料理が趣味と言い切る彼女自慢のブレックファーストを断る勇気もなく、毎朝黙々と食べている。


 ここでの生活ももう二ヶ月。日常英会話は予想を越えて早々に不自由を感じることはなくなっていた。ひとえに同居人が普通の人を遥かに凌ぐおしゃべり好きだからだ。

 今朝もシャロットとニックが、よく同時に食事ができるな、と思えるほど話に華を咲かせている。


 スイス産のフォンデュとラクレットについて散々語り合ったあとだった。

 ふいにシャロットがナイフとフォークを置いて、黙ってニックを見据えた。

 ニックも何事かと口をつぐむ。


「ニック。そういえばもうあと一週間ね」


 シャロットの突然の言葉だったが、ニックは寂しそうに目を細めて「Yes」と短く答えた。

 僕は何のことだか分からず、訊ねる。


「もうすぐ、って、なにが?」


 それにはニックが答える。


「ジュン、僕と君が出逢ってどれくらいになると思う?」

「そうだな、二ヶ月くらいかな?」

「そう。早いよね」


 その言葉に、さすがの僕も気づいた。


「あ!」


 ようやく気づいた僕に、シャロットが続く。


「そう。あと一週間でニックはスイスに帰国するのよ。そこで提案なんだけど、ニックが帰るまでに一度、三人でパーティをしましょう。なんなら腕をふるってご馳走を作るわ」


 シャロットの勢い余った台詞を聞いた瞬間、僕とニックは、はっと目を合わせる。そして、同時に言った。


「たまには外で食べよう!」


 シャロットは気分を害するでもなく、たまにはいいわね、と快く了承してくれた。


 ニックの想い出に残る時間は、やはり美味しい料理を食べさせてあげたい。シャロットには悪いと思うけれど。ニックもほっとした表情をしていた。


 それにしてもニックがあと一週間でいなくなるとは……。

 確かに以前聞いていたはずなのに、すっかりと忘れていた。

 この国に来て、すぐに順応できたのは他の誰でもない、ニックのおかげだ。本人は気づいていないだろうが、夜な夜な聞かされたニックの壮絶な失恋話や、かわいい店員がいるからと町中引っ張りまわされた日々が僕のヒアリング能力を急速に高めてくれたのだ。ニックが帰国する前に僕も何かしてあげたいと思った。


 その日の夜遅く、ベッドに寝転んで日本から持参してきた文庫本を読んでいると、ドアがノックされた。


「ジュン、まだ起きてる?」


 ニックの遠慮がちな声。


「ああ、起きているよ」


 僕は本を閉じて身を起こす。

 両手にサイダーのビンを握ったニックが部屋に入ってくる。


「遅くに悪い」


 そう言うとサイダーを一本僕に投げてよこした。

 サイダーの蓋を空け、乾杯する。


「ニック、もうすぐだね。どうだった? この二年間」

「まあ、間違いなく楽しかったよ。随分と英語を話せるようになったし。沢山の人とも出逢えた」

「ニックには感謝しているよ。初めてのホストファミリーがニックで本当によかった。少し早いけど、ありがとうな」


 ニックは照れ笑いして「まだ、あと一週間はいるんだからな」と軽く睨み、急に真面目な顔つきになった。


「ところで、ジュン。折り入ってお願いがあるんだけどいいかな」


 ぽっちゃりと張りのある顔に、珍しく眉根にしわを寄せている。


「実は、僕、好きな女の子がいる」


 ニックはぼそぼそと言い、頬を赤く染める。


「へえ、次はどの店の店員? 例のパブの娘? それとも先週行ったピザ屋の娘?」

「あ……、いや、違うんだ。同じ学校の娘なんだ。コロンビアの娘で、実はここに来てからずっと好きだったんだ」

「え? じゃ、二年も? なんだよ、ちゃんと好きな女の子がいるのに町中かわいい娘巡りとかやっていたの?」

「だって、いくら好きでも相手にしてくれるわけないと思うだろ。なんていったってこの僕だぜ?」


 外巻きカールの髪型に太めのスタイル、独特の服装センス、微妙に上を向いた鼻……。

 そんなことないだろ、と言おうと思ったのに自然と頷いてしまった。

 慌ててかぶりをふって補足する。


「相手にしてくれるわけがないと思った、ってことは相手にしてくれたの?」


 途端に、ニックは破顔する。


「聞いてくれ、ジュン。この前、僕の学校で例のディスコパーティがあったんだ」


 ニックの学校は月に一度、食堂を開放してディスコを開いている。学生DJが取り仕切った結構本格的なフロアを用意するらしい。

 ニックが熱い口調で続ける。


「踊り疲れた僕はクラスメイトから外れて休憩場所を探していたんだ。そしたら、ほら、ダンスフロアを作るために普段使っている長机とか椅子とかを壁際に集めるじゃない。そこに頬杖をついた彼女がいたんだ。一応、彼女とはこの半年間同じクラスだったし、勇気を出して話しかけたんだ。踊らないの? って。そしたら、足を挫いていて踊れないのって。それから初めて彼女と色々話ができた。彼女は時々微笑みながら僕の話を聞いてくれた。で、彼女も母国のことを話してくれた。遠く想いを馳せたような瞳で……、また、その遠い目をした彼女は凄くかわいいんだ。なにより彼女が素晴らしいのはその彼女独特の雰囲気。おしとやかで、品位があって、なんというか――」


 暴走するニックに呆れて「話が全然進んでないんだけど」と突っ込む。

 ニックは、はっと夢から覚めたような顔をして、ゴメンと肩をすくめ、話を戻した。


「で、僕もイギリスにいるのはもうあと一週間だし、スイスに帰ったら兵役だし、後悔したくなかったから……、その……、誘ったんだ。一緒に遊びませんかって」

「そしたら?」

「いいですよって言ってくれた! 奇跡だよ」


 ニックは感極まった表情で今にも泣き出しそうだ。


「それで、何処に行こうって言ったの?」

「シティセンターのショッピングモールに映画館があるじゃない。あそこで一緒に映画を見ませんか? って言った」

「よかったな。初デートだ。頑張れ」


 僕は心底そう思い、ニックの肩を叩く。

 しかし、ニックは表情を曇らせる。


「それでさぁ、知ってると思うけど、僕、女の子と二人きりでデートをしたことがないんだ。付き合ってもらえないかな。……ジュンも誰か女の子を誘ってWデートをしてほしいんだ」

「女の子を誘って、って僕もそんな気軽に誘える女友達なんていないよ。第一、その彼女だっていきなり知らないヤツが二人も現れたら楽しめないんじゃないの?」

「彼女は大丈夫。人見知りは全くしないから。それに、同じ学校のヤツらとは行きたくない。ジュンしかいないんだ。お願いだ。頼む!」


 ニックから必死さが伝わってくる。


「OK, とりあえず僕も誘うだけ、誘ってみるよ」


 ぱっと表情が明るくなったニックは僕の手を固く握る。


「Thanks, so much!!」


 そう言って、胸元で十字をきっていた。


 翌日。

 授業が終わり、宿題を忘れてきたカリンがミセス・アンにくどくどと絞られている最中、僕は沢木亜衣子に声をかけた。

 食堂まで一緒に来てほしい、との申し出に亜衣子は「OK」と軽い二つ返事を返してくれた。


 食堂は階段を下りてレセプションと反対側のドアをくぐった先にある。

 ユーロスクールの食堂は、規模は小さいものの味がいいと評判で、更には中庭に張り出すオープンテラスまであり、ケンブリッジにある語学学校の中でも人気が高いとのことだ。


「あ、その辺に座ってて」


 僕はそう日本語で促すと、自動販売機まで行き、紙コップのコーヒーを二つ買った。

 長机の端に座っている亜衣子の対面の席に腰かけ、コーヒーを手渡す。

 亜衣子はにっこりと微笑み、訊いてきた。


「それで、お姉さんに相談って何でしょうか?」

 

 亜衣子は何かを期待するような表情で、突然の呼び出しを楽しんでいるようだ。


「お姉さんって……。殆ど同じ歳だろ」

「いいから、いいから。こんなお呼び出しをしてもらえるなんて何年ぶりかな。さあ、言ってみなさい。ドーンと力になるよ? それとも、もしかして私に告白?」

「なっ、ち、違う、違う」


 慌てる僕を見て、亜衣子は口を尖らせる。


「なによ、そんなに思いっきり否定しなくていいじゃんよ」


 亜衣子は腕組みをしながらそっぽを向く。


「ごめんごめん。なあ、聞いてくれよ」


 途端、亜衣子は身を乗り出し、「なに、なに?」と訊いてくる。一瞬、亜衣子についていけずに唖然とする。

 日本人同士、普段からよく話はするのだが、こうして二人きりで話すのは初めてだった。いつもはカリン、アニカと仲がよく、特にカリンと悪乗りしてふざけ合っていることが多かった。いつもアニカが二人のフォロー役だ。


「亜衣子ってノリが若いよね」


 僕は少しげんなりして言う。


「殴るよ?」

「あ、いやごめん」

「まあ、いいや、許してあげる。で、何? もちろん面白いことだよね?」


 僕は事の経緯を亜衣子に説明した。

 ニックのこと、コロンビアの彼女のこと、それにニックの容姿を添えて。


「というわけで、協力してほしいんだ。今週の土曜日、映画に付き合ってくれないかな?」


 亜衣子が興味深そうに聞き入っていた。

 そして、うんうん、と頷いたあと口を開いた。


「淳一さあ、私とデートしたいなら、そんな手の込んだことしなくても大丈夫だって。もっと素直に言えばいいのに。分かったわ。デートしてあげる」

「だから、違うって」


 僕の反論を、亜衣子はもう聞いてはいなかった。



 Wデートの前日。

 金曜日の放課後、開放感にざわつく教室で僕はエンディから借りたノートを写していた。

 左から右へ文字を追っていると、視界の端に、にょきりと手が現れた。顔を上げると、亜衣子だった。


「ねえ、淳一。今日、そのニック君と会わせてくれないかな。この前の話じゃ、ニック君、かなり服装センスがヤバイんでしょ?」


 机に腰かける亜衣子の服装は、グレーのパーカーにジーンズ。いつも通りシンプルこの上ない。


「センスがヤバイというか、独特の感覚を持っているというか……。でもたしか今日は早くに帰ってくるはずだから、会えると思うよ」

「よし、決まり。今から淳一の家に行こう」


 帰り道、道沿いの木々や路上の水溜りが夕陽を反射させるチェリーヒントンロードを、亜衣子と並んで自転車を押しながら歩いた。

 隣を歩く亜衣子はずっとしゃべりっぱなしだった。僕はここまで殆ど相槌しか打てていない。


「あとさあ、淳一さ、カリンとかともよく話しているんだけど、少しおとなしいよね。カリンとフェックが大喧嘩していても、我関せず見たいな感じだし……。というより、ニコニコして見ているよね。いっつも」

「そうかな。そういえば、エンディにも言われたな。そんなにおとなしい?」

「うん。おとなしいというか、何があっても無反応というか。私、あのクラスで一番年上じゃん? それでも努めてバカやってるよ。カリンは二十歳だし、アニカに至ってはまだ十八歳。でもあの年頃の子たちと一緒にいて大人ぶるのは嫌だし、逆に日本ではできないから楽しんじゃえって感じだよ」


 純粋に好きでバカをやっている風にしか見えないが、言うのはやめておいた。


「淳一もさ、もっと自分を出しなよ。典型的な日本人って言われてるよ。それに、自己主張の少ない男は魅力ない。このままじゃ、モテないぞ?」


 亜衣子は僕を指差し、悪戯っぽくにやりとしてみせる。


「ああ、いいよ。別に恋愛したくてここに来ているわけじゃないし」

「ほら、これだ」


 亜衣子は、しょうがない、という声でぼやき、続ける。


「そういえば淳一がイギリスに来た理由って、そろそろ聞けたりするのかな。英語を好きになるために、ってのはなしで」


 僕は、この質問に対していつも困ってしまう。未だに真っ当な回答を持っていなかった。


「あ、いや、深くは考えたことはないかな。別に目的があって来たわけではないんだ。ただ、日本を出てみたかったって感じ」

「何か日本で辛いことでもあった?」


 どきり、とした。そして、じわりと胸に何かが染み込む。

 亜衣子から視線を逸らせて黙りこんだ。

 上手くかわすことができなかった。


 僕の横顔を覗き込んでいた亜衣子は視線を前に戻した。


「まあ、いいや。淳一はMr.ミステリアスだね。でも、何か助けてほしいことがあったら、ちゃんと言いなよ。今回みたいなことじゃなくてさ。こんな遠い地で出逢うなんて何かの縁だしね」


 胸の中に、じんじんと優しい温もりが生まれる。

 僕は「ありがとう」と呟いた。亜衣子には聴こえたのかは分からなかった。


 亜衣子は両腕を空に突き出し、「んー」と伸びをしながら言った。


「でも、あれだね。日本語でこんなにしゃべるのって久しぶり。やっぱり、思っていることを正確に表現できるって気持ちいいね」


 僕は日本語でも上手く表現できないことが多い。それでも「そうだね」と答えた。


 微かな夏の匂いを連れた風が僕たち二人の間を通り抜け、亜衣子のポニーテールを揺らす。僕たちはもうシャロットの家の傍まで来ていた。



 ドアを開ける前から僕の気配を察知したべスィーが吠えている。

 「I’m back」とドアを開けた瞬間、べスィーが飛びついてくる。膝を折ってべスィーを受けとめ、頭をぐりぐりと撫でてやると、べスィーも僕の頬を唾液でべっとりとなるほど舐めてくれる。これが僕とべスィーの挨拶になっていた。


 続いて亜衣子がドアをくぐる。亜衣子の気配を察知した二匹の三毛猫が、ソファーから飛び降り、床に伏せるように身構える。「あ、猫」と亜衣子が一歩踏み出した瞬間、突風のようなすばやさで、ドキー&ドジーは逃げ去った。亜衣子は「あらぁ、嫌われちゃった?」と苦笑いしている。


 僕は亜衣子にソファーに座るように促して、洗い物の音が聴こえるキッチンへ赴いた。


「ただいま、シャロット」


 シャロットは水を止めて僕の方へ振り返る。


「Hi, ジュン。ディナーは少し待ってね。今から作るから」

「シャロット、実はお客さんを連れてきたんだ。紹介してもいいかな」

「あら、ジュンがお客さんを連れてくるなんて初めてね」


 シャロットは手を拭いながら、僕に続いてリビングにやって来る。そして「ワオ!」と大きく両手を広げ、亜衣子に握手を求めた。亜衣子も立ち上がり、それに応じる。


「よく来てくれたわね。シャロットよ」

「初めまして。アイコ・サワキと申します。突然お邪魔してすいません」

「アイコね。ジュンウィッチと違って発音しやすい名前ね」


 シャロットは考えるように「アイコ、アイコ……」と呟き、再び亜衣子に向く。


「アイコは日本人よね? しかし、日本人の名前は面白いわね」


 僕と亜衣子は意味が分からずに顔を見合わせる。


「だって、ジュンとアイコでJUNAI でしょう。確か日本語で意味があった言葉よね?」


 シャロットは悪戯っぽく笑み、僕たちもなるほど、と苦笑する。


「しかし、ジュンにこんなかわいいガールフレンドがいるなんてね」


 シャロットは僕の肩を軽く叩く。


「ユーロスクールのクラスメイトなんだ」

「それにしても、ニックにも見習わせたいわ。あの子、二年もここに住んでいて一度も女の子を連れてきたことがないのよ。ジュンなんて、まだ二ヶ月なのにね」


 シャロットは僕に向かってからかうようにウインクする。

 亜衣子がシャロットに訊く。


「そのニック君に会いに来ました。もうお帰りですか?」

「あら、アイコはニックを知ってるの?」

「いえ、初めてです。その……」


 亜衣子が話していいものか悩んだ様子で僕を見やる。


「あー……、実はニックから相談を受けていて……、その、アイコに女心について教鞭を執ってもらおうかと思って」


 僕の苦しい言い訳に、シャロットはにやりと唇を歪ませ、何かを見抜こうとするように両目を細める。


「さあ、全部、吐きなさい。自分たちだけで楽しもうだなんて、認めないわよ」


 シャロットに詰め寄られ、結局、僕と亜衣子は顛末を白状させられた。


「OK, 事情は大体分かったわ。こんな、楽しい計画を隠していたなんて」

「でも、シャロット。ニックにはシャロットが知っていること言わないでよ。ニックにとったら人生の一大事なんだから」

「いいわよ。でも、結果だけは必ず報告してちょうだい。こんなにわくわくする計画は久しぶりだわ」


 三人でティータイムを楽しんでいたところにニックが帰ってきた。


「Hey, ニック。あなたにお客様が見えているわよ」


 シャロットがいち早く声をかける。


「客? 誰?」


 ニックがリビングに入ってくる。同時に亜衣子が席を立ち、挨拶をした。


「はじめましてニック君。アイコと言います」


 ニックは訪問者の女の子を見た途端に赤面し、挙動不審な状態になりながら、「ニックです」と俯いて答えた。

 その様子を見ていた三人は同時に視線を交わし、亜衣子は項垂れて「これは重症ね」と呟く。

 ニックは状況が理解できず、ぼさぼさの頭を掻いていた。


 僕とニック、アイコは僕の部屋に移動し、改めて自己紹介をした。そして、亜衣子の訪問理由を説明した。デートに付き合ってくれるのが亜衣子だと知り、ニックはようやく彼女を直視するようになった。


「それで、ニック君。明日、着ていく服とかもう決まってるの?」

「え、あ、まあ決まっています」


 じっと自らを見つめる亜衣子に、なぜか敬語で答える。


「よし。それでは、着替えターイム!」

「え?」

「さあさあ、ニック君。自分の部屋に戻って明日着ていく服に着替えてきて」


 ニックは困惑した視線を僕に送ってくる。僕は目であきらめろと伝える。ニックは頭を掻くと、階段を下りていった。

 ニックが一階に下りたのを見届けて亜衣子が口を開いた。


「あのヨレヨレのシャツはヤバイって。しわしわのチノパンもやめさせよう。まあ、明日用のはさっきよりはマシな格好になっているだろうけど」


 そうだろうか、と思いつつ、僕は失笑するしかなかった。


 五分ほどしてニックが戻ってきた。

 ニックがドアを開けた瞬間、亜衣子は「うわ」と漏らした。

 僕は慣れていたが彼女には強烈だったらしい。


 ニックの勝負服。世界各国の小さな国旗がばら撒かれた派手なアロハ風のシャツによれよれのチノパン。しかもシャツをパンツに入れてベルトをしている。極めつけはがっつりと開いた胸元から覗いているチョーカー。銀色の大きな羽が何枚もぶら下がっている。


 亜衣子は疲れきった顔をして僕の方を見た。


「な。ニックが気合を入れるといつもこんな感じ」


 僕の言葉に、亜衣子は苦虫を噛みつぶしたような顔をした。そしてニックの方に向き直り、「とりあえず、そのチョーカーは外そうよ」と指差した。


「え? 結構、気に入ってるんだけどな」

「お願いだから明日だけは外そう。それと、その派手なシャツもやめようね。普通のシャツ持ってない? ニック君、まだ二十三でしょ? 中年の人が間違った方向に頑張って若作りしたみたいになってるよ」


 亜衣子の歯に衣を着せぬ物言いに、ニックは絶句して固まる。


「それと、普通のジーンズを持ってない? 色は何でもいいから。特別なお洒落なんかしなくたっていいよ。ただ、若いんだから、相応の格好をしようよ」


 一気に言い終えると、亜衣子は「ああ、もういいや」とニックの腕を掴んだ。

 女の子にふれられて身をこわばらすニックを黙殺し、亜衣子は「案内して」と言って、ニックの部屋へと降りていった。


 何でもずけずけとものを言う亜衣子だが、クラスメイト全員からは好かれていた。勿論、僕も亜衣子の裏表のないきっぱりとした性格は好きだった。エンディが大木の木漏れ日のような優しさなら、亜衣子は草原の中、太陽に向って咲く野花の様な凛とした優しさを持っている。そして、とても強く生きているように見える。眩しいくらいに。

 いいなあ、と思う。そして、僕もいつか、と願う。それがきっと、彼らと出逢い、時間を共有させてもらっている意味だから。


 暫くして、どたどたと階段を上がってくる音が聴こえ、勢いよくドアが開いた。

 そこには小奇麗になったニックが立っていた。

 

 白地で胸のあたりにワンポイントのマークが入ったシャツにジャケットを羽織り、しわだらけだったチノパンから薄い青色のジーンズに穿き替えている。ぼさぼさだった髪もきちんと整えられていた。

 しかし、ニックは不満そうな顔をして僕に訴えてくる。


「見てくれよ、ジュン、この個性のない格好。明日は特別な日なのに、アイコはこんな普通の格好で行けって言うんだ」


 ニックの背中を亜衣子が叩く。


「センスのない個性の百倍マシ」


 絶句し、しょげるニック。

 亜依子は溜息を吐いて続ける。


「信じられる? これが、ニック君の持っている服、全部の中で一番まともな服なんだよ。他は、さっきの派手なヤツと似たようなのばっかり」


 僕はニックを正面から見据える。


「うん。これならいい感じだね。爽やか好青年に見えるよ」


 ニックは僕と亜衣子を交互に見たあと、「OK, 明日はこれで行くよ」と、しぶしぶ了承した。


 その夜、亜衣子はシャロットの誘いを断りきれず、シャロット特製ディナーを僕たちと一緒に食べて帰っていった。さすがの亜衣子もシャロットの料理には歯に何枚かの衣を着せていた。



 Wデートの本番、決戦の土曜日がやってきた。


 シャロットはあっさりと僕との約束を破り、「私はニックの応援団よ」と彼を抱きしめ、朝から神に祈り始めた。そして、作ってくれた勝負ブランチには卵が二つ載っていた。


 昼頃、僕たちは自転車に跨り、待ち合わせ場所であるシティセンターの映画館に向けて出発した。

 右手には広大な芝生の公園、パーカーズ・ピース。空は、曇ってはいるものの雨の気配はなく、公園内では多くの人が休日を満喫していた。


 僕は併走するニックに向けて声を張り上げる。


「まず映画を見て、それから近くのカフェに入る。そこで楽しくみんなで話を弾ませて、途中で僕と亜衣子は退散する。そこからは、ニック、頑張れよ。気持ちをちゃんと伝えるんだぞ」


 隣のニックは力なく微笑む。本当に不安そうだ。


「話しをする時は彼女をジュンと思う。普通に、普通に……。媚びず、気取らず、優しくする。僕は優しい……。無理はしない。自然に、自然に……」


 昨日、亜衣子から受けたアドバイスをニックはぶつぶつと反芻している。僕はふき出して、視線を前に戻した。


 相手はコロンビア出身の女の子。しかも相当かわいいらしい。もっとも、ニックの趣味なので個人的には怪しいと思っている。

 ニックはもうあと数日でスイスに帰国する。そしてすぐに兵役に就く。彼女も近々、コロンビアに帰るそうだが、スイスとコロンビア……。かわいそうだけど何の接点もない。この恋に明るい未来があるとは思えない。しかし、ニックも重々承知していて、それでも気持ちを伝えたいと、切ない願いを抱いている。

 今日一日がニックにとって素晴らしいものになるようにしてあげたかった。それはニックへの僕からの恩返しでもあった。


 僕たち二人はケンブリッジの中心街、シティセンターに入った。人ごみが激しく、自転車から降りて歩く。暫くして映画館のある、巨大なショッピングモールが見えた。


「待ち合わせ場所は映画館のロビーでいいんだよね?」


 緊張した面持ちのニックに確認する。


「ああ。間違いない」


 僕たちはモールの自転車置き場に自転車を突っ込み、チェーンを巻く。映画館は二階にあり、店内に入らずとも、外からの階段で直接入ることができる。映画館の入口に続く幅広の階段を上る間にも、ニックは幾度となく深呼吸を繰り返す。両脇に大きな鳥のキャラクター人形が置かれたドアを開け、中に入った。


 館内は広く、薄暗かった。天井はドーム状になっており、宇宙を思わせる星々が描かれ、子どもに人気のキャラクター人形たちが凛々しい表情で泳いでいた。正面にある売店カウンターでは、ポップコーンやホットドックを買おうと、長蛇の列ができている。さすがに土曜日ということもあって、子ども連れの家族や恋人たちで溢れていた。


「混んでるなあ」


 僕はあたりを見回して言う。


「ああ」


 ニックから気のない返事が返ってくる。


「まだ亜衣子は着いていないみたいだね」

「ああ」

「その辺で座って待つか。何も買わないで座っていたら怒られるかな?」

「ああ」

「……」

「ああ」


 僕は呆れてニックに向き直る。

 ニックは気づかず正面を見据えて動かない。

 僕はニックの背中を思いっきり叩いた。


「イッテェ!」


 ニックは驚いたようにふり返る。


「ニック、大丈夫か? 今からそんなに緊張してどうするんだよ」

「わかってる。でも逃げ出したいよ。心臓が口から飛び出そうだ」


 ニックはなんとも情けない顔をして言った。


 と、その時いきなり、どん、と背後から僕たちは突き押され、つんのめった。すぐさまふり返ると、目の前を誰かの拳が宙を切った。


「二人とも、今日は頑張るぞ!」


 右手を振り上げた気合十分の亜衣子が登場。


「ニック君! ちゃんと気合入ってる? 私が昨日教えたことを言ってみなさい」


 腕組みをして亜衣子は先生を気取る。


「媚びない、気取らない、優しさは常に忘れず、でもいつも通りに、自然に、自然に」

「宜しい。いつも通りのニック君を見せればいいよ。大丈夫だって。無理したって何も上手くいかないんだから。自然が一番だよ。いいわね」

「イエッマム」


 ニックは敬礼し、こわばっていた表情が緩む。どうやら緊張が解けたようだ。

 さすが亜衣子、一瞬で他人を自分の世界に巻き込んでしまう。これは彼女だけが持つ特別な力だ。しかも世界に通じる力。


「彼女が来るまでまだ少しあるね。どこかに座って待っていようよ」


 亜衣子は先頭を切って売店前の空いている席に向かい、僕とニックも彼女に続く。途中でニックが「奢るよ」と三人分のコーラを買い、僕たちはそれを飲みながらコロンビアの彼女を待った。


 時計が午後一時ちょうどを指した時、突然ニックが立ち上がり、大声で誰かを呼び止めた。


「Hey! ヒメーナ! こっち、こっち!」


 亜衣子と僕もニックの視線を追ってふり返る。そこには足早にこちらに向かってくる女の子の姿があった。

 目の前に現れた女の子を見て、僕と亜衣子は息を飲み、顔を見合わせた。


 とてつもなく、本当に、かわいかった。いや、むしろ綺麗、と言った方がいいのか。まるで映画に出てくる女優のようだ。身長は一六〇センチくらいだろうか。小さな顔に大きな瞳、控えめで筋の通った高い鼻、肩下二〇センチほどのウェーブがかった長い髪。シルク地のブラウスにレース素材のスカートを穿いている。


「どこかのお姫様みたい……」


 亜衣子が思わず呟いた。

 僕は、発熱したかのように赤面しているニックに耳打ちする。


「Hey, 彼女、いったいどこのお嬢様だい? 明らかに一般市民じゃないだろう?」


 ニックは彼女に定めた視線を一ミリたりとも動かさず、答える。


「どこだっていいさ。関係ない。素晴らしいよ……」


 どうやら完全に別の世界に旅立っている様子だ。


「こんにちは。あれ? 遅れちゃった?」


 僕たち三人はヒメーナの笑顔の挨拶に見とれながらぶるぶると首を横に振る。

 ニックがしどろもどろになりながら、僕と亜衣子を紹介する。ヒメーナは上目使いで僕の顔を見て、にこりと微笑む。思わず、どきり、としてしまう。

 亜衣子が近くのテーブルから椅子を一つ拝借し、ヒメーナに促して、僕らも席に着いた。


「はじめまして。私、ニックと同じ学校に通っていますヒメーナと言います。私もここに来て二年になるんですが、日本の方とお友達になったことがなかったんです。だから、とっても嬉しいわ。どこの学校に通っていますの?」


 ヒメーナの英語はネイティブかと思うほど文法も発音も綺麗だった。かなりの上級クラスにいるのだろう。


「私とジュンイチはユーロスクールです。ヒメーナさん、かなり、英語がお上手ですね。学校ではトップレベルのクラスにいるんじゃないですか?」


 亜依子の質問に、ヒメーナは再び万人が見とれるであろう微笑を浮かべる。


「アドバンスドクラスにいます。でも、二年もいるんだもの。ジュンイチ君もアイコさんも二ヶ月って言いましたよね。それで、これだけ会話ができるって凄いですよ。きっとこれからもどんどん英会話が上手くなっていくわ」

「アドバンスドクラスって、僕たちの学校じゃ、最高レベルのビジネス会話クラスだ。凄いな。ということはニックもアドバンスドクラス?」


 僕は、ヒメーナに視線を縫われたままのニックを見やる。


「ああ。半年前、初めて同じクラスになれたんだ」


 ニックはやはり微動だにせず、どうでもいい、という風に答える。


「この前、初めてニックとちゃんとお話しする機会があって、ビックリすることを聞いたんです」


 ヒメーナは柔和な微笑みをニックに向ける。途端に、ニックは視線を背ける。


「なんと、ニックがイギリスに来た当初、一番下のクラスにいたんですって。私たちの学校は半年に一回レベルアップテストがあって、その結果でレベル相応のクラスにクラス替えするんです。今ニックがアドバンスドにいるってことは、三回のテストで五つもレベルを上げたってことですよね。これって、凄いことなんです。普通、一回のテストで一レベルしか上がらないのに。ね、ニック」


 ニックはどこか斜め下あたりに視線を泳がせながら、顔を赤く染めていた。

 なるほど、恋の力はすさまじい。確かに発音はイマイチだけど、ニックが文法的に間違えて話しているところを聴いたことがない。僕は未だに会話をする度、シャロットに間違い箇所を訂正されているのに。


「ヒメーナさんももうすぐ母国に帰るの?」


 亜衣子が訊く。


「Yes. あと一ヵ月弱かな。ニックはもうすぐだっけ?」

「うん。あと三日かな」

「え? そんなにすぐなの?」

「うん」

「なんだあ。せっかく友達になれたのにね」


 ヒメーナはさして残念な風でもなく言ったように見えた。やはり、ニックに特別な感情はなさそうだ。残念だけれども。


 映画の上映時刻、一時三十分まであと五分となっていた。


「あ、話しの途中ごめん。もうそろそろ行こう。始まっちゃうよ」


 僕は三人を促し、亜衣子を先頭にシアターに入っていった。


 僕たちが見た映画は裁判モノで、罪の疑いをかけられた主人公が逆転勝訴を勝ち取るために、悪戦苦闘する映画だった。しかし、亜衣子と僕にとってこれは大失敗の選択だった。劇中何度も出てくる裁判シーン。弁護士らしき人物が話している専門用語が全く分からなかった。途中で何度も睡魔に襲われながら何とか二時間を乗り切った。どうやらまだ僕らには字幕なしの映画は早かったらしい。結局、映画が終ってもどちらが勝ったのか分からなかった。


 僕たちは映画館から出て、モールの一階にある、オープンテラスのあるカフェに入った。少し雲行きが怪しかったが、店内が混み合っていたのでテラスに出た。白いプラスチック製のテーブルがちょうど四人分空いていたのを見つけ、そこに落ち着いた。


「あの主人公、最後に勝ったんだよね?」


 僕は他の三人に確認する。


「一応、勝ったけど、最後のオチが凄かったよね」


 ニックが答える。ヒメーナが続けて言った。


「うん。あれは想像つかなかったな。びっくりしたね」

「え?」


 僕と隣に座る亜衣子が同時に「何かあったっけ?」と訊く。


「ジュン、分からなかった? あの主人公、裁判には勝ったけど、実は事件の首謀者はその主人公だったんだ。だから最初に容疑をかけられたのは間違いじゃなかったんだ。多重人格者だったっていうオチ」


 ニックの説明に僕と亜衣子は思いっきり苦笑いする。肝心なところが全く理解できていなかった。


「まあまあ。私もここに来て半年間は映画を正確に理解できなかったから、焦らないでいいと思うわ。すぐ理解できるようになるから」


 すかさずヒメーナが僕と亜衣子にフォローを入れてくれた。


 それから僕たちは映画の話題でひとしきり盛り上がり、更に互いの国についても長々と語りあった。ヒメーナが時折、視線を泳がせて周りを気にしていた。僕が「何かあるの?」と訊いてみても、「何でもないわ」と返ってくるだけだった。

 一時間ほどして僕は亜衣子に合図を送り、作戦を開始した。


「あ、そういえば」


 僕は突然思い出したように亜衣子を見やる。


「今日、アイコのホストママにディナーに呼ばれてるんだけど、アイコ、今何時?」


 亜衣子はとぼけた顔で時計を見て答える。


「あ、もう四時半だね。そろそろ行かなきゃ」


 こうした悪巧みをしている時の亜衣子は本当に活き活きして見える。

 僕はヒメーナとニックに申し訳なさそうな顔を作って言う。


「ヒメーナさん、ニック、本当にごめん。アイコのホストママにどうしても、と言われて断れなかったんだ。あとは二人でゆっくりしていってくれ」

「ごめんね、ニック君。それに、ヒメーナさん、今日は楽しかったよ。またね」


 亜衣子の言葉にヒメーナは引き止める素ぶりを見せず、ひらひらと笑顔で手をふる。

 一方、ニックは悲壮感すら漂わせている。僕は目で「頑張れよ」とウインクしたが、ニックからは情けない表情しか返ってこない。それでも、ここは心を鬼にして亜衣子に「行こう」と促した。


 僕と亜衣子は踵を返し、テラスの出入り口に向けて歩き出す。一旦、店を横切り、外に出たように見せかけ、再び店内に戻り、テラスが見える位置に陣取った。


 二人に気づかれないように、そっと窓からテラスを窺う。

 ヒメーナの背中越しにニックの蒼白な顔が見える。またヒメーナが辺りを見回している。ニックが一言二言話しかけているようだ。


「ニック君、ちゃんと告白できるかなあ」


 亜衣子が日本語でこそこそと訊いてくる。


「さすがのニックもちゃんと言うと思うよ。二年間も想い続けてきたんだ。この機会を逃したら、多分もう永遠に伝えるチャンスはないわけだし」

「でも、さっきの情けない顔みた? もう、あの子、空気の抜けた風船みたいになっちゃってさ。大丈夫かな」


 それから十分ほどした頃だろうか。僕はニックの顔が何か覚悟を決めたように見えた。


「亜衣子、ほら、見てみなよ。ニックの顔つきが変わったよ」


 亜衣子は僕を押しのけて、窓ガラスに顔がべったりとつくほど身を寄せた。


「本当だ。こう見ると、なかなかイケメンじゃん。ニック君、いつもあんな顔してればいいのに」


 ニックはヒメーナの顔をじっと見つめている。ヒメーナの後頭部も動かなくなった。


「ああ、ガチな告白現場って緊張するー。あ、ニック君、何か言ってるよ」


 亜衣子がニックを指さす。


「あーん、何て言ってるのかな。聞きたいなあ」


 じれて悶える亜衣子の望みを、僕は正確に叶えてあげた。


「二年前、学校に通い始めた頃、僕は偶然廊下ですれ違った女の子に一目惚れをした。でも、その女の子はとても勉強ができて、僕よりもずっと上のクラスにいたんだ。だから僕はその娘と同じクラスになるために必死に勉強した。そして、二年という時間が経って、やっと僕の夢が叶ったんだ」


 一瞬、言葉を切って、咳払いをし、続ける。


「今、目の前にいる君が僕にとって奇跡です。ヒメーナ、ずっと好きでした」


 亜衣子は目を丸くして僕の腕を掴む。


「どうして、分かるの!? もしかして、ニック君の口の動きで分かるの? 凄すぎなんだけど!」

「そんなわけないよ。声を出している映画でも理解できないのに」

「え? じゃあ、嘘?」

「いや、昨日の夜、ニックが散々僕の部屋でさっきの台詞を練習してた。ニックがビジネスクラスまで上りつめたのは知らなかったけどね」


 途端に亜衣子はぷーとふき出し、声を押さえて笑い出した。


「ニ、ニック君……、らしい……、最高……」


 亜衣子は腹を抱えて笑っている。僕もつられ笑いをしながらテラスに目を向けた。そこには予想していた幾通りの筋書きとも違った二人がいた。


 隣で腹を抱えて笑っている亜衣子。そして、まったく同じ姿勢の後ろ姿のヒメーナ。明らかに、ヒメーナは腹を抱えて笑っている。そして呆然としているニック。

 僕は状況が理解できず、亜衣子の腕を肘で小突く。亜衣子も何事かと、窓に顔を近づけた瞬間、ヒメーナがこちらを一瞬だけ見て人差し指と親指で丸を作り、誰かに「OK」と合図を送った。僕と亜衣子は反射的に身を隠す。


「どういうこと?」


 亜衣子の問いかけには意外なところから答えが返ってきた。

 二つ向こうのテーブルから数人の歓声が上がり、声が聴こえてきた。


「なんだよ、ヒメーナの勝ちかよ」

「ちぇー、まさか、マジでニックが告るとはねぇ」

「な、だから言っただろ。授業中のあいつのヒメーナを見る目、完全にイカレてるって」

「はいはい。ヒメーナの取り分、私が預かるから」


 四人組の男女がお金のやり取りをしている。

 僕と亜衣子は顔を見合わせた。そういうことか。「酷い……」と亜衣子の絞り出したような声が漏れる。

 ヒメーナとクラスメイトと思われる仲間たちは賭けをしていたのだ。ニックが告白するか、しないかで。

 僕も亜衣子も何が起こっているのかを正確に理解した。全身の毛がざわりと逆立つような感覚が走り、かっと頭が火照る。

 ヒメーナの仲間たちが席を立ち、店の外へと笑いながら出ていく。

 隣から低い声が聴こえた。


「最っ低!」


 亜衣子は殴りかかりそうな形相で、四人の背中を睨みつけている。

 僕はもう一度テラスに目を向けた。

 ヒメーナは笑い疲れしたような表情で、外に出ていった仲間の姿を目で追っていた。

 突然、ばたばたと窓を細かく叩く音が響く。急速に音の刻みは速度を上げ、テラスにいた客が一斉に店内へと逃げ込んでくる。見る間に大粒の雨はスコールのような土砂降りになった。

 ヒメーナはバッグを頭上に翳し、ニックに何か一言だけ言って店内に向かって走りだす。ニックは濡れるに任せて、呆然としながら動かない。

 僕は怒り心頭したまま、こちらに向かってくるヒメーナの前に出ようとした。その瞬間、誰かが僕の腕を掴んだ。亜衣子だった。


「淳一、待って。あんな最低な娘にかまっているより、ニック君の傍に行ってあげよう。今は一人じゃ立ち上がれないよ!」


 亜衣子の目配せに僕は頷いた。

 僕と亜衣子は雨に濡れるのもかまわず、テラスに出る。すぐ横をヒメーナが気づかずにすれ違ってゆく。僕たちはゆっくりとニックに歩み寄る。悄然とした面持ちで濡れそぼるニックの肩に、亜衣子がそっと手を置いた。


「ニック君、帰ろう。濡れちゃうから」

「そうだよ、風邪ひくぜ。とりあえず中に入ろう」


 ニックはゆっくり僕と亜衣子の顔を交互に見上げ、そして口を開いた。


「今日は……、ありがとう」


 僕は軽くニックの背中を叩いて答える。


「気にするなって。勇気のあるところを見せてもらってこっちも熱くなった」

「うん。格好よかったよ、ニック君!」


 亜衣子はニックの肩を何度も叩き、その勇気を労う。

 ニックはきゅっと眉根を寄せて、それでも口元には笑みを浮かべ、泣き笑いのような顔を大粒の雨を落とす空に向けた。


「でも、今、雨が降っていてよかった……」


 その言葉に僕はたまらず、ニックから目を背けた。これ以上はもう何も言えなかった。


 僕たちは店に向かってゆっくり歩いた。三人ともずぶ濡れになっていた。店に入った途端、大きな音が響いた。

 がちゃん、とグラスが砕ける音。そして、もう帰ったと思っていたヒメーナの叫び声。


「さわらないでよ! もう! やだ!」


 ざあざあと鳴り続けるスコールに店内は蒸すほどに込み合っている。しかし、叫び声が上がった瞬間、そこを中心として円状に人垣ができた。


「いい気になってんじゃねぇよ、お前よォ!」


 身長が一九〇センチ近くあると思われる大柄な筋肉質の金髪男に腕を掴まれ、ヒメーナは苦悶の表情でもがいている。金髪男の隣で、仲間と思われる痩せぎすの男が野次を飛ばす。


「あんた、本当に美人だなぁ。どこの国の子? いいから、俺たちと飲もうぜ」

「絶対イヤ! もう、放してぇ……」


 ヒメーナは泣くのを必死に堪えている。周囲の人たちも一様に渋い表情を並べているが、金髪男の恫喝に怯み、誰も助けようとはしない。


「いい気味だ」


 僕は思わず本音を呟く。しかし、ニックは違っていた。ニックは人垣に割って入ろうとする。僕は慌ててニックの腕を掴む。


「ニック、本気か? あんな酷いことされて。いい気味じゃないか」

「好きなんだ。彼女が」


 まっすぐなニックの瞳に、僕は何も言えなくなった。亜衣子は何かを言おうとし、すぐにそれを濁して、ニックを止めようとはしなかった。


 ニックは分厚い人垣を左右に押しやって、必死にもがくヒメーナと金髪男の前に躍り出た。そして、僅かなためらいもないまま、わああ! と奇声を上げ、金髪男の足に掴みかかった。ニック、ヒメーナ、金髪男はもつれ合って、壁に激突し、どさりと床に転がる。その拍子に、また幾つかのグラスの破砕音が響き、誰かの悲鳴が上がった。

 金髪男の拘束がほどけたヒメーナは四つん這いで逃げ出す。壁を背にして呆然としていた金髪男は、傍に倒れているニックに気がつき、突然、キレた。獣の咆哮のような唸り声を発し、ニックに馬乗りになって両の拳で殴り始める。ニックは両腕で頭を覆うが、金髪男は腕の隙間を狙って拳を打ちつける。

 逃げるヒメーナは人垣から抜け出たところで仲間の男に捕まっている。幾人かの女性客が悲鳴を上げ、それを合図に客が出口に殺到して店内は騒然となった。

 両手で口を覆った亜衣子が僕の方へ振り向く。どん、と僕の中の何かが大きく跳ねた。身体中の毛穴がじわりと開き、脂汗が噴出する。鼓動は、どくりどくりと内側から肋骨を叩くように痛烈な跳ね方をしている。呼吸が乱れ、視界がぶれ始める。また。まただ。この感覚……。

 気づけば、僕は人垣に飛び込んでいた。傍にあった椅子の足を掴み、金髪男の前に立っていた。そして椅子を金髪男の顔面めがけて振り下ろす。顔面を捉えたはずの椅子は僕の手から吹っ飛び、壁にぶつかって転がる。金髪男は椅子を腕で防いでいた。そして、のそりと立ち上がり、狂気の様相に血走ったような目をぎょろつかせ、僕を見下ろす。

 なぜか、恐怖はなかった。まるで他人事のように遠くから自分を見ているようだ。

 金髪男が拳を振りかぶる。


「淳一、逃げて!」


 日本語の叫び声。

 その瞬間、視界の隅で亜衣子が金髪男の背後に回り込む姿を捉えた。

 ああ、大丈夫だ。冷静にそう思えた。僕は逃げる動作をとらないまま、自らに向かってくる拳の軌道をぼんやりと見ていた。拳が僕の頬に到達する寸前、金髪男は、感電したように一瞬跳ね上がる。そして、前のめりによろけて膝をついた。金髪男がうずくまった背後から青ざめた表情の亜衣子が現れる。亜衣子が思いきり金髪男の股間を蹴り上げたようだ。

 店の出口付近でヒメーナを逃がすまいとしていた仲間の男は、金髪男が股間を押さえてうずくまる姿を見て、彼女の腕を離した。金髪男に近づこうとヒメーナに背を向けた途端、その男も股間を押さえて前のめりに倒れた。どうやら、ヒメーナも股間に一発入れたらしい。一瞬、僕まで股間に激痛が走ったような気がして肩をすくめる。一瞬の静寂があり、そして、僕たちを囲む人垣から大きな歓声と盛大な拍手が巻き起こった。

 肩で息を切らせるヒメーナは、服の汚れを払いながら吐き捨てる。


「ホントに、最低な一日だわ!」


 そして、自らを見つめる客たちをぐるりと睨みつけ、店を出ていった。


 僕と亜衣子はぐったりと倒れたままのニックに駆け寄る。僕はニックに肩を貸し、身を起こさせる。ニックは痛そうに鼻血にまみれた頬を押さえて、「ティッシュ、ティッシュ」と呟いている。


「ニック、大丈夫か?」


 ニックの肩を亜衣子と両脇から挟み、立たせる。


「……本気で痛い」 


 半笑いの表情で言うニック。目じりや頬が青く内出血を起こしている。


「そりゃ、そうだよ。もう、本当に無茶するんだから」


 亜衣子は濡れたハンカチでニックの鼻血を拭う。その途端、ニックはぎゃっと声を上げ、亜衣子は「うるさい」と一括し、鼻をかませる。


「淳一、さっき、どうして逃げなかったの?」


 黙々とニックの鼻血を拭う亜衣子は僕を見ずに言う。


「わからないけど……、なぜか大丈夫だって思った。亜衣子の姿も見えていたし」

「自暴自棄にならないで。お願いだから」


 怒気を含んだ亜衣子の声。

 自暴自棄、とは言っている意味がよく分からなかった。


「つーか、逃げよう! こんなに無茶苦茶になった店の責任なんて取れないよ!」


 ニックはカウンターを見やり、焦ったように言う。そこには受話器に向けて必死に状況を訴える店員の姿がある。警察への通報だろう。


「走れる?」

「行こう!」

 

 亜依子の声にニックは頷き、僕たち三人は傘もないまま土砂降りの雨の中に飛び出した。


 なぜか心の奥底から笑いが込み上げてきて仕方がなかった。亜衣子もニックも笑いを堪えているようだ。


「なんだか、笑えてきて仕方がないの!」


 亜衣子が走りながら叫ぶ。


「とっても、とっても、怖かったの。でも心の何処かでわくわくしている自分もいて、なんだか、私たち、凄いことしちゃったね!」

「本当だよ! 椅子で殴りかかるなんて。自分でも信じられない!」


 僕も走りながら、笑った。ニックは、笑っては痛そうに顔をしかめていた。僕たちは全力で自転車置き場まで走った。火照った体に降り注ぐ大粒の雨が気持ちよかった。

 スコールのような大雨はやむ気配もなく、結局、夜まで降り続いた。



 翌日、日曜日の夜に、僕とニック、シャロットは外食に出かけた。

 散々悩んだ挙句、遠出をするのは止めて、ヒルズロード沿いにある、中華レストランに行った。円卓の席に座り、昨日の武勇伝をシャロットに話していた。


「それにしても、酷い顔ねぇ」


 シャロットはニックの顔を眺めながらため息をつく。


「酷いのは元々だい」


 翌日になって顔がぱんぱんに腫れ上がったニックは口を尖らせる。


「もう、皮肉を言わないの。それにしても、そのニックの勇姿、見たかったわ。話を聞いているだけで、熱くなってきちゃう」


 シャロットにはヒメーナがとった許し難い行為については説明をしなかった。ニックが真っ先に「ふられちゃった」と、爽やかな苦笑いで報告したからだ。もう、あの事実は伏せておこうという暗黙の了解がニックとの間に成立していた。


「ジュンとアイコに助けられたんだ。二人がいなかったら、こんなものじゃ済まなかったと思う。ありがとうな、ジュン」

「いいよ、別に。それに、あの金髪男をダウンさせたのはアイコだし」

「アイコちゃんが止めを刺したのかい?」


 シャロットが驚いて訊き返した。

 僕は詳しく亜衣子の勇ましい戦い振りを説明した。


「ふーん……、その状況での判断、止めの刺し方、どれをとっても素質あるわね」

「何の素質?」

「警察官」


 そういえば、シャロットは元女性警官だった。現在は新人研修の鬼教官らしい。


「シャロットに鍛えられれば、半端ない警官になりそうだな。アイコは」

「ホント、簡単に想像できるから恐いよね」


 僕の言葉に、ニックは肩をすぼめて同意した。


 料理が続々と運ばれ、円卓に並んでゆく。ニックとシャロットはチョップスティックス(お箸)に悪戦苦闘しながら、どうにか料理を口に運ぶ。途中で登場したエビチリを食べたニックは、ぎゃっと叫んだ。口の中も切り傷でいっぱいだったらしい。

 ニックのこの二年間の思い出話に華を咲かせた。僕とシャロットは笑った。とても温もりのあるゆったりとした時間が流れた。


 イギリスに来て、初めてできた友人との別れが近づいている。それでも、記憶があれば、その中の一ページとしてニックはこれからも確実に僕の中に存在する。記憶とは、二度と戻れない時間の証明書。日本とスイスの距離……。例えこれから永遠に会うことができなくとも、記憶がある限り、僕たちは存在する。

 ニックは明日、スイスに帰る。


 月曜日の朝。

 刷毛で撫でたような薄い雲が伸びる青空は、もう夏の気配に満ちていた。

 ヒルズロードからパーカーズ・ピースを挟んで反対側にあるミルロード沿い、クライストカレッジの傍にあるコーチステーション。大きなトランクを持ったニックと僕、それに亜衣子がバスを待っている。ここは、僕が初めてケンブリッジの町に降り立ったバス停だ。

 ニックの兵役話を興味津々と聞いている亜衣子。彼女は今朝、あっさりと授業をさぼり、僕たちに付き合ってくれた。シャロットはどうしても仕事を外すことができず、家を出る時に別れを済ませていた。

 月曜日ということもあって、バス停の裏にあるクライスト公園に人はまばらだった。通りすぎる爽やかな風は、微かな芝生の匂いを連れていた。


「ニック、元気でな。兵役ってどんなものか想像がつかないんだけど、身体だけは壊すなよ」


 ニックは傷だらけの顔で充足感に溢れた表情をする。


「僕、勉強ばかりしていて、仲のいい友達ってなかなかできなかったんだ。だから、ホームメイトが来るって聞いたとき、凄く嬉しかった。ありがとう。ファミリーとして一緒にすごせたのがジュンで本当によかった」


 僕はニックと抱き合った。ニックはニッと笑い、僕の胸を軽く小突いて亜衣子の方へ向いた。


「アイコ先生、短い間だったけど、色々とありがとう。もっと早くジュンが紹介してくれてればよかったのに」


 ニックは僕を睨むふりをする。


「それにしても、ニック君。私と話す時、赤面しなくなったね。どういうこと? 女の子として魅力ないってこと?」


 亜衣子もふざけて怒った顔を作る。

 確かにニックはもう、おろおろとしなくなっていた。

 ニックは困ったような表情で答える。


「いや。アイコとは本当の友達になれたから。あまり知らない女の子に対しては多分、今でも緊張してしまうけど、アイコは違う。上手く言えないけど、アイコは友達なんだ。アイコとジュンに対しては、気取らず、自然でいられる」


 亜衣子は眉尻を下げてニックに抱きついた。


「ニック君、君は格好いい男の子だよ。自信を持ってね!」


 亜衣子は声をつまらせながら言った。突然抱きつかれたニックは結局、赤面していた。


 切なく晴れ晴れしい空気が僕たちを包んでいる。もうバスの到着する時間が迫っていた。

 ミルロードをこちらに近づいてくるバスが遠くの方で見えた。ニックはリュックを背負い、トランクを持つ。バスを待つニックの顔は清々しい表情をしている。

 その時、突然、僕たちの背後から自転車の急ブレーキ音が響いた。そして、悲壮感のある声が響いた。


「ニック!」


 僕たち三人は一斉に声の方にふり向く。そこに立っていたのはヒメーナだった。

 ニックの最後の日に最も相応しくない訪問者に驚き、頭がかっと熱くなる。僕は彼女を許すことはできない。何しにきたんだ、とニックの前に立ちはだかる。亜衣子はヒメーナの傍まで歩み寄り、「あなたは来るべきではないわ」と首をふった。


「謝りにきたの! お願い、最後だから、ニックとお話させて」


 ヒメーナは亜衣子と僕の顔を見ながら懇願する。


「ジュン、アイコ、いいから」


 背後からのニックの声に、僕と亜衣子は渋々ヒメーナに道を譲る。ヒメーナは恐縮したように身を縮めて僕らの前を通り、ニックの前に立って俯いた。そして、小さな声で話し始めた。


「ニック、私……。あの日、パニックになって、逃げるように帰ってしまった。ニックが私を助けるために飛び込んでくれて、そのあと、殴られているの、目の前で見ていたのに」

 

 ヒメーナは唇をきゅっと噛む。


「……そう、恐くて逃げたの。家に帰って、自分が、恥かしくて、情けなくって仕方がなかった。いつもクラスの仲間がニックのことをからかうの、私も陰で一緒になってやっていたこと、知っていたよね? それなのに、そんな私を守ってくれた。好きだと言ってくれた」


 ヒメーナは顔を上げ、沈痛な面持ちでニックの傷にふれる。


「今からちゃんと、あの日、あなたが私に言ってくれた言葉の返事をします」


 バスは既に到着し、ニックの荷物を積み込んでいる。ヒメーナは続ける。


「ニック、私はこの留学が終ったら、結婚するの。相手はまだ私も知らない人。私の父はコロンビアでは有名な企業の社長で、相手は取引先の息子。だから、あなたの気持ちには答えられません。私には自由に恋愛する権利がないの……。だから……、ごめんなさい。でも――」


 そう言うと、ヒメーナは小さなメモをニックに渡した。


「これ、私のメールアドレスとSNSのアカウント。よかったらこれからも友達でいて下さい」


 ニックはヒメーナを見つめた。ヒメーナは唇を噛みながら、祈るような面持ちでニックの返事を待っている。

 沈黙した時間が流れ、そして、ニックは目を閉じ、静かに頷いた。

 ヒメーナは泣き笑いのような顔になり、ニックに抱きついて頬の傷にキスをした。

 ニックの背後から、バスの運転手が乗車を急かしている。

 ニックはヒメーナに向かってもう一度、頷くと背を向けた。そして。


「留学していた二年間の最後に、こんなに沢山の宝物を貰った。ジュン、アイコ、そしてヒメーナ。ありがとう。お元気で!」


 ニックはバスのステップを上ってゆく。

 僕は背を向ける瞬間のニックが涙を隠したことに気づいていた。

 ぷしゅうと高圧ガスの排出音が鳴り、ドアが閉まる。

 バスはゆっくりと動き出す。

 降りそそぐ初夏の陽射しを受け、緑の葉をいっぱいに広げる街路樹の間を、バスは遠ざかる。僕たちはバスが小さくなるまでいつまでも手を振っていた。

 相変わらず、空は高く、宇宙の色彩を映すように青かった。

 今日もいい天気になりそうだった。

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