11 彼女に巣食う闇の告白
遥香の熱が下がるまでかなりの時間を要した。
丸二日間三十八度から下がることなく、いくら病院へ行こうと促しても、遥香はここにいたいと譲らなかった。結局、彼女は一度も自分のアパートに帰ることができないまま、今朝、ようやく熱が下がり動けるようになったのだった。
手鏡を覗き込み、寝癖を必死に直す遥香の仕草に笑いを堪えながら、コンビニで買ってきた粥や蓮華をテーブルに並べてゆく。
「ゴメンね。付きっ切りで看病してもらって」
粥に手をつけず、遥香は少し落ち込んだように俯く。
「昔さ、おばさんが出張か何かで、遥香がウチに泊まりに来てたとき、熱を出したよな」
遥香は思い出したように顔を上げる。
「だって、あれ、淳一君の所為じゃない」
「そうだっけ」
「水産博物館の屋上」
そう言われて思い出した。
「天体観測所か」
「そうそう」
今はもう閉鎖になっているが、故郷のすぐそば、石狩湾に面した山には、かつて小さな天文台があった。果樹園ばかりで何もない町では、遊ぶといえば自然が相手だった。魚釣りや虫取り、山への探検、そして、星。当時、僕らは手作りの星の早見表を作っていて、よく自転車で山道を上り、水産博物館の屋上にある天体観測所で星を見ていた。
「そういや、あれ、冬の星座、完成しなかったんだよな」
「十二月くらいだっけ。ずっと雪ばっかりで、久しぶりの晴れで、淳一君が星は今しかない、とか言いだしちゃって。それで、無理やり連れ出された」
「いや、遥香もノリノリだった」
「んー、そうだっけかなあ」
「確か、山に着く前にウチの親父と鉢合わせて連れ戻されたんだよな」
「あのあと、二階で凄い音がしてたけど」
「まあ、惨劇だった」
そこで二人して笑った。
「熱が下がったあとの、おばさんのスペシャル丼、美味しかったな」
懐かしそうに言ったあと、一瞬、遥香の瞳に翳りが落ちた。
「こんなにいっぱい寝たの、あの日以来かもしれない。こんなに安心した時間も、きっとあの日以来……」
そこで、取り繕うように、へへへ、と再び手櫛で寝癖をいじる。
翳りは一瞬だった。僕は見なかったことにして、明るく言う。
「まあ、とにかく、遥香を襲わなかった俺を褒めてくれ」
途端に遥香の顔がこわばった。
僕は心の中でため息をつく。
最近はずっと、遥香と寝たい、という意思表示はやめるようにしていた。付き合い始めて、随分たつというのに。
遥香は僕の方を見ないで、小さな声で言った。
「淳一君、好きだよ。それだけは信じていてね」
「いいよ。無理してすることでもないしさ。いつか遥香の中で整理がついたら色々話してよ」
僕は、なんでもない、という感じで答える。
遥香は顔を伏せて言う。
「淳一君って、優しいよね。怖くなるくらい」
「なんだよ、不満か?」
「ううん、私、幸せだと思う。愛されるってこういう感じなんだ、って初めて知った」
遥香に言われても、僕自身「愛すること」が何なのかよく分かっていなかった。
「この二日間、アパートに帰れなかったけど大丈夫? おばさん、心配していると思うよ。スマホで連絡しとけば?」
以前、母親に毎日連絡していると聞いていた僕は遥香を促す。
「あ、でも充電、切れてるよな。充電器なら」
「ううん。いらない」
遥香はさっと顔を上げ、短く遮った。
一瞬の間を置いて、僕はずっと気になっていたことを訊く。
「おばさん、スマホにはかけてこないんだね」
遥香はそれには答えず、どうでもいい、という感じで肩をすくめた。
そして、話をはぐらかすように粥に手をつけ、部屋に転がっている雑誌をめくり始めた。
「うわあ、綺麗。淳一君はここに行ったことある?」
遥香は雑誌から目を離さず訊いてくる。
覗き込むと、それは国内外の旅行おススメランキングを紹介する雑誌だった。遥香は北海道のページを開いており、うねる大地に色とりどりの花が波打って咲き乱れる美瑛の写真を見ている。
「いや、ないよ」
「あ、ここもヤバい!」
次は世界遺産の知床特集ページ。断崖絶壁から海へと落ちる滝や、原生林の中の鹿やキツネの写真が並んでいる。
「ここは行った?」
遥香が振り向き、僕は首を振る。
北海道に生まれ育っているが、北海道の観光地は近すぎて、行こう、という発想がなかった。
「ねえ、いつか、北海道を一周しない?」
「よし、夏休みに行こうか」
遥香は嬉しそうな顔をする。
続けて、ペラペラとめくり、遥香は再び「あ」と声を上げた。
「ねえねえ、見て見て。これ」
遥香の無理にはしゃいだ素ぶりを見て、もうスマホについて訊くことを諦める。
雑誌の後半はヨーロッパ特集になっていて、洒落たカフェの記事が並んでいた。
「フランスがやっぱり一番お洒落だよね。あーあ、行ってみたいなぁ」
「遥香も外国に行ったことないの?」
「ないない。北海道と東京だけ」
東京、という言葉に一瞬、反応してしまう。
遥香はそれには気づかず続ける。
「ねえ、いつかお金を貯めて一緒に行こうよ。どれくらいお金かかるのかなぁ」
「ツアーだとそんなにかからないよ、きっと。フランスに行く?」
「うん。あー、やっぱりここにする。なんか、ここ、いい。ここに行きたい」
遥香は嬉々として僕に雑誌を見せてきた。そこに写っていた光景は、確かに目を惹くものだった。
ずっと続く見渡す限りの草原の中に突如、ひまわり畑が現れ、その中に大きな白いカフェがある。ひまわり畑の敷地いっぱいにテーブルとデッキチェアが広がっていて、ブロンド髪の客たちが大きなスコーンと紅茶を楽しんでいる。写真には、グランチェスタ・テラスと店名が記載されており、括弧書きでイギリスと書かれていた。
「今でもひまわり、好きなんだな」
「うん。私にとって大切な思い出の花」
「北海道にもあるよ?」
「ううん、遠い、遠い場所にあることが大事なの」
「よし、じゃあ、行くか、海外」
「やったね。これから大忙しだ」
遥香は嬉しそうにくしゃっと笑んだ。
一瞬、彼女の笑顔に見惚れる。
いつか行こうと約束した場所が一気に十箇所目を越え、初の海外リストアップまで組み込まれたが、それでも叶えてやろう、と本気で思った。
その日一日、二人でのんびりと過ごした。そして夜九時半を回ったところで、遥香をアパートまで送るために車に乗り込んだ。一日はしゃぎ通していた遥香も陽が暮れるにつれて極端に口数が少なくなっていた。
「急に元気がなくなったなぁ。おばさんと連絡が取れなかったこと、気になっているんなら、今、電話しちゃいなよ」
遥香のアパートが近づいていた。
「ううん。大丈夫」
「前、電話に出ないと凄く怒るって言ってたもんな。でも、何だか俺の知ってるおばさんとイメージが違うな。遥香ももうすぐ二十歳なのに、子離れが」
「お母さんのこと、悪く言わないで」
遥香は、窓の外の流れる夜景を見ながら、断固とした重みのある声で僕を遮った。
「お願いだから」
僕は黙るしかなかった。
いつもの降車場所に着いて、遥香はドアを開ける。僕は遥香の背中に向けて言う。
「遥香……、東京で何があったの? 遥香のこと好きだから、……だからこそ知りたくて仕方がない。朝、いつか話してよって言ったけど、本当は凄く苦しいよ、この状況。それだけは分かってくれよな」
遥香は僕の方を向かないまま、小さな声で答えた。
「分かってる。淳一君の気持ち、分かってるから」
アパートへ向かって歩く遥香は一度も振り返らなかった。
僕は質量のある靄のようなものを胸に抱えながら、帰路につくためアクセルを踏んだ。
大通公園の側道を東に抜け、さっぽろテレビ塔を越える。いつも渋滞気味のこの道も夜の十時をすぎて閑散としている。豊平橋を渡り、南郷通りを南下して菊水をすぎたあたりのコンビニで缶コーヒーを買い、それを飲みながら夜空を見上げた。
札幌の中心街から外れたこともあり、星は幾分よく見えた。しかし、それでも故郷で見た星の海とは比べるまでもなかった。
一緒に手作りの早見表を握って、星を眺めていたあの頃は、遥香のことは何でも知っていたのにな、と思う。遥香と再会してからもう一年半が経つ。遥香の家族のこと、今の生活のこと、心に潜む深い闇のこと……、知らないことが多すぎる。彼女の東京での生活だけでなく、今、彼女がどんな部屋に住んでいるのかさえ僕は知らない。
遥香は僕に対して何も求めてこない。
ただ、傍にいてほしいと言う。
私を見ていてほしい、それだけでいいと言う。
それでも、僕はやはり遥香のことを知りたい。
再び車を走らせる。音楽もラジオもかけていない車内、ただタイヤとアスファルトが擦れ合う音だけが響いている。その空間にスマホの着信音が響いた。ちょうど赤信号で停車した僕は助手席に転がるそれを取り上げた。着信画面には『遥香』の文字。通話ボタンを押した。
「おう、はる――」
「助けて!」
突然、遥香の尋常ではない声が響いた。
「どうした!」
「お願い、今すぐ来て!」
悲鳴のような叫びを押し殺しながら、なんとか声にしているという感じだ。小刻みに震える声。
発作が起きている! 僕はそう直感した。
「いいか、この電話を切るなよ。ここからだと十分くらいで着くから」
全身が熱く火照る。以降、なにも言葉にならない遥香に声をかけながら、Uターンしてアクセルを踏み込む。出せる限りの速度で遥香のアパートを目指す。
西十八丁目駅そばの、いつもの降車場所を通りすぎ、初めて遥香のアパートの傍まで辿りつく。
「遥香、落ち着いて聞いて。遥香の部屋は何号室? ゆっくりでいいから答えて」
受話器から聴こえる声は既に嗚咽に変わっていた。それでも振り絞るように、二〇二号室、と答えた。
僕はアパートの駐車場に無断駐車し、車を飛び降りる。
目の前には安っぽい学生用アパート。左側の壁に二階へと続く外づけの階段がある。一気に二段ほど階段を駆け上った瞬間、上から降りてきた人とぶつかり、足を踏み外した。相手も尻もちを着いて呻く。相手は身なりのよいサラリーマン風の中年男で、僕は急いでいるからと詫びを入れて再び階段を駆け上がった。
ようやく二〇二号室の前まで辿りつく。
「遥香、俺だ。淳一だ。開けてくれ」
息を切らせながら、ノックをする。
そばにある呼び鈴はなぜか鳴らない。
「遥香? 遥香?」
息を整え、神経を部屋の中に集中する。
かすかに部屋の中で動く気配し、ドアが僅かに開いた。
チェーンが横切る蒼白な遥香の顔が半分だけ現れた。
「じゅん……い……ちくん……?」
「ああ、俺だ。淳一だ」
ドアの隙間から見えるのは、色を失った遥香の顔のみ。
ドアノブに添えられている手は未だ小刻みに震えている。
「遥香、とりあえず、チェーンを外してくれ」
僕は急かすように言う。
「そと、だれも……いない……の?」
無理やり絞り出されたような怯えた声。
「ああ、誰もいない。俺だけだ」
一度ドアが閉まり、ちゃり、とチェーンの外れる音がして再び開いた。
遥香は倒れ込むように抱きついてきた。ただ思いきり抱きしめ、遥香の頭に頬を押しつける。遥香も両腕を僕の背に回し、胸に顔を押し当てるようにして泣く。隠すこともなく、押し殺すこともなく、全てを吐き出すようにひたすらに。
どれくらい時間が経ったのだろう。もしかしたら二、三分ほどだったのかもしれない。それでも随分長くそうしていたように感じた頃、ようやく震えていた肩が落ち着いてきた。僕は遥香に耳元に、柔らかく響くようにそっと言った。
「なあ、とりあえず、部屋に入ろう。ここじゃ、話もできないよ」
僕たちはドアを開けたまま、玄関に突っ立って抱き合っている状態だった。しかし、その瞬間、遥香は弾けるように僕から離れ、後ずさりした。
「ダメ」
遥香は眉根を寄せて怯えるような口調で言い放った。
僕は遥香の背後に広がる真っ暗な部屋から、何か異質なものを感じていた。
「遥香、今までも部屋に入れてくれなかったけど、どうして? 何か見られてはいけないものでもあるの?」
僕は玄関から部屋へ一歩踏み入る。
「ダメ。止めて! お願い」
遥香は懇願するように僕の服を掴む。しかし、僕は止まらなかった。
遥香の手を解き、玄関の壁にある電気のスイッチを探し当てて、それを押す。
電気は点かなかった。
玄関からキッチンへと続く狭い廊下の電気を見上げる。
そこには何もなかった。ただ、天井から電灯を接続するためのコネクタが所在なさそうに佇んでいるだけだった。
不審な思いに駆られ、再び遥香の制止を振り切って部屋の中に入ってゆく。
部屋の電気をつけようとしたが、そこも点かなかった。
電灯そのものがなかった。
目を凝らして部屋を見渡した。
暗闇に目が慣れてきた僕が見たものは、何もない部屋だった。
本当に何もない部屋。テレビも、本棚も、机も椅子も。何もない。部屋を借りた直後の、そのままの部屋。
フローリングの床の真ん中に赤い光源がひとつ。
壁から伸びる一本のコードの先にある固定電話が留守録を知らせるボタンを赤く明滅させている。
一定間隔で赤く刻まれる部屋の隅には、綺麗に折りたたまれた布団。その傍に多分、持ち物の全てであろう服をつめたダンボールといつも持ち歩いているバッグ。
この空間にあるものはそれで全てだった。
「……遥香?」
僕は現状を理解できずに遥香の方へ振り返った。
遥香は闇を溶かし込んだような虚ろな目をして僕を見ていた。
もう、震えてはいなかった。
「遥香? ここはどこ?」
今度は僕の声が震えていた。
「……わたしのへや」
遥香はゆっくりと答える。
「私の部屋って、なにもないじゃない」
「私の暮らしている部屋だよ」
「電気もないよ。テレビも、テーブルも、食器もないよ」
「いらないの」
遥香ははっきりとした口調で即答する。
「全部説明してほしい。遥香、さっき、何があったの? ここでどうやって暮らしてきたの?」
留守録の赤い明滅が二人の顔を妖しく刻み続ける。
暫くの沈黙ののち、遥香の目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ始めた。しかし、遥香は隠そうともせず、拭おうともしない。ただ、僕を見つめている。そして、微かに笑んだかと思うと、口を開いた。
「淳一君、今までいっぱい迷惑かけてゴメンね。もうさよならだね。私、淳一君とはもう一緒にいられない。自分がおかしいの分かっているよ。戸惑うよね。私のこと怖いよね。普通じゃないもんね」
遥香は声を発する。一字一句探しながら、確かめながら。
「そんなことを訊いているんじゃない。何があったの? って訊いているんだ」
僕はもう、全てを聞くまで引き下がる気はなかった。遥香はまた黙り込み、僕から視線を外した。そして。
「さっき、突然、本当に突然、ある人が来たの」
「誰?」
「おとうさん」
言葉の意味が分からなかった。遥香には母親しかいないはずだ。
遥香の表情を窺うように見つめる。
遥香も再び僕に視線を定める。
ふいに遥香が歩き出し、さっと僕の横をすり抜け、床の真ん中に置かれている電話の傍でしゃがみ込んだ。
「今時、懐かしいでしょう。固定電話って」
赤く明滅する留守録のボタンに指先を近づける。
「多分、これ、あの人からだよ」
遥香は留守録の再生ボタンを押した。
静寂の中でかちゃり、かちゃりと再生の動作音やけに大きく響く。
短くかちゃっと音がし、再生が始まった。
ピーという機械音が鳴り、遥香が僕の部屋で寝込んでいた日の日付を告げた。
無機質な女性の機械音声が部屋いっぱいに突き刺さる。
―― 録音ハ二十八件デス。
―― 午後十時一分、一件目デス。
二日間に二十八件という多すぎる録音件数を告げた機械音声のあと、男の声が響いた。
―― 遥香? なんだ、まだ帰っていないのか? もう十時だぞ!
それだけ言って電話が切れた。すぐに二件目が再生される。
―― 遥香? 帰っていないのか? 約束を破る気か? えぇ?
録音の再生は無遠慮に続く。
―― おい、もう十一時だぞ! 携帯に出ろ!
男の声がだんだん荒くなってゆく。
―― 午後十一時二十八分、五件目デス。
―― おまえ、スマホはどうした? 男と一緒にいるのか? どうなんだ? 答えろ!
プッ、プープーと録音された通話の切断音が響く。
電話の傍でしゃがみ込んだままの遥香は耳を塞ぎ、再び肩が震え出した。
そんな遥香の背中を眺めながら、僕はただ呆然と立ち尽くしていた。
録音は続いた。怒鳴り散らしたかと思うと、無言で切れる時もあった。
そして、十五分ほどして、最後の二十八件目を再生しようとしていた。
結局、母親からの録音も、友達からの録音もなく、ただ恫喝する男からの録音のみだった。
今日の日付を告げた機械音声のあと、不気味なほどの静けさを伴った声が再生された。
―― 午前五時二十二分、二十八件目デス。
―― 今からそっちに行くからなぁ……。
部屋に静寂が落ちた。赤いランプの明滅も消え、本当の闇が僕たちを包み込む。
遥香の細い背中を窺う。
もう肩は震えてはいなかった。
沈黙を破ったのは遥香。
「これも見る?」
遥香は立ち上がり、スマホを僕に見せた。
青白く光るモニターの中は「継父」という文字で埋まっていた。数分置きに、ついさっきまでずっと着信履歴が続いている。
僕は顔を上げ、遥香を見やる。
遥香は場違いな笑顔を携えていた。屈託のない子どものような爽やかな雰囲気さえ漂わせている。
「充電器を挿して電源を入れた途端、不在着信のメッセが止まらなくなっちゃった。この着歴と留守電のランプを見たら、また身体が痺れてきちゃった。そしたら、本人の登場。ドアの外からさっきの続きが始まっちゃったの」
遥香は何か大切なものを抱くように両手を胸の前に添える。
「淳一君の車がすごいスピードで駐車場に入ってくるの、見えたよ。それで、あの人どっかに行っちゃった。淳一君、白馬の王子様みたいだった」
カーテンから漏れる僅かな街灯の光が遥香の安らかな表情を映し出している。
「但し、この物語のお姫様は穢れた悪魔の子だったのです。そして、今日、王子様はそれを知ってしまいましたとさ、なんて」
自嘲気味に遥香は静かに微笑んでいる。
「遥香……」
わけの分からない怒りに似た感情が身体中を駆け巡り出す。
「もういいよ、淳一君。もういいの。さよならをしよう。淳一君と会えて本当に嬉しかった。東京から逃げ出して、それでも毎日十時にかかってくる電話に怯えて暮らしてきた。結局、逃げることなんてできてなかった」
無機質に話す遥香はそこで言葉を切ると、「でもね」と温かみのある声で続けた。
「淳一君が私を見つけてくれたことは、恐怖しかない世界で起きた奇跡だった。恋人として過ごせたこの数か月は本当に涙が出るくらい幸せだった。生きてきてよかった、と初めて思えた。一生の宝物だよ。本当にゴメンね、最低な彼女だったね。だから――」
「待てよ」
淡々と語る遥香を、僕はたまらず遮った。制御のできないない怒りで声が震えていた。
「なにを勝手に話、進めているんだ? お父さんってなんだ? 逃げてきたってどういう意味だ? さよならってなんなんだよ!」
僕の声は最後には叫びに変わっていた。遥香の表情が急変した。絶望の淵に立った人のそれに。
「大きな声を出さないで! ……お願い」
「なあ、帰るぞ、遥香。俺ん家に帰るぞ!」
僕は遥香の腕を掴んで部屋から連れ出そうとする。
「ちょ、ちょっと、淳一君! なに? 私、行かないよ。さよならだって。もう、学校でも淳一君に迷惑かけないから。ね、離してよ」
「お前、さっきから言っていること全部、一人で決めることなんかじゃない。ちゃんと説明してもらう。それに、そのお父さんと呼ばれているヤツはさっき俺が階段でぶつかったヤツだろう? まだ、この近くに居るぞ。お前一人をここにはおいては行けない」
僕は強引に遥香を引っ張って部屋から連れ出す。
「ちょっと、淳一君もおかしいんじゃない? こんなに変なことばっかり起きているんだよ? この部屋を見てなんとも思わないの? 普通は嫌になるよ、こんな彼女は。他にももっと普通の女の子が沢山いるよ。ね? 淳一君だったらすぐ新しい彼女ができるよ。ねえってば!」
遥香は必死にもがく。
僕は振り向いて「言うことを聞け!」と叫んだ。
これだけ厳しい言葉を遥香に浴びせたのは初めてで、その言葉が僕自身にも突き刺さる。
「頼むから」
もう我慢して、いい人でいるのもやめた。
遥香とちゃんと向き合わなきゃだめだ。
そのためには今、こんな部屋から遥香を切り離さなきゃだめなんだ。
強引に彼女の腕を掴んだまま駐車場まで引っ張っていく。
「私は、私自身にも淳一君にも背負い切れないよぉ……」
遥香の言葉は夜空に紛れて消えた。
アパートに着いた僕たちはテーブルを挟んで向かい合っていた。
二つのマグカップからはコーヒーの湯気が戸惑うように揺れている。
訊きたいことは山ほどあった。しかし、何から訊いていいのか分からなかった。
語ることに拒否感を漂わせる遥香は、俯き加減で座布団の端あたりを見つめている。
二人とも動かなくなって五分ほどした時、僕は口火を切った。
「お父さん、って誰?」
遥香は顔を上げず、俯き加減のまま答える。
「……お母さんの再婚相手。再婚するために、東京に引っ越した」
「再婚……」
「今、私の苗字は飯島じゃないよ。山岸っていうの」
「おばさん、再婚されてたんだ。そしたら、その人は一応、正式に父親なんだね」
「あいつは父親なんかじゃない!」
遥香は顔を上げ、声を荒げた。一瞬で我に帰り、また俯いた。
しん、とする。
遥香はきつく唇を噛み締めて、口を閉ざす。
僕は手を伸ばして、遥香の髪にふれる。遥香は一瞬、身体をこわばらせたが、避けなかった。
「話して。お願いだ」
沈黙。
暫くして、ふいに、遥香は決意したように、小さく頷いた。
か細い小さな声が、彼女の過去を語り始めた。
「本当のお父さんは、私が六歳の時に交通事故で死んだの、知ってるよね。すごく貧乏だったことも」
僕は小さく頷く。
「あの人はね、お母さんのお客さん」
「お客さん?」
「お母さん、ずっとスナックで働いていたから」
くん、と喉が閊える。
遥香のお母さんはずっと料理人だと聞かされていた。遥香からも、僕の両親からも。でも、たぶん、知らなかったのは僕だけなのだろう。
「ずっとね、本物のお父さんがいる淳一君が羨ましかったよ」
遥香は微かな笑みを僕に向ける。
「でも、小六に上がった時、あの人が現れた。私、あまりホントのお父さんを覚えていなくて、お父さんってどんな存在か分からなかった。最初は怖かった。でも、週末は札幌から必ず来てくれて、お母さんと三人で色んなところに連れ出してくれた。お父さんってこんな感じなのかなって思った。楽しかったよ。それにとても優しかった」
僕は身動き一つせず遥香の話に耳を傾ける。
「あの人、大手企業の社員だった。仕事も順調で、半年くらいして、週末は三人で暮らすようになっていたの。私も、あの人が、母以外で受け入れられる唯一の人になっていた。それでね、ある日、お母さんから再婚の話を相談されたんだ。あの人が東京に転勤になるって。再婚して、あの人の家族として、東京に引っ越したい、って。もちろん、すぐに了承したよ。お母さん自身、もうあの人がいないと生きていけないようになっていたし、私も何も異存はなかったから」
遥香はふいに口をつぐみ、僕の顔色を窺う。
僕は、続けて、と小さく相槌を打つ。
「でもね、再婚して楽しく暮らしていけたのは三年くらいだった。あの人が突然会社をクビになったの。事業縮小とかで、リストラの対象になったって。それからあの人の人格が変わった。私はその変貌振りついていけなかった……」
遥香の声色が低くなる。
「今は、あの人、清掃会社に勤めているんだけど、その当時は、仕事がずっと決まらなくて、それで、お母さんがまた働き出したの。私は高校生になっていたんだけど、たまに、あの人と家に二人きりの時間があるようになった。その度にお酒を飲んで、俺は大企業にいたんだ、って昔話を聞かされるようになって。嫌で嫌でたまらなかった。できるだけバイトのシフトとかを増やして家に帰らないようにしてたんだ。だって、お母さん、あの人のこと、本当に愛していたから。お母さんにあの人の悪口は絶対に言いたくなかったから」
一気に話すと、遥香は一つ息をはいて、マグカップを両手で包み込むように持った。コーヒーを一口だけ飲むと薄らとぎこちない笑みを浮かべて言った。
「ゴメンね、重たい話でしょう? 淳一君には話したくなかったことばっかり。淳一君、嘘はつかないでね。私はいつでもいなくなるから。本当はそうなりたい。消えてしまいたい。何処にも存在したくない……」
「何を言ってるの? ……消える、ってどういう意味?」
僕は何とか心を落ち着かせるのに必死だった。
遥香は目を伏せたまま答える。
「言葉の通り、だよ。私、いつでもいなくなるから。私の部屋見たよね。あそこにもね、私はいないの。自分を消しているの。この世界の何処にも存在しなくなればいいのに。自分が大嫌いだから……」
何故そこまで自分を嫌うのだろう?
遥香は何も悪いことはしていない。
むしろ、辛い境遇をずっと耐えてきたんじゃないか。
僕は思ったことを遥香に伝えた。
すると遥香は顔を上げ、じっと僕を見つめた。そして感情の消えた声色で言った。
「淳一君、私を抱ける?」
静かな部屋に響いた。
僕の頭はますます混乱する。
意味が分からない。どうして今?
遥香は当惑する僕をよそに続ける。
「私、初めてじゃないよ」
胸の中心に鋭い爪をとんと突き立てられたような衝撃を受ける。
勿論、遥香だってもうすぐ二十歳になる。東京時代に恋人がいたって全然おかしくない。
ただ、そうじゃない何かを感じる。胸に引っかかった違和感が警報のように暴れて疼く。
何か……。何かが。
「私、高校二年の時に、その人にレイプされたんだ」
静寂の中。
ガラスでできた鋭いナイフのような言葉。
そのナイフは僕を深くえぐり、そして遥香をえぐって粉々に砕けた。
疼きの原因。
それが、答え。何か、の答えだった。
遥香から表情が消えていた。
僕は喉が塞がって声が出てこない。
遥香は感情が決壊したように言葉を溢れさせた。
「ある日、バイトもなく学校から帰ってきたら、既にあの人は酔っていた。嫌だなって思った。避けるように自分の部屋に逃げたんだ。今思うと、その態度があの人を逆上させたんだと思う。突然、部屋のドアが開いて一目で尋常じゃないと分かるあの人が立っていた。その時のあの人の目、一生忘れることができない」
一瞬、遥香はそこで嘔吐を堪えるような仕草を見せた。僕は焦って腰を浮かすも、彼女はそれを制して続ける。
「それで、力づくで押し倒された。怖くて、金縛りにあったみたいに動けなくて、あとは無理やり……。このことを言ったら、お母さんを無茶苦茶にすると脅された。私が唯一愛しているのはお母さんだって知っているから。法的にも再婚しているし、そんな脅しが子どもだましだって分かってたよ。でも私は黙っていた。あの人といるお母さんは幸せそうだから。その日から、あの人は私に執着するようになっていった……。内緒での札幌の大学を一校、受験した。そして私は逃げてきたつもりだった。でも逃げ切れなかった……」
涙がこぼれていた。
遥香ではなく、僕の目から。
僕はふらりと立ち上がり、遥香の傍に寄った。
そして抱きしめようとした。
しかし、遥香は両手で僕を払いのけた。
「イヤ! さわらないで!」
遥香は叫んで立ち上がり、玄関の方へ後ずさる。
僕の顔を見た遥香はうろたえたような声を出した。
「淳一君……、どうして泣いているの?」
なぜ泣いているのかなんて説明できなかった。
あらゆる感情がぐちゃぐちゃに煮込まれて沸騰していた。
胸が張り裂けそうなほどの悔しさ、殺意を抱くほどの怒り、身体中にガラス片を突き立てられたような悲しみ、そして、狂おしいほどの愛しさ。
僕は遥香の腕を掴み強引に抱き寄せた。
「やめて、ねえ、やめてって。私は汚いの。すごく汚れているの。私は淳一君を汚したくない。私は高二のあの日、自分を殺したんだからぁ。ねえ、だから……、さよなら……、しよ……う……」
絶望の雫が遥香の両頬を伝い始める。
僕はひたすら強引に遥香を抱きしめる。
もがく遥香。
身動きできないほどに、更にきつく抱きしめ、遥香も呼応するように暴れる。
やがて抵抗する力が弱まり、そして、糸が切れたようにぷつんと脱力した。
遥香は僕のシャツをきつく掴み、胸に顔を埋めて、怨嗟を吐き出すように圧し殺した悲鳴を上げた。それは止むことなく部屋に響き続け、僕は遥香を感じ続ける。遥香を抱き、首筋にキスをして、再び抱きしめ、遥香の厚みを確かめ続ける。喉を詰まらせていた感情が、遥香の温度で溶けた瞬間、僕はようやく声を発した。
「俺は遥香と別れない。遥香。今日、この日から始めよう。新しく、二人で。なにもかも、全て。今日から、また、生きるんだ」
遥香は首を横に振る。
しかし、僕は何度も言い続ける。
これ以上、遥香を傷つける全てを僕は許さない。
「大丈夫。遥香はここにいる。存在している。遥香をずっと見ている。一人じゃない。遥香は……、……、ここに生きている……」
心から叫ぶように何度も何度も遥香に言う。
ずっとそばにいる、これから君を守り続ける、と。
どれくらい経ったのだろう。
声も枯れ、何を訴え、何を拒まれているのかも曖昧になるくらい時間が経った頃、幾度となく首を横に振っていた遥香が、震える涙声で言葉を発した。
「うん」
たった二文字の言葉。
やっとたどり着けた。
それは、遥香が初めて本当の心を許した瞬間だった。
薄闇の中、僕は初めて遥香を抱こうとしている。
なぜか手が震えてしかたがなかった。
何度も遥香を抱きたいと思ってきた。
そして、今、この小さな部屋の中、何も身にまとっていない遥香が腕の下で僕の顔を覗き込んでいる。
「遥香……、すごく綺麗だ……」
情けないほど言葉が出てこない。しかし、今日、照れながらも初めて心からの笑みを見せる遥香の目には溢れるものがあった。
遥香は目を閉じる。涙の筋が頬を伝ってシーツに染みを生む。
僕は彼女の唇に、そっと自らのそれを重ねる。頬へ、耳へ、首筋へ、隆起する乳房へと、ゆっくりと時間をかけて口づけてゆく。遥香の全身にとりついた忌まわしい悪夢を全て拭い去るように。
もう二度と、汚れている、とは言わせない。
遥香の心にある深い傷跡を和らげることができるのならば、僕の全てを遥香に捧げる。
愛しい感覚が溢れてくる。
経験したことのない、胸が圧しつぶされそうな感覚だった。
これが愛というものなのだろうか。
僕は、遥香と、真実と、過去を、抱いた。
彼女を抱き、そして、僕も彼女に抱かれていた。
僕の右腕を枕にした遥香が窓の外を見上げ、囁いた。
「いつか、本当にいつか、あのひまわりの咲き乱れた場所に行こうね。ひまわりはね、太陽を追いかけるのは子供の頃だけ。大人のひまわりはいつも東を向いている。その先にきっと夜明けがある。二人で行こうね」
カーテンの隙間から覗く空は、薄らと明るくなっていた。
明けない夜はない。
長い、長い夜が明けようとしていた。
翌日から遥香と僕は一緒に暮らし始めた。




