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10 神さまがいない理由

 パンティングの一件以降、カリンとフェリックスの仲は最悪だった。


 二人は授業中であろうと、放課後であろうと、ことある毎に喧嘩をした。

 着火点は毎回違っていたが、一つだけ共通点があるとすれば、とても次元の低い喧嘩であるということ。スイスのチーズとドイツのソーセージ、どちらが世界的地位を築いているかなど、そんなテーマで激論を繰り広げる。挙句、フェリックスがスイスには母国語がなく、自分たちが生み出したドイツ語を使っている、と喰ってかかれば、カリンは戦争の歴史を持ち出し、ドイツには何も言う資格はない、とよく分からない理論で反撃する。

 戦争の話題で一瞬ひやりとするのは僕くらいで、それらもチーズなんかと同じ舞台で繰り広げられ、クラスメイトはもっとやれ、と二人を焚きつけていた。

 しかし、それも一ヶ月ほどで飽きたらしく、次第にみんなは相手にしなくなっていった。


 僕は、そんな二人の喧嘩を見るのが好きだった。

 思ったことをそのまま口にする二人の言い合い。

 そこにあるのは、計算や駆け引きのない、「私はこう思う」という真っ直ぐな意思のみ。

 とても綺麗だと思った。

 ここでの生活はとても眩しいものだった。


 ユーロスクールでの生活にも慣れ、非日常だった日々が日常として廻り始めた頃から、エンディと行動をともにすることが多くなっていた。

 同じ歳でもあり、また僕自身は感じていないのだが、エンディに言わせると「お前はおとなしすぎる」のだそうで、彼は何かと僕を気にかけてくれていた。


 週初めの今日、いつも通り、エンディと行きつけのカフェに向かっていた。

 ここ最近、彼から教えてもらったチェスに二人してはまっていた。連戦連敗だった時期をすぎ、接戦が続くようになり、むきになったエンディに毎日勝負を挑まれるようになった挙句、いつしか日没までのひと勝負が日課になっていた。


 カフェへの道すがら、並んで自転車を漕ぐ僕にエンディが訊いてきた。


「ジュン、この前のテストどうだった?」

 

 ユーロスクールは理解度をチェックするために、月末に試験がある。成績が悪いと弱点強化の名目でどっさり宿題が渡される厄介なヤツだ。

 先週末、僕たちは初めての試験を受けた。僕の成績は目も当てられなかった。


「最悪だった。五十八点……」


 エンディが大げさに驚いたような顔をする。


「おいおい、本当に悪いじゃねえか。結構、宿題出たんじゃねえの?」


 嫌味もなくはっきり言う。


「呼び出しくらって弱点克服なんとかって名前のプリントの束を渡されたよ。あとカリンも来てたな」

「あいつ、まったく勉強している気配がないもんな」

「エンディは何点だった?」

「俺か? 九十二点だ」


 驚いてエンディの横顔を見やる。

 僕自身、昔から英語は好きではなく、得意でもなかった。それでも世界的には、日本の教育レベルは高いらしく、普段、流暢に英語を話しているように見えるヨーロッパ出身の生徒たちでさえ、テスト結果は僕よりも下だった。間違いなく簡単なテストではなかったはずだ。英会話テストもあるし、かなりのボキャブラリーがないとよい点は取れない。


「すごいな。クラスで一番だったんじゃないの?」

「いや、一番はフェリックスだってよ。九十七点だってよ。それより、テスト前の放課後はチェスをするより図書室かどっかで勉強した方がいいかもな。お前さえよければ一緒にやろうぜ」


 九十二点を取っているエンディからすれば僕と一緒に勉強してもメリットはないはずなのに、相変わらずさり気ない優しさを見せる。

 僕は冗談めかしに答える。


「おう、最近は勝ち越しの戦績なのに、申し訳ないな、エンディ先生」


 エンディは笑みながらむっとするという複雑な表情をしてみせ、「それを言われちゃ、言葉もねえ。急ぐぜ」と返し、自転車の速度を上げた。


 以前パンティングをしたケム川の傍にある『ボランティア』というカフェに到着した。


 ここは、川堀に沿って細長く建てられたカフェでかなり大きい。

 窓沿いの席に座ると眼下には掘に囲まれたケム川がどこまでも続いている。内装は赴きあるクラシックな雰囲気で、ところどころに観葉植物を配し、イギリスの流行曲を絞り目のボリュームでかけている。客席数もかなりあるので、まず満席になることはなく、一杯のコーヒーで数時間居座ることができた。


「さて、やるか」


 エンディが鞄から携帯用のチェス盤を取り出し、駒を配置する。


「今、何勝何敗だったっけ?」

「ジュンがルールを覚えてからだから、俺の十八勝七敗だな」

「はぁ、まだ十一勝差もあるのか」

「おいおい、ルール覚えたてのヤツに七敗もした俺の身にもなってくれよ。トルコでは日本人の脳みそは高性能CPUだ、って言うヤツがいるくらいだぜ。俺もそう思えてきたよ」

「五十八点なのに?」

「そりゃ、本気で勉強してねえだけだろ」

「ごもっとも」


 返す言葉もなく、とりあえずチェスをスタートさせた。

 十五分ほどして僕がやや優勢に立ち始めた。

 エンディが顔をしかめて唸る。


「ジュン、本当にお前の頭はコンピュータでできているんじゃねえのか?」

「いや、日本にも似たようなゲームがあるんだ。将棋っていうんだけど、チェスをもう少し複雑にした感じかな。将棋は結構、強かったから」

「ショギねえ……」


 ショウギ、と訂正しようかと思ったが、追いつめられたエンディの表情を見て、そっとしておくことにした。


 暫くの間、エンディは盤を睨みつけ動かなくなった。

 そのエンディの頭越し、二つ奥の席に見慣れた金髪の青年を見つけた。


「エンディ、なあ、エンディ」


 数回声をかけ、ようやくエンディは盤から目を離す。


「向こうにフェックが来てる」


 僕の言葉に、エンディは振り返る。

 フェリックスに気づくと大きく手を振った。


「おー、フェック。偶然。お前も来ていたのか」


 フェリックスもこちらに気づき、軽く手を上げる。

 エンディと僕は席を立ち、フェリックスの席へと赴いた。


「よお、お前もここによく来るのか?」


 エンディは訊きながら、フェリックスの正面に座る男性をちらりと見やる。


「いや、初めて来たよ」


 フェリックスはエンディと僕の視線を追い、「ああ、紹介するよ」と言った。


「僕の兄貴で、マーティン・コッフェだ」


 少しずんぐりとした男性は、にこりと感じのよい笑顔を見せる。


「初めまして。マーティンと申します。弟がお世話になっています」


 とても丁寧な話し方だった。

 ぽっちゃり目の体型に金髪を七三に分け、眼鏡をかけている。フェリックスの兄といえど、かなり歳は離れて見える。僕たちより年上だろうか。そして、何より目を引くものがある。それは、彼が座っている場所。小洒落た店の椅子ではなく、車椅子だった。


「宜しければ、ご一緒にどうですか?」


 マーティンの誘いに、チェスの分が悪くなっていたエンディは即、快諾する。

 すばやい動作で、元座っていた席のチェス盤を片づけ始めた。


「ジュン、とりあえず、今回は引き分けだな。これは不可抗力だから」


 エンディの愛嬌たっぷりのウインクに僕は肩をすぼめてお手上げの合図をした。


 改めて四人でテーブルを囲み、フェリックスが僕とエンディを紹介した。


「もう酒を飲んでもいい時間だよね。僕が取ってくるよ」


 フェリックスが全員分の注文を聞きいて、カウンターへ向う。

 早速エンディはマーティンに話しかけている。


「弟の様子を見にこられたんですか?」


 ここヨーロッパではドイツからイギリスへ来るのは小旅行レベルで、アジアからイギリスに来るのとは根本的に認識が違う。ヨーロッパ出身の生徒の肉親や友人は気軽にイギリスに遊びにきていた。


「いや、フェリックスと一緒に来ました。私も別の語学学校に通っているんです。ホームステイ先は同じ家なんですが」


「そうなんですか。フェリックスのヤツ、兄さんと一緒に来ているなんて言ってなかったから」


 エンディの言葉に、マーティンの笑みが翳る。


「ああ、私の足がこれですら。多分、皆さんから同情を受けたり、過剰に気を使われたりするのが嫌なんだと思います。あれは母国にいた時からそうですから」


 そこで、小さくため息をつくと、優しい表情になって続けた。


「負けず嫌いでもありますしね。でも、本当によくしてくれます。私の世話のせいで彼の時間をかなり費やしていると思うのですが、まったく顔に出さない。できたヤツです」


 マーティンの言葉には毅然としたものがあった。

 言葉を選んで会話をためらうのは逆に失礼だと感じ、素直な言葉で訊く。


「失礼ですが……、事故か何かで?」

「ええ。六年前ですから二十歳の頃からです。私の運転していた車が交通事故を起こしまして。両足が麻痺しています」


 フェリックスが四つのグラスをトレーに乗せて戻ってきた。


「兄さんはこれでいいんだよね」


 マーティンの前にカシスオレンジを、エンディにはビール、僕にはサイダーを渡し、フェリックス自身はコーラを持って席に着いた。


「おい、フェック、お兄さんと一緒に来ているなんて知らなかったぞ」

「別に訊かれなかったからさ」


 フェリックスは、何でもない、という顔で即答する。

 僕はマーティンに向き直り、続ける。


「二十歳からですか。それは……、苦労されたでしょう」


 マーティンは首を振ったのち、小さく頷いた。


「まあ当時は荒れました。しかし、フェリックスがいたし、イエスが見ていてくれていることに気づいてからは落ち着きましたよ。苦難があっても必ず見守っていてくれる。足がこうなってから気づいているのですから情けない話です」


 その言葉にエンディが深い相槌を打つ。


「俺もいつもアッラーが見ていると思って生活しているんだ。選択に迷うことがあるなら、アッラーに対して恥かしくない方を選ぶようにしている」


 エンディの言葉に、今度はマーティンが頷きながら続ける。


「イエスを身近に感じるようになってから、麻痺してしまった足の意味を考えるようになりました。物事には必ず意味があるんです。私はもしかしたらあの交通事故で死んでいたかもしれない。でも今、私はまだ生きている。また、仮に事故を起こさず健康に生きていたかも知れない。でも実際は事故を起こして足は動かなくなってしまった」


 マーティンは瞳を伏せて、トーンを落とす。


「何度、事故を起こす五分前に戻って自分自身を止めにいく夢を見たことか……」


 マーティンは恥じるように頭を掻くと、顔を上げて続けた。


「間違いなく足は動かないより動いた方がいい。動かなくなった足を神による試練だとするならば、私はその試練を乗り越えるために生かされているのだと思うのです。そして私は今、その試練の先に何があるのかを見てみたい。その先にこの動かなくなった足の意味が見えてくるのだ、と思えるようになりました。まあ、そう思えるまでにかなりの時間を要しましたが」


 そう言って、マーティンはカシスオレンジを一口啜った。


 僕は黙ったまま聞きいていた。

 強い人だ、と思った。

 僕もいつの日か、マーティンのようにすべてを受け入れて、未来に意味を見出すことができるのだろうか。


 フェリックスは相変わらず、すまし顔でコーラを啜っている。

 エンディが神妙な顔つきで口を開いた。


「世の中には生きている意味を考えることなく一生を終える人も多い。もしかしたらそんな人たちが一番幸せかもしれない。俺たち信仰心が厚いといわれるイスラムの世界でも俺を含めた若い世代になるにつれ、アッラーを身近に感じている人は少なくなってきているんだが」


 そこでエンディは言葉に力を込めた。


「しかし、俺はアッラーとともに、生きる、という意味を考えていたいと思っている。ミスター・マーティン。こんなことを言うと失礼かもしれないが、あなたはきっと『足を失ったあなた』にしかできないことがあるのだろうと思う」


 マーティンはエンディに微笑みを向けて賛同の意を伝えた。

 そして、フェリックスの方に向き直った。


「ただこいつにはすまないと思っているんです。こいつは、こいつの人生の中で私に費やす時間が余りに多すぎる……」


 さっとフェリックスは表情を曇らせ、怒気を含んだ口ぶりで言った。


「俺はもう沢山のモノを兄貴からもらっているんだ。そういうことを言うのはやめてくれ」


 途端、エンディが、フェリックスの肩を思い切り叩いた。


「お前、最高。俺はお前が好きになったぞ」


 がはは、と笑うエンディに、間髪いれずフェリックスが不快感をあらわにして答える。


「触るな、馴れ馴れしい」


 フェリックスの対応に、一気に場が和んだ。

 しかし、ここで話は終らなかった。


 突然マーティンが思い出したように、黙したままの僕に訊いてきた。


「ところで、ジュンイチ。あなたの心には何処の神がいるのですか? たしか日本はブッディストが多いのでしょう」


 思わず口ごもる。

 僕も、僕の家も、真剣に何かを信仰していなかった。強いて言えば祖父母の家に仏壇があったのを見たくらい。ただその宗派さえも知らない。

 困った。適当に答えてごまかすべきか迷った。


「いません。特別に何かを信仰していません」


 僕の短い回答に、マーティンの顔色が変わった。


「日本にも、教会や寺があるのでしょう? たしか日本独自の神も存在すると聞いたことがあります」


 まっすぐと見つめてくるマーティン。

 その瞳を逸らせることができず、黙り込む。


 日本の実情を話しても理解してもらえるかは分からなかった。

 旅行で来ているならば宗教の話はご法度だと聞いたことがある。

 しかし、正直に話そうと思った。

 僕はここで生活をし、今、仲間と話しているのだ。

 神に対して誠実であり続けるマーティンに対し、誠実に答えようと心に決めた。


「日本人の多くはキリスト教を信仰していませんが、クリスマスは国全体がお祭り騒ぎになります。クリスマスが終わると、次は正月。ブッディストのお寺に初詣に行き、日本独自の神を奉る神社でおみくじを引いたりします。結婚式などもそうです。キリスト教の信者でなくても、教会で神に結婚を誓う人も大勢います」


 耳を傾けていた三人が同時に眉をひそめる。


「それが日本の実情です。独特なんです。まだ父親くらいの世代だと仏教であったり、日本神道であったり信仰がはっきりしていたのでしょうが……、僕たちの世代では信仰という言葉の本当の意味さえも、もう知らないのかも知れません」


 耳を傾けていた三人は一様に眉の間に皺を寄せ、信じられないとの表情を隠さなかった。

 ところどころ単語をフォローしてくれていたエンディも眉根を寄せ、特にマーティンは車椅子から身を乗り出して、怒りにも似た表情をしていた。


「ちょっと待って下さい。信仰という言葉の意味が分からない? 本気で言っているんですか? 人間は神の許しによって生きているのですよ。信仰とは即ち、神に許しを請うこと。日本人は今まで一人で生きてきた、そしてこれからも生きていける、そう思っているのですか? いや、ジュンイチ、あなたはどうなのです? 神を信じなくて何を信じるというのですか?」


 矢継ぎばやにマーティンは厳しい言葉を投げつけてきた。認めるわけにはいかないという感情が伝わってくる。

 気圧されて、言い訳をするように言葉を並べる。


「僕は……、今まで出逢ってきた信じるべき人を信じています。僕は両親を信じているし、愛した人を信じている。そう、ここにいるエンディさえも僕は自信を持って信じていると言える。勿論、人それぞれ違う。親を信じることのできない人だっている。もしかしたら夢を信じて生きる糧にしている人だっているかもしれない。僕はそれで」


 マーティンが首を振りながら手を上げ、僕の言葉を遮る。


「信じられない。こんな人間がいるなんて。人が人だけで生きているなんて、なんて奢り高ぶった考え方なのだろう。例え、何か成功を収めたとしても、神のお力添えがあってこそ。だから、我々は神に感謝をするのです。日本人は何か成功を収めたとき自分独りで成し遂げたと? 目に見えるものしか信じることができないのですか?」


 マーティンの捲し立てるような物言いに、感情が熱くなる。


「それは違います。先ほども言ったように、大切な人、目標をともにする仲間、愛する人を信じます。成功を収めたならば、大切な人に感謝し、仲間と」

「信じる、という言葉の意味が違うのです!」


 マーティンは声を荒げた。

 瞬間的に、かっとなった。


「分かっています! でも答えようがない。少なくとも僕に『信じる』という言葉の意味を問うなら、そう答えるしかない。勿論、奇麗事だということくらい僕にも分かっている。でも、それも間違っているとは思わない」


 意思に反して震えてくる声を絞り出す。


「僕とあなたでは生まれ育った環境があまりに違う。あなたが日本に生まれていたら、今の考えと違ったかもしれない。根本的な文化の違いがあることをまず理解してもらいたい。あなたは大変な苦難を乗り越えて今を生きている。僕はあなたを尊敬する。しかし、色々な宗教を受け入れ、尊重し合い、独自に混ざり合った母国の宗教観を否定してほしくはない」


 知らず内に拳を固く握り締めていた。

 マーティンは深く眉根を寄せて、なぜ分かってくれないのだ、との面持ちで答える。


「あなたも、神とはいわず、何かを感じたり、祈ったりしたことはあるでしょう? 人間は強くはない。ひとりでは生きてはいけない。祈り、とは人間が孤独を和らげる唯一の方法なのだ」


 マーティンは両手のひらを天に向けて続けた。


「思い返してみなさい。祈ったことが……、あるはずだ!」


 何かを引き裂いたような音が聴こえた。


 脳裏にあの日の光景が鮮明に蘇る。

 一瞬、胸が断割したような錯覚を起こした。


 一度だけ、僕は、本気で、神に、祈ったことが、あった。

 あの瞬間、確かに神にすがった。

 そして裏切られた。

 真っ白な腕を掴もうと伸ばした僕の手は届かなかった。

 神はいなかった。

 そう……、いなかった、と知ったんだ。

 だから、心が抗っている。

 ゆえに、マーティンに同意できない。


 視界が揺れ、色が消えた。

 動悸が激しく胸を打ちつける。

 あまりの激しさに恐怖すら覚える。

 じわりと全身の毛穴が開き、脂汗が噴出した。


「ジュン?」


 エンディが僕の異変に気づいて肩を抱いた。

 震える身体を落ち着かせようと、右手で胸をおさえて身を縮める。

 隣ではフェリックスが興奮するマーティンを落ち着かせようとしている。

 エンディが僕の顔を覗き込み、「大丈夫か」と懸命に声をかけてくる。


 幾分、動悸が治まり、視界に色が戻ってくる。

 細かい呼吸を連続させ、どうにかマーティンに向き直った。


「ミスター・マーティン……、僕は、生まれた時から神が身近な存在であったあなたとは違う。神の存在がないからこそ、自らに苦難が起きた時、神からの試練だと思うことができない。なぜ苦難が起きたのだろう? そればかりを考え、その原因を探り、二度と起こさないように考えたりする」


 ぎゅっと目を閉じ、一息ついて、続ける。


「しかし、あなたが経験したような取り返しのつかないことが起きた時、僕は未だにその苦難を乗り越える術を知らない。だから苦しい。とてつもなく苦しい。いつその答えを見つけることができるのか分からない。でも、いつか答えが見つかったら、もう一度あなたに逢いにいくよ。それでいいかな」


 マーティンは何も言わなかった。

 ただ、僕に何が起こったのかわからず、ただ見つめていた。


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