01 ケンブリッジの避難所
<前書き>
・本作は、現実恋愛・一般文芸作品となります。
・本作の舞台(イギリスのケンブリッジ、スコットランドのエジンバラ、北海道の果樹園の町など)は現地を取材の上、執筆しておます。情景描写が多めとなっております。ご容赦下さい。
・過去パートでは、性の問題を取り扱っております。ご注意ください。
この度はご来訪、ありがとうございます。ゆったりとした読書のひと時になりますように。 著者
静かな眠りから低くうなる重低音の空間に引き戻された。
小窓から入り込む陽射しは、旋回する機体とともに弧を描く。
傾く機体に微かなGを感じながら、ぼやけた目を何度かこする。
腕時計を見やると、出発して十二時間が経過していた。
「いてて……」
伸びをしようと身をよじった瞬間、腰に痛みが走る。狭いエコノミーシートに圧迫され続けた腰が非難の声を上げているのだ。
足元に丸まっているのは、ひざにかけていたはずの色落ちしたジージャン。腰を庇いながらそれを拾い上げ、再び背もたれに身を委ねた。
小窓の向こう、見下ろした先には、爪先にも満たないミニチュア模型のような家々がぽつぽつと新緑の牧草地に点在している。
成田空港を出発したブリティッシュ・エアウェイズは巨大なユーラシア大陸を横断し、ヨーロッパの空を跨ぎ、小さな島国、グレートブリテンのヒースロー空港に近づいていた。
ぽん、と丸みを帯びた電子音が鳴り、いっせいに灯りが点いた。続いて英語の機内アナウンスが流れる。
たぶん、到着時刻か何かを告げているのだろう。
もちろん、英語など聴き取れるはずもなく、あとどれくらいで着くのか正確には分からない。ただ、勢いよく拡大されていく眼下の町並みが、着陸がそう遠くないことを知らせていた。
ヒースロー空港に着陸したのは柔らかな陽射しの降りそそぐ午後だった。
逃げ出すと決めてから、現在までの記憶は殆どなかった。
今でも、気を許すと鮮明な映像を伴った夢を見る。
まだ、一年も経っていない近い過去の出来事。
部屋を満たす真夏の熱気。
開け放ったままの窓から降りそそぐ蝉時雨。
千切れてもいいから、と命がけで伸ばした手。
指先と指先がこすれるように一瞬だけ触れた。
でも、届かなかった。
白い腕は視界から消えた。
遥香が飛び降りた瞬間の光景は、胸の真ん中あたりに焦げついたまま、激しい痛みとして、今もそこにある。
僕は遥香を愛していた。
人を愛したことは初めてだった。
周囲のざわめきで目を覚ます。
バスの運転手がケンブリッジステーションの到着をマイクで告げている。
一体、どれだけの時間が経ったのだろう。
空港から、バス、地下鉄、長距離バスと乗り継いだ長い長い移動の終着点。
窓の外を見ると、そこはもう、喧噪溢れるロンドンではなかった。
僕はゆっくりとバスのステップを踏みしめて、ケンブリッジの町に降り立った。
蒼々とした空からそそぐ陽射しに手を翳し、目を細める。
ステーションから続くのは果てしない並木道。
時折、吹き抜ける爽やかな風に、葉がいっせいにざわめく。
四月上旬のこの季節、イギリスはまだ寒いと聞いていたが、それほどでもなかった。
道路に面して建ち並ぶ家々は殆どが煉瓦造りで、何世代もの時間を受け継いできたような重厚な趣があった。垣根には色彩りどりの鉢植えが飾られ、背伸びをしてその向こうを覗けば見事な芝生の庭が広がっている。
再び、若草の匂いを連れた風が吹き抜け、木々がざざあと鳴く。僕はトランクを引きながら、近くのタクシー乗り場へと歩き出した。
一軒家が建ち並ぶケンブリッジ郊外の一角でタクシーは停まった。
ようやくたどり着いた家を見上げる。やはりここも同じく煉瓦造りの家で、想像していたよりも大きかった。ホームステイ先は学学校から指定されてくるので、事前にどのような家なのかは知らされておらず、なかなか立派じゃないか、と少し安心する。
家は、正面から見据えると左半面に蔦がびっしりと張りつき、それに絡まるように白い花がぽつぽつと咲いている。蔦の中にぽっかりと口を開けた大きな窓には、風にそよぐベージュ色のカーテンが覗いている。真ん中あたりにも小さな窓。ここはバスルームだろうか。その右隣には装飾の施された木製の扉。
突然、蔦に埋もれる窓の方から、犬の鳴き声が聴こえた。
それに続いて、人の声。
「ベスィー、どうしたの? ベスィー?」
足音が聴こえ、扉が開いた。僕は瞬時に身を強張らせ、身構える。
顔を出したのは六十代を間近に控えた感じの、それでいて雰囲気は全く老いを感じさせないミセスだった。
薄い青の縞模様が入った半袖シャツにジーンズの短パンを穿いており、一見、若々しい格好をしているのだが、嫌味がない。パーマをかけたボリュームある白髪が肩あたりまで伸びていて、小粋なおばちゃんという感じだ。
三秒ほど見つめ合ったあと、先にミセスが口を開いた。
「……、ミスター、ジュンチかな?」
僕は焦りながら、練習していた言葉を口にする。
「Yes. ジュンイチ・ナルミです。お世話になります」
途端にミセスは相好を崩した。
「ユーロスクールから連絡は来ているわ。いつ着くのかと待っていたのよ。ようこそケンブリッジへ。そしてマイハウスへ」
小粋なミセスはドアを大きく開けて、「Come in」とウインクをしてみせた。
玄関で靴を脱ごうとしてミセスに大笑いされた。過去にホームステイをした日本人は必ずみんなやってしまうのよ、と可笑しそうに言う。そして、期待して観ていたら、期待通りの行動だった、と。
「It’s OK, never mind. Everything is little thing, so be all right」
自作のメロディにのせて、ミセスは僕の肩を抱く。そのまま僕をリビングへと促し、「適当にくつろいでいてちょうだい」と言って、自らはキッチンへと赴いた。
僕は、くの字型に配された革張りのソファーに歩み寄り、部屋を見渡した。
リビングはイギリスらしく、焦げ茶色を基調としたしっとりと重みのある家具で揃えられていた。部屋の角には薄型のテレビが置かれ、壁にはミセスの息子さんらしい幾つもの写真が飾られている。その下の黒いサイドボードには、過去にホームステイした生徒たちとの記念写真や、彼らの土産と思われる品々が置かれていた。
足元では、さっきの白い雑種犬がぐるぐると行ったり来たりしている。頭を撫でてあげようと手をかざすと、濡れた鼻を押し当てられベットリと唾液がついた。
「ほら、ソファーに座わりなさい。長旅で疲れたでしょう」
キッチンから戻ったミセスは二つのマグカップをテーブルに置く。
「まず自己紹介しなきゃね。私の名前はシャロット。ミセスなんて要らないわ。シャロットって呼んでちょうだい。それと、私も君のことを、ジュンチって呼ぶわ」
ゆっくり、丁寧に話してくれるので、何とか僕にも理解できる。
「あ、ジュンイチです。ジュン、イ、チ」
シャロットに気づかれないようにジーンズの尻で手を拭き、答える。
「ジュンチ……、ジュンウィッチ? 難しいわね。そうね、ジュンにするわ。Your name is JUN , OK?」
シンプルが一番、と愉快そうに笑うシャロットにつられ、僕も笑みをこぼす。
ようやく緊張の糸が緩んだような気がした。
シャロットとの自己紹介が始まった。
彼女は現在、犬のべスィー、三毛猫のドキー&ドジーとの四人暮らしの五十八歳。ケンブリッジに住んで三十年になり、出身はケンブリッジの更に北に位置するグレートヨーマス。今は退職しているが元女性警察官。現在新人教育の補佐官として活躍中。といってもパート扱いらしい。夫のロンは八年前に他界。やはり警察官だったのだが、病気で亡くなったそうだ。五年前から海外からの語学留学生を受け入れているという。趣味はエアロビクスと創作料理とのこと。
僕もつたない英語で自己紹介を続けた。
現在二十三歳で札幌の大学を卒業後、語学留学の為に渡英。英会話は全くの素人で、中学生レベルの英語しか話せない。滞在費は両親と祖父母に借りて、社会人になり次第、返済に追われる日々が待っている。出身は北海道の西にある小さな町で、大学では経済学を専攻――。
と、そこで、「将来は何になりたいの」と訊かれ、口をつぐんだ。
将来なんて、何も考えていなかった。
大切なことは、日本を出ることだけだったから。
一瞬だけためらったあと続けた。
「帰国したら、外資系の会社に就職したいと思っています」
嘘だったけれど、当然シャロットは知る由もなく、「じゃあ、頑張って早く英会話をできるようにならないとね」と、頷いた。
それから暫く雑談をした。シャロットは逐一、僕の英文法の間違いを指摘し、修正し、復唱するように求めてきた。しどろもどろになりながらも正しく復唱すると、シャロットは優しげなしわを目尻に寄せ、「Good」と笑んだ。
夕暮れ時の陽光がリビングに影を作り始めた頃、シャロットは思い出したように言った。
「そうそう、この家にはもう一人留学生がいるからまた紹介するわ。今、スコットランドに旅行に行ってるの。明後日には帰ってくると思うわ」
「ハウスメイトがいるんですか? 何処の国の人なんですか?」
「スイスのチューリッヒ出身よ。ジュンとは学校が違うけど、彼はここに来てもう二年になるベテランよ。分からないことがあれば彼に訊けばいいわ。彼もしきりにあなたのことを気にしていたし、仲よくやってちょうだいね」
それじゃあ、とシャロットは立ち上がり「部屋を案内するわね」と言った。
通されたのは、二階にある青い絨毯の敷かれた四畳ほどの部屋だった。机とクローゼット、赤とオレンジの暖色系チェック柄のベッドがあるだけのシンプルな部屋だ。
シャロットは「ごゆっくり」といい、「ああ、でも、すぐにディナーよ」と一階に下りていった。
正面には夕刻の陽射しを招き入れる窓が一つ。僕は窓辺に歩み寄り、夕陽に染まる煉瓦造りの町並みに見入った。
ふと真下に止まる白い車の上に、三毛猫が二匹寄り添って毛づくろいをしている姿が目に入る。
シャロットが言っていた残り二人の家族なのだろうと思い、声に出さずに呟いた。
初めまして。よろしくな。
トランクを開けて幾つかの分厚い辞書や、『すぐに使える英会話集』などを引っ張り出していたところで、階下からディナーを知らせるシャロットの声が聴こえた。「OK」と大きな声で返し、再び一階に下りた。
四人がけのディナーテーブルには小さな花柄がちりばめられたテーブルクロスがかけられ、皿からは美味しそうな湯気が立ち昇っている。早速座るように促され、シャロットの対面に腰を下ろした。
「さぁ、食べましょうか」
まずはとにかく一口食べてみなさい、とシャロットが仕草で勧めてくる。
ナイフとフォークを手に取り、ボイル野菜の山からブロッコリーを取り、口に運んだ。
僕の口内を衝撃が貫く。
「It might be delicious, yeah?」
シャロットは何かを期待するように、ひょいと眉を上げて訊いてくる。
僕は全力で口角を吊り上げ、答える。
「Yeah! It’s nice!」
味は、……反射的に吐き出しそうになるほど斬新なものだった。口の中が変な香辛料の匂いで溢れている。恐るおそるテーブルを見渡す。ぐちゃぐちゃのブロッコリーや人参を大皿半面に山盛り、そして残り半面にフライドポテトが更なる山を築いていた。レンジモノらしいミートパイだけが救いだ。
「あらいやだ、飲み物を忘れていたわ」
シャロットが立ち上がって僕に背を向ける。その瞬間、卓上塩をかすめ取った。煮崩れした野菜とポテトの山にばっさりふりかけて、再び恐る恐る、口に運ぶ。塩の味しかしなくなった。これで、何とかディナーは乗り切れる、そう思った。
そういえば、創作料理が趣味と言っていたような……。
機嫌よく食事をするシャロットの顔を見て、何も言うまい、と心に決めた。
食後のティータイムを終え、自室に戻り、緊張の初日を終えるためにベッドに潜りこんだ。
「あれは不味すぎるだろう……」
頭までシーツをかぶった暗闇の中、呟いてみる。知らぬ間に、微笑んでいる自分に気がついて驚いた。
「ジュン……、か」
この国に来て、まだ初日。
それなのに、もう、自分の中の何かが変わる予感めいた想いが芽吹いていた。
数ヶ月ぶりに心が動いていることを感じ、それを抱きしめるように眠りに落ちた。
遥香は僕の一つ年下の女の子で、幼馴染だった。
彼女は僕のことを、淳一君、と呼んだ。幼い頃からも、彼女と再会して恋人となってからも、君づけで呼んだ。彼女独特の柔らかな声で、彼女だけの温度でそれは響いた。
遥香は全てにおいてのんびりしていた。話をするときも、食事をするときも、常に何かを確かめるように、ゆっくりとした速度だった。そこは、小さい頃から大学生になっても変わっていなかった。
一六〇センチに僅かに足らない身長、ショートカットがよく似合い、目がぱっちりと大きく、一見、活発そうな女の子に見えた。初対面の人はよく「君は元気だなあ」と口にした。しかし、現実は違った。外に出るより、部屋の中で過ごすことを好み、一緒に暮らし始めてからも部屋で映画を見たり、ゲームをしたりと殆ど外出することはなかった。
僕と遥香は、北海道は札幌の西方、積丹半島の付け根にある小さな町で生まれ育った。今はもう閉校してしまったけれど、函館本線の最寄り駅近くにある小学校に一緒に通った。すぐそばには赤屋根煉瓦造りのウイスキー工場があり、その裏手には美しい川が流れ、至るところに果樹園がある、そんな町だった。
六年生の時に東京へ引っ越した遥香と再会したのは、札幌の大学に通って二年生になった若い息吹が充満し始めた初春の頃。彼女もまた同じ大学の一年生として入学してきた。
再会した遥香に、幼い頃の天真爛漫な面影はなかった。彼女はいつも何かに怯えていた。誰かと接する時、雑踏の中を歩く時は、異常なほどの高揚感を保って、元気な女の子を演じていた。
大学の先輩・後輩として接した一年間、幼い頃の遥香とのギャップが酷く、彼女が理解できなかった。しかし彼女に巣食う闇を知り、孤独を知り、それでも歩もうとする彼女の真実を知った二十二歳までの二年間は、ただ遥香とともに生きていこうと誓い、寄り添い暮らした歳月だった。




