奴隷少女が泣かない理由
よく泣く母だった。最後まで泣いていた。ごめんねえ、本当にごめんねえ、と繰り返して、おいおいと声を上げて、母は泣いた。
少女は、車の窓ごしに、母の髪を小さな手でなで続けた。
少女を乗せた車が発進すると、母の姿はたちまち小さくなり、やがて見えなくなった。
「おまえみたいなガキは初めてだよ」
後部座席に座る少女の隣から、背広の男が言った。
「母親との今生の別れだってのに、涙一つ出やしねえのか」
少女は黙ったまま、飛ぶように流れる景色に目をやった。
人間が老いを克服したのは、もう数百年も昔だ。
人間が老いるのは、遺伝子の複製失敗の累積が原因である。
塵機械技術の発達により、身体すべての細胞の誤複製を常時修正できるようになった。老いから解放された人間は、少なくとも老衰では死ななくなった。もちろん急激に進行する病気に罹患すれば死に得るが、老いによる体力低下・身体劣化がなくなったため、そもそも病気にかかる確率も激減した。遺伝子の複製失敗が主原因である癌も克服された。
なお、事故などで重傷を負えば死ぬが、救急医療と安全技術の発展で、大きな怪我をする可能性も少なくなった。
端的に言って、人は死ななくなったのだ。
ただし、そのような塵機械の恩恵を受けられたのは、一部の富裕層だけだった。
不老不死となった富裕層は、相続税の徴収による富の平準化がほとんどなくなり、貧富の格差は増大の一途を辿った。
富裕層には、子供が存在しない。自分が永遠に生きられれば、子供を産む理由がないからだ。つまり、富裕層は、見た目は老いることがないため、皆が二、三十代の外見をしているが、多くが二百歳をも超える老人たちなのである。
日常的に子供と接することのない富裕層で流行しているのが、小児性愛だった。
一方で、不老不死とは縁のない極貧地区では、今も子供がたくさんいる。その子供たちの中から、外見に優れる者を選んでは、苦しい生活の親にいくばくかの金を渡し、「養子」という名目で、貴重な幼い性奴隷とする、そんな地下闇市場が形成されていた。
少女もまた、「売られた」子供の内の一人だった。幼い彼女たちの行末など、本来一つしかない。しかし、車内で背広の男は指を二本伸ばした。
「おまえには、二つの道がある」
男は、十歳にもなっていない少女に対し、言葉を選ばず説明する。
「一つは、金持ちの変態ジジイに、身体の限りを蹂躙されること。もしかしたら可愛がってもらえるかもしれねえが、奴ら、たいていの欲望は叶えちまってるからな。ヤバい性遊戯を要求されて、あっという間に身体をボロボロにされるかもしれねえ。そうでなくても、五年もして身体が成長しちまえば用済みだ。性奴隷のことなんか公にはできねえから、死体も残らないやり口で殺されるだろう」
少女は顔色ひとつ変えずに、男を見返している。男は自分の直観が間違っていなかったことを確信する。
「もう一つは――」
少女は落ち着き払って、裏門から歩いて出てきた。流れるように接近してきた車が横付けし、扉が開く。少女が後部座席に乗り込むと急発進し、少女の小さな身体は背もたれに押し付けられた。
「やったんだな?」
背広の男が勢い込んで訊く。
少女はうなずく。
富裕層が不老不死になり、相続というものがなくなって本当に困るのは、貧民層ではない。
その富裕層の子息たちだ。
不老不死技術が発達する前に生まれていた、金持ちの後継者たちは、親たちがいつまでも生き続けるために、本来いつかは丸ごと自分の物になるはずだった資産を目の前にして、お預けをくらい続けている。
そのことを不満に思った親殺しが、近年頻発していた。
もちろん、普通に殺せば逮捕される。さらに不老不死の高齢者たちは自分の命を守るため非常に警戒しており、そもそも殺すこと自体、難しい。
そこで、幼い性奴隷を使った暗殺の需要がある。
性奴隷の発覚を恐れて、当主側の人間も、事件を告発しづらいという利点もある。
背広の男は、性奴隷の仲介業のかたわら、子息たちから依頼される暗殺の手配にも関わっており、これと見込んだ度胸のある子供を使って、すでに何人もの金持ち当主を殺させていた。
無警戒の対象へ向けて、ひそかに身体に仕込んだ小さな毒針を刺すだけなので、殺しの難易度自体は高くない。
しかし、屋敷を生きて脱出してきた子供は、今まで一人もいなかった。
「おまえみたいなガキは初めてだよ」
背広の男はあきれるように言った。
「いったいどうしたらおまえみたいなガキになるんだ?」
少女は流れる景色に目を向ける。
「泣いたら前が見えなくなる。前が見えないと戦えない」
空はどこまでも続く曇天だ。
「だからあたしは泣かない」