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激突 女嫌い対男嫌い

最終章からエピローグまで一気に行きます。

   激突 女嫌い対男嫌い

                 ◆

 どうにも腹の虫が治まらない。とにかくあの生意気な面を一発殴ってやらないと、マコトは怒りで頭がどうにかなりそうだった。

 突進してきたマコトを見て、清水がにやりとほくそ笑む。その笑みが一層彼の怒りの炎を燃え上がらせた。

 ――が、猛然と駆け出したはずの足が急に止まる。突然急ブレーキをかけた相手に、清水は肩透かしを食らう。

「っと……せっかくあいつが忠告してくれてたってのに、忘れて突っ込むとこだったぜ」

 いかんいかん、とマコトは道着の袖で額の汗を拭う。

『下手に攻撃したら、はは……このありさま』

 頭をよぎった花火の言葉が、マコトの沸騰しきった頭に冷静さを取り戻させた。

 落ち着きを取り戻したところで、改めて清水を見据える。

 袴姿に、背筋を伸ばし片足を後ろに引いた構え――典型的な合気の構えだ。

 なるほど。花火が言っていた事がようやく理解できた。相手の力と勢いを利用する合気相手に、こちらから無闇に攻め込むというのは愚の骨頂。危うく手痛いしっぺ返しを喰らうところだった。

 だとしたら、どう攻める……。金城湯池の相手を前に、マコトは手をこまねいていた。

「チッ、やりづらいぜ……」

 はっきり言って、マコトはこういった待ちの体勢が苦手であった。常に先手必勝と相手に殴りかかり、戦略戦法などお構いなし。本能と闘争心の赴くままに闘う彼にとって、相手の出方を窺う睨み合いというのは、苦手というより嫌いなやり方である。

 頭脳戦や心理戦といった、まだるっこしい闘い方なんてしやしない。何も考えずにただ殴り合う。お互いが死力を尽くし、肉体と精神の限界を超えたぶつかり合い――それこそが喧嘩の醍醐味だと思っている。

 いつの時代の人間だお前は、と言いたくなるが、これでもマコトはれっきとした平成生まれである。

 そんな彼にとって動かずにいることは、何よりも耐え難い苦痛なのだ。花火の姿を見ていなければ、きっと今頃は彼女の二の舞になっていただろう。だからこそ歯を食いしばって、清水に飛び掛りたくてうずうずする体を押しとどめているのだ。

 観客もそれを理解しているのか、開始早々膠着状態の二人を野次る者など誰一人いなかった。皆まだ花火の惨状が目に焼きついているため、同じものを見たくないというのが本音だろう。会場の数百という目が、じっと立ったまま微動だにしない二人を見つめ続けていた。


 だが、遂にその均衡が崩れる。

 口火を切ったのは、意外にも清水だった。

「なにっ……!」

 合気に先手無しという定石をいきなり覆され、さしものマコトも面食らう。いずれ自分が痺れを切らす事はあっても、清水から仕掛けてくる事は無いと決めてかかっていたからだ。

 まさかの奇襲。

 そして――速い。

 相手が合気道だと思い込み、完全に虚を衝かれたマコトの目には、清水が目の前に瞬間移動してきたように見えた。

 頭では解かっていたが、本能と反射で思わず手が出る。

「しまっ――」

 しまった、と言い切る前に視界が反転する。咄嗟に出た手を清水に掴まれ、小手返しで投げられたのだ。

 顎を引いて頭を守る。固い床に背中から叩きつけられ、一瞬息が詰まった。そのまま床を転がり、清水と距離をとり立ち上がる。

 少し頭がふらついたが、辛うじて受身がとれたので深刻なダメージではない。経験を重ねたおかげで、受身と打たれ強さには自信がある。この時ばかりはマコトも、これまで板張りの道場に散々自分を投げ飛ばした泰平に感謝した。

 館内に音が甦る。清水が見せた芸術的な投げ技が、観客たちに歓声を取り戻させた。

 勢いに乗った清水がさらに仕掛ける。またあの見えない踏み込みだ。

 まったく予期せぬタイミングで間合いを詰める清水。だが一度見た手に二度引っかかるほど彼も阿呆ではない。前進する清水と同じ速度でバックステップする。

 前に踏み込む清水と、後ろに退がるマコトの速度が同一になる。間合いは清水の手が届かない距離を保ったままだ。観客の誰もが、彼女の攻めは不発に終わったかのように見えた。

「――な……ッ!」

 再びマコトが驚きの声を漏らす。

 まさかまさかの清水の貫手。

 短いリーチを、手の指を伸ばす事で補っている。これならぎりぎり彼の顔に届くだろう。

 不意を突いて襲い来る貫手に、またもや体が反応する。ここで彼を責めるのは無体というものだろう。誰であれいきなり顔面を狙われれば、咄嗟に庇おうとするのは当然の事である。それが清水の計算であった。

 そして結果は火を見るより明らか――貫手を払おうとした手を極められ、マコトの体は綺麗な弧を描いて床へと吸い込まれた。

 地面に豪快に叩きつけられ、地鳴りのような音とともにバウンドする。跳ね上がった体は、清水の膝の高さに至る。ゴムボールのように人間が弾む光景に、観客は一瞬唖然とするが、すぐさま興奮と熱を取り戻す。

 声援が声援を生み、場内が大歓声に包まれる。マコトを手玉に取る清水の華麗な技は、さながらサーカスのショーだ。

 よろよろと立ち上がるが、痛む頭に歓声が響く。耳鳴りが歓声のせいなのか、頭を打ったせいなのか判らなくなってきた。

 けれど、タダでやられていたわけではない。眉をしかめて清水を見る。注視するのは彼女の足元。二回喰らってようやく見切れた。脛を覆う袴こそが、あの見えない踏み込みの正体だ。

 本来、袴というものは足の動きを相手に悟られないためのものである。

 清水はそれを十分利用し、十二分に活用したのだ。踏み出す足を前に出した足の陰になるようにし、上体をまったく動かさずに歩く。その際前に出した足は地に着けず、僅かに浮かしスライドするように滑らせる。そうする事によって、あたかも無動作で移動したような踏み込みが可能になるのだが――理屈は解かったがそれを実践できるかと問われれば答えに詰まるだろう。実際、まったく腰の位置を上下させずに移動するのは至難の業なのである。

 だが高い代償を払ったおかげで、もう清水は羽をもがれた鳥も同然だ。いかな奇術じみた奇襲も、種がばれてしまえば意味をなさない。あとは巧妙なフェイントに引っかかりさえしなければいいのだが……。

「貴方のような単細胞は、御し易くて助かるわ」

 見下すように清水が笑う。これも自分を誘う罠だと解かっていても腹が立つ。こうして気が乱れるのも計算の内なのだろう。自分と反対のタイプの相手に、マコトはものの見事に翻弄されていた。

 清水の巧妙なブラフによって、マコトはつい手を出してしまう。そして床に転がされる度に歓声が沸き、場内はあたかも清水が彼を使って芸を披露しているかのようになっていた。

(クソ、これじゃあまるで猿回しの猿だ)

 完全に遊ばれている。

 いくら守りを固めても、清水の罠の前では紙の砦だ。簡単に誘い出され、あっけなく投げ飛ばされる。

 床に叩きつけられる痛みもそうだが、清水の手に何度も引っかかってしまう己の単純ぶりが彼を苛立たせた。

 そして何より、守りに入っている自分が気に入らなかった。

 攻めたいと焦るマコトの頭に、花火の言葉がよぎる。

『きよ姉の防御は……完璧だよ』

 清水には、花火の打撃が当たったような形跡はなかった。恐らく全ての攻撃をかわすか捌くかしたのだろう。花火が完璧と表現するのも頷ける。

(完璧な防御なんてあるもんか)

 そう思うのは浅慮だろうか。しかし、いかに清水が鉄壁の守りを誇ろうが、同じ人間である以上完璧などあるわけがない。きっと何か一つくらいは攻略法があるはずだ。

 改めて清水を観察する。構えは防御のまま、半眼をやや笑みに歪めてこちらを見ている。

 格闘技において防御に長ける者は、相手の視線や筋肉の微妙な動きで攻撃を先読みする事ができる。

 視点を相手という一点に定めず、常に全体を視野に入れて戦う、所謂「観の眼」と言われるものだが、ここでマコトははたと気づく。

 清水はメガネを外すと、小石に躓くほどの近眼なのだ。だとすれば、ほんの僅かな相手の機微を視認しなければならない観の眼が、果たしてできるのだろうか。

 試しに視線をあらぬ方向に向けたり、肩や腰を微かに動かしてみるが、案の定清水の反応はなかった。となると、目視による反射神経に頼った防御ではないと判断できる。

 ならば、と勢いよく前に踏み出す。にも関わらず清水は身を固くするどころか自然体のままだ。

 踏み出した勢いを乗せて、左の正拳突きを繰り出す。

 顔面に迫る拳に清水が反応し、マコトの腕を掴みにくる。

 清水の手が腕に触れる寸前、彼は左の拳を開いてパーにし、清水の視界を塞ぐと同時に右拳で腹を狙う。

 死角から襲う右のボディブロウ。狙うは清水の鳩尾。

 決まれば悶絶必至の拳は、清水の腹に届く前に軌道を逸らされた。

 マコトの体が宙を舞う。

 清水は彼の右腕を絡め取り、テコの原理で投げ技をきめていた。

 右腕を極められ、自然に体が反転する。

 素早くマコトは体を捻った。

 受身――と思いきや、彼は受身を捨てて清水の後頭部に蹴りを放つ。

 投げの回転に合わせ、清水の頭を刈るように踵が唸る。

 死角どころか、完全に視界外からの攻撃。だがそれすらも、清水は下を向いただけでかわした。

 文字通り捨て身の蹴りも、虚しく空を切った。そして無理な体勢で蹴りを放ったため、顔面から床に落ちる。目の奥に火花が飛び、鼻が押しつぶされ首が軋む。

 悲惨な落ち方に観客は一瞬息を飲むが、すぐに歓声が上がる。マコトの滑稽な姿を見て、露骨に笑う声も混じっていた。

「あら面白い格好。貴方、武道家よりコメディアンの方が向いてるんじゃないの?」

 顔面だけで倒立しているマコトに向けて、清水が片手で髪をすきながら笑う。

 清水は汗一つかいていない。彼女の黒髪がさらさらと指をこぼれると、観客から黄色い声が漏れた。

 しかしいつまでも相手の思う壺のままでいるマコトではない。目は霞み頭は朦朧。肉体は限界に近い状況だが、数々の修羅場を潜り抜けた彼の格闘センスは、すでに清水を倒す策を導き出していた。

「こおおおおおおおおおお…………」

 マコトはゆっくりと息を吐く。静かに、緩やかに。全身の力を抜き、呼吸を整える。

 清水も観客も、彼がただダメージの回復を図っているのだろうと思った。

 そうではない。

 遂に反撃が始まったのだ。

                 ◆

 棒立ちになり、マコトはただ深呼吸をしているだけのように見える。あれだけ強かに投げられたのだ、もう立っているのがやっとなのだろう。

 この勝負、貰った――清水はそう確信する反面、これまでの戦法はもう通用しないと感じた。

 彼のような心理戦に長けていない者が相手なら、ちょっと挑発してやれば面白いように引っかかってくれるのだが、こうも守りに専念されると少々厄介だ。

 フェイクももう通用しないだろう。警戒されてしまえば、あんな子供だましの手は意味がなくなる。それでも今まで使えた事は重畳だ。

 ――まあいい。まだまだ策は売るほどある。それにこの程度ではまだまだ足りない。もっともっと愉しませてくれないと、これまでかけた手間に見合わない。きっちり苦労分は遊ばせてもらわなければ。

 清水は心中で舌なめずりをしながら、あれこれと思案する。

 効果的に、効率的に、確実に、安全に、徹底的に、さりとて与える心理的肉体的ダメージは大きめに……いやいや、すぐに壊してしまっては勿体無い。じわじわと、真綿で首を絞めるようにじっくりと丁寧に、ことことスープを煮込むように時間をかけて料理しよう。

 頭の中で相手を料理していると、自然と口元が緩みそうになる。

 妄想の中で完成した料理をいざいただこうとした時、マコトがゆっくりと動き出した。

 清水ははっとする。

 気のせいだと思いたかった。

 だがそうじゃない。

 目の前に居るはずのマコトの存在が、どんどん希薄になる。

 どうして……彼はさっきより自分に近づいているのに。

 そんな馬鹿な。

 彼はただ静かに歩を進めている。清水にはそう見える。観客だってそうだろう。

 清水は理解できない現象に恐怖する。

 また少しマコトの姿が近づく。

 どうして。どうして。どうして。どうして。

 マコトは無造作に歩み寄ってくる。それは彼女の視力でも、おぼろげに見えている。近づけば近づくほど、輪郭ははっきりと濃くなっていく。

 なのになぜ、彼女はここまで動揺しているのか。

 それは、絶対防御のセンサーが彼の接近に反応していないからだ。

 ぼやけたマコトの輪郭は、清水の目にはまるで幽鬼のように映る。

「ひいっ…………!」

 清水は一歩後退りした。

                 ◆

 優勢にも関わらず後退した清水に、観客はわけが解からず困惑する。

 どよどよと不穏な空気が漂う中でただ一人、清水の感じた恐怖の正体に気づいた者がいた。

「うむぅ…………」

「ど……どうかなさったんですか?」

 隣で奇妙な唸り声を上げた男に、木葉が問いかける。振り返った男の顔には、驚きと喜びが混ざっている。

「あの……どうかなさったんですか?」

 男の奇妙な表情に、木葉は思わず同じ事を訊いてしまう。

 男はうむと頷くと、しきりに顎鬚をさする。

「あのお嬢ちゃん、どうやら相手の気配を察知して、自動的に防御しているようだな」

「え、ええ。清水は極度の近眼なので、視覚に頼った防御はしたくてもできないんです。けど、逆に言えば視覚に頼らないからこそ、フェイントもコンビネーションもあの子には通用しないのだけれど……」

 男が見ただけで清水の絶対防御を見抜いた事に、木葉は驚く。だがそれとさっきの奇怪な唸り声の関連性が見出せなかった。

 それが何か? と思っていたのが顔に出てしまったのか。木葉の表情を察して、男が理由を説き明かす。

「お嬢ちゃんの防御は、謂わばミサイル防衛のようなものだ。敵が圏内に這入ると、レーダーが感知してそれを迎撃する」

 男の解説に、木葉はなるほどと頷く。だがまだ疑問は晴れない。

「しかしステルス機のように、レーダーに察知されないものが浸入しようとしたら、どうなると思う?」

「レーダーに映らないのでは、迎撃しようにも……」

 そこで木葉ははっと気がつく。男はようやく話が通じた事に、にんまりとする。

「けど……どうやって……?」

 特殊迷彩された戦闘機ならまだしも、マコトは生身の人間だ。それがレーダー並の制度を持つ、清水の領域を突破できるのだろうか。常識の範疇では、いくら考えてもまるで分からない。

「あの野郎、気配を完全に消しやがった」

 頭から煙を出しそうな木葉をよそに、男は心底愉快そうに唇を歪めた。

                 ◆

 マコトはゆっくりと、だが着々と清水を演武壇の隅へと追い込んでいく。

 清水はまるで幽霊や妖怪に迫られているかのように、恐怖に顔を引きつらせている。

 一歩、また一歩と清水の足が後ろに下がる。

 それをマコトが詰めるたびに、彼女の顔から血の気が失せる。

 そして遂に彼女の足が壇の淵にかかり、退路が絶たれた。

 別段演武壇から下りても負けにはならない。試合とはいえ公式のものではないのだから、自分から場外に出ても何の不都合もない。

 だが清水は自分から場外へは出ない――そうマコトは読んでいた。例えエキジビジョンマッチであろうと、あの性格ゆえに自ら壇を下りる事を良しとしないだろう。

 読みは見事に当たっていた。清水は幾度も場外をちらちらと見るが、決して自分から下りようとはしなかった。誰も責めはしないのに、自分で決めたルールで自縄自縛に陥っている。マコトのように柔軟な思考があれば、場外にエスケープして態勢を立て直せるというのに。彼女はそれをしなかった。いや、できなかった。

 ここで二人の決定的な差が出た。

 言うならば、養殖と天然の違いだ。

 試合しか経験のない清水は、四角四面にルールに囚われて自ら不利な状況に陥っている。

 だがマコトは違う。喧嘩慣れしているが故に、相手の弱点を衝く事に躊躇も何もない。むしろ勝つための常套手段だと思っている。

 だからマコトは迷う事無く実践した。

 清水の性格という弱点を思う存分衝いた。

 二人の間合いは、手を伸ばせば触れ合うほど近い。さらに距離を詰めると、肌にぴりぴりとした威圧感を感じる。これが境界のようだ。

 帯電しているような空間へ一歩足を踏み入れると、二人のうなじの産毛が逆立った。遂に清水の領域を突破したのだ。

 まだマコトは仕掛けない。さらに距離を詰める。清水は崖っぷちに立たされたみたいに、爪先立ちで演武壇の角から動けない。

 観客から悲鳴じみた歓声が上がった。

 マコトと清水が、まるで抱き合っているかのように密着したからだ。

 お互いの距離がほぼゼロになるほどの接近は、観客たちの声援を嬌声に変えた。

「な……ちょっと、離れなさいよ……」

 清水は顔を引きつらせ、マコトを押しのけようとする。だが男の体という、汚らわしいものに触れるのを拒絶するみたく躊躇う。彼女の頭は、大嫌いな男にここまでの接近された事で嫌悪と恐怖の極致にあった。

「やっと捕まえたぜ」

 ここからは一か八かの賭けだ。

 マコトは清水に悟られないように細心の注意を払い、右の掌を彼女の腹にそっと乗せる。

 旨くいったらご喝采。駄目ならもう打つ手なし。彼もまた崖っぷちだった。

 目を閉じて大きく息を吸い込む。酸素とともに、丹田で練った氣を体の隅々にまで行き渡らせる。そして全身を経由させて十分に濃縮した氣を、全て右手の掌一点に収束させる。

 その間に体中のバネを極限まで溜め、引き絞った弓のように力を充填する。

 それらを同時に行うには、想像を絶する集中力が要求された。精神を研ぎ澄まし、あれだけ五月蝿かった歓声がまったく聞こえなくなる。

 右手が熱くなってきた。火山のように体の内側にエネルギーが集中し、噴火する瞬間を今か今かと待ちわびている。

 マコトの目がかっと開く。

「金剛掌」

 すぐ傍にいる、清水にしか聞こえないほどの小さな声。

 溜めに溜めた力と氣を、一気に解き放つ。

 大量の火薬に点火したように、それらは爆発した。

 次の瞬間、館内を埋め尽くす歓声を轟音が打ち消した。

                 ◆

「な……ちょっと、離れなさいよ……」

 清水は演武壇の角で、顔を真っ青にして狼狽していた。

 天下一が抱きつくように密着してきたため、焦りと羞恥心と嫌悪感で錯乱しそうになる。男性にこんなに密着されたのは、父親を除いては生まれて初めての事だ。

「やっと捕まえたぜ」

 彼の顔がすぐ近くにあり、肩越しに息遣いを感じる。背中に息がかかる錯覚に、脂汗が出る。

 厚い胸板がすぐ目の前にある。汗で湿った裸の胸が、妙に艶かしく感じる。彼を意識するたびに血の気が下がり、貧血のように頭がぼうっとなった。

 もう何も考えられない。これまで習得した技も、考え抜いた策略も全て綺麗に飛んで行ってしまった。辛うじて頭にあるのは、一刻も早く彼を跳ね除けてこの場から逃れたい、それだけだ。

 しかしいくら押しのけようと思っても、体がそれを許さない。これまで嫌悪し続けていた男の体に触れる事を、体が拒否しているのだ。

 ついさっきまで、自分から掴みかかっていくくらい何でもなかったはずなのに、マコトを男と意識してしまってからそれができなくなった。彼の吐く息、体温、体臭、存在すべてが清水を混乱させる。

 だから気がつかなかった。

 マコトが息吹をしている事を。

 四肢に気力がみなぎっている事を

 全身に噴火寸前の火山のようなエネルギーを蓄えている事を。

 いつの間にか、彼の右手が自分の腹にそっとあてがわれている事を。

 そして――

「金剛掌」

 耳元で囁かれた。

 次の瞬間、体育館を揺るがす程の地鳴りが響いたかと思うと、清水の体内を怒涛のような力の塊が通り抜けた。

 清水の体がくの字に曲がる。

 一瞬何が起きたのか理解できなかった。

 衝撃が体を貫いた瞬間、ブレーカーを落とすように意識がシャットダウンされそうになる。

 顔面に、布を乱暴に擦りつける感触がする。

 清水はマコトの胸に顔を着けたまま、ずるずると崩れ落ちている事を他人事のように感じていた。

 そう気づいて踏ん張ろうとしても、体は鉛より重い。ゆっくりと近づいてくる床は、まるでコマ送りだ。

 薄れる意識の中、壇上に膝を着く。固い板張りのはずなのに、まるで何も感じない。

 そのまま崩れ落ちそうになるのを、突如襲った嘔吐感に阻まれた。

 打たれた腹の中がうねりを上げる。打撃ではない、内臓を握り潰して捏ね上げられるような激痛。胃が悲鳴を上げ、内容物が勢いよく込み上げてくる。

「きゃああああああああああああああ!」

 客席から悲鳴が上がる。

 完全無比の生徒会長が、公衆の面前でまさかの嘔吐。それは誰にとっても衝撃的な映像だろう。見たものを受け止められずに叫ぶ者。ショックのあまり泣き出す者。つられて戻す者。会場はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。

 清水も地獄の中に居た。

 何しろ痛い。腹が中から痛む。表面は何ともないが、内臓を直に殴られたような苦痛に、気絶しようにもそれができない。

 ボクシングに『顔面天国ボディは地獄』という言葉がある。顔面を強打されたボクサーは脳が揺れ、まるで天にも昇るような心地良さの中で失神する。対してボディを強打されたボクサーは、失神する事もできないくらいの地獄の苦しみを味わう。

 今の清水がまさにそれだ。腹腔内部の疼痛、止め処ない嘔吐感、胃液の酸味と吐瀉物の悪臭。それら全てが清水を気絶させまいと奮闘していた。

                 ◆

「清水……っ!」

 客席から遠く離れた場所で隠れるように観戦していた木葉は、娘の突然の嘔吐に小さく悲鳴を上げた。

 所用で遅れて来たので実際に見てはいないが、すでに花火が担架で運ばれたらしい。なぜ花火が乱入したのかは知らないが、二人の娘の危機は木葉を理事長から母親へと戻そうとする。

 駆け出そうとすると腕を、男に掴まれた。

 手の主を振り返ると、男は黙って首を横に振る。

 彼は表情だけで木葉を制する。木葉が理事長としての貌に戻るのを見届けると、男はそっと手を離した。

「すみません、取り乱してしまって……」

「仕方ねえよ、母親だからな。それよりすまなかったな。女性の手を握るのは久しぶりだったんで、加減するのを忘れてた」

 赤くなった手首をさすりながら、木葉は謝る男に問う。

「清水は……大丈夫なんですか?」

 木葉は、今も床に嘔吐している娘を見る。胃の中の物はすっかり出し尽くし、今は黄色い胃液しか出ていない。それでも吐き続け、苦しそうに涙を流しながら床に這いつくばっている。心配するなという方が無理な光景だ。

「心配いらねえよ。本来なら内臓破裂くらいじゃ済まない技だが、あんな未熟な打ち方じゃあ大した事にもなりゃしねえ」

「はあ……」

 そういうものなのだろうか。今にも死にそうな顔の清水を見ていると、とても信じられない。

「せいぜい腹ん中がひっくり返った程度だ。しばらくゲーゲー吐くだろうが、後遺症とかは残らねえから安心しな」

 何の保証にもならない言葉に、木葉はまたもはあ、と答える。いくら安心しろと言われても、はいそうですかと頷けるわけではない。

「あの物凄い音はいったい……」

 何が起きたのかさっぱり解からないが、あれだけ清水が苦しんでいるのだ。きっと物凄い威力のパンチか何かを打ったのだろう――そう木葉は思っていた。

「あれはマコトの震脚しんきゃく――つまり踏み込みの音だが、でかい音をさせた分、力がほとんど逃げちまっている。氣は一応通っているが、あれじゃあほとんど意味がねえな」

 氣と言われても、現実主義リアリストの木葉にはぴんと来ない。格闘技や武道は、総じて科学と人体学の応用である。目に見えない概念的なエネルギーなど、彼女にとっては眉唾ものだ。

「すみません……もう少し詳しく……」

「金剛掌――発剄の一種で、氣を相手の体内に通して内部を破壊する技だ。まあ、あいつのは技とも言えないような、見よう見真似の出来損ないだけどな」

 出来損ないであの威力。もし彼が金剛掌を会得していたらと思うと、木葉は背筋が寒くなった。

「しかしまあ、一度喰らっただけのパクリ技をこの土壇場で出すとはな。ま、あの嬢ちゃん相手には、もうあの技しかなかっただろう。むしろ選択肢がなかったから出せたというところか」

 男は顎髭をさすりながら楽しそうに言う。まるで親が我が子の成長を見て、嬉しくて仕方がないといった様子だ。

 お、と男の髭をさする手が止まる。

「やはり浅かったか。まあ立ち上がるだけでも大したモンだが、こっから二人がどう出るか……こりゃ見ものだぜ」

 男の言葉と同時にどよめきが起こる。

 木葉が演武壇に目をやると、清水が死に物狂いで立ち上がろうとしていた。

 何度もふらついてはたたらを踏み、酩酊しているように足元がおぼつかない。何とか立ち上がるが、足は生まれたての子馬のように震えている。

 虚ろな目は、意識があるのかどうかすら怪しい。本当ならもう立ち上がるどころか、指一本動かすのも難しいだろう。今の清水は気力だけで動いているように見えた。

 崩れかける体を支える、底知れない精神力の源――今の清水を立たせているものの正体を木葉は知っていた。

 男には死んでも負けたくない。

 たったそれだけの理由で、清水は立っているのだ。

 無意識のさらに奥、深層意識に刻み込まれた自我を縛る絶対の意思。自己の存在理由とも言える制約。自分の根源となる誓約が、肉体は限界を超え、意識は朦朧としている清水を突き動かしている。

 そしてマコトも同じものを持っている。

 だがそれは清水のとは真逆のものだ。

「壮絶なガキの喧嘩だな」

 男が呟く。まさしくその通りだ。

 こんなのはもう闘いでも何でもない。ただのエゴとエゴのぶつかり合いだ。肉体と精神をすり減らしながら、互いに我を通そうとしている。小さな子供ならいざ知らず、武道家の二人が本気ガチでやり合っているのだ。ケガどころでは済まないかも知れない。

 すぐにでもやめさせたい。けれど自分が出て行ったところでどうにもならないだろう。それに隣で立っている男の眼が、木葉を抑止している。

 男の視線が語る。やるなら徹底的にやって、膿を出し尽くさないと駄目だと。木葉もそれは理解し、納得もしていた。だがこうやって娘の凄惨な姿を目の当たりにすると、固めたはずの決意がぐらぐらと揺らぐ。

 ここまでやらなくてはいけないのか。もっと他にやりようはなかったのか。それともこんな事、するのではなかったのか。

 違う。ここまでやらなければもう解決しないのだ。末期症状に陥った家族の関係を正すには、これだけの痛みを伴う荒療治を施さねばならなくなっている。そこまで放っておいた自分を、木葉は責めた。

 これは今まで現実から目を背けていた自分や、娘たちが受けるべき代償なのだ。同じだけの痛みを、すでに清水も花火も受けている。ならば、自分も甘んじて受けよう。娘たちと同じ、いや、それ以上の痛みを。

 家族全員の痛みをまとめて受けとめようという覚悟を、木葉は再び固める。決然とした彼女の顔を横目で見ると、男は黙って壇上に目を戻す。

 死闘はまだ――続いている。

                 ◆

 浅かった。

 やはり見よう見まねの技では一撃必殺には程遠い。それでも、清水の絶対防御を打破するにはあれしかなかったのだ。状況を互角に持ち込めただけでも僥倖としよう。

 しかしながら、これまでに受けたダメージは甚大である。何度も床に叩きつけられたせいで、体のあちこちが痛む。それに慣れない技を無理に使った反動で、息をすると肋骨が痛んだ。こうなるともう息吹は使えない。金剛掌も出せそうになかった。

「参ったぜ……。また八方が塞がっちまった」

 相手はもう虫の息だが、自分も同じくらい気息奄々としている。いや、清水はもう肉体の限界を超えて気力だけで立っている状態だ。体のダメージは彼女の方が深刻だが、精神力は意識を失ってなお体を動かすほどみなぎっている。

 はっきり言って、そっちの方が厄介だ。何しろ清水はもう痛みも恐怖も感じないのである。闘争本能だけで闘っている相手を倒すには、肉体を動かしている根源――心を折るしかない。完全に相手の気骨を砕くような一撃を与えるか、倒れるまで打ち続けなければならない。だがマコトの肉体も限界に近い。まさに八方塞だった。

 参ったぜ、ともう一度口に出かかった矢先、

「がああああああああああっ!」

 放心したように棒立ちだった清水が吼える。とても失神しているとは思えない速度でがむしゃらに突っ込んできた。マコトは慌てて構えるが、動くたびに激痛が走る。とても反撃どころではない。

 清水の狂瀾怒涛のラッシュに、観客も総立ちになる。清水の打撃に合わせるように掛け声が上がり、場内は完全に清水の押せ押せムードだった。

 マコトの体に突きや蹴りが当たるたびに歓声が上がる。ぼろぼろの体には、ガードの上からでも辛い。じわじわと残ったライフを削られるような状況に、マコトは焦りが募る。

「くそ……っ!」

 マコトの手が、攻撃を捌いたはずみで清水の顔面に当たった。弱々しい、威力も何もない平手だったが、半死人に近い清水には威力十分だった。

 彼女の体がふらつくと、観客が騒然となる。

「ちょっとお、女の子の顔を殴るなんて酷いじゃない!」

「そうよ、最低!」

 清水の攻勢に盛り上がっていた観客から、一斉にブーイングが巻き起こる。派手にぐらついたのを見て、思い切り顔を殴ったように見えたのだろう。口々に最低、冷血漢、卑怯者などと野次られ、マコトは遂に清水だけでなく観客からも敵意を向けられる事になった。

「だいたいあんた、男なんだから女相手に本気出すなんて卑怯じゃない」

「女を殴るなんて、男の風上にも置けないわ。最低よ!」

「男は女を守るのが当たり前でしょ」

「男なら潔く負けを認めなさいよ。必死に抵抗しちゃってカッコ悪い」

「最低!」

「最低!」

「最低!」

 とうとう場内から最低コールが起こる。

 割れんばかりの最低の声に、マコトはこれまで抑えてきた怒りが一気に噴き上がるのを感じた。

 ――何を言ってやがる。男だから、女だからだと?

 ――くだらねえ!

 堪忍袋の緒が切れた。

「うるせえ、外野はすっこんでろ!」

 マコトの怒声に、観客の罵声がぴたりと止む。

「喧嘩に男も女も関係ねえ。お前ら、普段は男女平等と喚いてやがるくせに、都合のいい時だけ女を盾にするんじゃねえ。悔しかったら男相手に本気で立ち向かってみろ。何もせずに陰でコソコソ男を罵ってるだけだから、いつまで経っても何も変わらねえんだよ!」

 静寂が広がる。マコトの慟哭に似た叫びに、皆口を閉じる以外できなかった。

 誰一人、彼に異議を唱える事ができない。静まり返った場内でマコトはさらに吼える。

 手で清水を示し、

「コイツを見ろ。こんなにズタボロになっても、まだ俺に向かってきやがる。お前らの中に一人でも、ここまで必死に何かに立ち向かった奴がいるか? こんなに死に物狂いで何かと闘った奴がいるか? こんな釈迦力な奴を相手に、本気を出さないほうが失礼だろう。だから俺は、誰が何と言おうがコイツを全力で倒す。それが礼儀だ。解かったら黙って見てろ!」

 最後に獣のように吼えると、マコトは清水に攻め込んだ。

 清水も無意識でそれを迎え撃とうと構える。

 もう誰も何も言わなかった。

 水を打ったように静まり返る中、決着に向けての火蓋が切られた。

                 ◆

 声が響く。

 誰かの魂の叫びが心を打つ。

 ぴったりと閉じているはずの心に染み入る。

 血を流すように叫ぶ声が、心を震わせる。

 どうしてだろう。

 何故この声は、こんなにも私の心を締め付けるのか。

 それは、私の心の奥底にあるわだかまりを直に刺すからだ。

 打たれる体よりも、心が痛い。

 心の痛みが、体よりも大きな悲鳴をあげている。

 あまりの痛みに、意識が現実に引き寄せられる。

 暗いところから、徐々に明るいところへと意識が向かう。

 闇の先に、光の点が見える。

 あれがきっと出口。

 その先には彼が居る。

 あの声の主――

 私は彼を――

 彼を――どうしたかったのだろう。

 私は何をしたかったのだろう。

 今まで何をやってきたのだろう。

 もう何もわからない。

 ただ今は、

 彼に――勝ちたい。


 意識が戻った清水の目に、マコトの姿が飛び込んで来た。

 瞬時に状況を理解する。

 自分はまだ倒れていない。闘いはまだ終わっていないのだ。だったらやる事はただ一つ。

 すぐさま清水は戦闘モードに入る。スイッチがカチリと入ると、体の周りに見えない膜が張られる。絶対防御の領域だ。

 領域内にマコトが浸入する。

 迎撃態勢に入った清水に、激痛という警報アラームが響く。

 打たれた腹が引きつる。意識は回復しても、内臓のダメージまでは消えなかったようだ。腹筋がつっぱり、これでは思うように動けない。

 拳が迫る。体は防御しようと反応しているのだが、痛みが速度を鈍らせている。致命的なラグだ。

 すんでの所で拳をかわす。自力で防御したのなど、いつ以来だろう。迫り来る拳に恐怖を感じる。他人はこんなものを感じていたのか。それでもなお、怯える心を奮わせ立ち向かっていたのか。素直に尊敬する。

 もう絶対防御はあてにできない。だがいかに威力の落ちたマコトの攻撃でも、これまで領域に頼って防御の鍛錬を怠っていた自分では到底避けきれない。ましてやこの体だ。かわそうとするだけ徒労だ。

 ――ならば、女は度胸。

 清水はあっさりと防御を捨て、文字通り捨て身となってマコトと正面から打ち合った。

「うわあああああああああっ!」

 恐くて退がりそうな足と心に、雄叫びで喝を入れる。声を出すと、ますます腹が痛むが無視。今はただ全力で目の前の相手を倒す。それだけのために手足を動かす。

 もう恥も外聞もなかった。みっともなく喚きながら、駄々っ子のように手足を振り回す。マコトも声を上げながら、必死で突きや蹴りを繰り出してきた。

 痛い。怖い。もうやめたい。一秒間に十回はそう思った。どうして自分はこんな事をやっているのだろう。こんなのは計画にない。予定にない。自分はもっとクールな頭脳派で、こんな格好悪くむきになって何かをやるタイプじゃなかったはずだ。

 もう数え切れないくらい、顔にも体にも手にも足にも打撃が当たる。

 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。

 でも無視。こんな痛みよりも、こんな恐怖よりも、今は負ける事の方が億兆倍厭だ。

 清水はさらに大きな声で叫ぶ。

 凄絶なラッシュと咆哮の応酬に度肝を抜かれていた観客たちも、これが最後の攻防と気づいたのか、これまで以上に湧いた。

 館内は猛烈な歓声に包まれ、最高潮に達する。

 壇上の二人も、それに負けじと叫んでいた。

                 ◆

 苛烈を極めた二人の闘いに、木葉はすっかり魂を抜かれていた。

 これはもう武道とは言えない。

 喧嘩とも言えない。

 ただの暴力だ。

 牙を剥き喚き立て、見るに耐えない血生臭い殴り合いをしている。

 意地と意地、暴力と暴力の衝突。

 決して見ていて気持ちのいいものではない。それどころか、思わず目を背けたくなる。

 相手を倒そうと攻撃を繰り出すたびに、汗や血しぶきが飛び散る。殴り殴られ蹴り蹴られ、とても知性や理性のある人間が繰り広げている光景とは思えない。まるで野生の獣だ。二匹の猛獣が、血と汗にまみれながら闘っている。

 だが木葉を含め、会場の誰もが興奮して声の限り応援している。

 汗が照明を跳ね返し、きらきらと輝いている。遠く離れた木葉にさえ、二人が流した液体の飛沫が届くような気がした。

 幻想的に眩くきらめきながら、二人は闘い続ける。その姿を、木葉は素直に美しいと思った。

 勝ちたいという、単純にして純粋な意思。

 一心不乱にただ一つの目的に向かっている姿は、とても美しく輝いて見える。たとえそれが凄惨な殴り合いでも。

 いや、むしろ原始的な武威だからこそ、本能に訴えかけるのではないだろうか。現代人がとうに忘れた太古の記憶。遺伝子に刻み込まれた弱肉強食の掟。相手の肉を打ち、骨を砕くシンプルな蛮力。

 勝ちたい――それは武の根源であり、人の、生き物としての原点がそこにあった。

 それ故に美しい。

 どんなに装飾した作り物の感動よりも、二人の姿は見ている者の心を揺さぶった。

 気がつけば、皆が声援を送っている。

 清水にだけでなく、マコトにだけでもなく、二人を応援している。

 闘う二人を等しく激励する声は次第に大きくなり、やがて大音響のエールとなった。

 館内は、二人を取り巻く観衆を全て飲み込み、一つの塊となって熱く燃えたぎっていた。

 木葉も、知らず知らずのうちに声を出していた。拳を固く握り締め、声の限りに叫ぶ。壇上に立つ二人に向けて、精一杯の思いを込めて。


 負けるな、と。

   決着 そして解決?

                 ◆

 会場を揺るがすほどの大声援も、マコトと清水の耳には届いていなかった。

 二人の耳に届くのは、己の心臓の鼓動のみ。

 見えているのは、互いの姿のみ。

 他の何も二人には届いていない。

 もはや世界には、マコトと清水しか居ない。


 ――楽しい。

 懸命に手足を動かしながら、二人は最高に愉快だった。

 かつてこんなにも無我夢中になった事があっただろうか。

 これほど真剣に闘った事があっただろうか。

 なおかつここまで楽しいと思った事があっただろうか。

 無意識に体が動く。

 傷だらけの体は、もう痛みを感じない。

 酸素が足りなくて苦しいはずなのに、それすらも感じない。

 呼吸をするのも忘れている。

 けど――楽しい。

 唇は苦痛ではなく愉楽で歪み、瞳は爛々と輝いている。

 こんなにも楽しい事、一日中だって続けていたい。終わらせたくない。

 そう思って止まなかったが、終焉は突然に訪れた。


「セィッ!」

 マコトの放った掌底が清水の顎を捉える。急激に脳を揺らされた清水は、勢いに負けて大きく仰け反った。

 投げ、関節技を主としている清水と違い、打撃に関しては打つのも打たれるのもマコトに一日の長がある。単純な練磨の差が、勝負の分かれ目となって出たのだ。

 清水の体が後ろへ揺らぐ。このまま倒れれば、もう立ち上がる事はできないだろう。

「く……っ!」

 最後の力を振り絞って耐えるが、とうにガス欠になって気力だけで動いていた体は、脚に力が入らず踏ん張りが利かない。

 よたよたと後ろへ退がる。頼りない足取りは、まっすぐ場外へと向かう。

 つま先が演武壇の端にかかった。もうこれ以上退がれない。踵はすでに空中にある。

 もう駄目だ――片足が地面から離れる。残った片足では到底体を支えられない。清水は覚悟を決めた。

 背中越しに地面が遠い。たかが一メートル程度の高さがそれ以上に感じられた。

 体が場外へと倒れる。仰向けにやるダイビングは、恐怖心を倍増させる。しかしどの道この体では、前から飛び込んだところでろくに受身もとれないだろう。

 だから清水は目を閉じなかった。最後までマコトを睨みつけて落ちてやろうと、怖くて閉じそうになる目を懸命に開く。

 その目が見たのは、必死の形相でこちらに向かってくるマコトの姿だった。

 ――ああ、とどめを刺しに来たのか。それもいいだろう。いっそ遠くまでぶっ飛ばされたほうがすっきりする。

 そう思って観念し、意識が遠のく。

 次の瞬間、力強く温かい何かに包まれた。

 清水はマコトに抱きとめられたまま、場外へと落下する。

 地面に届く前に気を失ったせいか、痛みはなかった。

                 ◆

 目が覚めると、ぼやけた白い天井が見えた。

 メガネをかけていないのでよく見えない。

 清水は白いシーツのかかったスチールパイプのベッドに寝かされていた。

 カーテンで仕切られた部屋。ほんのりと漂う薬品や消毒液の臭いが、保健室を連想させる。

 首を横に向けると、枕元にメガネが置いてあった。クリアになった視界で改めて見回すと、やはりここは保健室だった。

(私、負けたんだ……)

「ひぃ……っ!」

 起き上がろうとしたのを、腹に走る痛みが止める。腹筋に力が入ると内臓が総出で悲鳴を上げ、とてもではないが体を起こす事ができそうにない。

「よう、目が覚めたか」

 ひいひいと、引きつった悲鳴が止まる。

 声のした方へ目を向けると、マコトが隣のベッドに寝ていた。どうやら自分より先に気がついていたようである。間抜けなところを見られ、清水は少し恥ずかしくなった。

「ど、どうして貴方が隣に寝ているのよ……」

 清水は顔を隠すようにシーツを引き寄せ、ぶっきらぼうに言う。二度も抱きつかれたせいで、気恥ずかしさでまともに顔が見れなかった。

「落ち方が悪くてな。打ち所は悪くないが、一応大事をとって寝かされている」

「そう……」

 見れば、彼は頭に包帯を巻いていた。やはりあの時、自分を庇って場外に落ちたのだ。

 という事は、両者リングアウトの末ダブルノックダウンというところか。だが清水は、勝負の結果にはあまり関心が湧かなかった。

 それよりも花火の事が気になった。自分がやった事とはいえ、彼女も頭を強打していている。とっくに病院に搬送されているので大丈夫だとは思うが、やはり心配だった。

「どうして私を助けたのよ?」

 清水は二番目に気にかかる事を質問した。マコトに花火の容態などわからないだろうし、何より気を失う直前に見た表情が焼きついていた。

「どうしてって……あのまま落ちたらお前、大ケガしてただろ」

 彼の答えはそれだけだった。何を当たり前の事を訊いているんだという貌。本当に何も考えずにやったのだろう。本人は何故を問われるとは思っていなかったようだ。

 そのせいで自分が大ケガをしているというのに、何でそんな貌ができるのだろう。

 倒すべき相手を、どうしてあんなに必死になって助けようとしたのか。あのまま放っておけば、彼の勝利は確実だったというのに。

「どうしてよ…………」

「だからお前――」

「私が女だから助けたの?」

 沈黙。

 マコトが黙って体を起こすと、シーツのすれる音が静かな保健室に響く。

 ぺたり。素足がモルタルの床に張り付く音。彼がベッドから降りた音だ。そのままぺたぺたと音が近づく。すぐ隣まで来たマコトは、無言のまま片手を上げた。

 殴られる――咄嗟に目を閉じ身を固くした清水の額に、小さな痛みが走った。

 デコピンをされた。てっきり怒って張り倒されると思った清水は、呆然と彼の顔を見つめる。

「くだらねえ事言ってんじゃねえよ」

 笑っていた。

 清水は赤くなった額を気にもかけず、ただその笑顔を見つめていた。

 マコトの笑みが消える。

「俺も男だから、女だからとかに拘ってたけど……くだらねえんだよ、そんな事は。自分が男だろうと、相手が女だろうと関係ねえ。今ではそんなちっちぇえ事に拘って、躍起になってた自分が馬鹿みたいに思えてくるぜ」

 自嘲と懐古をするような、どことなく陰のある貌。

 マコトはもう一度「くだらねえ」と呟くと、自分のベッドに戻り、ごろりと大の字になった。

 彼も自分と同じだった。けれどそれはすでに過去形で、自分と違ってくだらないわだかまりを捨てている。

 あの笑みは、自分を縛る鎖から解放され、自由になれたからなのか。それとも自身を縛る鎖は、実は自分で縛ったものだと気づいたからなのだろうか。どれも正解のようで、どれも不正解のように思える。

 けれど何となくではあるが、今の清水にはその笑顔の意味が解かるような気がした。

 保健室の扉が開く音がする。室内とベッドを仕切るカーテンが開かれると、木葉と頭に包帯とネットをした花火の姿があった。

「あら清水、気がついたのね」

「よ、きよ姉元気? お見舞いに来たよ~」

「花火お姉ちゃんもケガ人じゃない……。あの……清水お姉ちゃん……大丈夫?」

 花火の後ろから、ひょっこりと控え目に美土里が顔を出す。心配で見に来たらしいが、清水と顔を合わすのが怖いのか、相変わらずもじもじと花火の背に隠れている。

「あ……………………」

 清水は、何を言えばいいのかわからなかった。

 木葉を謀ってエキビジョンを組んだ事。花火に怪我をさせてしまった事。美土里を心配させた事。家族全員に迷惑をかけてしまっている。

 それでこのざまだ。いったいどの面を下げてみんなに会えばいいのか、ましてどんな事を話せばいいのか皆目見当もつかない。

「よく頑張ったわね、清水」

「え……?」

 最初に声をかけてきたのは木葉だった。叱責される事を覚悟していた清水は、思いがけない言葉に素っ頓狂な声を上げる。

「あなたがあそこまで必死になって何かをするのって、初めて見たわ。結果は残念だったけど、胸を張りなさい。あなたはそれだけの事をしたのよ」

「そうだよ、きよ姉。長い人生、一度や二度の敗北くらいどうって事ないよ。人生楽ありゃ蜘蛛膜下出血だって言うじゃない」

 花火の言葉に、清水は自分のせいで妹の頭がおしゃかになってしまったと一瞬後悔したが、よく考えてみたら元からポンコツだった。

「花火、あなた本当に異常はなかったの? もう一度ちゃんと検査を受けなさい」

「何よ、お母さん。まるでボクの打ち所が悪かったみたいじゃない。これでも病院で先生に褒められたんだから、『豆腐のように滑らかな脳だ』って」

「花火お姉ちゃん……それ褒められてない……」

「え、そうなの?」

「あなたって子は…………」

「あはははは。まあいいじゃない、大した事なかったんだから。人間健康が一番だよ」

 からからと軽快に笑う花火。つられて木葉も美土里も笑い出した。家族の笑顔に、清水も自然と頬が緩んだ。

 声に出して笑う。こうして家族みんなで笑う事など、本当に久しぶりだった。ずっと笑わなかったから、笑い方などとうに忘れていると思っていた。

 だが自然に笑う事ができた。本当に心から、おかしくて楽しくて、涙が出るくらい笑えた。

 何故なら、失くしたとずっと思っていた家族の笑顔が、そこにあったのだから。

「清水お姉ちゃん……泣いてる。……どこか痛いの?」

「ううん、そうじゃないの。そうじゃないの……」

 笑ってるはずなのに、どんどん涙が出てくる。こんなに楽しいのに。とても嬉しいのに。すごく心が温かいのに。泣くなんておかしいのに、涙が後から後から流れて止まらない。

 家族の笑顔を奪ったのは、父でも母でもない。自分が意地を張ったから。自分で心に壁を作ったから。自分が笑わなくなったから。

 だから誰も笑わなくなったんだ。

 自分が家族から笑顔を奪ったのだ。

 けれど、失くしたと思っていた家族の笑顔は、ちっとも失われてなどいなかった。

 そしてまた笑う事ができる。

 それが何よりも嬉しかった。

「清水……」

 木葉にそっと抱きしめられた。母の胸に顔を埋めると、今まで頑なに閉じていた心が、涙の洪水で内側から押し開かれる。

 清水の中で、自分を縛っていた鎖が音を立てて引きちぎれた。

「お母さん……今まで、本当に……ごめんなさい」

「いいのよ、今は何も言わなくて」

 温かい。

 頬を伝う涙も、母の胸のぬくもりも。

 ――くだらねえんだよ。

 マコトの言葉が響く。

 本当にくだらない事だ。

 何で今まで男とか女とか、くだらない事に拘泥していたのだろう。そんなこと、この温かさに比べたら取るに足らないものだというのに。

 清水は声を押し殺して泣いた。

 きつく木葉にしがみつき、木葉も痛いくらい強く抱きしめた。

 この涙が出尽くしたら、きっと心を凍らせていた氷も溶けきっているだろう。

 冬がいずれ春になるように。

 彼女を縛る鎖は、もうない。

                 ◆

 木葉に抱かれ子供のようにむせび泣く清水を、マコトは隣のベッドからぼんやりと見ていた。

 木葉の姿と、顔も覚えていない母の面影が重なる。不思議と違和感はなかった。

 かつては自分もああやって、母の胸に抱かれていたのだろうか。母親というもの知らない彼には、すぐそばで抱き合う母娘の姿がとても眩しく、そして遠く感じられた。

「家族…………か」

 もしここに紅葉が居たら、ああやって自分抱きしめてくれただろうか。温かく柔らかい胸で包み、よくやったと褒めてくれただろうか。

 木葉と清水の姿が、紅葉とマコトに変わる。それは、彼にだけ見えている夢想。

 いつになく感傷に浸っていると、清水の泣き声が徐々に小さくなっていき、やがて嗚咽に変わる。声が完全に消えるまで、木葉はずっと清水の背中を優しく撫でていた。


「天下くん」

 ベッドで上体を起こしたまま、清水がマコトに声をかける。泣くだけ泣いてようやくすっきりしたのか、声も態度も平常に戻っていた。

「………………ありがとう」

 様々な思いが込められた一言。言葉には重みがあり、見つめる視線には熱があった。

「礼を言われる筋合いはねえよ」

 面と向かって礼を言われると、少し恥ずかしかった。照れ隠しのためにぶっきらぼうに言うと、清水はそれを見抜いたかのようにふっと笑う。

「そうね、そうかも知れないわ。けど言わせて欲しかったの。私、貴方のお陰でようやくふっきれたわ」

「俺は何もしてねえよ。それに、ふっきれたのはお互い様だ」

「でも……」

「細かい事はいいじゃねえか。あまり深く考え込むとハゲるぞ」

 マコトが額を指差すと、清水はまだうっすらと赤い額を慌てて手で隠す。

「ハゲてないわよ、富士額なだけよ」

「そうそう。変にしおらしいより、そうやってつんけんしてる方があんたらしいぜ」

 白い歯を見せてマコトが笑うと、清水は額の赤みが消えるほど赤面する。

「おう馬鹿息子、すっかりこの嬢ちゃんと仲良くなったじゃねえか」

「馬鹿野郎、そんなんじゃねえよ。まったく、くだらねえ事言ってんじゃ――」

 顔を上げ、目に入った泰平のにやけ顔にマコトの動きが止まる。泰平はマコトと目が合ったまま「よお」と笑顔で片手を上げた。

 突如背後に現れた泰平に、ようやく花火たちが気づく。飛び退るように横に動くが、泰平はまったく気にせずヒューヒュー、と口笛を吹く真似をし、小学生のように息子を冷やかしている。

「てめえ、ここで何してやがる!」

 次の瞬間、マコトが電光石火で枕を投げつけた。至近距離からの全力投球にも関わらず、苦も無く片手で受け止める泰平。花火たちも彼が部屋に入って来たのに気がつかなかったようで、突然湧いて出た闖入者に驚いている。清水はすぐにでもベッドから飛び出せるように身構え、花火は怯える美土里を背に庇うように立ち位置を変える。

「そりゃお前、見舞いに来たに決まってるじゃねえか」

 泰平は枕を人差し指で器用に回しながら、しれっと答える。

「そうじゃねえよ。何でてめえがここにいるのかって訊いて――」

「泰平さん。もう、今までどこに行ってたんですか?」

 マコトの怒気を孕んだ問いかけに、木葉が呆れた声で割り込んだ。

「おう、便所を探してたら道に迷った。何せだだっ広い上に男子便所が一つもなくてな。往生したぜ」

「だってうちは女子校ですから。それは来客用トイレの場所と一緒にお教えしたじゃないですか」

「む、そうだったか?」

「もう……相変わらず人の話を聞かないんだから……」

「いやあ、すまんすまん」

「いやですわ、もう」

 頭を掻いて謝る泰平と、口元を押さえて微笑む木葉。和気藹々とした雰囲気の二人は、見事なくらいにマコトを無視している。

「ってコラ、クソ親父。てめえ、なに当たり前の顔してここにいやがるんだ」

 こめかみに血管を浮き立たせて、泰平の胸座を掴む。このまま絞め殺さんばかりの気迫だが、対する泰平は涼しい顔をしている。

「え……この人、キミのお父さん?」

「ああ、恥ずかしながら俺の親父だ。どうやって学校に潜り込んだか知らねえが、今叩き出すから警察だけは勘弁な」

 不審者の正体がマコトの父だと判り、花火が驚きの声を上げる。清水と美土里も警戒を解き、今や泰平を不審者扱いしているのは実の子だけだ。

「待つのはお前だ。ちょっとは人の話を聞きやがれ。ったく、誰に似たんだか……」

 おもむろに泰平が、胸座を掴んでいる息子の腕を握る。ちょいと軽く捻っただけで、がっちり襟を握っていた手が剥がされた。

「クソ、てめえには言われたかねえよ」

「凄い……あっさり外しちゃった。手品みたい」

 見事な手並みに、花火が感嘆の声を上げる。

「お嬢ちゃん、こんなのはちょっとしたコツさえ掴めば誰でも簡単にできるんだぜ。良かったら今度教えてやろうか?」

「え、いいんですか? やった~」

 泰平がウィンクすると、花火は両手を叩いて喜んだ。

「一瞬で馴染んでんじゃねえ! って言うかお前らも状況を受け入れ過ぎだろ。ちょっとはおかしいと思えよ」

「え、何で?」

 必死に周りに訴えるが、誰一人としてこの状況を異常だと感じていないようだ。マコトだけが空回りし、花火たちをぽかんとさせている。その奇妙な温度差に、彼の焦りは募るばかりである。

「いい加減にしろ。ここをどこだと思ってやがる。ケガ人の前だぞ」

「俺もケガ人だ! 親父こそ、ここをどこだと思ってやがる。女子校だぞ、女子校。男子禁制、関係者以外立ち入り禁止のど真ん中だっつーの!」

「それがどうした。一応俺だって関係者だ」

「てめえの何が関係してるってんだ。どうせエロ根性で学校に潜り込んだんだろ」

「失礼な事を言うな。誰が尻の青いガキ目当てにこんなトコに来るか」

「それに、どうして親父が理事長と面識があるんだよ」

「ああ、それはな――」

「それはね天下さん、あなたのお母様――天下紅葉が私の姉だからよ」

「な……何ぃ……」

 初めて知らされる事実に、マコトのみならず三姉妹も驚愕する。

「あなたから見れば私は叔母。つまり、私たちは親戚という事になるのよ」

「親父……それは本当なのか?」

「本当だ。紅葉の旧姓は五行院――本当なら、五行院家の当主になるはずだったんだが……」

「姉は生まれつき、成人するまで生きられるかどうか判らないくらい病弱だったの。だから先代当主、つまり私の母親、清水たちから見ればお婆様ね――は早々に姉を家督の相続候補から外したの。それで私がこうしているのだけれど」

「ま、そのおかげと言っちゃあなんだが、俺様のようなろくでもない男が紅葉と結婚できたわけなんだが……。だが家督は継げなくても良家のお嬢様だ。色々反対があって、結局駆け落ち同然になっちまったがな」

 たしかに母がどこか良家のお嬢様だったという事は聞いていたが、まさか五行院家だったとは。世間は狭いというか何というか。

「家から出て行った姉は、もはや存在しないも同然だった。けれど先代も他界した今、私たち姉妹が疎遠になる必要はどこにもない――そう考えた私は、密かに泰平さんと連絡を取り合っていたの」

「そこで色々出た話の中に、そちらのお嬢ちゃんの跳ねっ返りぶりが話題になってな。こりゃ何とかしてやらんとってコトで俺様が一計を案じたのよ」

 泰平がちらりと清水を見る。視線が突き刺さった清水は、恥じ入るように俯いた。

「じゃあ俺をこの学校に編入させたのも――」

「ああ、全部俺様のアイデアよ。男嫌いの嬢ちゃんにお前みたいな男臭い奴をぶつけりゃ、ショック療法の代わりくらいにゃなるだろうってよ」

「勝手に人を当て馬に使うんじゃねえ!」

「だがお前だって女嫌いが治ったっつうか、考えを改めるいいきっかけになっただろ? ちゃあんとそこまで考えてあるんだよ。さすが俺様だねえ」

 く、とマコトは唸る。泰平の言葉は、言い方は尊大だが何一つ間違ってはいない。だがそれでもマコトは、父の掌で踊らされていたような屈辱に歯噛みする。

 それに何より、亡き母の事が不憫だった。本来なら家督を継ぎ、何不自由のない平穏な生活を送れたはずなのに。病弱だったばかりに全てを失い、そしてこんなふざけた男の元に嫁ぎ、さらには我が身を省みずに自分を産んで死んだ。産めば死ぬと分かっていただろうに。

 まさに不幸の一語に尽きる。紅葉の一生には、何一つ良い事など無かったのではないだろうか。泰平に出会わなければ、いや、自分を産まなければ、せめて病気のままでも少しくらいは生き長らえる事ができたかもしれないのに。

「勘違いするなよ」

 息子の表情から察したのか、泰平がいつになく神妙な面持ちで語る。

「紅葉は、自分を不幸だとはこれっぽっちも思っていなかった。それどころか自分は幸福だと言ってたよ。命をかけて子供を産むことができた、こんなに幸せな事はない――そう言ってあいつは逝ったんだ。だからお前は自分を呪っちゃいけない。お前が自分の存在を否定するのは、お前を産んだ紅葉が一番悲しむ事なんだ」

 だからそれだけはやめてくれ、と泰平はマコトの肩に両手を乗せ、懇願するような押し殺した声で言った。

 マコトが生まれて初めて見る泰平の顔だった。本当に辛く、悲しく、痛ましい顔。それは亡き妻を偲んでいるのと同時に、我が子を真剣に想う悲愴な表情。涙はないが、マコトには父が泣いているように見えた。

「親父…………」

 泰平の口から語られる、母紅葉の想いが痛いほど伝わった。自然に目頭が熱くなる。温かい、母のぬくもりのような涙が、マコトの頬を濡らす。

 歯を食いしばり、声を殺して泣いている我が子の頭を、泰平はそっと撫でる。

 男泣きに泣き濡れるマコトを、清水も目を潤ませて見つめる。その肩にそっと手を置いた木葉の目にも、やはり涙が浮かんでいた。

 木葉はそっと清水の手を握る。

「親というものはね、どんなに離れていても、例え死んでも子供の事を想っているものなの。だからあの人も、きっと清水の――勿論花火や美土里の事を想っていると思うわ」

「お母さん……」

「だからもう、あの人の事を許してあげて」

 木葉の言葉に、清水は黙って頷いた。木葉は静かに「ありがとう」と目を細める。

 長い間二つの家族が抱えていた問題が、ようやく解決した瞬間だった。

                 ◆

「泰平さん、本当にありがとうございました」

 清水の肩をそっと抱き寄せ、木葉が泰平に礼を告げる。

「うむ、これにて一件落着」

 寄り添いあう母娘を見て、満足そうに泰平は頷く。だが後ろからマコトに頭を張り飛ばされ、不恰好に前によろけた。

「何が一件落着だ、てめえは何もしてねえじゃねえか」

「痛えじゃねえか馬鹿野郎。俺様は頭脳労働派だからいいんだよ。なんせこの計画を考えたのは、全部俺様だからな」

 ふふん、と自慢げに仰け反る泰平。表情で褒めよ讃えよと促しているが、息子は冷たい視線を投げかけるだけだ。

「ケ、何が頭脳労働派だ。純度一〇〇パーガテン系のくせしやがって。どうせ俺の編入手続きをしたのは理事長だろ。それにエキジビジョンの段取りをしたのはデコメガネだ。そこのちっこいのは勝手に勘違いして喧嘩売ってきやがるし、花火は暴走した挙句に自爆。ホラ見ろ、結局てめえは何一つやってねえじゃねえか」

「あら本当。言われてみればそうね」

 木葉が納得して手をぽんと打ち鳴らしている横で、三姉妹はそれぞれ複雑な表情をしている。特に清水はデコメガネと称された事で、幾分ご立腹のようだ。

 なし崩しに役立たずの烙印を押されそうな空気に焦る泰平。父の威厳と男のプライドを守るためにも、無い頭をフルに使って考える。本人が知らぬだけでそんなものはとっくの昔にないのだが、必死で考えた末、ようやく一つだけ思い当たる事があった。

「いやいや待て待て。俺様だってちゃんと役に立ってるぞ……」

 そう言うと泰平は、思い出したように懐からある物を取り出した。

「ホラ、お前の道着だ。今朝忘れて行ったのを、こうして届けに来てやったんだ」

 満面の笑顔でマコトに道着を渡すが、肝心の持ち主は怒りで顔を真っ赤にして震えていた。

「ん、どうした? 感動で声も出ねえか?」

「遅いんだよ!」

 マコトの渾身の拳が、泰平の顔面にめり込んだ。


「それでお母さん、結局共学の話はどうなるの?」

「当然白紙に戻るわ。だって元からそういう計画だったんだもの」

「いや~、ここまで計画通りに事が運ぶとは、さすがの俺様も思わなかったぜ」

「つまり、これまでの事は壮大なドッキリだったというわけか……」

「うむ。まさに〝大成功〟ってヤツだ」

 泰平は鼻血を流しながら満面の笑みでVサインをする。その一言で、マコトも三姉妹も全身から力が抜けた。結局、全ては泰平の筋書き通りだったのだ。学園を丸ごと巻き込んだ、馬鹿みたいに規模の大きな茶番に付き合わされたのだと知り、一気に疲労が襲ってきた。

 げんなりとする子供たちをよそに、親たちは妙に楽しそうだった。まるで悪戯が成功した悪ガキのようで、これではどちらが子供かわからない。

 こうして無駄に手の込んだ泰平の企みは、とても大団円とは言い難いながらも、一応の成果をあげて幕を閉じた。

 ――かに見えた。

「それじゃあ俺も御役御免ってことか」

 やれやれ、とマコトは大きく伸びをする。女嫌いが緩和された今では、お嬢様学校の生徒も悪くない。だがやはり自分には身の丈にあった普通の学生が性に合っている。名残惜しい気持ちはややあるものの、元の男子校に戻るのが一番良いのだろう。

「迷惑をかけたわね。手続きなんかはまたこちらで済ませておくから、あなたは気にせず残りの編入期間を楽しんで過ごしてね」

「最初は迷惑だったけどよ、ここの学生ってのも別に悪くはなかったぜ」

「そう言ってもらえると救われるわ。正式に学生として迎えられないのは残念だけど、困った事があったらいつでも連絡してちょうだい。これからは親戚同士、助け合っていきましょう。この借りは必ず返すから」

「水臭い事言うなよ。助け合いに貸し借りなんてねえだろ」

「ありがとう……。あなたが来てくれて、本当に助かったわ」

 木葉が片手を差し出す。マコトはその手をしっかりと握ると、固い握手を交わした。

「ちょっと待ってよ。それはあんまりじゃない?」

 このままエンドロールに突入しそうな空気の二人に、清水の冷ややかな声が水を注す。

「こっちの都合で編入させてきて、用が済んだら返品するの? そんなの酷い。彼が可哀相じゃない!」

「清水…………?」

 まさか清水がマコトの擁護をするとは。これですべてが終わったと思っていたマコトたちだったが、そうは問屋が卸さなかった。静かに、だが激しい怒りに打ち震えている清水の形相に唖然とする。

「『嘘から出たまこと』って言葉もあるわ。本当に共学にしたっていいじゃない。彼を追い出すなんて、あまりにも自分勝手過ぎるわ。いい大人がこれだけ大きな騒ぎを起こして、『ゴメン、全部なし』って笑って済ませられると思ってるの?」

「で、でもね、清水……。こうするしかなかったの。それに女子校を共学にするとなると、何かと問題も多いのよ。ただでさえお母さん、抗議の電話とかで大変だったんだから……。これ以上あんな目に遭ったら、ノイローゼになっちゃうわ」

「そんなの自業自得じゃない。第一、理事長ともあろう人間が、こんな無責任な事をしていいと思ってるの? たしかにやむを得ない事情だったけど、落とし前はちゃんとつけてもらわないと困るわ。だから共学化を白紙に戻すなんて、絶対に認めないからね」

「やだ清水、そんな落とし前だなんて……」

 目を三角にしてにじり寄る長女に、涙目で弁明する母親。思い出したくもないほど抗議の電話が殺到していたのだろう。母の苦労は察するに余りある。だが娘たちにとって、そんな事知ったこっちゃない。

「落ち着いて。まずは話し合いましょう。ねえ、花火も何とか言ってちょうだい……」

 長女の迫力に圧倒され、木葉が堪らず次女に助けを求めると、花火は大仰に腕を組み、う~んと唸る。

「ボクもね、今さら全部ウソでした~ってのはないんじゃないかなあって思うよ」

「え?」

 しかし味方は得られなかった。こうなったら三女を取り込もうと姿を探すが、すでに美土里は花火の背後で姉の意見にうんうんと賛成している。もうすでにあちら側の人間のようだ。

「そんな……。これは全部お芝居じゃない。お願いだからそんなわがまま言わないで……」

「ううん、お母さん。女に二言は無いの。さもなければデス・オア・ダイだよ」

「花火まで……」

「花火お姉ちゃん……それ、どっちも死んじゃう……」

 いつの間にか、木葉は三姉妹に取り囲まれて糾弾されていた。傍から見ているとただの親子ゲンカだが、内容は五行院学園の運営という大規模な話になっていて天下家の二人は見事に蚊帳の外だ。

「何だかまたややこしい話になってるな」

「人を謀ると、結局最後は自分に返ってくるものだ。因果応報という奴だな」

「てめえが言ってんじゃねえよ。頭脳労働派なら何とかしてみせやがれ」

 マコトに頭を叩かれ、泰平はむう、と唸る。ただでさえ磨り減っていた父親の威厳は、今や完全に磨耗しきってなくなっていた。

「しょうがねえな……」

 頭をさすりながら、泰平は知恵を絞る。

「お前、ここの学生になるのもまんざらじゃねえって言ってたよな?」

「え? そりゃあたしかに名残は惜しいけどよ……」

「なら決まりだ」

 泰平はにやりと笑う。その笑みは、かつて天下家の道場でマコトの帰りを待っていた時の、にやついた顔とまったく同じだった。









   エピローグ

                 ◆

 翌日、急遽行われた全校集会で、共学化の計画が延期された事が発表された。

 全校生徒は体育館に集められ、壇上では学園長の木葉がマイクに向かって生徒たちに説明をしている。

 学園の教育理念の尊重及び、生徒に与える影響の配慮。運営方針の転換に生じるリスクや設備面での問題を考慮したなど理由は多数挙げられたが、当然延期の理由が個人的な家庭の事情であった事は伏せられていた。真相を知っている清水たちは、騒然となる生徒たちをよそに苦笑する他ない。

 だが三姉妹それぞれの顔には、何か憑き物が落ちたような爽快さがあった。木葉もまた同様なのだが、彼女の場合、これからまた膨大な量の苦情の対応や事務処理に忙殺されるので、少々げっそりしていた。

 さらに生徒たちにはもっと驚くべき事があった。

 マコトの編入期間も延長されたのである。

 一ヶ月という短い期間では採取されるデータが足りないという事で、期間を彼の卒業まで延ばしたのだ。その間に更衣室やトイレなどの設備をできるだけ確保し、体育などの授業カリキュラムを組み直すのだそうだ。

 生徒たちの表情には、まだ不満や得心がいかぬところがある。まだ天下一という存在は、五行院学園の生徒たちにとっては異端なのだろう。だがそれも時間の問題だ。彼女たちの中に、天下一という強烈な個性が溶け込むのもそう遠くない。男という異質なものも、徐々に受け入れていってくれるだろう。

 かつてマコトが。

 かつて五行院清水がそうだったように。


 木葉の説明が終わり、集会も終盤に差し掛かった。木葉から進行を引き継いだ清水が、生徒会活動の報告をしている。整列して壇上を注視している生徒たちの中に、マコトの姿があった。

「ねえねえ、結局キミはどうするの?」

 後ろに立っていた花火が、マコトの上着の裾を引っ張る。

「ん? 何がだ?」

「だから編入の話だよ。男女共学になるのは当分先の話だけど、学年が上がる前に残るかどうか決めなきゃならないんでしょ?」

 ねえどうなのよ、と脇腹をつつかれ、マコトはむう、と唸る。

「さて、どうしたもんかねえ」

「何よ、そのもったいぶった言い方」

「だいたい、まだ半月も経ってねえし、この学園について知らない事が山ほどあるしなあ」

 今度は花火が「む~」と唸る。マコトのとは違って不満の唸りだ。

「その時になったら考えるさ」

「でも、元の学校に戻りたかったんじゃないの?」

「別に。五行院学園こっちのほうが面白そうだ」

「え、じゃあ――」

 ぱっと花火の顔が明るくなる。

「一度きりの人生、面白可笑しくやらねえとな。今までくだらねえ事に時間をかけちまった分、取り戻さねえと勿体ねえ」

「そうだよ、この学園ならきっとキミも退屈しないよ。それはボクが保証する」

「そいつは楽しみだ。昨日みたいな祭りなら、毎日でもいいぜ」

「毎日がお祭りって……何だか楽しそうだね」

「ああ、何でもかんでも祭りにしちまえばいいんだ。そうすりゃ世の中楽しくなるぜ」

「世の中全部がお祭りか……。天下てんか、まことに祭りの如し、だね」

「何だよソレ……。つまらねえ事言ってんじゃねえよ」

「えへへ~」

 唇を尖らすマコト。花火はつまらないと言われたにも関わらず、嬉しそうに笑う。彼が残ると決めたのが、よほど嬉しかったのだろう。

「そこ!」

 清水の大声に、マイクがハウリングを起こす。耳鳴りがしそうな反響音に、生徒たちが顔をしかめた。

「私語は慎みなさい、天下一くん」

 冷淡な笑顔で清水が注意をすると、全校生徒の視線が一気に集中する。

「ったく、もう生徒会長に目をつけられてるんじゃあ、これから先が思いやられるぜ。やっぱ編入すんのやめよっかなあ……」

「駄目だよ、一度言った事を取り消しちゃ。男に二言は無いんだからね。でないとキル・ゼム・オールだよ」

 背後から花火に頬をつままれる。しかし皆殺し《キルゼムオール》とはまた物騒だ。

「やれやれ、祭りは祭りでも、後の祭りかよ……」

 マコトは苦笑しながら頬をさする。


 これで一つの祭りは終わった。

 だが次の祭りは、もうすぐそこまで来ているのかもしれない。

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