闘う乙女たち
闘う乙女たち
◆
木曜日の朝。
五行院三姉妹は、朝からずっと無言のままだった。
ただ、花火が腹を括ったように黙りこくっているのに対し、清水はともすれば零れる笑いを押し殺すのに必死だった。
清水は異常なくらいご機嫌だった。
それもそのはず。今日の放課後、遂に待ちに待ったエキジビジョンが開催されるのである。
それはつまり、今日を最後に編入生は学園から姿を消し、あの正気の沙汰とは思えない共学化の計画が消滅するのだ。
これがどうして笑えずにいられよう。懸命に口元を引き締めても、耐え切れずに空気が漏れる。笑いを噛み殺す姿はとてもみっともないが、それよりも今日という日を迎えられた喜びの方が遥かに大きいのでどうしようもない。
清水はこの日を、一日千秋の思いで待ち望んでいた。
遠足よりも修学旅行よりも誕生日よりもクリスマスよりも正月よりも、何よりも楽しみにしていた。
今までの人生で、これほど心待ちにした事が無いというくらい待ち焦がれた。
昨日は興奮で目が冴えてほとんど眠れず、睡眠不足がさらにテンションを上げた。
浮き立つ心を抑えてはいるが、体は正直でスキップのような軽い足取りで校舎へと向かって行く。彼女とすれ違った生徒たちが、信じられないものを見たような顔をして振り向く。
これまで決してスカートの裾を翻す事などなかった生徒会長が、くるくると踊るように歩くのだ。その姿を見た者は、誰もが我が目を疑った。
その日の午前中は、幻覚を訴える生徒や教師たちが保健室に殺到した。
彼女らは口を揃えて『信じられないものを見た』と言い、保健医を困惑させたのであった。
◆
当然の如く、生徒たちは今日の授業にまったく集中できなかった。
皆それぞれ放課後のイベントに思いを馳せている。教師たちは上の空でそわそわしている生徒たちに手を焼きながら、その反面自分たちも授業が終わるのを刻一刻と待ち侘びていた。
生徒全員が心の中で秒読みをし、教師もそれに合わせるように時間ぴったりに最後の授業が終わった。その途端、ホームルームをエスケープして我先に良い席を確保しようと生徒たちが教室から飛び出し、体育館へと続く廊下は早々と長蛇の列が生まれる。
混雑が騒動となり、何か事故が起きるのではと教師たちは胆を冷やしたが、清水が事前に配備していた生徒会執行部が列を手際よく捌き、場内への生徒たちの誘導はスムーズに行われた。腐っても生徒会長というところか。自己満足のための企画ではあるが、仕事は抜かりなくやっているのが彼女らしい。
館内中央に設けられた演武壇を取り囲むように客席が設置され、早くも満席になっている。席にあぶれた生徒たちは、どうにかしてこの世紀の対決を観戦しようと二階まで詰め掛けていた。
予想以上、予定以上の客の入りに、清水は驚かされた。だが嬉しい誤算だと内心で拍手喝采し、誰も見ていなければ小躍りのひとつもしていただろう。
これだけの衆人環視の前で赤っ恥をかけば、いくら厚顔無恥なあの男でも恥ずかしくて堪らないだろう。恥辱にまみれ、悔し涙を流す姿を想像するだけで、軽く絶頂ってしまいそうだ。
清水は臨時の控え室にした用具入れの扉の隙間から、館内の様子を見て独り悦に浸っていた。すでに袴に着替え、軽くウォーミングアップは済ませてある。頬が上気しているのは、準備運動のせいではなかった。
全校生徒が集まったのではないかと思えるくらい超満員の体育館は、観客の熱気で天井に雲が湧いていた。彼女らは、ショーの開始を今か今かと手に汗を握って待ちわびている。
そろそろ頃合か。会場が温まり客が焦れたのを見計らって、清水は満を持して控え室を出る。
清水の姿を認めると、一気に会場がヒートアップした。
盛大な拍手と歓声を浴びながら、清水は悠々と演武壇の中央に置かれたマイクを手に取る。
「皆さん、お待たせいたしました。これより編入生の紹介と交流を兼ねた、エキビジョンマッチを開催したいと思います!」
清水の開会宣言で、会場に割れんばかりの拍手が起こる。オリンピック級の盛り上がりに清水は両手を広げて応え、そのパフォーマンスにまた歓声が上がった。
清水が片手を下げると、すっと歓声が止まる。しんと静まり返った会場に、マイクを通した彼女の息を吸い込む音が広がった。
「それでは入場していただきましょう。我が五行院学園に編入してきた、天下まこ――」
「ちょおっと待ったああああっ!」
いきなりの待ったの声に、会場の注目は声のした方向――入場コーナーに一気に集中する。清水も思わず声を止めてそちらを向いた。
清水は焦った。こんな事は計画にない。常に予定と計画で動いている彼女は、ハプニングにとても弱かった。
「だ、誰? 出てきなさい!」
マイクでその場に居る全員の疑問を代弁する。
無数の視線が見守る中、ゆっくりと声の主が姿を現す。
一歩、また一歩と歩みを進めるたび、その姿が白日の下に晒される。謎に満ちた全容が明らかになると、会場のざわめきが一層激しくなった。
「その前に、ボクと闘え!」
挑戦者は、清水を指差して真っ向から挑戦する。
「は、花火……」
マイクを握り締める清水の手に力が篭る。まさか、この土壇場でこんな馬鹿げた邪魔が入るとは思わなかった。完全に足元をすくわれた気分だ。
(言ったはずよ。邪魔するなら誰であろうと排除すると。それでもなお私の前に立ちはだかるというのなら、それ相応の覚悟があるという事ね。けど残念ね。今は貴方のような小者にかまけている時間は無いの。さっさとあの黴菌をこの学園から排除しなければならないの。私は忙しいのよ)
「さあ、返事は? 答えなさいよ、きよ姉!」
不敵な笑みを浮かべ、花火はさらに清水を挑発する。そこには、姉に一矢報いたという達成感が滲み出ていた。
ここまで計画をかき乱された上に、普段下に見ていた妹にこうまでコケにされたのだ。本来の清水なら、花火のしてやったり感溢れる顔を見た瞬間にブチ切れていただろう。
「ざ、残念ね……貴方はこの場にお呼びじゃないの。解かったのなら、客席に戻って大人しく観戦していなさい」
だが今は、辛うじてそれを抑える事ができた。多少頬がひきつり、声は怒りで震えてはいたが。
◆
空手道着を纏い気合十分な花火は、堂々と真正面から清水に挑戦状を叩きつけた。
しかし冷淡に跳ね返されたわけだが、その事を予想していない彼女ではなかった。何しろもう十七年も清水の妹をやっているのだ。
「アレ? きよ姉とあろう者が、ボクなんかを怖がって勝負から逃げるなんて。いつからそんなに臆病になったの?」
精一杯の挑発的な笑み。大観衆の前で姉に対して初めて張る虚勢に、恐怖と緊張で自然と頬がひきつる。だが清水も同じように頬をひくつかせているから、効果はそれなりにあったのだろう。なら、あと一押しだ。
「ねえみんな、みんなも見たいでしょ? ボクときよ姉の対決を! ボクときよ姉のどっちが強いか、今ここではっきりさせたいと思わない?」
花火が両手を広げて観客に問いかけると、建物が揺れんばかりの拍手喝采が起こる。清水がマイクで必死に観客に向かって静粛を訴えるが、それよりも大きな、怒号のようなゴーサインにかき消される。
「さあどうする? みんなは見たがってるよ――ボクときよ姉の対決を。まさかここまで来て逃げるわけないよね、お・ね・え・ちゃ・ん?」
牙を剥き出す清水に、白い歯を見せる花火。
花火は生まれて初めて、清水に策略で勝利した。
◆
ゆっくりと花火が演武壇へ上ると、観客がどっと湧く。期せずしてお目にかかる至高の対決に、皆興奮している。
片や完全無欠の生徒会長。それに対するは、その妹にして空手部部長。期待は否が応にも高まるというものである。
観客たちはそれぞれ近くの者と、この対決の行方を予想し合っている。
中にはそれが元で取っ組み合いになり、試合う本人たちよりもエキサイティングしている者たちもちらほら見受けられた。
奇しくも観客たちのオッズは花火に傾いていた。というのも、花火は空手部部長というわかりやすい肩書きを持っているのだが、清水にはそれがない。『生徒会長』と聞いて、強そうというイメージを持つ方が難しいだろう。
背負った看板のインパクトから、観客は勝手に花火の実力を過大評価しているが、それが間違っている事は何よりも本人が知っていた。
清水が文武両道を掲げるこの五行院学園を体現したような存在だという事を、花火は骨の髄まで思い知っている。
何より彼女は、これまで清水に喧嘩で一度も勝った事がないのだ。外では箸よりも重い物は持った事がありませんという顔をしているが、いざ荒事となれば清水ほど敵に廻したくない相手はいない。
花火が歳に合わぬ実力を持っているとしても、清水は人の枠に収まらない実力を持っている。
――彼女こそ鬼神。
――まさに闘神。
――いや武神。
天のあらゆる神仏に祝福され、溢れんばかりの天稟を持って生まれた姉に、果たして凡人たる自分が勝てるのだろうか。戦車に素手で勝負を挑んだ方が、まだ勝算がある気がする。
「それでは、両者中央に」
審判役の生徒が二人に声をかける。
清水と花火は中央に並んで立ち、演武壇の左右、正面と礼をし、最後に互いに礼を交わす。
「始め!」
審判が手刀を切るようにして開始を告げると、二人は同時に構えをとる。歓声が一際激しくなり、まるでこの試合が本日のメインイベントのような体になってしまっていた。
花火は相手を窺うように左手を手刀にして上げ、もう片方は拳を腰溜めに構えて清水の周りをすり足で回る。
対して清水は両手を胸の高さで軽く前に出し、重心はやや後ろ足に残して立っている。積極的に前に出ようとしない姉の構えに、花火は少し攻めあぐねる。
隙が無い構えだった。まるで見えない壁に阻まれているようで、どこに突きや蹴りを出しても全て捌かれるような気がする。下手に打ち込めば、それだけで勝負が決まってしまいそうだ。
だがこのままぐるぐると清水の周りを回っているだけでは埒が明かない。ただでさえじわじわと精神的に消耗しているのだ。長引けばそれだけ自分が不利になる。
ここは一か八か自分から仕掛けるしかない――そう判断した花火は、覚悟を決めて一気に攻めに出た。
裂帛の気合とともに、一瞬で間合いを詰める。
「――シュッ!」
短く息を吐きながら、牽制の軽いパンチ。
瞬きもせずに軽く捌く清水。
「シュシュッ!」
続いて左右のワンツー。
これもまったく視線を動かさずに綺麗に捌かれた。
さらに立て続けに左のストレートから右のフック、そして左のローキックと上下のコンビネーションを繰り出す。
だがそれすらも、読まれていたように完璧にかわされた。
一旦後ろに下がり距離をとる花火。大きく息を吸い込んで、肺の中に新鮮な酸素を十分に取り込む。ゆっくりと吐き出すと、もっと多くの酸素を取り入れる。
血液中の酸素濃度が限界まで高まると、頭の中がちかちかして目の中で星が明滅する。それを合図に、再び花火は弾丸のように飛び出した。
「――シェアッ!」
離れた距離を一息で詰めると、今度は先ほどとは比べ物にならないくらいの連打を打ち込む。
「シュウウウウウッ!」
複数のコンビネーションを多彩に組み合わせた、息も吐かせぬ攻撃が清水を襲う。
これだけの連打なら、いかな清水といえど全てを捌ききれるものではないだろうと、有り余る体力をフルに生かした力押し。これなら何発かはヒットするはずという作戦であった。
しかし瞬きする間も無いほどの乱れ打ちですら、清水は涼しい顔で全てを捌ききった。実際彼女は瞬き一つせず、限界まで細めた目は一ミリも動いていない。
逆に花火は目をいっぱいに見開いていた。まさか一発も当たらないとは。疲労のわりには成果はゼロ。何という費用対効果だ。無駄に体力を浪費した上に、自分の攻撃がまったく相手に通用しないという事が判明しただけだ。体力よりも精神的に疲労した。疲れはすぐに回復するが、心のダメージはそう簡単には回復してくれそうにないだろう。
荒くなった息を急いで整える。汗が額から頬へと伝うが、目の前の姉はけろりとしている。薄目で起きているのか寝ているのかも判らないくせに、どんなに速い攻撃にも即座に反応する。姉は本当は人間じゃなく、中身は機械なんじゃないのだろうかと思った。
観客も最初は花火の凄まじい攻撃に沸いていたが、徐々に潮が引くように静かになった。
彼女らにも解かったのだろう。
レヴェルが違う――と。
このまま何時間続けても、花火の攻撃は清水にかすりもしない。そんな圧倒的な実力の差を感じてしまっていた。
これではまるで大人と子供。黒帯と白帯。玄人と素人。もう何をどう言い換えても、力の差は歴然としていた。それこそ、誰の目にも明らかに。
額を幾筋もの汗が伝う。この汗が暑いからなのか、それとも冷や汗なのか、花火にはもう判別がつかなくなっていた。どちらにしろ自分が勝てない事に変わりはないが、せめて一撃くらいは当てたい。あの小憎らしい薄目を一杯に開かせてやりたい。
花火は僅かばかり残った戦意を奮い立たせ、額の汗を乱暴に袖で拭った。
◆
ぼんやりと、辛うじて花火の輪郭が見える。
表情は見えなくても判る。たいそう血の気が引いているだろう。メガネをかけていれば、それを目に焼き付けてしばらく愉しめるのだが残念だ。
清水はこういう時、近眼が煩わしかった。相手の怯えた表情を――実力差に愕然とし、それがやがて絶望に変わり行く様をはっきりと見ることができないのが実に口惜しい。
かといってコンタクトレンズにはしたくなかった。自分の体内に異物を挿入する事に、抵抗があるからだ。決して痛いからとか怖いからというわけではない。自分の中に何かを挿れると、穢れるような気がするのだ。
――それは、性交も同じだ。
自身に男を受け入れる事など、清水には想像もしたくない事である。そんな事をするくらいなら、一生処女のままでいいと思っている。いずれ五行院家を継いで、お家存続のために結婚する事になろうとも、それだけはどうしても耐えられない。子供など養子をとればいい話だ。血など繋がる必要はない。
なまじ血が繋がっているから、だからこそ許せない事が生じる。
自分に金光の血が流れているという事は、もうどうやっても変えようがない。動脈を切り裂いて血を全部流したとしても、自分があの男の娘だという事実は変わらない。例え死んでも、それは変わらない。
なぜ自分は、人は、生き物は、男と女が交わらなければ子孫を残せないのだろう。
初めて保健体育の授業で性教育を受けた時、クラスメイトたちは赤面しながらも、いつか体験するであろう赤裸々な行為に思いを馳せていた。だが自分はおぞましくて吐き気がするだけだった。
それから清水は、自分の中に別のものが這入る事が嫌いになった。それが誰であれ何であろうと、自分の認識する空間に異物が這入るのが我慢できない。許可なく浸入するものは、全て排除するようになった。
成長するにつれ、清水の周りに張った見えない壁はさらに強化され、遂には自身の周りに領域を形成するようになった。今では何かが領域を侵そうとすると、見なくても自然に体が反応する。
完璧な察知と完全な防御。それはまるで、神話に出てくるイージスの盾。絶対防御の領域を、彼女は自然と手に入れたのだ。
体が自動的に攻撃をかわし、手足が盾となって弾く。花火を敵と認識している今、どれだけ速く鋭く打ち込もうが、フェイントを駆使しようが関係ない。侵入者は全て排除する。それが彼女の性質なのだ。
鉄壁の防御の前に、花火は成す術もない。息をもつかせぬ連打は徒労に終わり、無様に息を切らせている。こちらはまだまだ余裕綽々。本気になるどころか、その気にすらならない。
期待はずれもいいところだ。あれほど大見得を切ったというのに、何だこの体たらくは。人の楽しみを邪魔しておいて、その代わりがこれではあまりに割が合わない。
まあいい。楽しみは後にとっておく方が、喜びも倍になるというものだ。焦らされるのも時にはいいだろう。
――だが、そろそろ飽きた。よく考えたら焦らすのは好きだが、焦らされるのは好きじゃない。
ふう、と清水は溜め息を一つ吐く。
ふうふうと肩で息をしている花火は、突然清水の様子が変化した事に気づき、警戒を強める。
攻撃が来る気配を察し、重心を落とし身構える花火。だが清水はそんな事にはお構いなしに、無造作に前に踏み出す。まったく予備動作を見せなかったにも関わらず、花火はカウンターを仕掛けてきた。
いい反応だ――清水は少しだけ妹を見直し、
「本当に花火は救いようのないおバカさんね」
これでもかというくらい貶す。
そして花火は宙を舞った。
◆
空気が熱く震えている。
マコトは屋上の柵に寄りかかりながら、沸き起こる大歓声でびりびりと震えている体育館をぼんやりと眺めていた。
エキジビジョンはどうなっただろうか。出ないと決め、道着すら持って来なかったにも関わらず、その事が気になって仕方がなかった。
きい、と金属が軋む音がし、誰かが屋上にやってきた。
「主役が着替えもせずに、こんな所で油を売っていていいのか?」
やってきたのが体育教師の笹島だというのは、声だけで判った。振り返るのも面倒臭いマコトは、虚ろな目を体育館から動かしもしない。
「何だあ? 覇気の欠片もないじゃないか。そんなんじゃ、あの生徒会長に勝てないぞ」
ビーチサンダルをぺたぺた鳴らしながら、笹島はマコトの隣に立つ。
「俺は出ねえよ。だから道着も持ってきてねえ」
遠くを見ながら言うと、笹島は大して驚きもせずに「そうか」と答えた。
「それだけかよ?」
「君がそう決めたのなら、あたしがとやかく言う権利はない。それとも何か言って欲しかったのか?」
以前美土里に言った台詞を返され、マコトは決まりが悪そうな顔をする。隣に顔を向けると、笹島の意外な姿が目に入った。
「ん? どうした?」
「今日は水着じゃないんだな」
「あれは水泳の授業だから着ていただけだ。それに校内を水着でうろつくほど、あたしは破廉恥ではない。それとも水着じゃなくてがっかりしたかね?」
「んなワケあるか」
笹島は空手の道着を着ていた。長身の彼女が黒帯を締めた姿は実に凛々しい。これで足元がピンクのビーチサンダルじゃなければ貫禄があったのだが。
「それで、俺に何か用か?」
「うむ。見ての通り、あたしは空手部の顧問でね。それで部長から頼まれ事をされてキミを探していたのだ」
「俺を?」
空手部の部長と言えば、たしか委員長が前にそんな事を言っていたような気がする。彼女から頼まれ事とは、いったい何だろうか。
「君を足止めして欲しいとの事だったが……それはもう必要なくなったな」
「足止め? 何だそりゃ?」
「実はね――」
その時、体育館がこれまでとは比べ物にならないほど沸く。恐らくエキジビジョンが始まる時間になったのだろう。肝心のマコトが不在で、観客が盛大なブーイングでもしているのか。いや、違う。これは何かを期待するような歓喜の声だ。
「ああ、もう始まってるみたいだね」
「おい、いったい何がどうなってるんだ? 俺が居なくちゃ試合もクソもねえだろ。なのになぜこんなに盛り上がってるんだ?」
笹島はゆっくりと体育館を指差す。
「君の代わりに彼女が舞台に上がっているからさ。君が知ったら止められると思ったんだろうね。だからあたしが足止めに来たんだが……」
笹島の指の先で、また歓声が上がる。それは、マコトの代わりに花火が清水と闘うのが決定したのを表している。
「どうしてあいつが俺の代わりに闘うんだよ! あいつは関係ないだろ!」
「関係なくはないよ。あの子はあの子の理由で闘うと決めたんだ。そして君は君の理由で闘わないと決めた。あたしはどちらにも反対してない」
勿論賛成もしてないがね、と笹島は体育館に向けた指を下ろす。
花火が言っていた『自分にできる事』というのが、マコトの代わりに清水と闘う事なのだろう。彼女が考えに考え抜いた末に出した結論なら、笹島もマコトも口を出す事はできない。それに、舞台から降りた彼にはその権利すらありはしない。
「だが生徒会長は強いよ。きっとあの子じゃ手も足も出ないだろうね」
「……あんた、それを知っててあいつを止めなかったのかよ?」
「止める? 馬鹿を言っちゃいけないよ。闘うべき時に闘おうとしている者を、どうして止める必要がある。あの子は今、あそこで闘わなくちゃいけないと決めたんだ。たとえ負ける事になっても、それでもやると決めたんだ。やるべき時にやるべき事をやる――当然の事じゃないか」
「けどよ…………」
「他人の事より、君はいったいここで何をしているんだい?」
「お、俺は…………」
「いやいや、闘わない事を責めているのではないよ。闘うべき時があるように、逃げるべき時があるのも事実だからね。しかしながら、君はそのどちらも選んでいない。これはいったいどういう事かな? 逃げるでもなく、闘うでもなく、ただ時間が経つのを待っているのかい? 時がすべてを解決してくれると期待しているのかい?」
「俺は……もう自分の通す我が誰かを傷つけるのは厭なんだ。ここを出て行くまで大人しくしていれば、もう誰も傷つかなくて済むんだよ!」
マコトは両の拳を振り上げ、柵を思い切り殴る。屋上の柵が激しく震えたが、笹島は表情一つ変えずに黙って柵に寄りかかっていた。
「それは違うな。君が自分の我を通さなくても、誰かが傷つくのは変わらない。君自身がそうしなくても、君に向けられた誰かの我が他人を傷つける事もあるんだよ」
現に今、マコトに向けられた清水の我が花火を傷つけようとしている。彼が身を引いたところで、事態は何も変わらないのだ。
「人の我というものは、どうしても誰かを傷つけるものなんだよ。けどどうせ通さなければならない我なら、誰かのためになる道を通してやったほうがいいんじゃないのかい?」
「そんな都合のいい道があるのか?」
笹島は「さあ?」、と肩をすくめる。
「あるかもしれないし、そんなものはないのかもしれない。けどあたしが言えるのは、今君がここでこうしていても、結局誰も救えないどころか、君自身も傷つくだけだという事だね」
このままではバッドエンド一直線。清水は花火を返り討ちにし、マコトは臆病者の謗りを受けながら編入期間を終える。そして共学化はうやむやになり、すべては清水の望みどおりとなる。木葉と清水の母子間はますます泥沼と化し、美土里はさらに悲しむ――そんな未来がいとも簡単に想像できた。あまりにリアルな想像で怖いくらいだ。
「おや、静かになったようだね。もう終わっちゃったかな?」
いつの間にか、あれだけ騒がしかった場内がしんと静まり返っていた。終わったという事は、決着がついたという事だろう。
「くそっ……!」
「待った!」
駆け出そうとしたマコトの腕を、笹島が掴んで止める。
「今さら君が行ってどうする?」
笹島の腕に力が入る。女性とは思えない握力に、マコトは彼女の腕を振り解けなかった。いや、それ以前に彼女の言葉が突き刺さり、振りほどこうという気にすらならなかった。
「中途半端な気持ちで行ったところで、君には何もできない。それどころか、事を悪くするかもしれない。それでも君は行くのかい?」
握られた腕に痛みが走る。さして力を入れていないように見えて、まるで万力で締め付けられているように腕の骨が軋む。空手部顧問というのは伊達ではないらしい。
「たしかに、何もできないかもしれない……」
マコトの腕に力が篭り、掴まれた腕を徐々に引き剥がしていく。笹島は歯を食いしばり、さらに強く腕を掴む。だがそれ以上の力で彼女の腕を振りほどいた。
「だが行かなくちゃならない。俺は今、あそこに行くべきなんだ!」
拳を握りしめ、マコトは叫ぶ。ついさっきまで死んだ魚のようだった目には、今は一歩も引かない硬い決意がたぎっている。
「行くべきか……。君がそう思うのなら、止めるのは野暮ってものだね」
笹島は小さな溜め息を漏らすと、マコトを追い越して駆け出した。
「急ごう。近道を案内するから遅れるなよ」
「お、おう!」
前を走る笹島を追い、マコトも走り出す。
笹島は、ビーチンサンダルを履いているとは思えない速度で、階段を駆け下りていった。
◆
マコトと笹島が体育館に到着すると、すでに会場は静寂に包まれていた。観客は誰一人声を上げず、じっと壇上に目を奪われている。
試合が終わったのか――そう思ってマコトは演武壇へと視線を向ける。
そこには、だらしなく体を地面に投げ出して、気を失っている花火の姿があった。
壇上のほぼ中央に、壊れた人形のように打ち捨てられている彼女を見つけ、マコトは言葉を失う。
水を打ったように静まり返った場内は、観客たちがどのような惨劇をその目にしたのかを表していた。
「くっ……!」
すぐさまマコトは花火の許へ駆け寄った。
抱き起こそうとした手が止まる。花火が外傷の少なさに比べ、鼻血を流して気を失っているのに気がついたからだ。投げられて頭を強打している可能性がある。
演武壇は畳やマットのようなものを敷かず、板張りのままである。そんな固い床に叩きつけられたのだとしたら、無闇に動かさない方がいい。
素早くそう判断し、花火の体を揺らさないように気遣いながら声をかける。
「おい、しっかりしろ」
「う……うう……」
傷が痛むのか、花火が苦しそうに唸る。
「誰か、担架だ。早くしろ!」
笹島が執行部らしき生徒に向かって大声で叫ぶ。呆然としていた女生徒は、笹島がもう一度叫ぶと我に返り、慌てて他の係員を連れて保健室へと走る。
その間にマコトが何度か問いかけると、花火の目がゆっくりと開いた。
どうやら相当強い衝撃を受けたようだ。マコトの姿を捉えようとするが、弱々しい瞳は落ち着かず痙攣している。
「あ、キミか……。やっぱりボクじゃ、歯が立たなかったよ……」
「馬鹿、動くな。いいからじっとしてろ!」
体を起こそうとするのを慌てて止める。花火はなお起き上がろうとするが、体に力がまったく入らないのか、首を上げる事もできない。何とか顔だけこちらに向けるが、傷の痛みに短く呻く。
「無茶するな、もうすぐ担架が来る。それまで大人しくしてろ」
「じゃあ……あまり時間が無いね……」
喋りながら何度も歯を食いしばる花火。痛みでまた失神しそうになるのを、懸命に耐えているようだ。マコトは喋るのをやめさせようと思ったが、必死で自分に何かを伝えようとする彼女の姿に黙って頷いた。
「きよ姉の防御は……完璧だよ。下手に攻撃したら、はは……このありさま」
花火が苦しそうに喘ぐ。一言発するたびに、全身が電気が流れたように痙攣する。呼吸も荒くなり、意識を繋ぎとめるだけで精一杯という感じだ。
駆けつけた保健医が、すぐさま花火の容態を調べる。ペンライトで瞳孔を調べられている間も、彼女はうわ言のように途切れ途切れ話している。
「悔しいなあ……勝てるとは思ってなかったけど、せめて一撃くらいは……」
保健医の指示で、花火の体がそっと担架の上に乗せられる。
「カッコ悪いね……。結局自分じゃ何もできなかった。何も、変えられなかった――」
「いいから喋るな、花火。後は俺に任せてゆっくり休んでいろ。お前の代わりにあいつをぶっ飛ばしてやる!」
マコトが花火に向けて、拳を固く握り締める。花火はほとんど意識を失いかけていたが、痛みにしかめた顔をそっとほころばせた。
「あは……やっと名前で呼んでくれたね」
「馬鹿野郎。こんな時に何言ってんだ」
花火を乗せた担架がそっと持ち上がる。搬送される前に、マコトは彼女の鼻血を指で拭ってやった。
担架がマコトの横を通り過ぎようとした時、花火は朦朧としたまま震える手で彼の手を握った。
「お、お願い……きよ姉を止めてあげて」
「応よ!」
弱々しい手を、マコトは力強く握り返す。
頼もしい返事に、花火はにっこりと微笑みながら気を失った。
「急いで保健室に。それと救急車を呼んで」
保健医が執行部員に指示を出す。担架が体育館から出て行くと、マコトはそれまで傍観を決め込んでいた清水をぎろりと睨んだ。
「妹相手に容赦ねえじゃねえか。それでも姉ちゃんかよ?」
「あの子が私の邪魔をするから悪いのよ。それに、闘いに姉も妹もないわ」
皮肉も通用しない。腹立たしいくらい不遜な態度に、マコトの怒りが沸点に到達する。
「上等だ。今すぐぶっ飛ばしてやるから、覚悟しろよ」
「あら怖い。でも残念ね。貴方は舞台には上がれないわ」
「何だと?」
「貴方も武道家の端くれなら解かるでしょ? そんな格好で上がられちゃ、神聖な演武壇が穢れるというもの。道着を着ていない者に、ここに上がる資格はないのよ」
「…………っ!」
「あら、道着を忘れてきたのかしら? 残念ね。それじゃあ貴方はここには上がれないわ」
「クソ…………」
清水の指摘にマコトは牙を鳴らす。学生服のままでは、闘う事はおろか舞台に上がる事すらできない。この時になって、道着を持って来なかった事を激しく後悔した。
「貴方にはもう、私と闘う権利すらないのよ。つまり不戦敗ね。闘って負け犬にすらなれないなんて、貴方にはお似合いの結末だわ」
高らかに木霊する清水の嘲笑は、突如沸きあがった観客の悲鳴にも似た嬌声にかき消された。
「な、何?」
壇上の清水に動揺が走る。
「道着ならここにある!」
清水と観客の視線が一点に集まる。そこには、自分の道着を脱いでシャツと下着姿になった笹島が立っていた。
「あたしの道着を貸そう。これなら文句はあるまい」
く、と清水は歯噛みする。まさかこの学園にあの男に味方する者が、しかも教師の中にいるとは予想していなかっただろう。
「あ、あんた…………」
「いいから、早く君の服を貸してくれないか? 女しかいないとは言え、さすがに公衆の面前で下着一枚というのはいささか恥ずかしいのだよ」
にやりと笑うと、笹島は道着を手渡す。マコトは道着とともに、彼女の期待や応援を一緒に受け取ったような気がした。
笹島は何も言わない。だが眼がはっきりと語っている。
今が、闘うべき時だと。
「あんた、男前過ぎるぜ」
「馬鹿者。それを言うならいい女、だろうが」
「自分で言うな。だがこいつはありがたく借りとくぜ!」
そう言うとマコトは素早く上着を脱ぎ、笹島の肩にかけた。
「さあ、始めようか!」
審判が二人を中央に並ばせると、それまで静まり返っていた会場にもう一度火が入る。
両者の礼が終わり開始の合図が入ると、一段と歓声が大きくなった。
マコトは両腕を顔の高さまで持ち上げて構える。
だが清水はすぐには構えない。まるでマコトの事など眼中に無く、顔を上げて天を仰ぐようにしている。
両手を開き、歓声を一身に浴びる。
この舞台、この大歓声。今この瞬間の全てが自分のためにあるというような、恍惚とした表情。
「さあ、全部終わらせるわよ」
清水の呟きは、観客の大声にかき消された。
ここでようやく清水が構えを見せる。
次の瞬間、マコトは解き放たれた獣の如く駆け出した。
清水は嗤っていた。