手遅れという事に気づいた
手遅れという事に気づいた
◆
それから三日間は、何事もなく平穏に過ぎていった。
マコトはクラスメイトの敵意が若干減り、幾分過ごし易くなっていたにも関わらず、覇気がなかった。
花火は豊富なコネクションを駆使し、宣言通り二日で残った教科のノートを集めた。今度はコピー機の操作をマコトがやると、最初にやった時の半分以下の時間で終わり、花火を苦笑させた。
美土里はマコトとの決闘の日から、部活を休んでいた。練習用の刀を修繕に出していたからでもあるが、それとは別に理由もあった。
刀に頼らない強さを、手に入れたかったからだ。
もともと美土里は、武道に向いているわけでも興味があったわけでもない。ただ清水に勧められただけだ。
『〝剣道三倍段〟って、なんかお得じゃない? 相手の三分の一の実力で勝てるのよ? それに道具を使うなら、花火みたいに手足がごつごつしなくて済むし』
とは清水の談である。
どうも何かを曲解している感はあるが、美土里は姉が勧めるならと、居合道部に入部した。本心では清水と同じ合気柔術をやりたかったのだが、姉が喜んでいたのでそれで良しとした。
「我が家は日本の武道一色ね」
と、母も少し喜んでいた。ちなみに木葉は柔道と空手と剣道の段位を持っていて、美土里は母の多才ぶりに驚かされたものだ。
居合いなど自分にできるかと心配だったものの、始めてみれば案外向いていたようで、美土里は見る見る上達していった。清水も勧めた甲斐があったと喜んでくれ、その笑顔見たさに練習にも熱が入った。段位をとった時は、家族でお祝いもしてくれた。美土里の大事な思い出の一つだ。
清水は相変わらずかりかりしていたが、木葉と衝突する事は少なくなった。どうやら今はそれどころではないらしい。何か別の事に気をとられているようで、静かなのはいいがそれが反って不気味だった。
泰平はあれ以来マコトに何も言ってこず、マコトもそれを納得していた。答えは自分で見つけるものだと思っていたので、ずっと黙考していた。だからこの三日間の天下家は、紅葉の葬儀以来の静けさだったのでご近所を不安にさせた。一度、巡回の警官が様子を見に来た。
◆
日曜の午後。自室で勉強していた清水は、あまりはかどらない手を一旦止めて、少し休憩する事にした。
ノートも教科書も開いてはいたが、どうしても別の事を考えてしまう。集中しようとしても、脳の大半が勉強ではない作業をするのを止められない。結果的に机に向かっていただけだった。
それに、身のない思案だった。名案が出るどころか、堂々巡りの繰り返しだ。思考はメビウスの輪となって捻れ、進んだと思ったらいつの間にか元の位置に戻っている。そのうち何を考えていたのかすら希薄になっていた。
「ふう…………」
清水はメガネを外し、目の間を指で強く揉みほぐす。
ん~、と腕を上げて大きく伸びをすると、椅子の背もたれがキシンと鳴いた。
「お茶でも淹れるようかな」
メガネをかけ直し、椅子から立ち上がる。使用人を呼んでも良かったが、気分転換も兼ねてたまには自分で淹れる事にした。それに今日は日曜日。雑用を増やすのも可哀相だ。
部屋を出て、一階の厨房へと向かう。
長い廊下にずらりと並んだ窓の外は、一足お先に夏の風景だった。真上から少しだけずれた太陽からは強烈な陽射しが注ぎ、庭木たちがきらきらと輝いている。
もうすぐ蝉が鳴くだろう。そうなると五月蝿くなるのだが、夕暮れに鳴くひぐらしは情緒があって好きだった。それに、一週間だけしか生きられないという儚さがまた良い。限りある命を懸命に生きる、生を謳歌する声だと思えば、あの蝉時雨もまた趣き深いと感じられる。
「蝉時雨、儚き声に――」
清水は一句詠もうとしたが、後が続かなかったのでやめた。
清水は知らなかった。蝉の一生が一週間というのは間違った通説で、幼虫の時期に七年も土の中で暮らし、成虫でも長いもので一ヶ月は生きるという事を。足せば七年と一ヶ月。ぶっちぎりで長寿の部類に入る昆虫である。
階段を降りている途中、玄関で女中が応対しているのが見えた。近づくと、中年の男性が何か長い包みを彼女に預けていた。
さら近づくと話し声が聞こえる。男性が柄巻を交換しただの、腰は伸びていないから打ち直しの必要はないだの、細々とした説明を女中に言伝ている。彼女はそれらを理解しているのか、丁寧に説明一つ一つにはい、と相槌を打っている。
「目釘は新しい物と交換してありますので、茎を見る時は気をつけて抜いて下さい。では御免くださいませ」
「解かりました。どうもご苦労様です」
男は女中に一礼すると、軽バンに乗り込んで帰って行った。
車体には〝高橋武具店〟と書いてあった。格闘技系クラブの生徒御用達の、大きな店である。清水もそこで袴を買った覚えがあった。
「あ、清水お嬢様」
女中は清水に気がつくと、無駄のない動きで振り返る。
年季が入った一流の動きだったが、ほんの僅かだけ動揺が見られた。彼女にしては珍しい、ほんの耳掻き一杯程度の狼狽。
「片岡、何か届け物かしら?」
清水は意味ありげに、女中の持っている包みを見ながら言う。包みの形状と業者から、想像はついていた。
片岡と呼ばれた女中は、左様でございます、とだけ答えた。誰に宛てたものなのか言わないところに、不審なものを感じる。清水はそれが美土里の刀だと気がついていたが、敢えてそ知らぬ顔をする。
「そう、誰にかしら?」
「それは……清水お嬢様ではございませんので、どうぞお気になさらずに」
なぜ隠そうとする。これは何かあるな、と察した清水は「美土里ね」と先手を打った。
三秒ほど沈黙した片岡は、「そのようでございます」とはっきりしない言い方をした。その反応が清水の猜疑心を刺激する。
清水は「あらそう」、と興味がないという返事をするが、内心では興味津々だった。片岡は古参の使用人で、誰かに付いているわけではないが、特に美土里を目にかけている。妹も彼女によく懐き、時々頼み事をしたり秘密を共有する仲だ。
「では、私はこれをお届けして参りますので。失礼いたします」
「お待ちなさい」
片岡が目礼して横を通り過ぎようとしたのを、清水はすかさず呼び止める。
「……何でございましょうか、清水お嬢様」
片岡は顔だけで振り返る。自然な素振りで隠してはいるが、明らかに清水に包みを見せまいとしていた。
清水は最初、片岡を困らせて遊ぼうという軽い気持ちだった。この老獪な女中が困るのを見てみたいという、ほんの気まぐれはすでに達成されていたが、目的はすでに別の方向に進んでいた。今や初心は忘却され、美土里と片岡が自分に何か隠しているのを暴きたい、という欲求に変わっている。
「それ、私が届けてあげるわ。お寄こしなさい」
手を差し出して包みを受け取ろうとすると、片岡の表情が僅かに固くなった。明らかに困惑している。逡巡する彼女を見て、清水は心の中でほくそ笑んだ。
「恐れ入りますが、これは私の仕事でございます。お嬢様に、そんなお手数をかけさせる事はできません」
「いいのよ。たまには私だってそれくらいはするわ。貴方もここはいいから、他の仕事をなさい」
あくまで職務に忠実たろうという姿勢の片岡。しかし清水は食い下がった。食らいついて離れなかった、と言った方が正しいやもしれない。
頑なに包みを渡さない片岡の態度は、清水の不審をさらに強くする。いつもならそろそろ「わかりました。ではお願いいたします」と折れる頃合なのに、彼女は不自然なまでに包みを渡さなかった。よほど清水の手に渡るとまずいのだろう。
清水はまず、美土里がまた無駄遣いをしたのだと思っていたが、業者の会話からそうではないと判断した。益々真相を究明したくなる。
「いいから寄こしなさい。これは命令です」
とうとう清水が最終兵器を持ち出すと、片岡はそれ以上抵抗できなくなった。名残惜しそうに包みを渡す顔には、大事な何かを守りきれなかった無念のようなものが浮かんでいる。
(これで証拠は掴んだわ。この私に隠し事をしようだなんて十年早いのよ。さて、いったい何を隠しているのか、ちょっと楽しみね)
などと腹の中でほくそ笑みながらも一切顔に出さず、清水は片岡から包みを受け取ろうと手を伸ばした。
「待って」
しかし突然かけられた声に、清水の手が止まる。声のした方を振り向くと、花火がいつになく真剣な面持ちで立っていた。
「それ、ボクが美土里に届けてあげる」
そう言ってつかつかと近づくと、片岡の手から包みをひったくった。
「ちょっと花火、横からしゃしゃり出てこないでくれる? これは私があの子に届けてあげるんだから、貴方は引っ込んでて」
せっかく掴んだ証拠だ。これを使って妹を問い詰めて遊ぶのに、それを横から掻っ攫われてなるものか。清水はきっと花火を睨むが、妹はそれ以上の眼力で睨み返してきた。
「引っ込んでるのはきよ姉のほうだよ。これ以上美土里を苛めないで」
凍りつくよう声で言い放つと、花火は包みを持って階段を上がって行った。普段からは想像もつかないような態度に、清水はそれ以上何も言えずに妹の背中を見送る。
「な、何よ、あの子……」
初めて妹に迫力負けした。あの気迫はいったい何だったのだろう。これまではいくら清水が美土里をからかって遊んでも、「まあまあきよ姉、その辺でやめてあげなよ」くらいしか言わなかったのに。いつからあんなに妹思いになったのか。いや、妹同士仲が良いのは結構なのだが、自分だけが悪者のようにされて仲間外れなのが気に入らない。
同じ家族なのに、自分の家なのにこの感覚は何だ。清水は奇妙な疎外感に襲われ、思わず爪を噛む。沸々とやり場のない怒りが込み上げるが、果たしてこれをどこにぶつければ良いのやら。
考えるまでもない。こういう鬱憤をぶつける格好の相手が、今はいるではないか。清水は噛んでいた爪を口から離すと、にたりと笑って自室に戻って行った。もうお茶の事などどうでも良かった。彼女の頭の中は、如何にしてあの男にこの怒りをぶつけるか、それだけだった。
◆
ベッドの上で膝を抱えてうずくまっていた美土里は、ノックの音で顔を上げた。
「美土里、いるの?」
「あ、うん……ちょっと待って」
花火の声に、美土里は慌ててベッドの縁に座りなおす。
「……どうぞ」
美土里が返事をすると、花火が扉を開けて入って来た。
何の用かと思ったが、花火が自分の部屋に来るのはよくある事だったので歓迎した。
だが姉が持っている細長い包みを見て、心臓が飛び出しそうになる。花火の手には、密かに修繕に出していた愛用の刀が握られていたからだ。
「……花火お姉ちゃん、どうしたの?」
とりあえず平静を装ってみる。常態で小さい声が、今はさらに小さかった。花火は後ろ手でドアを閉めると、真剣な表情でベッドに近づいて来る。
「これ、美土里のだよね?」
目の前に包みを突き付けられるが、美土里は何も答えない。家族に内緒で修繕に出していたのは、その理由を訊かれるのを恐れたからだ。マコトに斬りかかったのを責められるのはいい。覚悟していた事だ。だが何故そうしたかと問われれば、家族が傷ついてしまう。それだけは避けたかった。
だんまりを決め込んでいると、花火が隣に座ってきた。触れた肩から伝わる姉の体温に、美土里の鼓動が早くなる。
花火はそっと美土里の頭を抱くと、
「ごめんね……」
と小さな声で呟いた。
叱られると覚悟していたのに謝られ、美土里は目を丸くする。姉の胸に抱かれながら困惑していると、不意に冷たい雫が美土里の髪を濡らした。
顔を上げると、花火が泣いていた。
「ごめんね、美土里……ごめんね……」
姉の涙に、美土里はますます混乱する。
「一人で悩まないで。ボクももう目を反らさないから……一緒に家族を守るから……」
そう言って美土里の頭から腕を離すと、持っていた包みを差し出す。
「はい、大事な刀でしょ。もうあんな馬鹿な真似、しないでね」
その一言で美土里はすべてを理解した。
花火は見ていたのだ。
そして一緒に家族を守ろうと言ってくれた。
それだけで美土里は救われたような気がした。
「全部、ボクたちのためにやってくれたんだよね?」
美土里は目に涙をいっぱい溜めて小さく頷く。
「内緒にしてたのは、家族が誰も傷つかないようにしてくれたんだね?」
またこくりと下がる妹の頭に、花火はそっと手を置いた。細く柔らかな髪を優しく撫でる。
「でもね、それは間違いなんだよ。他の誰かを傷つけて解決しても、それは本当に間違いを正した事にはならないの。もし誰かが傷つかないといけないのなら、それはボクたち自身、家族みんなが背負わなくちゃならない痛みなんだと思う」
「……でも、あたしはお母さんも、お姉ちゃんたちも傷ついて欲しくない……」
美土里が再び俯くと、花火は妹の髪を撫でていた手を離し、今にもこぼれそうな涙を指で拭う。
「……そうだね。ボクだってそうだよ。だからね、一緒に考えよう。家族が誰も傷つかないで、みんなが笑っていたあの頃に帰る方法を」
「……うん」
小さい、だが力強い声で美土里は頷く。
微笑んだ顔には、もう涙はなかった。
姉も笑っていた。
◆
「エキジビジョン?」
明けて月曜日の放課後。
理事長室に、木葉の僅かに裏返った声が響いた。
木葉の目の前には、清水が生徒会長として立っている。珍しくない光景だが、予定された行事以外の用件で彼女が自ら足を運んだ事は、これが初めてだった。
木葉は少し驚いたが、清水が口にした内容は彼女をもっと驚かせた。
「ええ。せっかく他校から学生を招いたのですから、もっと親睦を深めるために何かイベントを催したいと思います」
清水はやり手のビジネスマンがプレゼンするように言う。
「そうね……、それも悪くないわね……」
木葉は娘の真意が読めず、この提案をどういうふうに受け止めれば良いか考えあぐねる。
「具体案はすでにできています。この学園のモットーである文武両道をより理解していただくために、私と彼で組み手を執り行います。組み手と言ってもあくまでエキジビジョンですから、お遊びのようなものです」
「でも、本人が了承するかしら?」
「彼が武道を嗜んでいるという事は、既に調査済みです。交渉はこれから私がしますが、仮にも武道家なら、こういう手合わせは望むところと思うでしょう。腕に覚えがあるなら尚更に。そして武道家が解かり合うには、拳を交えるのが最も手っ取り早い方法です」
木葉は口を差し挟む事ができない。それだけ清水のプランに隙が無いからだ。鉄壁の理論に裏打ちされた彼女の企画案には、木葉ですら納得せざるを得ない。何しろ表面上は、清水の言う事は間違いではないのだから。
清水が何を企んでいるのか、それを見逃すまいと木葉は目を見張り耳を澄ます。
「……解かったわ。じゃあ生徒会主催という名目で、あなたが仕切りなさい。提議書や許可申請書などの必要書類は、できるだけ早く私に提出してね。学園としてもできる限り協力するから」
最終的に木葉は、娘が共学化に協力しようとしているのだろうと好意的に受け止めた。しかしそれは表向きである。
「解かりました、一両日中に提出できるよう努力します。では失礼します」
清水は一礼の後、にっこりと微笑む。もうどれくらい前に見たか忘れそうになった笑顔。木葉は胸がいっぱいになり、思わず感極まりそうになった。
そんな母の様子をよそに、清水は悠々と理事長室から出て行った。
扉が閉まるのを見送ると、木葉はすぐに電話をとった。内線ではなく、外部通話のボタンと短縮を押し、受話器を耳に当てて待つ事しばし。
「あ、もしもし……木葉です」
肩書きなどを一切告げず、ただ名前だけ名乗る。
「……動きました。はい、そちらの予想通りです。ですがまだ……はい、詳しい事が決まりましたら、またこちらから連絡いたします。では……」
木葉は受話器を置くと、ふう、と大きく息をついて椅子に倒れこんだ。
デスクにある写真立てを手にする。幼い清水の笑顔がそこにあった。
だが、成長したせいか記憶違いなのか、写真の笑顔とさっきの笑顔では、何かが決定的に違うような気がする。
楽しそう――嬉しそう――あれはそういう笑顔だったろうか。
まあいいか。久々に見た娘の笑顔でお腹一杯な木葉は、もう余計な事を考えるのをやめた。
だから気がつく事はなかった。清水の笑顔の仮面の下に隠された、邪な企みに。
あれは例えるなら、詐欺師の笑顔だった。
◆
火曜日の昼休み。
教室の隅で、朝コンビニで買って来たカレーパンの袋を剥いていたマコトは、校内放送のアナウンスでその手を止めた。
『天下一さん、天下一さん。至急、生徒会室まで来てください。繰り返します――』
一斉に教室にいるクラスメイト達がマコトの方を向く。〝何をやらかしたんだコイツ〟という眼だ。だが当の本人はまったく心当たりがなく、思案する事と言えばカレーパンを食べてから行くべきかどうか、という事だけだった。
至急という事は急ぎの用なのだろうと、マコトは噛むのもそこそこにカレーパンを二口で胃に押し込む。
強烈なバキュームでパックのコーヒー牛乳を一気飲みしていると、花火が怪訝そうな顔で詰め寄って来た。
「ねえキミ、さっきの呼び出しってどういう事?」
野次馬根性ではなく、真剣に何かを危惧しているようだ。生徒会から呼び出しを喰らうというのは、やはりどこの学校でもただ事ではないのだろう。
「いや、さっぱり心当たりがない」
昼食のゴミをひとまとめにしながら、マコトは正直な感想を言う。そう言われてもないものはない。編入に際しての書類に不備があったのだろうか。だがそれにしては今さらな気がする。
「そう……、けど何か嫌な予感がするわ。キミも覚悟はしておいたほうがいいかもしれないよ」
そこまで大げさな事だろうかと思いながら、マコトはゴミを入れたコンビニ袋の口を縛る。何の用かは知らないが、とにかく行ってみれば分かる事だ。あまり待たせるのも悪いので、そろそろ行かねばならない。
「ところで――」
と席を立つ。
「生徒会室ってどこにあるんだ?」
その言葉を聞いた花火は、悪戯っ子のような笑顔を浮かべて言った。
「じゃあ案内してあげるよ」
◆
メタルラックにぎっしりと詰められたファイルの数々。だがそれらは全てカテゴリー別、五十音順にきちんと並んでいる。
生徒会室の整然とした、秩序ある空間が清水は好きだ。勿論自室の整理や掃除も欠かさない。きちんとさんな彼女は、乱雑とか無秩序という言葉とは無縁の存在だった。
〝綱紀粛正〟と書かれた湯呑みをそっと手に持つ。濃い緑茶を啜ると、メガネのレンズが曇った。この暑い日に茶というのもアレだが、暑い時こそ熱い飲み物がいいと彼女は思っている。
曇るレンズに少し煩わしさを感じていると、扉をノックする音が聞こえた。すかさずメガネを外してから、落ち着いた声で入室を促す。
入って来たのはマコトだった。彼はなぜ自分が呼び出されたのか、見当もつかないという感じだった。
それも当然だろう。別に彼でなくても他の誰でもいいのだ。この学園に編入して来た男子というだけで、理由としては十分である。つまり存在自体が罪であり悪という、本人が知ったら憤慨しそうな理由であった。
マコトは無言で清水の座っている机の前に立った。物怖じも緊張も無い、堂々とした立ち方だ。普通の生徒が職員室や生徒会室に入ったら、少なからず萎縮する。なかなか度胸があると清水は思ったが、別に感心はしなかった。
「私が生徒会長の五行院清水です」
まさかあの時の少女が理事長の娘で生徒会長だったとは――そう驚く事を期待したが、やはりマコトは無表情だった。自分の正体を知っても顔色一つ変えないとは、よほど肝が据わっているに違いない。これには清水も感心した。
「さて……」
清水は机の上で指を組み、話を切り出した。
「単刀直入に言いいます。私と勝負しなさい」
いきなりの宣戦布告。清水の中で、勝負はすでに始まっている。
突然の挑戦で先制攻撃したつもりだったが、相手は微動だにしていなかった。
マコトはフン、と鼻を鳴らすと、
「断る!」
と力一杯言い放った。
「え…………?」
意外だった。こうも見事に断るとは思ってもみなかった。さっきから続く予想外、予定外の出来事に、清水の作戦はぐだぐだになっている。
「話はそれだけか?」
ないのならもう用はないとばかりに、マコトは清水に背中を向ける。ここで帰られては意味がない。
「ちょっと待ちなさいよ!」
「まだ何かあるのか?」
「えっと、それは……」
咄嗟に良い台詞が思いつかない。すべてに計画を立て、それを予定通りにこなしてきた清水は、極端にアドリブに弱かった。
「じゃあ反対に訊くけど、どうして私と闘わないの?」
「簡単だ。勝負する理由が俺には無い」
「理由が必要?」
「少なくとも、納得できる程度のはな」
清水はちょっと悩んだ。ここで木葉にした表向きの理由を話してもいいが、それだと偏屈そうなマコトの事だ。『くだらん』の一言で一蹴してしまうかもしれない。ならここは直球勝負だ。
清水は机の上に肘をつき、絡めた両手の指の上に顎を置く。芝居がかった仕草だが、冷淡な彼女にはとても似つかわしいポーズだった。その姿は生徒会長というより、悪の組織の女幹部という名詞がぴったりくる。
「貴方になくても私にはあるのよ」
突如生徒会長という仮面を脱ぎ捨てた清水の態度に、マコトはわずかばかり意表を衝かれたようだ。無論、こういった反応も計算している。
「知ってるぜ。あんた、男嫌いなんだろ?」
いきなり核心を衝かれ、清水の顔にわずかな動揺が浮かぶ。だが自分の男嫌いはこの学園では有名な事だ。誰かが彼に忠告していたとしても不思議ではない。
「……へえ、知っているのなら話が早いわ。そう、私は男が嫌い。男なんて下劣で下衆で下等な生き物なんて、この世から消えて欲しいくらいよ。同じ部屋の空気を吸うのだって耐えられないくらいだわ」
「だから共学化なんてクソ喰らえってわけか。それで俺を追い出そうって魂胆だな」
「ええそうよ。だから一つ賭けをしない? もし貴方がこの私に勝てたのなら、この学園が共学化になって正式に編入する際に、特待生として迎え入れるように口を利いてあげる」
「そういやあんた、理事長の娘だったな」
「私が頼めば、それくらいの融通は利かせられるわ。どう? 貴方にとって悪い話じゃないでしょ?」
「そうだな。たしかに学費が免除になれば、家計も助かるな」
「それにこの学園のレヴェルなら、進学するにしても就職するにしても、色々と有利になるわよ」
「なるほど。それは魅力的だ」
にんまりと笑うマコトの貌に、清水は確かな手応えを感じる。
「だが俺が負けたらどうなるんだ? それだけ美味しい条件があるんだ。負けた時のペナルティくらい、当然あるんだろ?」
今度は清水がにやりと嗤う。
「ええ、勿論。貴方が私に負けた場合、その場で編入を辞退してもらうわ」
「そいつは困る。あんたには悪いが、俺はこの編入を辞退する気はないんでな」
「それなら話は簡単。私に勝てばいいのだから……ただし、勝てればの話だけど」
あえて見せる嘲笑に、マコトの片方の眉がぴくりと動く。清水の小憎らしいほどの自信に、武道家のプライドを刺激されたようだ。
もう一押しだ――清水は相手が餌に食いつきかけたのを感じ、一気に畳み掛ける。
「まあ、断ってもよろしいですけど、そうなると貴方にはとても不名誉な事になるでしょうね」
「どういう事だ?」
清水はこれまでの冷笑など、比べ物にならないほどの凍てついた眼でマコトを見る。
「恐れをなして逃げ出した臆病者、という情けないレッテルを貼られたまま、残りの編入期間を過ごしても構わないのなら、どうぞこの挑戦、断ってくれて結構よ」
そんな屈辱、耐えられるはずがない。男なんて皆、分不相応な無駄に高いプライドを持っているものだ。それを傷つけられれば、この学園にいられなくなり自分から辞めて行くに決まっている。
結局、彼がこの挑戦を受けようが断ろうが清水にとってどちらでも良いのだ。受ければ観衆の前で敗北という恥をかかせ、この学園に居られなくする。断ったら臆病者と罵り、屈辱を与え続けて自主的に学園から去るように仕向ける。どっちに転んでも目的は果たせる。
にたり、と清水は嗤う。
「どう? この挑戦、受けたほうが貴方のためになるとは思わない?」
人を罠にはめ、陥れる事を愉しむような歪んだ笑み。常人がこんな笑みを向けられたら、あまりのおぞましさと、自分が悪意ある罠にはめられているという恐怖で震え上がるだろう。
「フン、くだらねえ」
しかしマコトは鼻で笑った。予想外の反応だ。
「な、何がくだらないのよ?」
「てめえの都合につき合うほど、こっちはヒマじゃねえんだよ」
「何ですって…………」
「陰口を叩きたいのなら好きしな。どうせ俺は編入期間が終わったらここを出て行くんだ。痛くも痒くもねえぜ」
そう言うと、話は終わったとばかりに生徒会室から出て行った。
「あ、ちょっと……!」
清水が止める間もなく、扉が閉まる。話は完全に交渉決裂だ。
清水は思わず両手で力一杯机を叩いた。衝撃で湯飲みが床に落ち、粉々に砕ける。
「……まあいいわ、見てらっしゃい。必ず引きずり出してあげるから」
誰にともなく呟き、清水は真っ赤になった掌をそっとさすった。
◆
階段の踊り場の影で、花火は硬直していた。
マコトを生徒会室まで案内した彼女は、「それじゃね」と手を振って去った後、猛然とダッシュして戻って来たのだ。
そのまま扉にヤモリのように張り付き、マコトが出て行くまで盗み聞きに専念していたのだが、そこで耳にした二人の会話は彼女の想像もつかないものだった。
「まさか、もうきよ姉が動いているなんて……」
完全に出遅れた。さすが完璧超人。仕事が早い。花火はまだ何も考えが浮かんでいないのに、姉はとっく行動を起こしていたのだ。しかも目標本人と接触しているという事は、恐らく計画はすでに最終段階まで来ているのだろう。
清水は本気だ。
けれど肝心のマコトが断るとは思わなかった。花火も彼の事だから、てっきり即答で挑戦を受けると思っていた。さすがにこれは清水も計算外だろう。
しかしそうなると、姉はもうなりふり構わず彼を舞台に上げようとするに違いない。こうなってしまっては、彼女の良心を期待することもできなくなってしまった。
急がなければならない。
姉を止めなければ。できれば男嫌いを治させ、またかつての仲の良い家族に戻りたい。けれど何をどうすれば良いのかまったく思いつかず、ただ出遅れた苛立ちだけが募る。
こうして悩んでいる間にも、清水は着々と計画を進めている。もしかすると、もう追いつけないほど先に行っているのではなかろうか。
その悪い予感は、すぐに当たる事になる。
◆
水曜の朝。
体育館の使用許可申請書に、理事長の認可印が捺される。最後の書類に捺印し、これで晴れてエキジビジョンの書類申請が終わった。
「……随分早かったわね」
木葉は朱印が乾いたのを確認し、書類を一つに纏める。昨日の今日で必要書類をすべて処理してきた清水の能力には、我が子ながら舌を巻く。自分でもここまで迅速に、かつ正確にはできない。
「編入期間は一ヶ月と短いですし、なるべく早くこの学園に馴染ませてあげたいんです。そうすれば、残りの期間も彼にとって過ごし易くなるでしょうから」
清水の目は充血して真っ赤で、いかにも徹夜明けという様子だ。しかしちっとも疲れているようには見えず、むしろ何かにとり憑かれているような異様な精気に満ちている。
「そう……。でもあまり無理をしないでね」
「無理などしていません」
「な、ならいいわ……」
隈取をしたような目でぎょろりと睨まれ、木葉は思わずすくみ上がる。幽鬼の如き形相の娘から視線を反らし、手に持った書類を確認する。
「じゃあ、この書類は私が処理しておくから、貴方はエキジビジョンの段取りをお願いね」
「わかりました。では、失礼します」
退室しようとする清水に、思い出したように木葉が声をかける。
「そう言えば、彼――天下一くんだっけ? よく了解したわね。こんなお祭りに乗ってくるようには見えない子だったけど……」
扉に手をかけた状態で清水は足を止める。ゆっくりと扉を開けると、振り向かずに背を向けたまま答えた。
「いいえ、快く了解してくださいましたわ。きっと彼も、早くこの学園の一員になりたいのでしょう」
「あらそう。だったらこのイベント、必ず成功させてね。彼のためにも、学園のためにも、ね」
「もちろん、大成功間違いなしですわ」
くっくと肩で笑うと、清水は退室した。扉が閉められると、心なしか室温が上がったような気がした。
『生徒会よりお知らせします。明日の放課後、体育館にて生徒会長五行院清水と編入生天下一のエキジビジョンマッチを行います。皆さん、お誘いあわせのうえ奮ってご来場ください。繰り返します。明日の放課後――』
昼休みに放送された告知は、学園中を騒然とさせた。あちこちの教室から歓声が上がり、季節はずれの学園祭さながらの熱気が湧く。
マコトはその放送を、専用にあてがわれた来客用トイレの個室で聞いていた。
「…………そう来たか」
苦笑まじりの唸りは、個室の中にまで響いてくる生徒たちの喧騒にかき消される。
しかし、ここまで強引に話を進めるとは。生徒会長だとか言っていたが、随分と型破りな事をやってくれる。
これで逃げ道を断ったつもりだろうが、マコトの腹はすでに決まっている。いや、腹を括ったという前向きなものではない。ただこのまま何にも、誰にも関わらず編入期間をやり過ごそうという、彼にしては珍しく後ろ向きな算段だ。旅の恥はかき捨てではないが、ここの生徒たちとはどうせ二度と会わないのだ。どう思われようと知った事ではない。
マコトが教室に戻ったのを見るや、花火はすぐに席を立った。だが彼は待ち構えていた女生徒たちに取り囲まれて、容易に近づけない。口々に先の放送の説明を求められている。教室の入り口はまるでワイドショーのワンシーンのようだ。
「ねえねえ。さっきの放送、どういう事?」
「何で会長とエキジビジョンやるの?」
「っていうか、いつの間に決まったの?」
「あ~、あの呼び出しってその事だったんだ~」
「やっぱりアレ? 天下くんの方から会長に挑戦したの?」
皆がそれぞれ好き勝手に質問をぶつけるため、誰が何を言っているのか聞き取れない。
「それでどうなの? 天下くんは会長に勝てると思う?」
「俺は――」
「ちょっと通して……。ちょっと……ゴメンね、通してってば……」
ようやく花火は人垣を掻き分け、マコトの前まで出る事ができた。
「キミ、ちょっと話があるの。こっち来て」
すかさず彼の手を掴むと走り出す。
「な――」
何か用か、と問う暇も与えず、マコトを引っ張って強引に人ごみを押し分ける花火。廊下に出て人が少なくなると、走る速度をさらに上げた。二人の背後では、事態を飲み込めないクラスメイトたちにどよめきが起こるが、それもあっという間に聞こえなくなった。
猛ダッシュで廊下を抜け、階段を三段飛ばしで駆け上がる。屋上に出る踊り場まで連行すると、花火はマコトを壁に押さえつけた。
「おい、どういうつもりだ?」
突然こんな所に連れ込まれ、とりあえず疑問を口にするマコト。全力疾走してきたにも関わらず、まったく呼吸が乱れていない。花火も同じく息ひとつ切らしていない。
階下では、生徒たちが昼休みの残り時間を用いて明日のイベントについて議論している。そのざわついた空気とは裏腹に、しんとした踊り場はまるで異次元のようだ。
「ねえ、さっきの放送はどういう事?」
「お前もその質問か……」
うんざりしたような言葉を、花火が遮る。
「そうじゃなくて。きよ姉の話、はっきりと断ったんだよね?」
花火の声が、静寂に沁み込む。一瞬、マコトの表情がわずかに曇ったような気がした。
「どうして知っている」
「ゴメン、聞いちゃった。立ち聞きしたのは謝るよ。でも今はこっちの話が大事」
「ああ、確かにきっぱり断った」
「だよね。じゃあおかしくない? どうしてエキジビジョンが決行されるの?」
「俺の答えなんて、どっちでも良かったんだろ。現にこうして既成事実ができちまったんだ。これで当日俺が出なけりゃ、観客は俺が逃げたと思うだろうな」
「そんな卑怯なやり方……信じられない」
まさか清水が人を罠に嵌めるような卑劣な手段を使うとは。よほど彼を目の仇にしているのか。
「それで、どうするの?」
「別にどうもしねえよ。俺の考えは変わらん」
「けど、それじゃあみんなに逃げたって思われちゃうよ?」
「ここの奴らにどう思われようと、知ったこっちゃねえよ。どうせ元から良く思われてねえんだ。今さらレッテルが増えたところで大して変わりはねえ」
花火は何も言えなかった。たしかに、編入してきた初日から彼が歓迎されていないのは気づいていた。完全男子禁制の女子校に、男がノコノコ入って来たのだ。疎外や敬遠は当たり前である。
「きよ姉は一度、男の子に徹底的にコテンパンにされたほうがいいんだろうね。きよ姉が男嫌いだってのは知ってるでしょ?」
「ああ、ありゃ相当男を嫌ってるな」
「あれは男嫌いなんじゃなくて、ただ負けず嫌いなだけ。だから一度、自分がいつも見下している男の人に負ければ、少しは考え方も変わるかもしれないと思うんだ」
清水は男という生き物に、父親の影を重ねている。だからすべての男性が憎いのだ。そして男よりも優れているという自負だけが、彼女を支えている礎なのである。それを砕きさえすれば――。
「それを俺にやれってのか?」
「ううん、これはボクたち家族の問題だからね。キミに頼むのは筋違いだよ」
校舎裏での出来事を思い出す。自分が原因だったと知ってしまった彼の表情は、とても苦しくて辛そうだった。そんな彼に姉を打ち負かし、救ってやってくれとはとても言えない。もし言えば、まるで責任を取れと言っているようなものだ。
「だからボクは、ボクにできる方法できよ姉を止める。大丈夫、ボクだってやる時はやるさ」
自分に何ができるのか、まだ何も分からない。にっこり笑ってみせるが、自信の無さが笑顔に力を与えず、マコトも不安そうな顔で見ている。反って心配させてしまったようだ。
「あははは、説得力ないか」
花火の乾いた笑いが踊り場に木霊する。反響した強がりは、階下の無責任な喧騒に虚しく打ち消された。
◆
天下一とのエキジビジョンを発表した清水は、この上なく上機嫌だった。自らが発案したイベントの業務で多忙を極めたが、計画が着実に進行している事が彼女を充実させていた。
とうとうあの邪魔者を学園から排除できる。その為の策も材料も揃った。後は時を待つだけである。
もはや計画は完璧に成功したと思っていた。何故なら、自分の計画に落ち度は微塵も無いからだ。
思わず鼻歌が出そうになるが、浮かれるにはまだ早い。気を緩めるのは早過ぎる、と気を引き締める。とはいえ、ともすれば緩みそうになる口元だけはいかんともし難い。そういえば、こんなに楽しい気分になったのはいつ以来だろう。
五行院邸。
清水は自室の前に立つ。中に入ったら一度大笑いでもしてみようか。我慢は体に悪いから、少しくらいはガス抜きがてら悦に浸るのも悪く無い。
そう思いながらノブを握った時、後ろから「きよ姉」と声をかけられた。
振り向けば、花火が神妙な面持ちで立っていた。
楽しみを邪魔され、清水は口の中で舌打ちする。しかし表情はまったく動かなかった。
「あら花火、何か用かしら?」
「どういう事?」
「どういう事って、何の事?」
「とぼけないで。エキジビジョンの事よ。いったい何を企んでるの?」
ああその事か、と清水は静かに笑う。花火を鼻であしらうのは容易い。だがいつになく気分が高揚している彼女は、いつも勝気な妹の悔しがる顔を見てみたい、という欲求がむくむくと湧いてきた。
「……わかったわ。説明するわよ。けど立ち話もなんだから、とりあえず私の部屋で話をしない?」
清水が肩をすくめて部屋を指し示すと、花火は黙って頷く。これで立ち聞きされない限り、声が漏れる事はないだろう。廊下では誰が聞いているかわからないのだから。
「それで、何が聞きたいの?」
清水は勉強机に備え付けてあった椅子に座り、ベッドに腰掛けた花火に向き直る。足を組むと、椅子がキィと軋んだ。
花火は黙っていた。清水がこうも素直に白状するとは思わなかったに違いない。何から訊けばいいか判らず、頭の中を整理しているのだろう。
清水は妹が自ら話し出すのを待った。こういう時は、待つのも苦ではない。ただ時間を浪費しているのではなく、これも大事なプロセスなのだ。
これは前菜だ。オードブルを楽しまずに、メインディッシュには行けまい。
自分でもテンションが上がっていると思う。しかし祭りの前日というのは、誰しもこういうものだろう。
◆
後の祭りだ――と花火は思った。
清水があっさりと降参したのは、もうこの時点で手の内を明かしても何も問題はないだろう、と判断したからに違いない。誰も何もできやしないと思っている――そう花火は推測した。
たとえ今この場で清水を糾弾したとしても、事はもう動き出してしまっている。いや、もう止められないところまで来ている。
それでも、止めたいと思った。
姉の計画を止める事が妹への贖罪であり、家族を元の形に戻す足がかりになると信じていた。
それがただの独りよがりの自己満足だとしても。
花火は何かしたかった。
一人で抱え込み、天下一を暴力で排除しようという愚挙に出てしまった美土里。
妹があそこまで思い詰めていながら、それを見過ごしのうのうと今まで暮らしてきた自分を糺すために。
清水の計画を止めなければならない。
「それで、何が聞きたいの?」
相変わらず自信に満ちた表情で、清水は妹に向き直る。足を組むと、錆びた金属が擦れる嫌な音がした。
「決まってるじゃない。どうして彼が了承していないのに、エキジビジョンを開催するなんて放送したの?」
「あら、そうだったかしら? けどもう放送しちゃったし、みんな楽しみにしてるから今さらナシでしたって事にはできないわね」
困ったわあ、と清水はわざとらしく困って見せる。心の中で舌を出しているのは見え見えだが、彼女の言うとおり今さらエキジビジョンを中止にする事は不可能だろう。恐らくそうできないように、日程を詰めたに決まっている。姉はそこまで計算する女だ。
「そんな卑怯な真似をしてまで彼を倒して、いったい何になるの? きよ姉の気が晴れるだけで、何にもならないってどうして気がつかないの?」
花火はベッドから立ち上がり、切実に説得を試みる。
いくら狂気に走っていようと、聡明な姉のことだ。誠意をもって論理的に説得を重ねれば、きっと自分の言葉は固く閉ざした姉の心に届くはず。そうすればきっと、悔い改めて元の優しい姉に戻ってくれる。花火はそう期待していた。
自分には、それくらいしかできないと思っていた。だから本当に、心から、精一杯、一生懸命に姉に向けて言葉を放った。
だが。
「やっぱり花火はおバカさんね」
返ってきたのは、氷の塊よりも冷たい言葉。
向けられているのは、蔑みの眼。
(え? ――今……なんて言ったの……?)
花火は口を開閉させるが、あまりのショックに声が出ない。
「聞こえなかったの? 耳までおバカさんになったようね。もっとも花火は頭がおバカさんだから、他の部分がおバカさんなのも仕方がないのかもね」
脳がショートした花火に、清水はこれでもかとおバカさんを連発する。
「花火こそ気がつかないの? ああそうそう、おバカさんだから気がつくわけないわね。じゃあ優しいお姉ちゃんが教えてあげる」
愕然として立ち尽くす妹に向けて、姉は優しく微笑む。だがそれは、決して妹を慈しんでいるようなものではない。
清水は魂の抜けた妹の前で、朗々と語る。
「私の計画はね、何もあの害虫を公衆の面前で完膚なきまでに叩き潰すだけの単純なものじゃないの。
それだけでも私の気が少しくらいは晴れるけど、でもそんなちっぽけな成果だけじゃ駄目。ぜんっぜん駄目。それじゃあちっとも満足できない。
けどね、ここからが本題。たかがお遊びとは言え、全校生徒の前で女に負けた殿方は、いったいどういう気持ちになるのでしょうね?
それはもう恥ずかしくて悔しくて格好悪くて、プライドも自尊心も何もかもずたずたになって、とてもじゃないけどこれ以上この学園に居られなくなるわよね?
そうなったら彼はどうすると思う? 簡単よ、尻尾を巻いて逃げるの。母と私達を捨てて逃げた、あの男みたいに。
編入生が辞退したら、共学化の計画も水泡に帰すわ。勿論彼が出て来なくても、女から逃げた卑怯者というレッテルを貼って、辞退するまで追い込んでやるわ。
これで学園は元通りになるの。汚らしくて汚らわしい、醜くて卑しい男という産廃以下の汚物の居ない、清潔で平和で安全な学園に。
どう? ここまで噛み砕いて説明されれば、いくらおバカさんな花火でも理解できたでしょ?
私の計画はここまで綿密に計画されてるの。緻密に計算されてるの。精密に構築されてるの。
そして確実に実行され――
――もうすぐ完成するの。
もう誰にも止められない。
誰にも邪魔させない。
私の計画を邪魔するものは、誰であろうと排除するわ」
妹であろうと、それは例外ではない。
邪魔者は――排除する。
愉悦に浸る狂気に満ちた顔を見て、花火は戦慄する。
狂っている。
この女は、もうどうしようもないくらい壊れている。
止めるのは計画なんかじゃない。
コイツを止めなければ。
「どう? お望み通り、話が聞けて満足?」
上機嫌の最上級のような清水をよそに、花火は無言で清水の部屋を出た。
怒りに任せて、叩きつけるように扉を閉める。背後では、扉越しに清水の高笑いが聞こえてきた。