小さな暗殺者
小さな暗殺者
◆
水曜日の朝。五行院学園。
マコトは、自分の下駄箱に奇妙な物体が投函されているのを発見した。
「……………………ふむ」
デフォルメされたアニメチックな熊のシールで封をされたピンクの封筒は、どう見ても手紙にしか見えない。差出人は不明。ひらひらと振ってみても、中身は紙の擦れる音しかしない。剃刀や画鋲の危険はなさそうだが、手紙自体にウィルスやバクテリアが付着されている場合はどうしようもない。
だがここは平和な日本だ。要人でも革命家でもないマコトにはまったく関係のない話である。
それに、封筒の色がピンクというのは初めてだが、こういう状況は初めてではない。たいていは激情に駆られて書き殴った、誤字脱字だらけの日本語かどうかすら怪しい内容の紙切れ一枚。良くて茶封筒に入った手紙。そして下駄箱に入れておくスタイルと、教室の机の中に忍ばせておく二種類のやり方がある。
そうやって手紙で熱烈なお誘いを受け、行った先には目つきの悪いお兄さんたちがその手に鉄パイプや木刀などを持ってウンコ座りで待っているという素敵な経験は幾度となく積んでいる。その都度、彼らのげっ歯類程度の脳味噌でも理解できる肉体言語で厳しく指導してあげたものだ。マコトは教育者に向いているかもしれない。どちらかと言えば、制服を着て敬礼をする類の教官だが。
しげしげと封筒を眺めていても埒が明かない。階段を上りながら開封すると、中には一枚の便箋が入っていた。扉を開けて教室に入りながら、文面に目を通す。
読めなかった。
マコトには理解できない丸文字や文体で書かれたそれは、神代文字よりも難解で解読不能だった。
席についてじっくり眺めるが、記号というか暗号みたいでさっぱり解読できない。試しに裏返して陽に透かしてみたが、余計ややこしくなっただけだった。和訳したものが同封されていないかと思い、もう一度封筒を確かめても、入っていたのはそれ一枚きり。どうやら書いた本人は、自分の使っている言語が共通言語だと思っている、アメリカのような奴らしい。ちなみに英語は世界共通語ではない。使用人口だけなら中国語の方が多いのだ。
それはともかく、文字が解読できなければ話は始まらない。もしこれが呼び出しの手紙だとすれば、差出人に待ちぼうけを食わせる事になる。それは相手に対して失礼だ。
「参ったな……」
「なに朝っぱらから不景気な顔してるんだい? ちゃんと朝ごはん食べて来た?」
またしても八方が塞がったマコトが顔を上げると、救いの女神ならぬ委員長の姿があった。
花火はマコトが手に持っているピンクの物体を見ると、即座に何かを理解しニタリと口元を歪める。
「ん、委員長か。……何だその顔は?」
花火はマコトの肩をばしばしと叩きながら、
「いや~、キミも隅に置けないね~。そりゃ席は教室の隅だけど、いつまでもそこに甘んじている器じゃないと思ってたよ」
うんうん、と勝手に納得して頷く。シャープな見た目に騙されていたが、力はかなり強い。手首のスナップが利いた張り手というより掌底は、音は並だが威力は特盛りだ。一撃ごとにマコトのHPが見る見る減っていく。
骨を軋ませ肺にまで響く浸透剄のような打撃をやめ、花火はいかにも興味津々という感じで訊ねる。
「で、誰から貰ったの、それ?」
「差出人が書いていなくてな。それに――」
マコトは便箋を軽く指で弾く。
「何が書いてあるか、さっぱり解からん」
「はあ? 何それ。ちょっと見せて」
花火は手紙をひったくろうとして、寸でのところで手を引っ込める。
「どうした?」
「いや、やっぱこういうのって他人が見ちゃマズいかな~って」
「別にいいぞ。見られて困るモンでもないしな」
「そ、そう?」
おかしな事を言うヤツだ、という顔で手紙を渡すと、花火は少し緊張した面持ちで手紙を受け取った。一度閉じた目が、意を決したように開き刮目する。大きな瞳が上下するのを、マコトは黙って眺めていた。
花火の視線が便箋の端まで走る。
「どうだ、意味不明だろ」
同意を求めたつもりだったのだが、期待していた返事の代わりに大きな溜め息が返ってきた。
「あのねえキミ、ホントに十代? 学校の勉強もいいけど、少しは現代の若者らしく流行やファッションも勉強しないと。このままじゃパソコンも使えない、ビデオの録画も一人でできないダメな中年街道まっしぐらだよ」
説教されてしまった。しかも呆れられた。
なぜ自分があたかもダメ人間のような謂れを受けねばならないのか、まったく理解できない。というか、コピー機もまともに使えない花火には言われたくなかった。
だがどうやら彼女には手紙の文字が理解できているようなので、ここはぐっと堪える。
「時代錯誤なのもいいけど、時勢に乗るのも生きる知恵だからね。そりゃ流行りに流されるのは馬鹿のやる事だけど、きちんと情報を取捨選択すれば、インターネットなんかはお婆ちゃんの知恵袋よりも役に立つんだよ」
「はあ…………」
「それにね、ラブレターの字が読めないなんて、書いた子に失礼だよ。しかもこんなプライベートな手紙を簡単に他人に見せちゃうなんて。デリカシーの無い人はモテないんだからね」
「そッスか……、スンマセン。以後気をつけます」
あまりの剣幕に、マコトはつい腰が低くなってしまう。危うく正座までしそうになったが、彼女の言葉に違和感を感じてやめた。
「ちょっと待て。今何か聞き捨てならない事を言わなかったか?」
「何が? ボク間違った事言ってないよ」
あくまで強気な花火。これでも言いたい事の半分も言ってないんだからね、と言わんばかりだ。これで半分なら、本気を出したら放送コードに引っかかるのではないだろうか。
「そうじゃない。ラブレターだと?」
「うん、ラヴレター。ラヴな相手に送るレターだよ」
ラヴを特に強調する花火。無駄に発音もいい。
「これが……ラブレターだと……?」
「なに初めて見たような顔してんの。下駄箱に入ってるピンクの封筒なんて、ラヴレター以外にありえないでしょ」
きっぱりと言い切る花火を、マコトは鼻で笑う。その顔に溢れる余裕に、花火はたじろいだ。
「何よ……。なんか感じ悪いなあ」
「お前は何も解かっていないな。そのでっかい目は節穴か?」
「解かってないって、どういう意味よ?」
余裕綽々のマコト。一気に立場が逆転した。
「ちなみに、手紙には何と書かれていた?」
「え? えっと、『大事な用件があるから、放課後に校舎裏の池まで来て欲しい』と書いてありました」
尊大な態度に押され、講義を受ける生徒のように敬語になる。
やはりな、とマコトは顎に手を当てる。あらかじめ答えを予想していてそれが的中した、いやさ、すでに解けている問題の答え合わせをしただけと言わんばかりの貌。
「ど、どういう事ですか、先生?」
「封筒の色に惑わされているようじゃあ、まだまだ素人だ。俺クラスになると、見た目に騙されて本質を見失うというミスはしない。これは、決してラブレターなどという浮ついたものじゃないんだ」
「え……じゃあ、この手紙はいったい……?」
「下駄箱に入っていた手紙。その内容は放課後、校舎裏への呼び出し。この二つから導き出される答えはただ一つ」
マコトは人差し指を立て、固唾を呑んでいる花火に突きつける。花火の喉がごくりと鳴った。
「この手紙は――」
「この手紙は……?」
「果たし状だ!」
「…………………………………………は?」
驚きのあまり声も出ない花火に、マコトは満足そうに微笑する。真相は、単に開いた口が塞がらないだけだという事を知らずに。
「あ、ゴメン、もう一回言って。ちょっと意味がよく解からなかった」
「だから、この手紙は果た――」
「なんでやねん」
途中で殴られた。しかもグーだ。もう一度言えと言っておいてこの仕打ち。花火の右フックは、的確にマコトの顎関節にクリティカルヒットしていた。
顎が外れるか砕けるかしそうな強烈な衝撃に、マコトの頭が一瞬背中まで回る。反動で元の位置に戻ったところを、鷲掴みにされた。
往年のフリッツ・フォン・エリックを彷彿させるアイアンクローに、耳から出てはいけない汁が出そうになる。リンゴならとうに砕けていただろう。
「ふざけないでよね、もう。いい加減にしないとぶつよ」
「すんません……調子に乗ってました」
ここで『もうぶってるじゃねえか暴力女』、などと冗句を入れるほどマコトは命知らずではない。ナチュラルに人の顔面を殴れる人間は、大なり小なり頭か心のリミッターが外れているのだ。ましてやツッコミ感覚で人体を破壊しかねないパンチを入れる人間など、頭のネジが全て飛んでるか、よほどの武闘派に違いない。
「とにかく――」
花火が手を離すと、十センチほど浮いていたマコトの尻が椅子に落ちる。少し遅れて、伸びきった首が縮んで元に戻った。
「手紙の内容が判ったんだから、ちゃんと指示通り放課後に行ってあげなよ。それと、中途半端な気持ちで返事しちゃダメ。そういうのが一番相手を傷つけるんだからね」
「そう……なのか?」
「そうだよ。今までボクがどれだけ苦労したと思ってんの。断るのだって、告白するのと同じくらい勇気がいるんだからね」
「大変だな……ってちょっと待て」
「今度は何?」
「何で委員長が苦労してんだよ?」
「そりゃボクが、きよ姉ほどじゃないけどモテモテだからさ。場数はそれなりに踏んでるんだよ」
「いや、だってお前……ココ、女子校だよな?」
「そうだよ。まあ今はちょっと例外だけど」
「じゃあ、相手は女か?」
「当たり前じゃない。別に珍しい事じゃないよ。ここじゃ日常ちゃめしごとなくらいさ」
「日常茶飯事な。しかし……恐ろしいところだな、女子校って」
「ま、これだけ特殊で閉鎖的な環境だからね。多少は歪みみたいなのはあるよ。けど他もそう大差ないと思うよ。『お姉さま~』みたいなのは」
勘弁してくれよ、とマコトは天井を仰いだ。いくら女の世界を知るために編入してきたとはいえ、こんなアングラな世界は知りたくなかった。それ以前に知る必要もない。自分は色恋をしにここに来たわけではないのだ。
「何にせよ、放課後は絶対行かなきゃダメだよ。これは委員長命令だからね!」
花火は指の関節をバキバキ鳴らす。これはもう何を言っても無駄だろう。
思い出したようにマコトのこめかみから一筋の血が流れ、冷や汗のように頬を伝った。
◆
その日の花火は、授業どころではなかった。
彼女が授業に集中していないのはいつもの事だが、今日は別の理由があった。言わずと知れた、マコトのラブレターの件である。
朝はラブレターのインパクトが強くて気づかなかったが、冷静になった今、何か頭にひっかかる事があったのだ。
喉に魚の小骨が引っかかったようなもどかしさを感じながら、花火は懸命に違和感の正体をつきとめようとする。
頭の中が痒くなり、口から手を突っ込んで掻きたくなる。それができないじれったさと、喉を何かが出たり入ったりする歯がゆさに苛々する。
ノートをとるのも忘れ、口をむにむにさせながら声を殺して呻く。
何だろう、この違和感というよりは既知感に似た感覚。初めて見たはずなのに、前から知っていたような感じ。
何故……何が……何処に引っかかる。
封筒、便箋、シール。これらは初めて見るものだ。これは間違いない。だとしたら――。
そう、文字だ。
手紙に書かれていた、あの独特の丸文字。それがこの違和感の正体だ。
自分はあの文字をどこかで見ている。誰の字かまでは思い出せないが、わりと身近で見たという事だけは感覚が保証している。
文字に見覚えがあるくらい身近な存在となると、おのずと範囲が限定される。つまり自分と交流があり、なおかつノートをやりとりするような親密な関係という事になる。その条件にあてはまるのは、クラスメイトくらいしか居ないだろう。
これで解明にかなり近づいた。漠然とした違和感から始まり、今はクラスメイトの誰かにまで絞る事ができたのだ。謎が徐々に解けていく事に、花火は静かに興奮する。
だが、あと一歩というところで続かない。答えに手が届きそうなほどすぐそばまで近づいたのに、爪がかするくらいの距離が縮まらない。
あと一息、あと少しといきんでも、時間だけが無為に過ぎていく。結局花火は一日を悶々としたまま過ごすこととなった。
そして放課後、花火は校舎裏にある池のほとりの茂みに身を潜めていた。
「これは覗きじゃない。気になることをほっとけないだけ。そう、知的探究心による真実の究明なんだ」
などと自分に言い訳するが、単にクラスメイトの誰がマコトにラブレターを送ったのかつきとめたいだけだ。
花火とて年頃の娘。他人のとはいえ、こういう嬉し恥ずかしなイベントには興味がある。言ってみれば、これは見逃せないライブ。ゲリラライブの情報を、たまたま掴んだだけなのだ。だったら行かねばならない。行かない者がいるだろうか。いや、いない。
百合咲き乱れる女子校生活が長い花火にとって、男女の恋の営みを生で見るのは初めての事だ。同性に告白された事は何度もあるが、異性に告白されたり、しようと思った事は一度もなかった。今日は、いつか自分にそういう日が訪れた時のための勉強も兼ねている。独り勉強会だ。
授業が終わると同時にダッシュし、清水や美土里に手早く今日の集合予定時間を告げてきた。それくらいのロスタイムなら、まだこの学校の地理に昏いマコトを先回りできる。
読み通り、彼はまだ現れていない。手紙の主の姿もまだ見当たらず、花火が一番乗りだった。部外者が一番張り切っている。
「おっそいなあ……。まさかすっぽかす気じゃないでしょうね……」
茂みに隠れてから、かれこれ十分はそうしているだろうか。一向に人の気配すらしない。剥き出しの手足がやぶ蚊に刺され、珠の肌のあちこちに赤い斑点ができていた。
苛々ぶつぶつボリボリしながら、さらに待つ事五分。ようやくマコトが姿を見せた。いつものように胸を張った大股歩きではなく、肩を落としたいかにも消極的な歩き方は、できるだけ時間を稼いで、あわよくば相手が待ちくたびれて帰ってくれる事を期待しているかのようだ。それとも返事を考えながら歩いているのか。
見るからに憔悴した顔から察するに、朝からずっと悩んでいたのだろう。たった半日でげっそりと痩せて見えた。
胃潰瘍で入院している患者さながらの足取りで、マコトはふらふらと池のほとりに来る。相手の姿が見えなかったので一瞬ほっとするが、すぐにまだ来ていない可能性を思い出してがっかりする。またすぐに思い悩む表情になったりと、表情が刻一刻と変化して安定する事がない。
マコトの百面相に、花火は思わず吹き出しそうになる。普段は男らしくどんと構えているように見えるが、今の姿はやはり同じ十代だ。動物園の熊のようにうろうろする様を見て、花火は少しだけ安心と親近感を覚えた。
いつまでも眺めていたいと思っていたが、そうはいかなかった。
ついに待ち人が来てしまった。
◆
背後に人の気配を感じ、マコトの肩が震える。
とうとう来てしまった。馬鹿正直に来たはいいが、どう答えていいかまだ考えあぐねている。
いや、答えは決まっている。悩んでいるのは、どう断ればいいかだ。ずっと考えていたが、いい返事は浮かばなかった。いくら好かれても自分には追い求める道があって、今は色恋沙汰にうつつを抜かしている暇など無い。
それに――。
「遅れて……ごめんなさい。あの……待ちました?」
ぼそぼそと、人間が聞こえるギリギリの音量で声をかけられた。覚悟を決めて振り向くと、そこには体を固くこわばらせた、一人の少女が立っていた。
少女は制服から見るに、恐らく下級生だろう。声も小さいが背も小さく童顔で、中等部か下手をすれば初等部の生徒かと見間違うくらいだ。恥ずかしいのかもじもじと落ち着かなく、俯いていてもわかるくらいに顔が赤い。緊張の度合いはマコトよりも上だった。
「ああ……いや、そうでもない」
「そう……良かった……」
少女は下を向いたまま、小さくほっと息をつく。後ろに回した手には、細長い包みが握られている。一メートルちょっとあるそれは、少し弓なりに沿っているので華奢な体からはみ出していた。隠そうとているようだが、見事に丸見えだ。
それにしても、少女は随分緊張しているようだ。ちらちらとマコトの顔を見ては怯えたように顔を伏せる姿は、とても自分から人を呼び出して愛の告白をするようには見えない。それとも見かけによらず大胆で、やる時はやる、やればできる子なのだろうか。
「それじゃ……あの、申し訳ないんですけど……」
少女は耳まで真っ赤にしながら、持っていた長い包みを紐解いた。
「わたしと……勝負してください」
包みから顔を出したのは――、
どう見ても日本刀だった。
◆
少女は刀を小脇に抱え、包みを丁寧に折りたたんでスカートのポケットにしまう。
「えっと……お待たせしました」
恥ずかしそうにはにかむと、少女は刀を抜かず、静かに腰を落として右足を前に出した。
ゆっくりと鯉口を切る仕草が、何かの始まりを告げる。
「おい、ちょっと――」
待て、と言いかけた言葉が終わる前に、少女は一瞬で間合いを詰め、雷よりも速く抜刀した。
銀光が閃く。
(居合い!?)
マコトは反射的に飛び退く。少女の初太刀は、辛うじてかわしたかに見えた。
だが学ランのボタンが弾け飛ぶ。紙一重どころか紙半重。あと少しだけ飛び退くのが遅かったら、確実に胸を横一文字に切り裂かれていただろう。
マコトはさらに後退し、少女と五歩ほどの距離をとった。離れてから、相手が得物を持っているのに距離をとってどうする、と内心舌を打つ。距離をとって不利になるのは自分なのだ。相手が武器を持っている場合は、懐に入らなければこちらに勝機は無い。だが今の一撃から、それも容易ではないのがはっきりと感じられた。
踏み込みの速度にも舌を巻くが、何よりも刀を抜いた瞬間が見えなかった。居合いとはそういうものだと話に聞いてはいたが、聞くと見るのとは随分違う。そして実際斬りつけられてみれば、その話が嘘でも誇張でも何でもない事がよく解かった。
だが少女の動きは、様式美に囚われた現代の居合いとは何かが違う。明らかに人を斬るための動きだ。
マコトは直感した――これは剣術だ。
鋼が木を擦る音が響く。
刀を鞘に収めた少女は、再び抜刀の体勢に入る。重心を落とし低く構えた姿は、肉食獣が獲物に飛びかかる寸前のように見えた。
そのしなやかさに、マコトははっと息を呑む。
少女の柔らかく、どこにも無駄な力が入っていない構え。だがそれでいて、バネのようにエネルギーを十分に溜めている。
剛性でなく弾性。
男性でなく女性だからできる完成形。
力でなく流れに沿うような流動の極致。
男には逆立ちしても真似できない、究極の弾力が目の前にあった。
(これが――)
何かに気づきかけたマコトの思考は、防衛という名の本能に邪魔される。
斬撃。
また見えなかった。だがほんの微かな相手の機微と、これまで培った経験が彼を刃から遠ざけた。
今度は皮一枚の所を刀がかする。
シャツが千切れ、裸の胸が顔を出す。
切っ先が触れた箇所が、まるで焼けた鉄棒が撫でたように痛んだ。
「あのね……コレ、練習用の刃を落としてる刀だから……大丈夫……安心して」
峰打ちのようなものだから、と少女が控えめに付け加える。
「安心できるか!」
控え目に言われたところで、救いにも蜂の頭にもならない。仮に峰打ちだったとしても、鉄の棒で殴られるのと同じなのだ。打撲や骨折、下手をすれば死にかねない。実際、峰打ちで死ぬ事もあるのだ。
チン、と二度目の納刀。
少女は次に右足を前に出す。
(逆足!?)
そう思った刹那、少女が踏み込む。
光速の独歩。神速の抜刀。
三たびマコトは後ろに飛ぶ。
今度は読みが当たり、刃は綺麗に空を切った。
だが次の瞬間、マコトは目を見張った。
少女は、踏み込んだ右足を軸に一回転して二撃目を放ってきたのだ。
「な……!」
届かないはずだった刀身は、一歩分の距離を追加されてマコトの胴体に襲い掛かる。
しかし動作を増やした分、余計なタイムラグが発生していた。
その百分の一秒が彼を救う。
「チィッ!」
マコトは仰向けに倒れるようにしてかわす。
切っ先は顎をかすめるようにして通り過ぎた。すぐさま横に転がって起き上がる。
「これ……邪魔……」
三度も必殺の太刀をかわされた少女は、業を煮やして鞘を投げ捨てた。刀を両手に握りなおすと、八双の構えのまま突進して来る。
「てや~」
矢継ぎ早に振り下ろされる刀。しかしマコトは易々とかわす。
騙し技に近い居合いとは違い、構えから太刀筋が予測できる斬撃など、彼の動体視力をもってすれば見切ることなど造作もない。あのまま居合いで押し切ればともかく、少女は鞘を捨てた時点で勝利を逃していた。
「…………当たらない」
半泣きになりながら、少女は闇雲に刀を振るう。洗練された居合いに比べたら、連撃はあまりに稚拙だった。必殺の一撃を旨とする居合いは、剣道のように連続で打ち込む必要はない。一撃必殺を重視し、二の太刀要らずを指標とする。だから少女も連続攻撃は得意ではないのだろう。
「……て~い」
大振りを繰り返すうちに、見る見る少女の息が切れる。小さな体は、徐々に刀に振り回されるようになってきた。そこが勝機とマコトは狙いを定める。
「へ……へや~」
「せいやっ!」
振りかぶった刀を、マコトは上段蹴りで打ち返す。
最後の力を振り絞った渾身の打ち下ろしは、本来なら靴ごと足を斬り裂いていただろう。だが刃のついていない切っ先は、厚いスニーカーのゴム底に当たり負けする。疲労で握力の落ちた少女の刀は、弾き飛ばされてしまった。
少女の手から離れた刀はきりきりと宙を舞い、二人が見守る中、ぽちゃんという呆気ない音とともに後ろの池に落ちた。
「ああ……」
吐息にも似た悲鳴を上げる少女。あっという間に池の底に消えた愛刀を見送ると、へなへなとその場に泣き崩れた。
「うあ~~~~~~~~~~ん!」
子供のように泣きじゃくる辻斬り少女に、マコトはもはや完全に戦意を喪失していた。
めそめそ泣いている少女は、とてもさっきの剣客とは思えない。マコトはやれやれと頭を掻きながら、どうしたものかと途方に暮れた。
「めんどくせぇ……」
とは言ったものの、このまま泣かせっぱなしなのは何となく良心が痛む。どう見ても弱い者いじめをしているような構図は、誰かに見られでもしたらかなり拙いだろう。
「あ~、その、何だ。悪かったな。謝るからもう泣くな……」
刺激しないようにゆっくり近づく。野良猫を餌付けしているみたいだと思った。壁を砕き日本刀にも怯まないマコトでも、泣く子と動物に勝てないようだ。
「なあ、もういい加減泣きやめよ……」
精一杯優しくなだめたつもりだが、少女は構わずぐずり続けている。ご機嫌はずっと斜めのままで、しきりに涙を流している姿を見ると、さすがに可哀相になってきた。
「やれやれ……」
マコトは顔を手で覆い空を仰ぐ。初夏の陽射しがとても眩しかった。今日も暑くなりそうだ。これくらいなら――。
「ったく、めんどくせえ」
溜め息を押し殺してそう言うと、マコトは上着を脱いだ。
◆
辻斬り少女――五行院美土里は、座り込んでただ泣きじゃくっていた。
顔を覆った両手から、ぽたぽたと涙が止まる事なく溢れている。
最悪だ。
最悪の結果になってしまった。
彼さえ居なくなれば、全てが元に戻ると思っていた。少なくとも、家族がこれ以上争う事がなくなると。
本当に倒すつもりなどなかったのだ。ただ少しばかりケガをして、せめて一週間――贅沢を言えば仮編入の間のひと月くらい入院でもしてくれればそれで良かった。そうならなくても、彼が編入を辞退したくなれば良かった。
だが結果として失敗し、あまつさえ大事な刀まで失ってしまった。最悪の上に最低を重ねたような日だ。今日は天中殺だろうか。
泣いているのは負けたからではない。
ただ悔しかったからだ。
自分は何も変えられない。家族さえ救えない。姉の憂いを取り払うことすらできない。失うだけで何も手に入れられない、惨めで無力な存在なのが悔しかった。
刀など本当はどうでも良かった。
ただ悲しかった。
いつも家族に守られて、何もできない自分を変えたかった。良くやったと姉に褒めて欲しかった。いつも子供扱いしている妹が、本当は頼りになると思わせたかった。
信頼して欲しかった。
認めて欲しかった。
けど、それも今は叶わない。結局自分は一人では何もできなかったのだから。そして今は、ただ泣く事しかできない脆弱な存在だ。
それがただ哀しかった。
悔しくて哀しくて、涙が後から後から湧いてくる。
まるでもう二度と家族に会えないような胸を裂く痛みに、泣くこと以外の動作を全部忘れてしまったかのようだ。
こうしてずっと泣き続け、体中の水分が全部出して消えてしまいたかった。
「おい――、おい――」
頭上から声がする。けどもうどうでもいい。自分はもうすぐ消えてなくなるのだから。
「おい――、なあ――、お~い」
それでも声は呼びかける。最初はおずおずと遠慮がちだったのが、徐々に声が大きく乱暴になってくる。
「おいコラ、いい加減に泣きやめよ。しまいにゃあほっといて帰るぞ」
ならそうすればいい。構って欲しいとは一言も言っていない。さっさとどっかに行って欲しい。自分は独りになりたいのだ。
喉が痙攣して上手く声が出ない。どっか行ってよ、と強く言ったつもりが、口から出たのは酷く震えた声だった。
「はあ? 言われなくてもそうするけどよ。まあいいや、ホラ」
何か固い物で頭を軽く小突かれた。目を開けると、マコトが美土里の刀を持って立っていた。
「あ……………………」
驚いて間の抜けた声を漏らす美土里。その声も掠れていた。
池に沈んだはずの刀がどうしてここに。その答えは一目瞭然だ。マコトは下半身、腰から下が水浸しだった。わざわざ池に入って、美土里の刀を拾ってきてくれたのだ。ズボンの裾は膝まで捲くってあったが、それよりも深い所に刀が落ちたのであろう。
「大事な刀なんだろ? 拾って来てやったんだから、もう泣くな」
ぼうっと刀を眺めていると、美土里の目の前に刀が差し出された。
彼は自分が刀を失くしたから泣いていると思ったのだろう。そうではないのに。
そっと刀を受け取ると、ぐしぐしと頭を乱暴に撫でられた。少し痛かった。よく覚えていないが、父親に撫でられているような気がして、そんなに不快ではなかった。
マコトの手は大きくてごつごつしていたが、とても温かかった。
いつの間にか涙が止まっていた。
「……ごめん……なさい」
美土里の口から自然と言葉が漏れる。
誰に謝っているのか自分でもわからない。マコトになのか、清水か母か。それとも全員になのか。
何度も何度も何度も何度もごめんなさいと謝る。
また涙が溢れた。
「お、おい、もういいから謝るな。それから泣くな……」
違う、そうじゃない。そうじゃないけど、そうじゃないのだけれど、美土里はずっと謝り続けた。
人生五回分くらいのごめんなさいを言い終えると、ようやく美土里は落ち着いた。
あれだけ流した涙も、体を消滅させる事はなくただ目が赤く腫れたくらいだ。大泣きしたくらいで人は死なないらしい。
水分と一緒に心の靄も流れたのか、気分は思ったよりも平静だった。泣くとスッキリするというのは本当かもしれない、と思った。
「気が済んだか?」
美土里が泣き止むのを見計らって、マコトが声をかけてきた。涙はすっかり止まったが、喉が引きつって上手く声が出ないので、頷く事で肯定する。
マコトはゆっくりと近づくと、美土里の前にしゃがみ込む。
「なあ、どうしてこんな真似をしたんだ?」
別に怒るでもなく、かといって責めるでもない。ただ理由を知りたいという感じだ。当然だろう。いきなり少女が日本刀を持って襲い掛かってくれば、一体どんな訳があってそんな事をされなければならないか知りたくならないほうがおかしい。
しかし、美土里は答えるかどうか迷った。他人に知られたくない家族のいざこざを曝け出す事になるからだ。だが考えようによっては、マコトに自分の置かれている立場を把握させておくのも一つの手かもしれない。少なくとも、彼に自分がこの学園にとってどういう存在なのかを自覚させられるだろう。
まだ未熟な美土里は気づかなかった。もしマコトがすべての事情を――自分のせいで他人の家族が大変な迷惑を被っている事を――知れば、彼がどんなに傷つき悩むかを考えもしなかった。
「……あの…………」
美土里はまだ自由にならない喉で、時に詰まり、同じ言葉を何度も繰り返しながら、訥々と事情を語り始めた。
自分の名前を。
自分の家族の事を。
そして自分がマコトを襲った経緯のすべてを。
マコトはずっと黙って聞いていた。
◆
――――美土里!?
花火は確かにそう叫んだつもりだった。
だが驚きのあまり、声は舌の先で止まった。
どうして美土里がここに。
なぜマコトを襲っている。
まさか手紙の主が美土里だったのか。
疑問の連続で混乱した頭は、彼女にその場から飛び出すという選択肢を失念させた。ただ動転し、じっと二人を見つめて動けなかった。
止めなければ、と思うことすらできなかった。我に返ったのは、マコトが美土里の刀を蹴り飛ばした後だ。幸い二人に大した怪我はなく、大事に至らずに済んだ。しかしそうなる前にもっと早く、それこそ美土里が刀を出した時点で飛び出しているべきだった。
今思えば、あの手紙の字が美土里のものだとどうして気がつかなかったのか。家族なのに、妹なのに。何と言う体たらく。それでも姉かと自分の不甲斐無さに自己嫌悪する。
そして美土里の語る物語が、彼女の自責の念を増加させた。
妹がそこまで思い詰めていたなんて、夢にも思わなかった。普段からそんな素振りがあったかどうか――など思い返しても、今となってはもう遅い。
予兆はあったのだろう。それに気がつかなかっただけだ。振り返れば、共学化に対して清水が過剰反応し、母娘間の空気がキナ臭くなったのがそもそものきっかけに思える。
その中には自分も居たのに。
またいつもの発作かと思って放置していた。時間が経てば解決すると思っていた。つまり、何もしなかった。ただ耳と目を塞いで、その場が過ぎるのを待っていた。
いじめと同じで、知っていて何もしないのは加害者と同じだ。現状を打破するために何も努力をしないのは、怠慢以外の何ものでもない。
謝らなければならないのは自分だ。
花火もまた――泣いていた。
静かに、誰にも聞こえない声で美土里に謝っていた。
何度も。
何度も。
◆
話を聞きながら、マコトは無言で上着に袖を通す。押し黙った険しい表情に、美土里は彼が怒っているのだと感じた。
萎縮して声が小さくなる。それでも美土里は精一杯声を振り絞った。
「……というわけなの」
すべてを語り終わった美土里は、最後にもう一度謝る。
マコトは黙って美土里の横を通り過ぎる。用はもう無いとばかりに、その場を立ち去ろうとした。
「どうして……何も言わないの?」
マコトの足が止まる。だが振り向かない。
「何か言って欲しいのか?」
「そうじゃ……ないけど……」
完全な言いがかりで斬りつけられたのだ。文句の一つもあって当然だろう。そして罪を問われ、罰を受けるのが道理である。この期に及んでそれがないなど、美土里とて思っていない。覚悟を決めていたからこそ、何も言わない彼を呼び止めたのだ。
「だったら、俺から言う事は何もない」
「けど――」
美土里を無視してマコトは歩き出す。濡れたズボンが腿に張り付き、歩きにくそうだ。
「言えるわけ……ねえじゃねえか……」
絞り出すような呟き。誰に聞かせるつもりでもないのか、聞き逃しそうなほど押し殺した呟き。美土里は、その言葉をすぐには理解できなかった。
「刀……悪かったな」
背中越しに彼の口から零れた言葉が、美土里には謝罪というよりは懺悔のように聞こえた。まるで、勝ってすまないといった、後悔と苦悩が篭っている。
美土里はマコトの背中を目で追う。
その背中はとても小さく、悲しいくらい寂しげに見えた。
その時になって、ようやく美土里は気がついた。彼に話すべきではなかったと。
◆
三人が去り、池が夕日で紅に染まる頃、五行院学園の理事長室では木葉が電話の応対に忙殺されていた。
「――はい。今のところ視野に入れているというだけで、まだ具体的には……。ええ、必ずしもそうなると決まったわけではありません。ですから……はい、重々承知しております。では……失礼します」
木葉はそっと受話器を戻すと、深い溜め息をつく。
今日だけで何件目だろう。共学化を考慮していると発表しただけで、まだ実施するわけではない。それにも関わらず、PTAや関係者などから問い合わせが殺到していた。それもほとんどが反対の意を示す内容だ。特に各方面の有力者が、こぞって圧力をかけてきている。下手をすれば学園の運営に影響を及ぼすかもしれない。今のところ電話での訓告のみだが、それがいつ実力行使に変わるかと思うと胃が痛む。
それがこの二日、つまりマコトを仮編入させてから、電話は常に鳴りっぱなしだ。
予想していた事とはいえ、あまりに反響の、それも悪い方の多さにうんざりしてしまう。居留守を使うか電話のコードを引き抜いてしまおうかと考えた事は、正直に言うと一度や二度ではない。
たしかに、完全男子禁制というのが気に入って入学させたのに、それがいきなり共学になったら親御も驚くだろう。だがそれにしては過剰に反応し過ぎではないだろうか。男女七歳にして席を同じくせず、という時代ではもうない。どうせいずれは男性と接しなければならない日が来るのだ。いくら先延ばしにしたところで、早晩結婚やら何やらで自分たちの許を去って行く。
自分たちだってそうだったくせに、虫のいい事を言う。自分たちの娘だけは、一生手許に置いておくつもりなのだろうか。何という愚かな考えであろう。
詭弁だ――と木葉は思った。
理事長などと言っても、経営者である事に変わりはない。お客やスポンサーの意向を無視していては、そのうち経営も成り立たなくなる。そうならないために自分がこうして直に電話対応しているのだが、あまりの量の多さに嫌気がさしてきた。
このところ溜め息ばかり出る。電話のベルが鳴るたびに吐いているのではないだろうか。そのうち溜め息で呼吸するようになる気がして、ますます気が滅入る。
また電話が鳴った。もう誰かに任せてどこかに出かけたい気分だった。
久しぶりに買い物にでも行こうか……。新作の水着でも買って、夏休みには家族揃って海に行こう。頭の中では、照りつける太陽と白い砂浜、そして青い海の〝ビーチの風景三点セット〟が木葉を魅了していた。
だがそれもできない。学生が授業をさぼるのとはわけが違う。自分は大人で、しかも責任と肩書きのある人間だ。物凄く魅力的な誘惑だったが、すぐに頭を振ってかき消した。
諦めて電話をとる。
また苦情だった。
ぐっと力一杯伸びをする。サスペンションとクッションの利いた椅子は、木葉の体を優しく受け止める。少し腰を上げて、デスクの上にある写真立てに手を伸ばした。
写真には、家族五人が仲良く笑って写っている。
かつての夫――金光が木葉の肩を抱いて笑っていた。二人にしがみついているのが三人の娘たち。あの頃は毎日が楽しく、幸せだった。本当に……幸せだった。
「強い女なんて、男に疎まれるだけなのにね……」
木葉は写真の中の金光を指でなぞる。温厚な男だった。今思えば、ただ気弱なだけだったような気もする。冷淡な木葉は金光の温和な人柄に惹かれ、金光は木葉の怜悧さに惹かれた。
金光なら自分と対等な人生のパートナーになってくれると思っていたのだが、残念ながら彼はそんな器ではなかったようだ。
『君は強いから、僕は必要ないだろ』
金光の最後の言葉を、木葉は今でも覚えている。強過ぎる女は、強くない者にとって、特に男にとっては羨望よりも嫉妬を感じさせる事のほうが多い。
金光の劣等感が嫉妬に、そして憎悪に変わるのにそう時間はかからなかった。
当然のように二人は別れた。
金光は婿養子である。本来なら立場的に離婚を口にできるものではないが、既に嫡子である清水や二人の妹が生まれていたため、親権を全て放棄するという条件で離婚が成立した。存命だった祖母や抱えの弁護士たちの段取りで、離婚は結婚の数倍の速さで進んだ。
そして、五行院家から男が消えた。
「貴方がもう少し強ければ、こんな事にはならなかったのかしら? それとも、私がもう少し弱ければ……」
木葉は自嘲する。そんな仮定、何も意味がない。結果がここに出ているのだ。それはもう変えようのない過去であり、今向き合うべき問題は未来の事だ。
再び写真に目をやる。
写真の中の清水は笑っている。家族の愛に包まれている証だ。
清水の笑顔を最後に見たのは、いったいいつだろう。自分たちの離婚が娘の心にどれだけの傷を与えたのかは、今の彼女の病的ともいえる男嫌いを見ればその深さがわかる。底が見えないくらい深いのがわかる。
清水の心の傷は酷く深く、そこからは赤い血の代わりに真っ黒い墨のような闇が溢れている。
憎悪、嫌悪、失望、敵意。およそ悪意と呼ばれるもののほとんどがそこから溢れ、金光に――今では男という生き物すべてに対して――向けられている。
どうしてこうなってしまったのだろう。
考えるまでもない。あの子が一番父親に懐いていたからだ。最も慕っていた父に裏切られたから、家族が壊れてしまったから――。
――あの子も壊れてしまった。
電話の音が、木葉を現実へと引き戻す。
写真立てを元の位置に戻すと、頭のスイッチを母から理事長へと切り替える。コール数回で切り替わった。その強さがまた厭わしかった。
「はい、五行院学園理事長室です」
勤めて事務的に応対する。疲れが声に出そうだったので、いつもよりも声のオクターブを二つほど上げた。
だが相手の声がした途端、さらに二つ上がった。
「は、はい、私です、木葉です。あ、今ですか? 大丈夫です。丁度こちらからお電話しようと思っていたところで……。ええ、わざわざありがとうございます」
これまでの電話とは、明らかに態度が違う。どうやら苦情ではなさそうだ。
「ええ、予想通りの反応で、今も応対に追われて――いえ、決して迷惑なんかじゃ……。はい、問題はありません。けど今のところ順調というか、特に変化がなくて……。時間の問題とは思いますが、はあ、いえとんでもない。こちらこそ身内の恥をお見せした上に、個人的な相談にまで乗っていただいて、何とお礼を申し上げれば良いのやら」
豪奢な椅子から立ち上がり、電話なのに頭を下げている姿は普通の主婦のようだ。身振り手振りがやけに大きい。
木葉は電話中、ずっと立ったまま座ろうとはしない。時折楽しそうに笑い、ますます主婦が長電話をしているだけに見える。
「はい、はい、わかりました。こちらからも何かありましたら、ご連絡させていただきます。はい、では失礼します……」
木葉は相手が電話を切っても、しばらく受話器を耳に当てていた。やがてゆっくりと受話器を戻すと、大きな吐息を漏らす。
今度は溜め息ではなく、単に喋り過ぎて疲れただけだ。
思い出したように椅子に座る。背もたれに体重をかけると、木葉の上体が半分近く埋もれた。
「紅葉、あなたが少しだけ羨ましいわ……」
木葉の呟きは、苦情の電話のベルにかき消された。
◆
濡れそぼったズボンに苦労しながら、マコトどうにか帰宅した。
玄関を開けると、廊下で泰平が電話をしていた。横目で帰ってきた息子を見ると、「それではまた」と電話を切る。
マコトは上がり框に腰かけて、靴紐をほどきながら、
「親父、電話か? 勧誘ならとっとと断れよ。ウチはただでさえ家計が火の車なんだからな」
と背中越しに悪態をつく。
「馬鹿野郎。ガキが家計の心配なんかしてんじゃねえ。それに帰ってきたらまず〝ただいま〟だろうが。ったく、少しはその言葉遣いを改めやがれ」
「だったら、心配されねえようにちゃんと稼げよ。それにそもそも、自分がそう育てたんじゃねえか。ガキの頃からずっと〝男らしくなれ〟って散々言ってやがったくせに」
「そういう意味で言ってたんじゃねえんだがなあ……」
何とも言えないもどかしさに、泰平は頭を掻きむしる。
「紅葉の――母ちゃんの遺言なんだよ」
少し拗ねた顔で泰平が母の名前を口にすると、マコトの背中がぴくりと震えた。
紅葉の顔を、マコトは写真でしか知らない。だが話だけは泰平から聞いていた。その母の遺言にそって、自分は今まで育てられてきたのか。
「おふくろが、俺の事を……?」
「紅葉が病弱だったって事は、お前も知ってるな? あいつはいつも、自分の子供には強く逞しく育って欲しいと言っていた。だから俺は……俺たちは、お前にそうなって欲しかったんだ」
亡き妻の面影を思い出しているのか、泰平の声は湿度をもっている。紅葉の話をするときは、いつもそうやって陰のある顔と声になるのだ。マコトもこの時ばかりは、慎ましい気分になった。
「それで俺を……」
「そりゃまあ、ちっとばかり育て方を間違えたってのは俺の責任だがな……。これじゃああっちに行った時に、あいつに『やりすぎだろ』って怒られるかもしれねえ。あいつはお嬢様育ちで体も弱かったが、芯が強くて怒るとメチャ怖いからな」
紅葉のメチャ怖い姿など、遺影にある優しそうな細面からは想像できない。とても感情を高ぶらせるタイプには思えないが、人は見かけによらないらしい。
泰平と紅葉は、どういう夫婦だったのだろう。それは一度も見た事のないマコトにはわからなかったが、先立たれてなお妻の願いを叶えようとしている父を見ていると、その愛の強さは伝わった。そしてその愛は、父を通して二人分、きちんと注がれていたのだ。
「そんな事ねえよ。親父は……その……ちゃんとやってるよ」
立派だよ、とは気恥ずかしくて言えなかった。
「ん? お前びしょ濡れじゃねえか。どっかで泳いできたのか?」
息子の下半身がずぶ濡れなのに気がついた泰平が、素っ頓狂な声を上げる。今頃気づいたのか、という感じだが、説明するよりも先にまずは風呂に入りたかった。何しろズボンを通り越して下着までびしょ濡れなのだ。布が肌に張り付いて不快な事この上ない。
「まあ、ちょっと……な。とりあえず、先に風呂に入らせてくれよ」
そう言ってマコトは、まだ何か言いたそうな泰平の横をすり抜け、そのまま風呂場へ直行した。
脱衣所で服を脱ぎ、熱めのシャワーを浴びる。冷えた足先に湯をかけると少し痺れた。六月とはいえ、池の水に浸かるのはまだ早かったようだ。
湯が腹に沁みる。見ると、赤くミミズ腫れになっていた。真一文字に胴体を横切る赤い線をなぞると、少女の太刀の鋭さが思い起こされる。
最後の連撃はともかく、居合いの腕前は相当なものだった。何より、一撃に込める気迫には鬼気迫るものがあった。今思い出してもぞくりと来る。熱い湯を浴びていても背筋が寒くなる。
それだけ自分を倒したかったのだろう。
自分を学園から排除し、姉の笑顔と家族の団欒を取り戻したい。その思いが、あの気弱で武道とは無縁そうな少女に凶刃を取らせたのだ。
果たして、勝ってしまって良かったのか。進学がかかっているとは言え、自分が目指す男の道には、一つの家族を犠牲にしてでも成し遂げる価値があるのだろうか。
自分さえいなければ。
あの時負けてやっていれば。
ふと湧いた考えを、頭から湯を被って洗い流す。
(違う、そうじゃない)
それでは何も解決しない。上手く言い表せないが、何かが違う事だけは解かる。そんな対処療法など、本当に問題を解決した事にならない。
例えあの時、自分が手を抜いて負けたとしても、少女がその後同じような状況に陥ったらどうする。
同じ事を繰り返すだろう。
決定的な終末を迎えるまで、最も安易な選択肢を延々と選び続けるに違いない。だからあれで良かったのだ。
一人の少女を最悪の結果から救ったと、理屈では理解できる。自分の行動が最善に近い。そう思い込んでも、自分で自分を誤魔化しているに過ぎず、後味の悪さは変わらなかった。。
何にしても全部言い訳だ。だが自己満足や手前勝手で割り切れるほど、マコトは傲慢ではなかった。
「何やってんだ、俺は……」
頭から流れた湯が、顎を伝って床に落ちる。排水溝へと流れ込む湯が、渦を巻いて勢いよく吸い込まれていく。
マコトの頭の中も、様々な思いが渦を巻いていた。
Tシャツとジーンズに着替える。茶の間に行くと、泰平が茶を淹れて待っていた。
ちゃぶ台を挟んで泰平の向かいに座る。黙って茶が差し出された。一口二口と飲む間、泰平は何も喋らない。マコトが話し出すのを黙って待っている。
マコトは湯のみを置き若干背筋を伸ばすと、ぽつぽつと今日の出来事を語り始めた。
朝の手紙の件から始まり、見ず知らずの少女に日本刀で襲われた事の全てを語る。そして少女が泣きながら吐露した心情事情も、一切合切洗いざらい話した。
話が終わっても、まだ泰平は何も言わない。目を瞑り、じっと押し黙ったまま座っているだけだ。
マコトもまた、一度閉じた口を再び開く事はなかった。
居間に沈黙が流れる。壁にかけてある時計の秒針の振動だけが、唯一存在する音だ。
「…………それで?」
泰平がようやく口を開いたと思ったら、ただそれだけを訊いてきた。
「それでって、それだけだ」
「はあ? 嘘つくな。悩んでんだろ、お前」
「う……」
眇めるような眼で核心を衝かれ、マコトは短く呻く。
違う――とは言えなかった。
「そのお嬢ちゃんに同情しちまったか? てめえの勝手で他人の事情を台無しにした事を後悔したのか? それで自分が間違ってるんじゃないかと思ってるんだろ?」
全て言い当てられた。胸を開いて見られたように、心の内を全部暴かれてしまった。
「挙句に自分が今までやってきた事が、すべて無意味だったんじゃねえかって迷っちまったか。それで俺様に何かお知恵を授かろうって魂胆だな? ったく、面倒臭い奴だなお前は」
「な、何だと!」
マコトはついちゃぶ台を両手で叩く。図星をさされたのが気に障ったのではない。そこまで見抜いていながら、ただ頬杖をついて何もかもお見通しだぞ、という顔をしている泰平の態度に腹を立てたからだ。
泰平は目を細め「けっ」と吐き捨てた。歪めた口元が悪意を一段と深めている。心底呆れたという表情だ。
「いちいち回りくどいんだよ、お前は。いつものお前なら、ただ『うるせえ、暑かったから水浴びしたんだよ』とか何とかで終わりだ。だがお嬢ちゃんの事情までくどくど説明するってこたあ、引っかかってるんだろ? そいつの事が。そいつの事情とやらが。つまり、お前は迷ってるんだ。自分がやった事が正しかったのか。自分が突き進んでいる道が間違っていないのかを。そして迷って迷って迷って迷って、答えが出ずに諦めて俺様に何かアドバイスを言って欲しいだけなんだ。誰かに『間違ってない、大丈夫、お前はお前の道を行け』とかクソくだらない事を言われてケツを押して欲しい。ただそれだけだ」
違うか? ――と泰平は片方の眉を上げる。
マコトは声も出なかった。
何も反論できない。本当に何もかもお見通しだった。ここまできれいに言い当てられると、悔しいとか恥ずかしいなどと思う事もできない。
「馬鹿野郎、何年お前の親をやってると思ってやがる。親を舐めんなよ」
それを言えば、泰平がマコトの親をやっているのと同じ年数だけ、マコトは泰平の子をやっているのだが、相変わらず父の事はわからない事だらけだった。親と子では、見るもの見えるものが随分違うらしい。
「解かったら少しは親を敬え」
そうは言われても、普段の姿があまりにも尊敬に値しないので急には無理な話だ。やはり日頃の行いというのは大事である。
「それは追々な。……で、他に言う事はないのか?」
鼻の穴を膨らませて得意満面な泰平は、途端に眉をしかめて「は?」と言った。
「だから、その尊敬する親父殿は、悩んでいる息子に何か他に言う事はねえのかって訊いてんだよ」
苛立ちを抑え、精一杯下手に出たつもりだが、どうやら泰平はお気に召さなかったようだ。それ以前に賞賛以外の言葉が出てくるのが予想外だったようで、数秒の間納得がいかないという顔をしていた。
「おいおい、小言垂れただけか? まさかあれだけ偉そうな事言っておいて、助言の一つもねえって事はねえだろ」
がっかりして溜め息をつくと、泰平の顔が見る見る不機嫌になっていく。期待していた反応が得られなかったので拗ねる子供みたいだ。
「知るかボケ。自分の悩みは自分で解決しやがれ。そもそも人をあてにするな。誰かに訊いたら答えが貰えるなんて、毛も生え揃ってねえガキみたいな甘い考えは捨てろ!」
逆ギレである。いい大人がする態度ではない。この一言で、泰平はマコトの中では大人ですらなくなった。体の大きな子供、もしくはただの阿呆に格下げになった。犬以下になる日も近い。
「んだテメェコラ、それが親の言う事か? 親なら親らしく、ちったあビシっと気の利いた台詞でも吐いてみろ!」
「うるせえ。だいたい迷うくらいなら最初っからやめちまえ。何が正しいかなんて、誰にもわかりゃしねえんだ。それをウジウジ迷いやがって、見てて苛々するんだよ。他人に気を遣って迷う程度なら、その程度の事だ。本当に譲れないモンなら、親が死のうが誰が泣こうがそれを踏みつけて踏みにじってから踏み越えるくらいの覚悟を持て。お前には何より、覚悟が足りねえ!」
決定的な一言に、マコトは足元が崩れ落ちたような感覚に襲われた。視界が激しく揺れ、色を失う。体を支えるためにちゃぶ台に着いた手が、小刻みに震えていた。揺れていたのは自分だった。
「我を通すってのは、他人と衝突する可能性を増やすって事だ。押し通す我が強いほど、それに潰されるものも多くなるし、対抗する者の我も強くなる。嫌われる事もある。変人扱いも受ける。当然てめえの我に押し潰されて泣く奴もいる。だがなあ、それは当たり前の事だ。因果応報ってやつだ。それが嫌なら、当たり障りなく八方美人に生きりゃあいいってだけの話よ」
一度段落を刻むように、泰平は胡坐の足を入れ替える。
「それができねえから我を通すんだろ? だったら通しきる覚悟を持て。てめえが通した我が、誰かの我を踏みつけて潰している事を自覚しろ。責任や代償のない信念ってのは、ただのガキのわがままと同じだって事を知れ。結果を全て受け止める事ができねえなら、そんなモン今すぐドブに捨てちまえ」
その覚悟がお前には足りない――もう一度言われた言葉を、マコトは深く噛み締める。
果たして自分にそこまでの覚悟があったのか。自分の通す我が他人を踏みつけている事など、今まで考えた事もなかった。せいぜい自分の事だけだ。自分だけなら、他人に何を言われようが思われようが構わない。だが己が通した我が他人にどういう影響を与えているかなんて、そこまで深く考えていなかった。
思い知らされた――覚悟が足りないと。
崩れたのは足元ではない。これまでの人生そのものだ。
今まで必死に貫いてきた信念が否定された。
信念ですらなかった。
ただの独りよがりだった。
「それで?」
存在する意味まで失ったような顔をする息子に、泰平は一言目と同じ言葉を言う。
「お前はどうしたい?」
酷な質問だ。今まで無自覚だからやってこれたものを、意識してできるかと問う。自覚して横暴になれるかと訊かれたも同じだ。
暴君となるか、従者となるかの二者択一。
中途半端は認めない。声は静かだが、妥協を許さない強さがあった。
沈黙が延々と流れる。
マコトは迷っていた。
業を知ってしまった今、敢えて自分の道を進む意味があるのかどうか。
他人を押しのけて進む価値があるのかどうか。
答えが出ない。出るはずもない。こんなにも重い選択を、今ここでできるわけがない。これまでの罪を曝け出されて、それでもまだ罪を犯すことができるだろうか。
突然頬に痛みが走った。
顔を上げると、目の前に泰平が平手を振りぬいた姿勢のまま立っていた。
頬を叩かれた事に、しばらく気がつかなかった。
泰平は呆然としているマコトを凝視している。その目には、マコトがこれまで見たこともないような熱が篭っている。
「迷うな!」
と泰平は言った。
「悩むのはいい。だが迷うな」
と師が弟子を見る眼で言った。
「悩むのは道を選ぶ行いだが、迷うのは道を見失う行いだ」
と賢者が愚者を見る眼で言った。
「いくらでも悩め。それがこれまでお前がしてきた事に対する代償だ。だが決して迷うな。それは今まで踏み潰していったものに対する冒涜だ」
と親が子を見る眼で言った。
「悩むのは若い奴の仕事だ。悩まないで生きてきた奴に、ろくなヤツはいねえ。今のうちにせいぜいしっかり悩んどけ」
最後にそういうと、泰平は茶の間を出て行った。
襖がぴしゃりと閉まると、再び居間に沈黙が訪れる。
独り残されたマコトは、痛む頬をさすった。
熱かった。




