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五行さんちの三姉妹

   五行院さんちの三姉妹

                 ◆

 翌日の火曜日からは、平常授業だった。

 朝のホームルームで担任から名前だけの適当な紹介をされただけで、マコトは女子渦巻くクラスの中に放り込まれた。所詮仮初めの存在、ということらしい。

 上流階級は総じて世事に疎いのか、マコトの名前を奇異に思う生徒は誰もいなかった。ただマコトを異物を見るような眼でねめつけるねっとりとした視線は、予想していたとはいえ精神的にくるものがある。だがその程度ならば気にしない。むしろ好奇心丸出しの女生徒に取り囲まれるほうが、勘弁してもらいたいくらいだ。

 授業で使う教科書は前もって郵送されていたので、机を並べて隣の席の者に見せてもらうというベタな展開もなかった。だが教科書を開いた途端、いきなり意表を衝かれた。前にいた学校よりも、授業がかなり先に進んでいるのである。

 さすがにお嬢様学校のハイエンドだけあって、授業のレヴェルが半端じゃない。何しろ彼が前に居た学校の教科書なぞ、一年生の間に終わらせていたのだ。成績は悪くないと思っていたマコトだったが、さすがにこれはまずいと感じた。この学園に来て初めての、異性以外の危機である。

 これでは授業についていけず、進学どころか進級すら危ういではないか。しかしよくよく考えてみれば、自分は一ヶ月だけの仮編入生だ。別に授業に遅れようが大した問題ではないのではないか。いや待て。たとえ一ヶ月だけとはいえ、この学園での成績が内申書に影響を及ぼさないとも限らない。やはり授業には早急に追いついたほうが無難だろう。

 しかしどうすればいいか、その方法がわからない。苦悩のあまり思わず力が入り、新品の教科書をくしゃくしゃにしてしまった。


 一時間目が終わり、マコトが復習と今後の授業に頭を痛めていると、

「キミ、ちょっといいかな?」

 一人の女生徒が話しかけてきた。

「ボクさ、クラス委員なんだ。だから一応、キミの面倒を先生に頼まれてるんだよね。何か困った事があったら、遠慮なく言ってね」

 屈託も無く話しかけられ、マコトは地獄で仏に会ったような心境だった。いきなり授業において行かれたので、二進も三進も行かなくなっていたのだ。

 マコトはどうしようかと一瞬迷った。だがここで意地を張っても仕方ないし、いま頼れるのは目の前の女生徒しか居ない。考える余地は無かった。

「なら……さっそくで悪いが、できればこれまでのノートを貸してくれるとありがたい。ここの授業は先に進みすぎていて、とてもついていけん」

 思い切って正直に告白すると、女生徒は意外な顔をした。

「ふ~ん、そうなんだ。大変だね」

「まさかこれほどとはな……。この学校のレヴェルを少々甘く見ていたようだ」

「意外と真面目なんだね~。あ~……でもさ~……」

 少女は少し言い難そうに口ごもった後、

「ボクってば、あんまり頭良くないんだよね。勉強は苦手っていうか嫌いな部類でさ、ノートはいつもテスト前に人のをコピーさせてもらってるクチなのだよコレが」

 と爽やかな笑顔で言った。照れているというか、むしろどうだ参ったかと胸を張っているかのようだ。その堂々っぷりに、マコトは逆に感心してしまう。

 たしかに、目の前の少女はクラス委員という感じはしなかった。均整のとれた体は運動に優れているように見え、ボーイッシュなショートカットがさらに活発さに磨きをかけている。マコトの貧困なイメージでは、委員長は総じてメガネをかけていて、ひ弱でおとなしそうなガリ勉タイプだ。ついでに言うと髪はおさげが望ましい。彼女はどちらかと言えば、体育委員タイプだろう。

「……お前、クラス委員なんだろ?」

「まあそうなんだけどね。ボクの場合、勉強ができるからじゃなくて、何て言うか頼れる存在? 姉御肌って言うのかな~、まあそんな感じで推されちゃってさ~。ホラ、ボク空手部でも部長やってるし」

 ホラ、と言われても、マコトは彼女の事はおろか、この学園についてほとんど何も知らない。けれど少女が空手部の部長というのは頷ける。むしろクラス委員よりも遥かに説得力があった。

「なるほど。頭脳派というよりはリーダーシップ、あるいはカリスマで委員長に選ばれたのか」

「そうそう、それそれ。ボクってばカリスマいいんちょさん。自慢じゃないけど、ボクって結構人気者だからね」

 女生徒は嬉しそうにマコトを指さす。カリスマ委員長がどういうものか解からないが、この性格が周りを明るくして人を惹きつけるのだろう。委員長というよりは、典型的な宴会部長のような気もするが。

 それはさておき、ノートが入手できないとなると、後は自力で何とかするしかない。とはいえまだ顔も名前もろくに知らない女子に借りる事など、とてもできないだろう。声をかけられるかどうかすら怪しい。

「……塞がったな、八方が」

「早っ! もう塞がったの!?」

 倒置法で言ったところでどうにかなるわけでもないが、それだけ困窮しているのだろう。

 困り果てたクラスメイトの姿に、委員長は少し考える仕草をしてから、そうだ、と手を打つ。

「放課後にでもボクが誰かのノートを借りて、コピーしてきてあげるよ。とりあえず今日は頑張って諦めて」

「諦めるのを頑張るのか……。いや、それで十分だ。すまないが頼めるか?」

「お安い御用さ」

 委員長は自信満々に胸を叩く。よほど確実な当てがあるのだろう。それだけ日頃から人にノートを借りているという事か。

「ところでさあ、そんなの着てて暑くないの?」

 委員長が珍しそうに学ランを指差すと、マコトは自分の上着をつまむ。

「そりゃ少しは暑いが、学ランは男の象徴だ。たとえ真夏でも学ランを着る。それが男ってモンだ」

「へ~。真冬でも女の子がミニスカを穿くのとおんなじようなモンか」

「あんな見栄えばかり気にしてる奴らと一緒にするな。学ランには男のロマンがあるんだよ」

「そういう決め付けはよくないよ。女の子もポリシーがあって、ミニスカを穿いてるんだから。少しでも足を長く見せたい。そのためなら寒かろうが、オヤジがいやらしい目で見てこようが関係ないの。彼女たちも信念を貫くために、あえて真冬でもミニスカを穿いてフトモモを鳥肌だらけにしてるんだよ。その努力と根性を知らない人に、軽々しく馬鹿にして欲しくないね」

 思わぬ熱い反論に、マコトは気圧される。たしかに真冬にあの格好は、見ているこっちまで寒くなる。なるほど、あの格好の裏にはそこまで深いものが隠されていたのか、と逆に感心してしまった。

「そ、そうか……悪かったな」

「わかればいいんだよ」

 素直に過ちを認めたマコトに、委員長は満足そうに微笑んだ。

「ところでキミ、ボクの事覚えてない?」

 唐突に質問されても、彼女の事は記憶になかった。

「いや、初対面じゃないのか?」

 率直な回答をすると、委員長は「え~……」と不満そうな顔をする。

「ん~、ボクって印象薄いのかなあ? まあ覚えてないのも無理ないか」

 顎に手を当てて小首をかしげると、少女は勝手に納得する。その姿を注意してよく見ても、マコトには心当たりがなかった。もっとも彼の女性を見分ける能力など、素人がヒヨコの雄雌を見分ける能力より劣るのだが。

 休み時間終了の鐘が鳴る。

「ブ~、時間切れ~」

 委員長はくるりと背を向け、自分の席に戻ろうと一歩踏み出した。

「おい、答えを言って行け。気になるじゃないか」

 慌ててマコトが声をかけると、その言葉を待ってましたとばかりに少女がぴたりと立ち止まって振り返る。

「ボク、五行院花火。次からは『お前』じゃなくて『花火』って呼んでいいよ」

 じゃあね~と手を振ると、少女――五行院花火はさっさと自分の席に帰ってしまった。

「あ――」

 マコトが何かを言う前に、教室に先生が入ってきた。花火が号令をかけると、生徒たちが一斉に起立する。仕方なくマコトはそれ以上の追求を諦めて席を立った。

「そうか、あいつ……」

 礼の号令で頭を下げた時、昨日車から降りてきた三人の中に、花火が居た記憶がようやくこぼれ出た。

                 ◆

 三時間目は体育だ。

 女子たちは着替えを持って、ぞろぞろと教室を出て更衣室へと向かう。

 だがただ一人、マコトだけは教室にとどまっていた。何故ならトイレや下駄箱と違い、更衣室として彼のためだけに空ける余分な教室がなかったからだ。仕方なく応急措置として、他の生徒たちが移動して空になった教室で着替える事となったのである。

 全員退室したのを確かめ、カーテンをすべて閉める。貸し切り状態の教室は、たった一人で着替えるにはあまりにも広すぎる。妙に落ち着かない気がするが、他に場所がないのでどうしようもない。それに廊下や便所で着替えろと言われるよりは遥かにマシな待遇だろう。


 体操着に着替えてグラウンドに出ると、競泳水着にパーカーを羽織っただけの姿で仁王立ちしている女性が待っていた。

 でかい女だ――とマコトは思った。長身のマコトよりはやや低いが、女性にしてはがっしりとしている。髪も短くベリーショートで、女性用の水着を着ていなければ遠目で判断できなかっただろう。

「君が噂の編入生か。あたしは二年生の体育を担当している笹島勇ささじまゆうだ。よろしくな」

 笹島は屈託のない笑顔を向ける。無邪気な笑顔とよく日に焼けた肌は、まるで夏休みの小学生のようだ。マコトは若い女性の体育教師を初めて見るが、この学園には女性しかいないのだから当たり前かと納得した。

 そんな事を考えていると、笹島は舐めるようにじろじろ見てきた。

「うん、やっぱり男子の短パン姿はいい。心が洗われる。まさに眼福ってヤツだな」

 うんうんと納得するように頷く笹島に、マコトは閉口する。だが彼女は見るだけに飽き足らず、彼の尻や太ももを触り始めた。

「お、おい。何やってんだよ、あんた……」

 これはもしや、逆セクハラという奴ではないだろうか。だが体育教師は生徒の不審な目にも負けず、しきりに撫でてくる。撫でくり回す。

 今度は抱きつくように密着し、掌を背中全体に這わす。笹島は見た目は筋肉質だが、実際触れてみれば驚くほど柔らかかった。男とはまったく違うしなやかな肉の感触に、これまで感じた事のない衝撃が脳を走る。

「ほうほう……よく鍛えてるな。大胸筋もいいが、特に背筋がいい。男は背中で語るって言うからな」

「いや、それ意味違うだろ……」

 辱めを受けているような感覚に、ツッコミを入れる声もどこか弱々しい。苦手な女性に触れられて抵抗できないのをいい事に、体育教師はマコトの肉体を心ゆくまで触り尽くした。

「いや~満足満足。ごっそさん」

 最後におまけとばかりに、笹島はマコトの尻を叩いてから解放した。ぴしゃりといい音が鳴り、意外な衝撃にマコトは少しよろける。

「……あんた、いったい何がしたかったんだ?」

「何がって、教師と生徒のスキンシップに決まっておろうが」

「どう見ても一方的なセクハラじゃねえか。勝手に人の体をなでくり回すな」

「何を言う。君だってあたしの水着姿を見たり触ったりしただろ。お互い様じゃないか」

「そっちが勝手に抱きついたんじゃねえか! 俺は別にあんたの水着なんて見たかねえよ」

「まあそう遠慮するな。男なんだから、女の体に興味を持つのは当たり前の事だ。別に恥ずかしい事じゃないぞ」

 ほれほれ、と笹島はパーカーを開いたり閉じたりして豊満な胸を見せつける。マコトは頭が痛くなってきた。

「いいからさっさと授業を始めろよ」

「うむ、実はそれなんだが……今女子たちはプールにいるんだが、あたしはそっちの相手をしなくちゃならないんだ。悪いが君の面倒は見れん」

「何だって? じゃあ俺はどうすればいいんだ?」

「すまないが、一人でマラソンでも何でもしててくれ」

「はあ? 俺はプールに入れねえのかよ?」

 それがなあ、と笹島は頭をかく。

「お年頃の彼女たちは、男子と一緒にプールに入りたくないそうなんだ。男子が浸かった水に入ると妊娠してしまう、とか言い出す生徒までいてな……。勿論あたしはそんな事はないと説明したんだが、なにぶん多勢に無勢というか、彼女たちには教師の人事にまで影響を及ぼす強力な親がいるから……情けない話だが、あたしにはどうする事もできない」

 さすがにマコトは絶句してしまう。妊娠云々は置いといて、そこまで拒絶反応を起こすのは異常ではないだろうか。女嫌いの自分でもさすがにこれほど過剰な反応はしない。だが同病相哀れむというか、彼女たちの気持ちも解からないではなかった。

「……わかったよ。どうせ水着も持ってきてねえし、一人で走ってたほうが気楽だ」

「理解してくれて助かる。それと、勝手な言い分かもしれんが、彼女たちを恨んだり憎んだりしないでやってくれないか」

 彼女たちも戸惑っているのだ。何しろ小学校からエスカレーターで上がってきた生徒たちは、これまでずっと女子校の中で生きてきたのだ。接触する異性といえば、家族と限られた人間だけである。それが急に見知らぬ男が学園に現れたとしたら、パニックに似た症状に陥るだろう。

「ここの教育方針が間違ってるとは思わないが、こんな温室でぬくぬく育っていては、社会に出た時に困るのは彼女たちだ。だからあたしは、共学化は彼女たちにとって良い事だと思っている」

「いいのかよ、ここの教師がそんな事言って?」

「たしかに大っぴらには言えない。だがあたしはこの学園に雇われている教師である前に、一人の大人だ。子供たちの将来を憂慮し、意義を唱える義務がある」

 しかし悲しいかな力不足だがな、と笹島は自分の無力さを痛感するように目を伏せる。

「だから君には期待しているんだ。この仮編入の結果次第で、共学化が実現するかもしれない。この温室のような閉じた世界に新しい風を吹き込めるんだ」

「けどよ、温室に外の風を入れたら、中の花が枯れちまわねえか?」

「そうならないように免疫をつけるのが君の役割なんだ。共学になるにせよならないにせよ、いずれ彼女たちは異性と関わる。その時になって今日のようなパニックを起こさないためにも、君にはどんどん彼女たちと接触してもらいたい。それにあたしは温室の弱さを孕んだ儚い花よりも、野にあって風雪に耐える花こそ真に美しいと思っている。この学園の生徒たちにも、ぜひそうなって欲しい」

 つまり笹島はこれにめげず、どんどん女生徒たちにちょっかいをかけろと発破をかけているのだ。セクハラ行為から転じて至極まっとうな意見を言う姿も意外だが、教師自ら女子に手を出せと応援するのもどうかと思う。

「君の力でこの学園を共学にしてくれ。そうすれば、あたしも授業という名目で、堂々と男子の体操着姿や水着姿を愛でられるからな」

「……それが本音か」

「当然だ。せっかく体育教師になったというのに、女子校に赴任させられてしまったあたしの落胆ぶりが君に理解できるか? たしかに可愛い女の子を見るのは楽しいが、生憎ソッチの趣味はない。あたしが求めているのは萌えや百合ではなく、男性ホルモンなんだよ」

「あんた、そのうち捕まるぞ……」

「手を出さなければ問題ない。見るだけならタダだからな」

 無駄に爽やかに断言されても、変質者の言う事なのでまったく安心できない。というか、ついさっきべたべた触ってきたではないか。何かやらかす前に、いっそ今この場で警察に通報したほうが良いのかもしれない。

 しかし趣味や嗜好はどうであれ、教師の中に自分に味方してくれる者がいるのがありがたかった。具体的に何か支援してくれるわけではないが、孤立しているという精神的な負担がかなり減ったような気がする。

 反面責任も増えた。笹島が期待するのは勝手だが、マコトだって女子とどう接していいかわからないのだ。ここが男子校で、一ヶ月で学校をシメろと言われればまだ何とかできるだろう。だが相手は女子だ。はっきり言って絶望的である。

 彼女には悪いが、明らかに荷が勝ち過ぎている。これ以上過剰な期待をされる前に、自分が女嫌いだという事を正直に白状してしまおうか。しかしせっかく期待してくれているを裏切るのは心苦しい。

「それじゃ、あたしは女子の授業に戻るから。君は女子とどうやって仲良くなるかとか考えながら、その辺をテキトーに走っててくれたまえ」

 マコトがどうしようか迷っている間に、笹島はビーチサンダルをぺたぺた鳴らしながら去って行った。

「あ…………」

 結局何も言い出せないまま、体育教師の背中を見送る。サンダルの音がやがてフェードアウトしていくと、マコトの肩ががくっと下がった。

 回れ右をし、視線を校舎から広大なグラウンドへと向ける。見渡す限り人っ子一人なく、一周するのにどれだけかかるか見当もつかない。

「……とりあえず走るか」

 足取りは重かったが、体を動かしていると頭が冴えるような気がした。初夏の陽射しを受けながら、黙々と走る。徐々にペースが上がり、汗が額をだくだくと流れる。

 最初は笹島の言うとおり、今後の事をあれこれと考えていたが、次第に走る事に集中し始めた。今はただ、一心不乱に走る。

 時おり吹く風が心地良いが、容赦なく照りつける太陽のせいで暑くてたまらない。もうどれくらい走っただろう。熱に浮かされた頭は思考する事を放棄し、足は自動的に体を前へ前へと押し出す。肺が悲鳴を上げるが、それでもひたすら走る。

 だだっ広いグラウンドを一周して戻って来て、ようやくマコトは走るのをやめた。両手を膝に乗せ肩で息をし、頬を伝った汗が次々と地面に落ちて染みを作る。

 酸欠で真っ白になった頭でマコトが思ったのは、

 ――俺も泳ぎてえ――

 それだけだった。

                 ◆

 退屈な授業もようやく午前が終わり、待ちに待った昼休みがやってきた。

 花火はトイレに寄って手を洗ってから、弁当箱を片手に部室へ向かう。

 一階まで下り、下足場に着いたところで見覚えのある姿を発見した。見覚えというか、学ランを着ている者などこの学園に一人しか居ない。

 マコトはキョロキョロと、何かを探すように辺りを見回している。ときおりブツブツと何かを呟いている姿が実に怪しい。

「むむ、不審者発見」

 クラスメイトを不審者扱いすると、花火は下駄箱の陰に隠れる。気分は張り込みをする刑事だ。別にこっそり監視する必要などないのだが、ついノリでそうしてしまうお茶目な自分が大好きだった。

 彼は何をやっているのだろう。まさか道に迷ったという事はないと思うが、この学園の規模ならありえない話ではない。だとしたらこのまま放置プレイをするのも気の毒だ。

 しょ~がないな~、だってボクってばクラス委員だしね。いいんちょはつらいよ、などと億劫そうにしながらも、困っている人を放っておけないのが花火の美点だ。その性格故に委員長に推されたのだが、悲しいかな本人は気がついていない。

 下駄箱からひょっこりと出て声をかける。

「どうしたの、キミ。何か探し物?」

「ん? ああ、何だ、委員長か」

「やだなあ、花火でいいってば」

 花火は手をひらひらさせる。マコトはうむ、と口篭り、言い直そうとするがどうにも慣れていないのか途中でやめた。

「それより、さっきから何をウロウロしてるんだい?」

「いや、購買部か食堂を探してたんだが……一向に見つからなくてな」

「購買部? 食堂? なんで?」

「昼飯を買うからに決まってるだろ」

 そう言われて見てみれば、マコトは手ぶらだった。昼休み開始直後に教室を出たと思ったら、昼食を求めてさまよっていたのか。

「この学校にそんなのないよ」

「な……何い……?」

 そう大袈裟に驚くほどの事なのだろうか。花火は他の学校を知らないので、マコトの反応がいまいち理解できない。っていうか『購買部』って何する部活? といった感じだ。

「うちの学校、お弁当持参率百パーだもん。わざわざお店で買ったりしないよ」

「もしうっかり忘れて来たらどうするんだよ? それに、文房具なんかが切れたりしたら困るだろうが」

 花火には、力説しているマコトの熱がまったく伝わらない。まるでよその国の人と会話しているようで、カルチャーギャップを感じてしまう。

「いや、だってさあ……」

 スカートのポケットから携帯電話を取り出す。この頃の女子高生にしては珍しく、ストラップの類は何もつけていない。

「忘れ物したって電話一本で届けてくれるし、それにほら――」

 花火の指先が玄関の外を指す。その先には、ずらりと並んだ高級車の海があった。生徒の昼食を届けに来た、使用人たちの車である。

「ね、だから購買部とか食堂なんて必要ないの。こう言っちゃあナンだけど、うちってお嬢様学校だから」

 これもひとえに校内の治安維持のためである。出入りする業者が増えると、それだけ賊の侵入が容易くなる。学園は、生徒の安全をを最優先しているのだ。

「……このブルジョアどもめ。ここは軍事基地か?」

「やだなあ、軍事基地にだって売店や食堂くらいあるよ」

 むしろ基地のほうがオープンなくらいだ。米国国防総省ペンタゴンでさえ、ここまで排他的な安全対策はしないだろう。

「わかった? 残念だけど、今日はお昼抜きだね。これに懲りたら、もうお弁当忘れちゃダメだよ」

「忘れてねえよ」

「へ? じゃあお母さんがお寝坊しちゃったとか?」

「おふくろはいねえよ。俺を産んですぐに死んだんだ」

「ふ~ん、そっか」

 花火の素っ気ない返事に、マコトは少し唖然とした。

「どうしたの? 変な顔して」

「いや、お前は謝らないんだな……」

「どうして?」

「今までこういう話をすると、相手は決まってゴメンとか悪いとか言いやがる。別に謝られても意味ねえのにな。変に気を使う方がよっぽど悪いっつうの」

「そうだね。ボクもお父さんいないから、その気持ち解かるな」

「そうか……」

「うん。まあ、ボクんちのは離婚なんだけど、みんなよそよそしくなっちゃうんだよね。こっちはもう何とも思ってないのに、それで反って意識しちゃう――自分が片親なんだなあって。同情みたいなので優しくされても、嬉しくも何ともない。やんなっちゃうよ」

 そう言って、花火は少し寂しそうに微笑んだ。

 マコトも「ああそうだな」と同じように笑う。

 彼のかすかに陰のある笑顔に、花火はちょっとだけどきりとした。普段はへの字口で無愛想だけど、こういう顔もできるのか。少し意外だった。

「クソ、水でもガブ飲みして腹を誤魔化すか……」

 水で胃袋を膨らませる、カラ弁という奥の手である。本当にそうする気なのか、マコトは水飲み場の場所を訊いてきた。植物じゃあるまいし、健康な十代が食事を抜いて水だけで我慢できるわけがない。

 花火は少々迷ったが、ええいこれも委員長の務め、とマコトに自分の弁当を差し出した。

「良かったらコレ食べて」

「いいのか? けど、委員長はどうするんだよ?」

「ボクの事はいいよ。部室に行ったら後輩ちゃんたちが居るから、ちょっとずつみんなに恵んでもらうし」

 だからハイ、と言って半ば強引に弁当の包みを押し付ける。

「あ……おい……」

「容器は後でちゃんと返してね。でないと明日はボクがお昼抜きになっちゃうから」

「だから待てって――」

「それじゃね~」

 まだ何か言いたそうなマコトに、花火はくるりと背を向けてそのまま軽快に走り出す。

 後ろから「ありがとよ、委員長!」と大声が聞こえた。

「だから花火でいいって……」

 小さく呟きながら、花火は恥ずかしさを隠すように全力で走った。

 最初はそうする気などまったく無かったのに、なぜ自分の弁当を渡してしまったのだろう。

 片親同士という事で、共感を覚えたからだろうか。それも確かにある。だけど理由はそれだけではないような気がした。

 だが深く考える前に、花火の腹が小さく鳴る。急がねば後輩たちの昼食が終わって、空腹のまま午後の授業を受けなければならなくなる。そしてそのまま部活をするなど、とてもできない耐えられない。

 なら急ぐしかない。

「残っててね、お弁当ちゃん」

 むずがる胃袋をなだめて、花火は部室へと馳せた。

                 ◆

 花火の姿が、もの凄い速さで小さくなる。

 エネルギーの塊のような少女が去ると、心なしか空間の密度が減ったような気がした。

「ふむ……」

 手に持った包みを見る。女の子らしいファンシーな巾着袋の中には、負けじとファンシーなランチボックスが入っていた。

「こ、これは…………」

 こんな可愛いものを教室で広げた日には、ただでさえクラスで疎外されているのが今度は迫害に変わるかもしれない。嫌なランクアップだ。

 考えるまでもなく、教室に戻る事は却下。どこか独りで弁当を食べられる場所を探して、中庭のほうへ移動する。

 梅雨時の晴れの日はみんな考える事が同じのようで、中庭には同じ目的の生徒たちが溢れていた。ベンチはすべて埋まり、芝生の上にビニールシートを広げてピクニック気分を満喫している猛者まで居る始末だ。

 二秒で諦めて回れ右をする。

 校舎まで引き返そうとした足がふと止まる。この手に持ったメルヘンな物体を、あまり人に見せるのは得策ではないような気がした。とてもいけない気がした。

 校舎に入らず壁際を歩く。なるべく人目につかないように、巾着袋を小脇に抱えて歩くのも忘れない。まるで爆発物を持ち歩いているようで、警備員に見つかったら声をかけられそうだ。マコトにとって破壊力は似たようなものだが。

 極力人気の無いルートを選んだおかげで、どうにか誰にも見つからずに校舎裏までたどり着いた。苦労の甲斐あって、ここまで足を伸ばして弁当を食いに来る生徒はいなかった。ほっと一息つく。全身に汗をかいていた。

 たかが弁当を食べる場所を探すのに、随分時間を浪費してしまった。昼休みも残りわずかだ。急がなければ、せっかくの花火の厚意が無駄になってしまう。

 念を入れて茂みの陰で弁当を広げる。手の平くらいの小さな弁当箱だった。よくこんな少量で満足できるものだ。マコトには絶望的に足りないが、貰ったものに文句をつけるほど恩知らずではない。

「いただきます」

 手を合わせて箸を親指に挟み、一礼してから弁当箱の蓋を開ける。中には玉子焼きや肉団子、人参やブロッコリーなどの温野菜が彩りよく並んでいる。この学園の生徒の弁当という事で超豪華な中身を想像したのだが、開けてビックリ意外と庶民的なラインナップだ。

 手作り感ほとばしる弁当は、見た目も良いが味も良かった。

 もぐもぐと咀嚼しながら、花火がどうして自分の弁当を渡したのかを考える。

 クラス委員だからか、それとも単なる同族意識か。まあそんなとこだろう。

 それにしても――。

 変な女だ。

 変わり者のマコトにそう思われるとは、不憫にもほどがある。

 だがそのおかげで、特に意識せず自然に会話ができていたのだ。これがもし他の女生徒だったら、まともに会話すらできなかったであろう。

 苦手な女性に囲まれた環境の中で、一人でも会話ができる相手がいる事は実にありがたい。どうにかこの学園で孤立せずに済みそうだ。別に孤独が嫌いというわけではないが、この学園に来た目的を果たすには、少なからず女性と接触して理解を深める事が必要不可欠である。

 何だかやっている事は限りなく軟派だ。これで本当に男の道を貫けるのか、甚だ疑問である。

 やはり泰平の言葉を鵜呑みにしたのが、そもそもの間違いではないのか。果たして男の道に女が関わる事があるのだろうか。冷静に考えれば考えるほど、自分が明後日の方向を向いているような気がする。明後日ならまだいいが、昨日の方向に向いていたら目も当てられない。

 頭を振って考えを打ち消す。

 何を迷っている。もうこうして編入してしまったのだ、何を今さら悩む必要がある。

 迷うな。悩むな。そんな暇があるなら、一歩でも前へ踏み出せ。

 萎えかけていた気力を、無理矢理奮い立たせる。

「…………よし」

 ガッツを取り戻した事を確認するように頷くと、弁当箱を片付け始めた。そろそろ予鈴が鳴る。

 手洗い場で軽く弁当箱を水ですすぐ。こうしておけば、家で洗う時に少しだけ楽なのだ。妙なところでマメな奴である。


 教室に戻ると、花火が浜辺に打ち上げられたトドのように、自分の机に突っ伏して寝ていた。他の生徒たちは、授業が始まるまで雑談に勤しんでいる。

 室内は騒然としており、誰もマコトが教室に入って来たことに気づいた素振りがない。相変わらず彼は空気とみなされていた。

 今なら誰にも気づかれないか――そう考えたマコトはあくまで自然を装って、傍目にはとてつもなく怪しい歩き方で花火の席に近づいた。

「よ、よお」

 操り人形のような動きで手を上げると、花火は首だけこちらに向ける。

「あ、キミか。どしたの?」

「いや、まあ、昼飯ちゃんと食えたのかなと思って……」

「うん、大丈夫だったよ。ご飯はさすがに小分けにできないから、おかずだけ貰ってた。いや~炭水化物以外っていうか、蛋白質メインでお腹が膨れるのって、なんか幸せだよね。だから今は、その余韻に浸ってるのさ」

 うっとりと至福の笑みを浮かべる花火。空腹で不貞寝していたのではなく、単に食後の昼寝をしていたのか。花火が食いっぱぐれていなかったので少しほっとする。

「良かったな。それで、コレ……」

「ああ、ボクのお弁当箱」

 花火の眼前に巾着袋を差し出す。彼女は体を起こしてそれを受け取った。

 その時、教室の中が一瞬ざわっとわなないた。それまでこちらにまったく無関心だと思われていた他のクラスメイトたちが、実は全神経をこちらに傾けていたのだ。

 今なら一もはっきりと知覚できる。こちらを見ていないはずの生徒たちから、幾十もの感覚の目が向けられている事を。

 見られていた。彼女たちは今まで興味がないフリをしながら、マコトの一挙手一投足を舐めるように観察していたのだ。

 ごくりと生唾を飲む。さっきまで蜘蛛の糸のように絡みついていた視線は殺気をまとい、今やワイヤーソーのような鋭利さをもっている。

 この糸をぐいと引っ張れば、五体がばらばらになる。そんなイメージが頭の中をよぎった。まさに絶体絶命である。

「別に放課後でも良かったのに」

 マコトの内心など察していないのか、花火の態度にはまったく変化がない。これだけの敵意や殺気に気がつかないのか。

 いや、それらを向けられているのは彼だけなのだ。彼女たちの負の波動は、巧妙に狙い撃ちされ的確に獲物だけを突き刺している。訓練された猟犬さながらだ。

「ま、まあ、早い方がいいと思ってな」

 声が上ずりかけるのを懸命に堪える。別に遅かろうが早かろうが関係ない。この手のモノをいつまでも手元に置いておくのは何となく落ち着かなかったのだが、今は身の危険を感じているせいで落ち着かない。

「うん、それじゃあ確かに」

 花火は巾着袋を受け取る。

「助かった。恩に着る」

 この場に長く留まっていると、本当に命がピンチになりかねない。早々に切り上げるが吉だろう。

「それじゃ」

 そそくさと立ち去ろうとすると、花火に「それだけ?」と呼び止められた。マコトは歩き出した体勢のまま固まる。

(それだけとはどういう意味だ。まさか金か? 代金を請求するのか? いくらだ。いくら出せば、この殺意の包囲網から無事に脱出させてくれるのか)

「……それだけ、とは?」

 マコトは油の切れた機械のような音を立てて振り返る。

 花火は包みを膝に置き、じっとこちらを見つめている。何かお気に召さない様子だ。

 いくらだ、そうマコトの口から出かけた刹那、

「こういう時は、お世辞でも〝美味しかった〟とか言うもんだよ?」

 わかってないな~、と花火が駄目な彼氏を叱るみたいに言った瞬間、光の速さで殺気が膨らんでいき、負の暗黒オーラが怒涛のようにマコトを飲み込んだ。

 毒電波のように叩き付けれる思念に気分が悪くなる。放射能よりも有害な大気にさらされ、少しでも気を抜けば意識がトびそうになる。全身が粟立ち、背中を嫌な汗が伝う。肝が縮み上がり、あまりの怖気にハゲそうだ。

 その時、花火の背後にいる女生徒たちが一斉にこちらを見た。全員頭に『花火LOVE』と書かれた鉢巻をしている。そしてゆっくりと親指を自分の首に持ってくると、首をかき切るようなジェスチャーを決めた。彼女らは花火ファンクラブの会員なのだろう。喉から手が出るほど欲して止まない花火の手作り弁当を食べたマコトを、視線だけで殺さんばかりに睨んでいる。

 マコトは初めて知った。

 人は、殺意だけで人を殺せる。

 首から下が動かない。目だけを動かすと、花火が何かを求めるような瞳で見上げている。ここまでが一秒。

 唇が動く。体内の水分が全て気化し、乾燥して張り付いた唇を無理矢理こじ開ける。ここまでで二秒。

 肺から空気を搾り出し、気管を経由して声帯を振動させる。器官が窒素と二酸化炭素を意味のある言語に変換するまでに三秒。

「……う、うまかった、ぜ」

 たった一言に三秒。だがその間に消費したエネルギーは、フルマラソンを完走するよりも多い。

「よろしい」

 やや不機嫌気味だったのが一転し、花火がにっかり笑う。

 まるで恋人同士のようなやりとりに、ますます彼女たちの嫉妬の炎が燃え上がる。今や教室は致死性の毒ガスが充満したかのようになり、マコトを苦しめていた。

「どうしたの?」

「いや、何でもない……」

 息苦しさから逃れるように、学ランの襟に指を突っ込み広げる。襟のカラーは汗で湿っていて、中のシャツはぴったりと肌に張り付いていた。

「ところで、明日からどうするの?」

「出がけにコンビニで何か買う」

「それじゃあ栄養が偏っちゃうよ。キミ、家事とかしないっぽいし。夕飯もどうせレトルトかスーパーのお惣菜でしょ?」

 大正解である。

 「たまには料理くらいするぞ」

 カレーとかカレー、あとカレー。

「カレーしか作れないじゃん」

「ぐ……。委員長の家だって、食事は雇いのコックが作ってるんじゃないのか?」

 あの弁当だって――と言いかけて、はっと言葉を止める。地雷に足を乗せかけた感覚。止めなければ間違いなく木っ端微塵に吹き飛ぶ予感。マコトの動物的本能が警告をワンワン鳴らす。危険。危険。

「そりゃあいるけど、ボクんちだって毎日じゃないよ。ちゃんと自分で料理する時だってあるもん。あのお弁当だって……なに、その目?」

 地雷回避。やはりあの弁当は花火の手作りだったのか。言わなくて良かった。

「いや、自分で料理するんだ」

「意外?」

 不本意な顔をする花火に、一は素直に首肯した。

「だってこの学校って、アンチ良妻賢母だろ? 料理なんかできませ~ん、必要ありませ~ん。包丁なんて握った事ありませ~んってな奴だらけってイメージがあるぞ」

「それは偏見だよ。だって生きていく限り食事は必要じゃない。それは男も女も関係ないよ。家庭科の授業だって普通にあるし」

「……なるほど、納得した」

 つまりこの学園は、ただ独立するだけではなく、自立した女性を育成しているのだ。男に依存せず、寄生せず、そして負けず。全てを自分でまかなう、独立汎用人型兵器の生産工場というところか。軍事利用される日もそう遠くなさそうだ。

「闇雲に男に対抗しているわけじゃないんだな」

「そうだと思うけどね。だって、どう頑張っても一人でずっと生きる事はできないし、そんなの寂しいじゃん。それに、どんなに嫌っても、男の人はどこにでも居るんだし、だったらなるべく仲良くした方がお互い楽しくない? 意地を張って喧嘩して、ずっと背中向けてるのって何だか馬鹿らしいし悲しいよ」

 どうせ面付き合わせなければならないなら、仲良くする事に越した事はない。つい最近までの自分なら、お前は何を言ってるんだ、と思うだろうが、自分が嫌悪される側になった今、他人のフリ見てではないが身につまされるものがある。

 反面教師として、泰平はこの学園に自分を転入させたのだろうか。それとも単なるショック療法か。どちらにしろ、周りを見て己を知る事ができたのは大きな収穫と言える。

「そうだな、馬鹿らしいな」

 マコトは自戒を込めて笑う。

「でしょ?」

 花火は自信を込めて笑う。

 気がつけば、室内に立ち込めて、主にマコトを苦しめていた邪気が消えていた。花火の言葉に、彼女たちも思うところがあったのだろうか、叱られた子供のように俯いている。

「どうしたの?」

「いや、何でもない。とにかく今日は助かったぜ」

 丁度いいタイミングだったので、マコトは話を切り上げて席に戻った。

 昼休み終了の鐘が鳴る。鐘が鳴り止まないうちに担当の教師が教室のドアを開けると、他の生徒たちは蜘蛛の子を散らすように自分の席についた。


 午後の授業も、やっぱり最先端を突き抜けていた。おかげでマコトは無駄な抵抗を諦め、物思いに専念する事ができた。時々刺すような視線が首筋をちくりとさせるが、昼休みのアレに比べたら蚊が刺すようなものである。

 教師の話を右から左に流し、花火との会話を反芻する。

『闇雲に男に対抗しているわけじゃないんだな』

 女性の事を何一つ理解しようともせず、ただ闇雲に拒否していたのは自分のほうではないか。自分の事を棚に上げて、この学園を否定するとはおこがましいにもほどがある。

『どんなに嫌っても、男の人はどこにでも居るんだし、だったらなるべく仲良くした方がお互い楽しくない?』

 男らしさを追求するために、女性との接触を避けてきた。しかし泰平はそれは間違いだと言う。ではこれまでの人生は、まったくの無駄だったというのか。いや、そんな事はない。そんなはずはないと信じたい。だが花火の何気ない、だがそれでいて核心を突いた言葉がマコトの信念を揺るがす。

『意地を張って喧嘩して、ずっと背中向けてるのって何だか馬鹿らしいし悲しいよ』

 自分は意地を張っているだけではなかろうか。信念という名の思い込みを貫くために、他のもっと大事な事から目を反らしているだけではないのか。己が非を、過ちを認めないのはそれこそ男らしくないではないか。

 では男らしさとは何だ。

 これまで幾度となく自問自答してきたが、未だに答えは出ない。いや、もしかしたら一生かかっても出ないのかもしれない。

 そこではたと気づく。今まで答えが出なかったのは自分の凝り固まった考えのせいで、別の考え方ができれば案外すんなり答えが出るのではないだろうか。女性というものを理解し認め、受け入れる事ができれば道は開けるのではないか。泰平に限ってそれは考えすぎかもしれないが、あの男はそれを教えたいがために、自分を女子校に編入させたのではなかろうか。

 だがこれまでの人生を省察し、生き方を変えるのは並大抵の事ではない。今まで散々拒絶してきた女という生き物を、いきなり受け入れられるわけがない。人の価値観なんて、そう易々と変わるものではないのだ。

 溜め息をついて、思考を中断する。解決するどころか、悩みの種が増えただけだ。

 気がつくと、いつの間にか授業が終わっていた。

 ノートは真っ白だった。

                 ◆

 五行院学園の高等部校舎は、一階が三年生、二階が二年生、三階が一年生という「若いヤツは階段を使え」スタイルを採用しており、上級生になるほど毎日の上下運動が軽減される。

 よって三年生である清水は、妹たちよりも早く下足場に到着することが多い。着いたところで清水は生徒会、妹たちは部活動があるのでそのまま一緒に帰宅するわけではない。その日の三人の帰宅時間を報告しあい、調整するために一度集まるのだ。

 今日も清水はいつものように先に下足場に到着し、後から来る妹たちを階段から少し外れたところで待っていた。

 五行院学園は、帰宅部員が意外と少ない。ここまで授業がハイレヴェルだと、わざわざ塾や予備校に通う必要が無いからだ。生徒のほとんどが何がしかの部活動に籍を置いており、今いそいそと下校している者は学習塾以外の習い事に行くためだ。

 清水は階段を下りて、すぐ壁を背にする。階段の脇、屋内消火栓の隣がいつもの待ち合わせ場所である。

「清水お姉ちゃ~ん」

 ぼんやりと玄関を眺めていると、美土里が先に合流してきた。子犬のようにじゃれついてくる妹を見ると、清水は可愛いと思うと同時に、いつになったら姉離れするのだろうかと心配になる。

 三階の美土里が二階の花火よりも先に下りてくるのは、そう珍しい事ではない。花火はクラス委員なので、担任や級友などに足止めされる事が多いからだ。

 自分もそうだったから解かる。だが生徒会長となった今は、生徒はおろか教師まで腫れ物に触るようになり、校内を歩けばモーゼの如く人の波が割れる。信頼おける生徒会の役員たちも、僅かではあるが自分と距離を置いているのを感じる。

 両極端だ。もっとも、生徒や教師たちを責めるつもりはない。自分は一介の学生ではない。理事長の娘なのだ。

 長女の自分は、女系である五行院家の嫡子だ。それは生まれる前からそう決まっていたし、清水もそう教えられて育ったので何も異存はない。母のようにこの学園で修め、そしていずれは治める。すべては決まっている事だ。

 木葉は母であり先輩であり師であった。彼女と同じ道を辿り、そして肩を並べ、後々はその意思を受け継ぎ、理事長としてこの学園を統べる――はずだったのだが。

「花火お姉ちゃん遅いね……」

「そうね、ちょっと遅いわね」

 壁の時計を見てみれば、授業が終わって三十分は経っている。今日は掃除当番なのだろうか。だったら前もってそうだと聞いているはずだ。花火のことだから、急に都合の悪くなったクラスメイトと代わってやったという可能性もあるが、それでもこんなに遅れるだろうか。掃除など十分もあれば終わる……と思う。

 待ちくたびれて壁にもたれかかると、背中越しにコンクリートのひんやりとした感触と生徒たちのざわめきが伝わってくる。隣では美土里も同じように壁に背を預けていた。

 すれ違い様、下級生らしき生徒が清水に挨拶をして帰って行く。そうやってさらに何人か見送っていると、頭の上の方から、

「いや~まいったまいった。結構時間かかっちゃったね~」

 やけに軽快な花火の声が聞こえてきた。

 ようやく下りてきたか、と清水は壁から背を離し、妹を待ち構える。だが予想したタイミングを過ぎても花火は姿を現さなかった。まだ踊り場のあたりで誰かと話し込んでいるようだ。まったく、まだ待たせるつもりなのかと清水は内心溜め息を吐く。

 喧騒に混じって花火の声が聞こえてくる。よく通る上に普段から音量が大きい声は、ざわめきの中でさえ意識せずとも耳に届く。

 人の会話を盗み聞きしているようで気がひけるが、聞こえてしまうものはどうしようもない。それに、声をかけるタイミングを失っている。今出て行けば話の腰を折るだろうし、立ち聞きしていたとあらぬ疑いをかけられるやも知れない。だから清水はもう諦めて、話が終わって花火が下りて来るのを待つ事にした。

「まさかコピー機だと思ったら、実はシュレッダーだったとは。危うく友達のノートを紙吹雪にするところだったよ。あれはきっと国家の陰謀か何かだね」

(どこの国の陰謀よ)

「どこの国の陰謀だよ」

 清水の内心と同じツッコミが花火に入る。いいツッコミだ、などとは思わず、清水はその声の主が閃くように頭に浮かび、目を見開いた。

(あぁまぁもぉとぉまぁこぉとぉぉ……)

 隣に立っている妹にまで聞こえるくらいの歯軋り。美土里がびくっと肩を震わせて清水の方を見上げるが、そんな事にはまったく気がつかない。清水は苛々しながらも、辛うじて表情はそれと判らせないように装いながらじっと聞き耳を立てる。

「刷る量を間違えるわ、そのせいで紙が途中で切れるわでホント大変だったね~」

「他人事みたいに言うな。全部自分がやったんだろう。コピー機使った事あるのか?」

(無いわよそんなの。いつもいつも試験前に大量のノートを持って生徒会室に駆け込んできて、私に泣きつくんだから)

「あ、あるよ、一応。けど携帯よりも大きい機械は苦手でさあ」

「だったらほとんどの機械は苦手じゃないか……」

(ほとんどどころか、携帯だって満足に使えないわよこの子は。短縮に番号入れてあげたのだって、着メロ拾ってきてあげたのだって、待ち受け貼ってあげたのだって全部私なんだから。自分で扱えるのは、テレビのリモコンくらいじゃないかしら)

「とにかく、無事終わって良かったじゃない。クールでドライな今のご時世、過程よりも結果が大事なんだから。結果良ければ全て良し、万事オッケー銀河万丈って言うじゃない」

(言わないわよ!)

「言わねーよ」

「そうだっけ? まあ細かい事はいいじゃない。それで、他の教科は後日改めてってコトでいいかな?」

「問題ない。今日の分が取り返せるだけでも重畳だ」

「そう、ならその方向で。まあ二三日で残った教科のノートもかき集めてみせるよ。それまでは自力で何とかしてね」

「わかった。頼りにしてるぜ、委員長」

「もう、花火でいいってば」

「それはちょっと……抵抗があるな。五行院じゃあ駄目か?」

「別に駄目じゃないけど、苗字だとどうもしっくり来ないんだよね。学校名と同じだし、自分が呼ばれた気がしないから」

「そういうモンか?」

「そういうモンだよ。だからキミも、遠慮しないで花火って呼んでくれていいから」

「………………努力しよう」

「あはは、頑張ってね」

(頑張らなくていい。どうせ貴方はすぐにこの学園から消えるのよ。ついでに私たちの記憶からも消えなさい)

 清水が内心でムキーと癇癪持ちのボス猿のように唸っていると、ようやく二人が下りてきた。急いで心を落ち着け、沸騰寸前の血液を常温に戻す。

「それじゃ、ボクは部活あるから。じゃあまた明日」

「おう」

 花火と別れると、マコトは清水たちの存在に気づかないまま下駄箱に向かって行った。

「二人ともお待たせ。ゴメンね、ちょっと野暮用があって遅くなっちゃった」

「あら、そうだったの? 全然気にしてないわよ」

 清水はあくまでも平静を貫く。美土里は何か言いたげだったが、特に何も言わなかった。ただチワワみたく震え、何かを訴えかけるように瞳を潤ませていた。


 生徒会や部活動が終了し、再び三姉妹が集結する。

 予定が合わず三人が別々に帰る時は、もう一台車を呼び出すのだが、姉妹揃って登下校するのが暗黙のルールになっている。エコロジー精神なのだろうか、それともそれだけ仲が良いのかは三人のみぞ知るところである。

 玄関で待ち合わせ、駐車場に移動。忍耐強く待機していた運転手にドアを開けられると、目上の者から順番に乗り込む。


 緑の中を走る真っ黒なリムジンは、静かに校門を抜け市街地に出る。道路は少し混んでおり、それまで快調だった車の流れが緩やかになる。

「花火、貴方随分とあの編入生と仲がいいようね」

 静寂を破るように、唐突に清水は花火に話しかけた。部活で疲れたのか、うとうとしていた花火は体をぴくっと痙攣させて「ふぇ、なに?」と訊き返す。

「あまり彼と関わるのはよしなさい、と言ったの」

「何それ? 何できよ姉にそんな事言われないといけないの?」

 素直に聞き入れるとは思っていなかったが、それでも妹に反駁されると少しだけ腹が立った。

「私は花火のためを思って言ってるのよ。あんなろくでもない人、放っておきなさい」

「何も知らないのに、失礼な事言わないでよ。それに、きよ姉には関係ないでしょ」

「関係もなにも、姉が妹を心配したらいけないとでも言うの?」

「そうじゃなくて、どうしてきよ姉が彼を目の仇にするの? 自分が男嫌いだからって八つ当たりしないで欲しいな。そんなのきよ姉らしくないし、みっともないよ」

 痛いところを衝かれ、清水は歯噛みする。思わず手が出そうになるが、それを自制できるくらいはまだ冷静だった。

「それとこれとは話が別よ。私は、何故花火が彼の世話を焼いているのかが疑問なの。クラス委員だから、なんてイイ子チャンな理由は認めないからね」

 今度は花火がぐ、と押し黙った。刺しつ刺されつ――意味は違うが、双方急所を見事に衝いた一進一退の攻防である。

 剣呑な車内で、美土里は二人の姉の口喧嘩を止めることも口を挟む事もできずに、ただおろおろしていた。

 しばらく無言で睨み合う膠着状態が続いたが、やがて車が渋滞を抜けて動き出すと、二人は「フン」とそっぽを向いた。

 陽はすっかり落ちており、車の窓には外の夜景が映っている。街にはネオンが灯り、ガラス越しのぼんやりとした光の粒がどことなく物寂しい。

 窓から夜景を眺めながら、清水はやきもきしていた。

 どうして妹は解かってくれないのだろう。男なんかに関わると、決まって苦労するのは女なのだ。あれは生き物の中でも最悪な、寄生虫と同列の害悪なのに。それがどうして解からないのか。痛い目を見てからでは遅いのだ。

 ――母のように。

(しかしあの男、編入早々花火を手懐けるとは……思ったよりも女ったらしね。見た目は硬派って感じだったけど、所詮男なんて自分に都合よく女を利用する奴ばっかりなんだから。アイツもその一人だったってことね……。だったら一刻も早く花火から引き離さなければ。ひと月も時間があったら、あの男に骨の髄までしゃぶりつくされて、挙句にゴミのようにポイ捨てされるかもしれない。外道~)

 もう悠長な事は言ってられない。一日でも早く学園から悪漢を排除しなくては、花火だけでなく他の生徒まで毒牙にかけかねない。そんな事、生徒会長である自分が許さない。そう、これはもう個人的な事ではなく学園の治安維持、いや、平和維持活動なのだ。

 しかし。

 如何に生徒会長で理事長の娘とはいえ、確たる根拠や証拠も無しに生徒を処罰する権限などない。よく考えてみれば、これは風紀委員の管轄のような気もする。それ以前に教師の仕事だろう。いち生徒の出る幕ではない。

 己が地位や権力を駆使すれば、何かしら姦計を巡らせてマコトを社会的に抹殺なり編入辞退に追い込む事は可能だろう。だがそこまでするほど彼女はまだ自分を見失ってはいなかった。

 窓ガラスが鏡のように車内を映す。だが鏡と違い、自分の姿は外の光が邪魔をしてはっきり見えない。それ以外はよく見えるのに。

 清水は窓に映る花火の横顔を見た。妹はまだむくれている。姿はよく見えるのに、彼女の胸中は車窓に映った自身のようにぼんやりと霞んでいた。

                 ◆

 沈黙が重い。

 姉二人の言い争いが終わってから、車内にはただの一言も会話がなかった。

 重たい空気が、美土里の細い肩にずっしりとのしかかっている。その上、体の右半分にひしひしと伝わる険悪な雰囲気は、火で炙るように肌をちりちりと焦がす。

 拷問じみた重圧が、あとどれくらい続くのか。早く家に帰りたいが、帰ったところで問題は何も解決しない。着いたところで、この空気が晴れる事はないだろう。むしろ夕食の際、母を交えて負の連鎖反応が起き、より悪い方向に行く可能性の方が高い。

 美土里は車に乗り込んでから、ずっと俯いてスカートの裾を固く握り締めたままだった。

(嫌だなあ……)

 木葉と清水が言い争うのも、清水と花火がいがみ合うのもそう。これ以上家族がもめるのは嫌だ。そしてそれを見るのはもっと嫌だ。

 思えば、母が離婚した時から家族の中で何かが狂ってしまった。あの日から歯車が噛み合わなくなり、服のボタンをかけ間違えたようにちぐはぐになった。

 離婚の影響が、もっとも著しいのが清水だ。まだ物心がついていなかった美土里と違い、彼女の幼い心にはいったいどれくらい深い傷が残ったのか。それは美土里には想像もつかない。

 離婚の傷痕がようやく消えかけたというのに、今度は突然の共学化だ。せっかく癒えかけた姉の心のかさぶたが、また剥がされたのだ。

 その剥き出しの傷を、さらに刺激する存在がマコトであることは、いくら普段のほほんとした美土里でも判った。

 そう、原因が判ったのだ。その事が暗く沈んだ美土里の、ほんの微かな光明。

 たった一筋の光。今は小さく細い光だが、問題を解決に導くには十分だった。

 車内の誰も、美土里がうっすらと微笑んでいる事に気がつかなかった。


 夕食では今日もひと悶着あったが、料理の味は格別だった。気分がいいと味まで良くなる。昨日までの味気ない食事に比べたら、今日の料理は星三つだ。

 気まずい夕食も、今日が最後だと思えばそう苦にはならなかった。後から思い返せば、今日までのぎすぎすした日々もいい思い出になるだろう。これからは家族水入らず、ずっと笑顔でいられるのだ。そのためにも自分が頑張るしかない。美土里は使命感に燃えていた。

 二階の自室に戻る。大小様々なぬいぐるみが、あちこちに置かれた少女らしい部屋。壁にはボスらしき貫禄を持った犬だか猫だかよく判らない、何かのキャラクターらしき巨大なぬいぐるみが鎮座している。夜はいつも抱いて寝る。これが無いと眠れないほどだ。

 着ぐるみのような珍妙な物体の横には、理想の未来を切り開くマジックアイテムが立てかけられていた。

 手に持つと、ずしりと重い。

 頼もしい重量に、美土里は思わず笑みをこぼした。

 運命は自分で切り拓くものだという。

 美土里も切り開くつもりだ。


 ――斬って開くのは運命ではないが。


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