男子解禁の日
男子解禁の日
◆
六月のとある月曜日。
初夏と言うよりはかなり夏寄りな陽射しの中で、黒塗りの高級車が道路に列をなしている。
車は、校門と称するにはあまりにも立派で仰々しく、まるで映画に出てくる刑務所のような、良く言えば荘厳とも言えなくもない巨大な門を次々と抜けて行く。
門にはその施設の名前が書かれたプレートがはまっていた。
私立五行院学園――そこは夢と希望と浪漫溢れる乙女たちの園。
五行院学園は初等部から高等部まで一貫したエスカレーター式で、その規模は日本屈指のマンモス校である。
文武両道をモットーに女性の社会進出を促すべく、軍隊の如く強く賢く逞しい女性をライン製造していくので有名なのだが、それでも偏差値と格式の高さと設備の充実度、そして教師や関係者が全て女性という徹底ぶりが世の上流階級な方々に受けており、わざわざ遠方から、文字通り目に入れても痛くない愛娘を入学させる親も絶えない。
そのための寮施設も勿論あるのだが、なにぶん入学志望者が資産に余裕がありまくる家柄ばかりなので、自宅から高級車(運転手もしくは執事付き)で登校してくるオジョーサマが圧倒的に多い。だから駐車場が野球場より遥かに広いのも頷ける。
生徒の家族と使用人以外は完全男子禁制。XY遺伝子を徹底的に排除した無菌の温室。この学園の事を知る近隣の男性なら、決して登下校時に近づこうとすらしない。つい先日までなら、どのような事情であれ男性が校門の手前五メートルに近づいた時点で、勤勉な警備員(これも女性)によって警告されるか下手をすれば通報、最悪の場合は取り押さえられていたはずである。
――だが、今日からは違う。
五行院学園は将来的な共学化を視野に入れ、本日からテストケースとして夏休みまでの一ヶ月間、他校から男子生徒を一人だけ仮編入させるのだ。
どこからその情報を聞きつけたのか、様々な学校から生徒の売り込みが殺到した。五行院学園に相応しい門地門閥に加えて、知力体力気品に容姿を併せ持つ、厳選に厳選を重ねた雄の中の雄たちが各学校から選ばれてきたのである。
その倍率は、大物アーティストのプラチナチケットを入手するよりも高いとさえ言われていた。そこを潜り抜けて来た者は、まさに最高の雄優性種であると言えよう。
いや、言えたはずなのだが――。
◆
「…………凄いな」
十メートルはゆうにある門を見上げ、マコトは思わず呟いた。ここは本当に日本なのだろうか。そう疑問を持っているのが表情からも伺える。
初夏だというのに学ランを着込んだ姿は、周囲からかなり浮いているが本人はまったく気にした様子はない。男は学ランを着るものだ、という昭和臭漂うポリシーを持つマコトは、たとえ周りが有名デザイナーによってデザインされた今風のオシャレな制服に囲まれていようがまったく関係ないのだ。
意を決して校内に足を踏み入れる。幸い門の前で立哨する警備員は、彼をちらりと見ただけで事無きを得た。
戦地に赴く兵士さながらに、一歩一歩踏みしめて歩く。
「………………女臭え」
敷地内に入った途端強さを増した芳香に、眉をしかめ吐き捨てるように呟く。
女子校とは得てしてこういうものなのだろうが、あまりの化粧臭さに気分が悪くなる。上着の袖を鼻に当てても届く匂いは、自分の体臭と差し引いてなお強い。
これから一ヶ月もこんな空気を吸わなければならないのか――そう思うだけで気が滅入る。冗談みたいに広い敷地も、間取りを頭に入れる前に編入期間が終わるだろう。
だが一度決めた事を、おいそれと放り出すわけにはいかない。それがマコトの決めた〝漢ルール〟のひとつである。たかが化粧臭いだけの事で、この編入を投げ出す事はできない。
何よりこの編入には、大げさかもしれないが彼の人生がかかっている。マコトの表情がいつもよりも険しいのは、石にかじりついてでもやり遂げるという決意が現れているからなのだ。
しかしながら、彼にとってこの学園は鬼門に等しい。これほどの数の女性が居る環境というのは、十七年の人生の中で初めてのことである。
自分には追い求める男の道があり、男の道は男だけの環境でこそ見つけられると思っていた。だから女はできるだけ遠ざけていた。
だが突如として環境が半転した。これから向かうのは、女しか居ない世界である。
校門を抜けて随分歩いたというのに、未だ玄関にすら着かず、頭抜けた敷地の広さにげんなりする。
今日は体育館にて朝礼があるので、それが終わる頃に職員室に顔を出せとの通達があったのだが、念のためにかなり早めに来たのが功を奏したようだ。この分ではいつ校舎に着くのやら、わかったものじゃない。
門を抜けたはいいものの、見渡す限り森のような景色ばかり。遥か彼方に校舎らしきものは見えるが、距離があり過ぎてあとどれくらい歩けばいいか見当もつかない。呆れるほど広い。東京ドーム何杯分だよ、と内心でツッコミを入れる。
仕方なく荷物の中から学園のパンフレットを取り出す。電話帳のように分厚いそれには、六法全書かと思うくらいの校則が記載されていた。
校則と理事長のお言葉の項を飛ばし、ようやく目当てのページを見つける。学園の見取り図は四つ折になっていて、冗談抜きで東京ドーム数杯分はあるように見えた。ちなみに縮尺は一万五千分の一で、裏は各棟の見取り図になっている。
「おいおい……………………」
敷地内は縮尺さえ問題にしなければ、構造はいたって単純だった。校門から道が真っ直ぐ伸び、三つのブロックに枝分かれしている。向かって左から初等部、中等部、高等部となる。つまり三つの学校が一つの敷地内に詰め込まれているだけなのだが、それでもそのでたらめな広さには舌を巻く。
「とにかく真っ直ぐか」
判ってしまえば後は歩くのみである。整然と並ぶ木々の間を、ちょっとしたハイキング気分でてくてく歩くと三叉路にぶち当たった。右に曲がり、高等部に向かう。
マコトのように徒歩で通学している者は、ほとんどいないようだ。もしかしたら一人だけかもしれない。まるで高級車の見本市のように、リムジンやベンツ、BMWやロールスロイスが次々と彼を追い越して行く。
パンフレットを調べてみると、なんと車での通学は校則違反ではなくむしろ推奨している。これだけの広さなので頷けなくはないが、何となく気に入らなかった。
金持ちって奴は……、などと考えるだけ無駄だ。マコトはお世辞にも金持ちとは言えないし、なりたいとも思わない。よってさぞ乗り心地の良さそうな高級車で通っている生徒の気持ちは解からないし、向こうも彼の気持ちを解かる事はないだろう。
住む世界が違う――と言ってしまえばそれまでなのだが、それが半日であれ同じ時間と場所を共有しなければならないという矛盾が実にくだらない。
車が通るだけあって道幅は広い。端にさえ寄っていれば轢かれる危険はないので、マコトはパンフレットを読みながら歩く。
敷地も広いが校舎もでかい。それに比例するかのように校則も多いのだが、マコトが目を留めたのは部活動の項だった。
総数二百五十という数も目を見張るが、何より格闘技系の部活がそのうち二百を占めるというのが意外だった。
さすがに文武両道を謳っているだけはある。初等部中と等部は空手、柔道、弓道、合気道に剣道居合道など、道と名のつく比較的メジャーな部しかないのだが、高等部からはその数が一気に膨らむ。
中国拳法は門派ごとに部があり、レスリングに柔術、骨法や杖術に薙刀、同好会に至ってはバリツやカラリパヤット、ズルハネにグリマやカポエラなど、マコトも知らないマイナーな格闘技のクラブが乱立している。
今度は格闘技の見本市だった。この学校は女傑族でも育成しているのだろうか。
別に女が格闘技をやろうが問題は無いし、彼は男尊女卑主義者ではないが、それでも失笑してしまう。
「女々しい男が増える……いや、弱い男が増えるわけだ。こりゃそのうち〝雄雄しい〟の意味が変わっちまうぜ」
シニカルな物言いだが、そこには世の男性への憐憫など微塵も無い。むしろ弱い男は死ねばいいとさえ思っているような嫌悪感を臭わせている。
マコトはフンと鼻を鳴らすと、読んでいたパンフレットを乱暴に鞄に押し込んだ。今日は編入初日なので、鞄の中には筆記用具くらいしか入っていない。だから電話帳一冊くらい詰め込んでもまだ余裕がある。
鞄を背負いなおし、再び歩を進める。マコトの目指す男の道は遥かに遠いが、今は目的地が物理的に遠い。
すぐ後ろに車の気配を感じた。さすが高級車。エンジン音をほとんどさせず、滑るように走ってくるので歩行者には優しくない。
もう既に見飽きた、黒塗りのリムジンが音も無く通り過ぎる。
そのまま走り去ると思っていた車が、マコトの五メートルほど前で急に止まった。急ブレーキを踏んでも音がしないというのはさすがに感心する。車にはあまり造詣が深くないマコトだが、つい足を止めて「ほう」と眺める。
運転席から白手袋をはめた女性が降り、洗練された優雅な動作で後部座席のドアを開けると、それ以上の優雅さで一人の少女が降車した。
少女は運転手らしき女性に一言告げて下がらせると、長い髪を手で軽くすいた。しなやかな指からこぼれた黒髪が風になびき、さらさらと少女の背中に落ちる。その仕草が実に堂に入っていて、マコトはまたもや「ほう」と感嘆する。
少女の凛とした、と表現するのが相応しい風貌。睥睨するような眼差しは高貴とすら感じられ、ただそこに居るだけで周りの空気すら変えてしまう。だがわずかに敵意が混じっているのを感じ、マコトは彼女から目を反らせなかった。
少女はじっとこちらを見据えると、ゆっくりと歩を運ぶ。日本舞踊のように静かに、だが僅かの揺らぎもなく歩く姿に、マコトは小さく眉をしかめる。
(コイツ、できる……)
直感でそう感じた。
少女は、上体をまったく上下させずに歩く。腰の動きと重心移動は、剣道や居合いの有段者の歩みに似ている。隙が無いどころか、下手に打ち込もうものなら手痛いカウンターを喰らいそうな気配。先ほどまでの雅な空気が突如剣呑になる。
すり足で間合いを詰める少女に、マコトがどう対処しようかと逡巡していると、
「きゃっ」
意外なほど可愛い悲鳴をあげて少女が転んだ。すり足で歩いていたため、石に躓いたのだ。マコトはどうリアクションしたらいいか分からず途方に暮れた。
「いった~い……」
体を起こした少女は、アヒル座りのまま涙目で額をさする。どうやら受身もとれずに顔面から地面に突っ込んだようだ。
先ほど感じた敵意や気配は何だったのだろう。見当違いだったのか、それとも。
少女を眺めながら、どうしたものかと頭を悩ませる。まだどこか痛むのか、それとも痴態を見せてしまった恥ずかしさのせいなのかまだ座り込んだままだ。
これではまるで、自分が彼女を転ばせたみたいだ。このままこの少女が泣きだそうものなら、さらに状況は悪化する。だとて自分もどうすれば良いのかまったく分からない。マコトの人生において、これほどの窮地に立った事があるだろうか。これならまだ不良に囲まれた方がマシである。
マコトは無表情のまま立ち尽くしていたが、内心ではオロオロしていた。状況がまったく飲み込めないうえに、こんな経験は初めてである。
(これだから女は……、っつかこの女はいったい何者だ。俺に何か用があるのか。なんかすっげー睨んでるし、俺の事を知ってる奴だろうか。それならこのまま放っておくのも後味が悪い。だが女は面倒臭い。そんな事より腹減ったな……)
マコトが現実逃避を始めかけていると、
「も~、きよ姉何やってんの? まったく、ド近眼のくせにカッコつけてメガネ外してるから転ぶんだよ」
「……清水お姉ちゃん……大丈夫?」
いつの間にか少女の周りに、二人の少女が近寄っていた。
「花火、美土里……」
「……はい、清水お姉ちゃん」
美土里と呼ばれた小柄な少女が、座っている少女――清水に手渡したのは、どうやらメガネケースのようだ。
清水はばつが悪そうにやや唇を尖らせたが、心配そうに眺める美土里の視線に耐え切れず渋々とメガネをかける。
もの凄い厚さのレンズだった。まさに牛乳瓶の底。瓶底メガネとはこの事だ。フィクション以外ではお目にかかれない貴重な一品を目の当たりにして、マコトは奇妙な感動を覚える。
視界が安定したのか、清水はすっくと立ち上がる。厚いレンズに阻まれて表情は見えないが、マコトをさっき以上に睨んでいるのが判る。きっと色々な感情が渦巻いているのだろう。
「……覚えてなさい、天下一」
ぼそりと吐き捨てるように呟くと、清水は踵を返して車へと戻って行った。
まったく状況が飲み込めないマコトは、なぜ彼女が自分の名前を知っているのかとか、そもそも自分は何もしていないだろうがなど考える事ができず、ただぽかんとしていた。
「ったく、何しに来たんだか……。行くよ、美土里」
花火が溜め息をつく。棒立ちのマコトを一瞥すると、自分の背に隠れている美土里を連れてさっさと歩き出した。美土里は車に向かう花火から離れまいと、彼女の服の裾を掴んで寄り添うように付き従う。
三人が車に乗り込むと、降りた時とは逆の手順で運転手がドアを閉める。何事も無かったかの如く車が去ると、マコトだけが一人とり残された。
「何だったんだ……」
白昼夢のような出来事だった。いっそ編入自体が夢であって欲しいとすら思う。
だがいくらそう願おうと、強烈に印象づけられた清水という少女の嫌悪に満ちた視線とセリフがそれを許さなかった。
遠くで鐘が鳴る。電子音のチャイムではなく、チャペルのような本物の鐘の音だ。それがこの学園の時報なのだろう。
気を取り直し、とっくに姿の見えなくなった車の後を追った。だがこの先には、あの少女らが待ち構えているような気がして、マコトの足と気は重かった。
◆
無音で走る車の中で、清水はきつく唇を噛んでいた。
隣に座っている妹たちもその雰囲気に押され、普段陽気な花火ですら黙っている。
失態を晒し、しかもその相手がよりにもよってマコトだった事。この二つが清水の自責の念をさらに強める。
清水は色が白くなるほど唇を噛み締めた。形の良い唇は痛々しいほど噛み潰され、席の端で見ている美土里が顔をしかめている。
なぜ自分はあんな事をしたのだろう。車から降りて、彼に何を言いたかったのだ。宣戦布告でもしようとしていたのか。今となっては自分でも理由が判らない。
それにしても、と清水は思う。
話には聞いていたが、まさか本当にその通りだとは。てっきり誇張や冗談が過分に含まれているものとばかり思っていた。
マコトの特徴について、清水たちが理事長から聞いていた事は実に単純だった。
『男らしいヤツ』
初めは謎かけのようで、意味が解からなかった。だが実物を見たら一瞬で理解できた。
これまで清水が見てきた男たちは、皆どれも鋳型にはめたようだった。上品に振る舞い、賢いふりをし、それでいて個性がない。誰も彼も表面だけ取り繕い、中身も何もあったものじゃない。まるで装飾された空の箱だ。彼らには、何か目的や意識があって生きているという気概がない。いかにして女に自分を良く見せる事しか考えていない、実にくだらない生き物である。
だがあの男はどうだ。まっすぐ前を見据えた目は力強い意思の光をたたえ、引き締めた口元は揺るぎない決意をうかがわせる。牙を抜かれたペットのような他の男たちと違い、野生の猛獣を思わせるオーラを漂わせていた。彼を動物に例えるなら狼。まさに一匹狼という言葉が相応しい。
清水は確信する。あの男は、これまで出会ったどの男よりも、男であると。あれほどまでに男らしい男に出会ったのは、生まれて初めてだった。
マコトの事を考えている自分に気づき、清水は再び唇を噛み締める。
いつの間にか、車が駐車場に止まっていた。
運転手にご苦労様と告げて妹たちが去ると、待ち構えていた数人の女生徒たちに囲まれた。
「お早うございます、生徒会長」
一人の女生徒が代表で挨拶をしてくる。彼女らは生徒会の役員たちだ。
その時、清水の背後に停めてあった車の陰から、毛バタキを持った男の運転手が現れた。鼻歌まじりで車の埃を払っていた男は、不幸にも清水の背後に回る。
生徒会役員たちが一斉に「まずい」と思った時にはもう遅い。死角になっていたにもかかわらず、清水は即座に振り向いていとも簡単に運転手を地面にねじ伏せた。
「痛たたたたっ……! 痛いっ、痛いっ!」
地面に腹ばいになり腕を背中に回された運転手は、痛みのあまり手に持っていた毛バタキを落とす。いきなり組み伏せられ、何が何やら理解できないまま、ただひたすら悲鳴を上げる。
「お、折れる……折れる~……っ」
「か、会長、待ってください……!」
あわや男の肩が外されようとした時、間一髪で役員の一人が慌てて駆けつけた。
「貴方の使用人?」
清水がじろりと睨むと、女生徒は小さな声で「はい……そうです」と答えた。そこで清水はようやく運転手の腕から手を離す。
「躾がなっていないわね」
激痛から解放され、ぐったりと地面に横たわった男に、一人の女生徒が駆け寄る。
「たとえ使用人は立ち入りを許可されているとはいえ、この学園を男がうろうろするのは目障りだわ」
「も、申し訳ありません……」
「それに男なんて下劣な生き物、使用人にする価値もないわ。すぐにでも解雇なさい」
そう言うと清水は、真っ白なハンカチを取り出し丁寧に手を拭いた。役員たちはその気高くも美しく、だが一片の容赦も慈悲もない戦の女神のような姿に見惚れると同時に、彼女の病的なまでの男嫌いに戦慄した。
清水は男というものが嫌いだ。同い年も年下も年上も、世の中の男全てが嫌いだ。男という物を具象化したような天下一など、言うに及ばない。彼女にとって男という生き物は、ゴキブリと同列にある存在であった。今やマコトは、彼女のワーストランキングにゴキブリと並んで同率二位に君臨している。
だが一位はダントツで父親だ。こればかりはどうあっても揺るがない。絶対王者というやつか。
その父親はもう居ない。息災らしいので、どこかで幸せに暮らしているのだとは思うが、そんな事はどうでもいい。母と自分たちを捨てた男の事など、もはや毫ほども心配ではない。どこかで野垂れ死にしたと聞かされても、清水は「あらそう」の一言で済ますであろう。
清水の病的なまでの男嫌いは、原因の全てが父親にあった。だから父親と同じ、男という生き物を嫌う。世界中の男すべてを軽蔑する。男とは、この宇宙で最低最悪のゴミだ――というのが彼女の持論だ。
彼女の男嫌いは家族も知るところで、容認はしていないが納得している。幸いこれまでずっと女しかいない環境だったので、今のところは問題にはなっていない。だがいずれどうにかして克服させようとしているのが、清水には余計なお世話だった。
娘の男嫌いの原因が父親だという事で、母親は随分責任を感じているようだ。その事は清水も少々心苦しい。離婚した事で、娘に心的外傷を残してしまった母の胸の内は察するに余りある。
なら治す努力をするのかと言えば、そういう気はさらさら無い。
結局清水は今日も明日も、そして死ぬまで男という生き物を忌み嫌い続けるであろう。例え親や家族が何と言おうと。
清水は少し乱れた髪をそっと整えると、さっそく仕事を開始する。役員は有能な者たちばかりなので、自分が来るまでに今日の朝礼の準備はすっかり整えていた。清水はそれを口頭で確認するだけだが、そもそも準備万端になるように指示を出しておいたのは彼女である。
次々と入れ替わりに報告し、指示を仰ぎに来る役員たちを一通り捌いている間に体育館に到着する。千人はゆうに収容できる館内には、パイプ椅子が整然と並べられていた。席はほぼ埋まり、空いた席も着々と埋まっている。この調子なら朝礼の開始までには全員が着席できそうだ。
清水は壇上の裾からその様子を確認し、ほっと胸をなで下ろす。
私的な事はともかく、公務は至って順調だ。立てた段取りが滞りなく進むと実に気分が良い。計画通り。予定通り。なんと素晴らしい事だろう。
それに比べ予定外、想定外というのはなんと気分の悪い事か。だから清水は、自分の計画の障害となる因子はことごとく事前に排除する。それが彼女のやり方であり、生き方である。
朝礼が始まり、壇上では理事長が生徒たちに向けて話をしている。明日から登校する試験編入生の話だ。寝耳に水な話に生徒たちは、ある者は色めきだち、ある者は露骨に嫌悪感を表す。
生徒たちの反応も無理はない。女子校がいきなり共学になると聞かされたら誰だって驚く。清水たち生徒会役員は事前に聞かされていたが、そうでなければ同じ反応をしていただろう。
清水は疑問に思う。どうして男などと一緒に居なければならないのだ。あんな低俗な生き物、共存するに値しないというのに。
理解できない。
納得できない。
合理的でない。
論理的でない。
そういうのはとても気分が悪い。まるで数種類のパズルを混ぜ、ランダムに一つまみだけ取って組み立てるようなものだ。時間の無駄だ。
この共学化も同じだ。どうせ破綻するのだから。
でなければ自分が破綻させるのに。
そうとも知らずに縷々と説明を続ける理事長が、とても滑稽に見えた。
理事長の話が終わり、清水の出番が来る。生徒会からの諸注意を朗々と読み上げながらも、清水は頭の中で別の事を考えていた。
当然、共学化を白紙に戻す方法を。
◆
夏至を過ぎ日は長くなったが、夕食の時間となるとさすがに外は暗い。街灯が灯り、家々からは団欒の明かりが漏れている。
天下家もご近所に倣い夕飯の時間なのだが、団欒という言葉とはかなりかけ離れていた。
「新しい学校はどうだ?」
「別に」
泰平の問いかけに一言だけ告げると、マコトは無言でご飯をかきこむ。
我が子の鼻も引っ掛けない態度に、泰平は怒りをぐっと堪えるために咳払いを一つ挟む。あ~アレだ、などと話題をどうにか切り出そうとする姿が何とも空々しい。
「今日は学校でどんな事があった」
俺は小学生かよ、とマコトは思ったが、あまり父親をないがしろにするのも気が引けた。あれでも一応家長である。
「一日だけじゃあ何もわからねえよ。今日は理事長やら担任にごちゃごちゃ言われておしまい。わかったのは、学校がだだっ広いって事だけだ」
面倒臭そうにそれだけ言うと、マコトは近所のスーパーで買ってきた芋の煮物に箸を突き刺す。
「そうか、理事長か。いや~、あれだけの学校の理事長だ。さぞ華麗なご婦人なんだろうな。いやいや、そう言えばお前、知ってるか? なんと生徒会長は学園長の娘さんなんだそうだ。それにその子を含め、二人の妹もかなりの美人らしいぞ。まさに美人三姉妹ってヤツだな~。これからそんな学校に通えるなんて、お前はなんてラッキーなんだ。やったね、良かったね。ドキドキスクールライフの始まりだね」
これで話は済んだだろうと思って、食事に専念しようとした矢先、いきなり水を得た魚のように饒舌になる泰平。何だこの食いつきの良さは。普段から軽薄だとは思っていたが、今は輪をかけてはしゃいでいる。
唖然としたマコトの箸から芋がずり落ちる。芋がちゃぶ台の上で潰れる音で、泰平は我に返った。
げふん、ともう一度咳払いをするが、コールタールと化した空気は払えなかった。
沈黙が重い。大気に一気圧以上の圧力がかかったようだ。加圧室となった茶の間に、泰平の茶を啜る音が虚しく響く。
「あ~、アレだ……」
同じ出だしで建て直しを図るが、状況は芋よりもぐちゃぐちゃだ。食卓に落ちた芋はまだ食えるが、地に落ちた父の威厳はどうにもならない。
「ともかく、環境がどうあろうがお前はお前の求める道をゆけばいい。一つの世界だけでなく、様々なものを見聞するのも人生修行だからな」
とってつけた感は否めないが、今のマコトには耳が痛い台詞だろう。マコトはインスタントの味噌汁をご飯にぶっかけながら、昨日の泰平との会話を思い出す。
◆
「勝手に俺を女子校に編入させるたあ、どういう了見だこの野郎!」
マコトは渾身の力を込めて泰平の顔面を殴りつけた。直撃すれば、師範の泰平と言えどただでは済まない――はずだった。
泰平はわずかに顔を傾けただけで拳をかわしていた。的を外した拳は、泰平の頭の後ろで虚しく壁を突き破っている。もし命中していれば、頭蓋骨が砕けていたかもしれない。
本気の突きを容易くかわされたショックを受けている間に、マコトの懐に泰平の手が触れる。
「あ――」
と思った時には、もう遅かった。
「金剛掌」
泰平の全身が震えたように見えた瞬間、マコトを強烈な衝撃が襲う。
まるでトラックに撥ねられたような痛みが、体の中を通り抜ける。激痛のあまり、一瞬意識が遠のいた。
「が……」
体から力が抜ける。泰平にすがりつくが、体を支えることができずそのままずるずると床に這いつくばった。
腹の中が焼けるように熱い。こみ上げる嘔吐感に耐え切れず、胃の中の物を全部道場の床にぶちまけた。肺が痙攣を起こして呼吸もままならない。苦しそうに喘ぐ息子を、父親は悠々と顎髭をさすりながら見下ろしている。
「て、てめえ……何をしやがった……」
「金剛掌。どうだ、天下無双流の奥義の味は?」
「いきなり奥義を出すたあ大人げねえじゃねえか……。殺す気か?」
「アホか。本気で打ってたら、今頃お前の内臓は口からこんにちはしてるぞ」
胃液まじりの悪態を吐くマコトの頭を、泰平は余裕の表情で踏みつけた。ぐりぐりと頭を床にこすり付けられ、怒りと悔しさで発狂しそうになる。
すぐにでも跳ね起きて殴り飛ばしたいが、体が動いてくれない。あまりのダメージに脳と体の回線が切断し、辛うじて動くのは首から上だけだった。
それにしても、何と壮絶な威力。二人の距離はほぼゼロに近いにも関わらず、泰平の放った一撃はマコトを完全に無力化していた。
金剛掌――初めて聞く名とその威力を、マコトは頭と体に刻み込んだ。
「この未熟者が。お前みたいな半人前が、俺様に勝てるとでも思ったのか」
百億万年早いぜ、と泰平は足を離す。頭から足が離れると、マコトは苦しそうに身をよじって床を転がった。
何とか起き上がり、一足の距離をとって泰平と向き合う。今にも倒れそうにふらついているが、全身からは未だ闘気がみなぎっている。隙あらばもう一度殴りかかろうという気満々だ。
「俺のどこが半人前だってんだよ?」
「知りたいか? それはな……」
構えをとりながら、マコトは次の言葉を待つ。ごくりと喉が鳴った。
「お前は女を知らん!」
「な……」
マコトの意識が一瞬飛んだ。表情とともに、道場の空気まで固まる。
「こ、このエロ親父。いきなり何言ってやがる!」
神速で泰平に掴みかかる。顔が真っ赤なのは怒りからだろうか、それとも。
「悪い悪い。言い方を間違えた」
苦笑いの泰平。この男は五分と真面目な会話ができないようだ。せめて年に一日くらいはシリアスでいて欲しい。
「では改めて……」
泰平は厳格な表情で咳払いをする。とてもつい先ほどエロ発言をしたオッサンとは思えない。年に一回くらいはこういう顔もできるようだ。
「お前は世界の半分しか知らん!」
次ふざけたらどうしてやろうかと思っていたマコトだったが、今度は大丈夫だったので安心した。
「世界の半分……? どういう意味だ?」
「知りたいか?」
にやりと笑う泰平。マコトはその不敵な笑みに僅かにたじろぐが、負けじと前に半歩踏み出した。
「応よ。言ってみろよ、クソ親父」
「それは、女の世界だ!」
びしりと指を突き出して叫ぶ泰平。
「お、女の……世界……?」
「お前は男の世界しか知らん。それは今まで女を遠ざけ、男の中にしか身を置かなかったからだ。だが世界は男だけにあらず。女もいてこそ世界があるのだ」
「く……」
言われてみれば確かにそうだ。マコトはこれまで極力女性との接触を避けてきた。男の道を究めるため、女は不要と切り捨てた。そうする事が正しいと、これまで信じてきた。
だが――。
「俺のやり方が間違ってるとでも言いたいのかよ!」
「お前はただ、女から逃げているだけだ。男なら真正面からぶつかって克服してみろ」
「俺が……逃げてるだとっ!?」
「ああそうだ。お前はただの臆病者だ」
臆病風に吹かれて逃げる事は、彼の求める男らしさとはかけ離れた恥ずべき行為だ。自分がそうだと言われ、マコトは奥歯が折れんばかりに噛み締める。
「違う! 俺は逃げてなんかいない!」
「だったらそれを証明してみせろ。女子校に編入し、大嫌いな女だらけの環境で一ヶ月間耐え切れたなら、俺様もお前が逃げたのではないと認めてやる」
「く…………っ」
「もし途中で逃げ出したりしたら、その腐った根性を叩き直すために、進学を諦めてこの道場を継いでもらう」
「な、何ぃっ!?」
突如降って湧いた進路の話に、マコトは驚愕する。自分が進学を希望している事は、まだ泰平には話していない。話せばどうせ反対されるからだ。だが今はどうしてそれを泰平が知っているかという事より、どうして自分が道場を継ぐ事が賭けにされているのかがまったく理解できなかった。
「ちょっと待て。なに勝手に人の進路を決めてんだよ!」
「何だ? やる前からできないと思ってるのか?」
慌てて食い下がる息子に、見下したような笑みを返す父親。
「別に何を賭けようが、負けなければいいだけの話だ。それともナニか? たった一ヶ月女子校に通うくらいの事ができないのか?」
「何だとぉ……」
「負けるのが怖いのならこの賭け、別に乗らなくてもいいんだぞ。負けるとわかっている賭けを飲ませるほど、俺様は悪党じゃないからな」
カモを相手にする詐欺師の如き態度に、一度下がった血液がまた頭に上る。
「だ、誰もやらねえって言ってねえだろ。いいよ、やってやるよ。たったひと月くらい何てことねえぜ。その代わり俺がこの賭けに勝ったら、進学でも留学でも好きにさせてもらうからな!」
「ああ、好きにしろ。ただし、勝てたらな」
見え見えの挑発にあっさりと乗るところがマコトの若さか。それとも泰平の老獪さの勝利というべきか。
「ようし、決まりだ。お前も男なら、一度吐いた唾は飲むなよ?」
「上等だクソ親父。てめえこそ後で吠え面かくなよ」
マコトはにやりと笑う。これで進学が決まったものだと確信したからだ。しかし泰平はしてやったりという顔で、顎鬚をさすっていた。
ぶっかけ飯をかきこみながら、マコトは茶碗越しに父の顔を盗み見る。
今思えば、あの時は上手くやり込められてしまったような気がする。詐欺に遭ったらきっとこういう感じがするのだろう。息子に疑惑のこもった眼で見られているとも知らず、泰平は美味そうに煮魚を食っている。
がつがつ食べる泰平の食器の音が、天下家の食卓に響く。
マコトはそれからずっと無言だった。
◆
五行院家でも、時を同じくして夕食の最中だった。
豪奢な食堂の中央には大きなテーブルが陣取り、家族四人が席についている。
壁際には数人の使用人が立っており、主人たちの食事を黙って見守っていた。
上座には母の木葉。彼女に向かって左が長女の清水、右には次女の花火が座っている。三女の美土里は清水の隣に座りたいのだが、長姉は食事中のマナーにうるさいので花火の隣に座っている。
後は空席のままで、巨大な食卓はその先端の一部しか使われていない。何かの催しの際はこの卓が余すとこなく使われるであろうが、これが普段の――父親が居なくなってからの――定位置だ。
「清水、今日の朝礼、ご苦労様。相変わらす見事な手際で助かるわ」
木葉は学園の中では決して見せない笑顔で、清水の労をねぎらう。
普段は冷淡な母が、ごくたまに見せる笑み。美土里は笑っている母が大好きだ。本当なら、今は共学化の事務処理で家に帰る暇もないだろう。それでも、こうして家族揃って食事をするために帰宅してくれている。木葉はずっと、夕飯だけはみんなと一緒にとってくれるのだ。
だが共学化の話が出て以来、姉の清水がずっと不機嫌になり、いつもどこか苛々している。そして毎日のように母と衝突するようになってから、美土里は家族で食事をするのが楽しくなくなっていた。
「ありがとうございます、お母様」
清水は無味乾燥な言葉を返す。さもこれが当然とばかりの機械的な返事に、木葉はほんの少しだけ表情を曇らせた。
「あくまで試験的だけど、この結果が良ければ共学への足がかりになるのだから」
みんな協力して頂戴、という木葉の声に、清水の肩がぴくりと震える。ナイフとフォークを持つ手が止まり、そのまま皿の上にハの字に置く。
「お母様のお願いでも、それは無理です」
きっぱりと言い放つと、清水は食事を中断して席を立った。乱暴に椅子が引かれた音に、美土里は身を固くする。
「待ちなさい。まだ話は終わってないわよ」
「話すことなんかありません」
「いいえ、座りなさい。これはあなただけの問題ではないの。学園の、そして私たち家族の問題なのよ。だからあなたには、最後まで話を聞く義務があるわ」
木葉の言葉には、拒否を許さない強さがあった。仕方なく清水は席に戻る。
木葉は一同を見渡す。清水はそっぽを向き、花火は居心地が悪そうに腕を組んでいる。
まただ――と美土里は思う。またこの嫌な空気だ。こんなものをこれからもずっと味わうのなら、いっそ共学になんてならなければいいのに。だがそんな事を口に出せば、今度は母を困らせてしまう。母も清水も、無論花火も美土里にとっては大好きな家族だ。家族はいつも笑って一緒にいるものである。もう誰も欠かしたくない。
木葉は軽く溜め息をつく。同じ事を何度も話し合っている疲れが、そのまま吐息として出てしまったという感じだ。
「清水、わがままを言わないで」
「わがまま? 私のどこがわがままだって言うの? そもそも、学園は今までずっと男子禁制だったじゃない。それを今さら共学化だなんて、何の意味があるのよ? 女性の地位の向上、女権復興、馬鹿で下劣で情けない男に負けない女になるために、この学園が存在しているんじゃない!」
「清水…………」
堰を切ったように感情を露にして叫ぶ娘の姿に、木葉は名前を呼ぶことしかできなかった。
「共学化なんて絶対認めない。どんな手を使ってでも、断固阻止してみせるわ」
清水の行動力と学園での人気をもってすれば、署名運動などいくらでもやり方があるだろう。生徒の七割以上の署名を集められれば、如何に学園とて強行することはできない。そうなれば共学化は白紙に戻ってしまう。そしてそうなる事が明らかだからこそ、木葉は清水に賛成して欲しかったのだが。
「話はそれだけですか? では私はこれで失礼します」
母をまるで敵のように睨みつけて、清水は食堂を去った。
残された三人に、もはや会話は無い。木葉の溜め息だけが、重苦しい沈黙の中で唯一発せられた音だ。
美土里は、いま自分が何を食べているのかさえ判らなくなっていた。