天下一の男
天下一と呼ばれた男
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夕日が差し込む生徒指導室には、運動場で部活動に励む生徒たちの掛け声や、檄を飛ばす声が届いている。
室内の二人は、机を挟んで無言のまま向かい合っていた。時おり、金属バットでボールを打つ音が響く。
やがて窓際に立っていたジャージ姿の男が、学生服のもう一人に向かってぞんざいに切り出した。
「……なあ天一――」
だがすぐに返ってきた大きな舌打ちに、男の言葉が止まる。
「人をラーメン屋みたいに呼ぶんじゃねえ。俺には天下一っていう立派な名前があるって何度も言ってんだろ」
苛立ちを隠さない声に、男は咳払いを一つ挟む。
「天下……お前の気持ちは解かるが、これはもう学校側の決定事項だ。いち教師に過ぎない俺の一存ではどうにもならん」
ビヤダルのような体型をした男は、口調から察するに天下と呼んだ生徒の担任なのだろうか。もう何度も言って言って言い飽きた、という感じが口調からありありと滲み出ていた。
「だから何で男の俺が、女子校なんかに編入しなきゃならねえんだよ! 納得のいく説明をしろって、さっきから言ってんだろ!」
だが生徒の方も負けじと、うんざりとした中にも怒気を含めて応える。
「そりゃあ女嫌いで有名なお前が女子校に編入って聞いた時は、俺だって耳を疑ったさ……。何かの冗談じゃないかってな」
教師はジャージの懐からタバコとライターを取り出す。生徒の目前で喫煙するのに抵抗や倫理などないのか、ゆっくり紫煙を吐き出すと、これが最後通牒とばかりに言う。
「だがな、これは向こうさん直々のご指名だ。それに親御さんも納得してるし、とっくに手続きは済んでるんだ。反抗するのは勝手だが、お前の内申が下がるだけだぞ」
内申という単語は教師の常套句だ。こう言えば進学を希望する生徒は一発で大人しくなる――謂わば教師の印籠のようなものだ。
「お前も内申が下がれば困るだろ?」
ビヤダル教師が下卑た笑みを向ける。内申書を盾にし、生徒を押さえつけるのが彼のやり方なのだろう。
だがマコトはそんな紋切り型の脅しなどには屈しない。むしろ今はそれどころではなかった。
マコトは怒りに震えている。自分の与り知らぬところで、話が勝手に進んでいたからだ。
いったい誰が、と考えるまでもない。思い当たる人物は、彼の知る限り一人しか居ない。
教師に背を向けると、マコトは舌打ちと同時に歩き出した。
「おい天下、どこに行くんだ。まだ話は終わっとらんぞ!」
マコトは扉を開けたところで立ち止まり、肩越しに振り返った。まだ何か言いたげな教師は、彼に睨まれただけで何も言えなくなる。蛇に睨まれた蛙の如く、脂汗をだらだらと流して身動きすらとれなくなってしまった。
すくみ上がった教師から視線を外すと、マコトは疾風の如く駆け出した。
乱暴に閉められた扉の音で教師が体の自由を取り戻した時、咥えたままのタバコから長い灰が机にぽとりと落ちた。へなへなと椅子に腰を下ろす。まだ脚が震えている。危うく失禁しそうだった。
学校を飛び出したマコトは全速力で走った。
商店街のアーケードを抜け、住宅地に入る。さらに走ると、古式ゆかしいとは言い難い、ただ旧いだけの日本家屋が見えた。
母屋も古いが、その隣にある離れもかなり古い。木造建築の耐久年数ギリギリといった感じだ。
離れの門には〝天下無双流道場〟と荒々しく筆で書き殴った看板がかけられていた。
〝あまもとむそうりゅう〟と読むのだが、紛らわしいことこの上ない。いっそルビを振るべきだ。たまに勘違いした人間が興味本位で覗きに来るのだが、閑散とした道場を見た上に真相を知ると、決まって苦笑いとともに帰って行く。門下生募集中と書かれた張り紙は日に焼けて赤茶けており、奇妙な年季を感じさせていた。
母屋の玄関に回る。怒りに任せて玄関を開けると、立て付けの悪い戸は絞め殺される鶏のような音を立てて反対側にぶち当たった。
靴を脱ぎ散らして家に上がり、離れの道場へと向かう。鼻息荒く歩く一に合わせ、床板がギシギシと鳴る。
床板を踏み抜かんばかりの足音が、仏間の前で急に止まった。少し開いた襖から覗くと、仏壇が目に入る。そこには一の母、紅葉の遺影があった。
写真の中の紅葉は笑っている。線の細い面立ちで、白黒写真でもはっきりと分かるくらい顔色が悪い。けれどとても優しく、温かい笑みだ。
だがマコトは母の笑顔を知らない。元々体が弱かった紅葉は、彼を産むとすぐに死んだ。
幼い頃は、母が死んだのは自分を産んだせいだと思い悩む事もあった。それを父に告白し、厳しく叱られた事もある。無論今は産んでくれて感謝している。感謝してもし足りないくらいだ。
襖を開けて仏間に入る。仏壇の前に座り、鈴を鳴らして手を合わせると、遺影の母と目が合った。
「おふくろ…………」
合わせた手をほどき、遺影に見せるように拳を握る。これまでの人生ほとんどを武道に費やした、岩のような拳だった。
紅葉が最期に残した言葉を汲み、父の泰平は息子に武道を教えた。泰平に毎日「男らしくなれ」と鍛えられたマコトは、今ではその言葉どおりに育った。ただ息子が男の道を追い求めるあまり、極度の女嫌いになってしまったのは泰平も誤算だっただろう。
それはさておき、ここまで自分を育て、そして鍛えてくれた泰平にも当然感謝はしている。高校に進学する際、男子校を選んだが特に反対もしなかったし、男手一つで子供を育てるのは、とても大変だったであろう。
だがそれと今回の事は別である。
「てめぇこのクソ親父。いったいどういうつもりだコラァ!」
道場に入るや否やマコトは吼えた。
泰平は道場の真ん中で寝転んでいた。にやにやしながら悠然と片腕を枕に横たわっている姿は、まるで息子が怒って来るのを待っていたかのようだ。
「うるせえぞ馬鹿息子。ご近所に迷惑だろうが。それに親をクソと呼ぶたあ、お前こそどういうつもりだコラァ!」
泰平は息子を一喝すると、道着の懐に手を入れてぼりぼりと掻いた。そのふてぶてしくもだらしない姿が、マコトの怒りに油をガロン単位で注ぐ。
泰平は体を起こし胡坐をかいた。膝に肘を置いて頬杖をつき、マコトをにやにやと楽しそうに眺めている。
「……説明しろ」
マコトの声がわなわなと震えている。あまりの怒りで唇が上手く動かない。奥歯をめり込むほど噛み締めていないと、また叫び出しそうだ。
「はあ? 聞こえねえぞ。もっとでかい声で言え」
そんな事情を知ってか知らずか、泰平は耳に手を当て、聞こえないと身振りで示す。本当に人を小馬鹿にした態度だ。相手を怒らすためにわざとやっているのだとしたら、それは十二分に成功している。マコトは怒髪天を衝くという感じだ。
マコトは泰平と仲が悪いわけではないが、決して馬が合うとはいえない。泰平は父として尊敬できる部分もあるが、人として許せない部分が過分にあるからだ。
豪放磊落と言えば聞こえはいいが、ただ単に大雑把な性格。常に飄々として、どこか軽佻な態度が癪に障る。
何より一番腹が立つのは、未だマコトを一人前として認めていない事だった。
たしかにまだ学生で未成年なのだから、まだまだ自立した一人の人間として見られないのは仕方がない。だが彼の内面。精神や魂が未熟とみなされているのが、マコトには我慢がならない。
ただ年齢的な事や、親という立場での上から目線でそう思われているのが腹立たしい。マコトはむしろ、泰平の方がよほどだらしない半人前だと思っている。
我が子のそんな心情もつゆ知らず、泰平は退屈そうに欠伸を一つすると、胡坐をかいたまま片方の膝だけ上げて屁をひった。
そんな事だから道場が寂れていくのだ。かつてマコトは跡を継ごうと思っていたが、今は泰平に師範としても父としても、さらに男としても失望してしまいその気も失せている。だから進学を希望したのだ。
幸いマコトの成績は悪くなかった。このまま順調に行けば志望する大学の推薦も取れるだろう。だがここにきて、内申を脅かす事態が発生してしまったのだ。
それも、この男の挿し金によって。
「説明しろっつってんだよ!」
「だから何がだ?」
泰平はあくまで知らぬ存ぜぬを気取るつもりなのだろうか。それとも本当に身に覚えがないのか。だがもうそんな事はどうでもいい。今まで鬱積したものに火がついてしまった。一度火がついた導火線は、もう消す事ができないのだ。
「ったく、喚きながら帰って来たと思いきや、いきなり訳の解からない事を言いやがって。少しはドーンと男らしく構えてろ」
俺様みたいにな、と泰平は親指で自分を示す。爽やかなオヤジスマイルがきらりと光るが、その輝きが強い分、マコトの心に濃い影を落とす。
何だか怒るのも馬鹿馬鹿しくなってしまうが、マコトは萎えかけた怒りに再び火を入れる。泰平の胸座を掴んで力任せに立たせ。そのまま一気に壁まで押しつけた。
泰平は平然とされるがままだった。余裕なのか、それとも未だ事態が飲み込めていないのかその表情からは判らない。
どちらにしろもう関係ない。マコトは拳を硬く握ると、薄ら笑いを浮かべている父親の顔に狙いを定める。
「勝手に俺を女子高に編入させるたあ、どういう了見だこの野郎!」
叫ぶと同時に殴りかかる。
道場に轟音が響き渡った。




