堅物団長の求婚は全部業務連絡で届くので、秘書官は十四回「承知しました」と返しました
夕刻の鐘が鳴る二分前。王立第三騎士団長ゼノ・アルトハイムは、秘書官の机の前に立っていた。
戦場では、三十メートル先の兵に号令を届かせる男である。その声が、三メートル先の机の前では出てこない。敵の槍衾に単騎で突っ込んだ日でさえ、脈はこれほど速くなかった。
決裁箱は、秘書官の机の端にある。上官が出向くのは非効率だと言われたが、ゼノは毎夕、自分で署名しに来る。理由は聞かれていない。
最上段には、今日も付箋が一枚。ゼノは見もせずに、上から順にペンを走らせる。エルナ・ハルトマンの書類に、誤りがあったことは一度もない。
最後の一枚に署名して、咳払いをした。
「エルナ殿。業務連絡だ」
「承ります」
エルナはペンを置いた。栗色の髪は一筋の乱れもなく、背筋は定規を入れたように真っ直ぐで、表情はぴくりとも動かない。通称、鉄の秘書官。先月は徹夜三日目の団長に「お断りします、寝てください」と言って、仕事を取り上げた女でもある。
「今後三十年分の予定を、君に預けたい」
言った。十四回目にして、過去最高の出来だと思う。
沈黙。
「恐れ入ります。もう一度お願いできますか」
また、これだ。ゼノは息を吸った。
「今後三十年分の予定を、君に預けたい」
今度は声が出すぎた。廊下の空気がびりっと震え、扉の向こうで誰かが書類を落とす音がした。
エルナは動かない。三拍。彼女は返事の前に、必ず三拍置く。検討の時間なのだろう、とゼノは理解している。
「承知しました」
彼女は手帳を開き、さらさらと一行書き込んだ。議事録だ。ゼノの申し入れは、すべて議事録に残る。
「他にご用件は」
「……ない」
「では、お先に失礼いたします」
廊下に出ると、角に潜んでいた団員が三人、蜘蛛の子を散らすように消えた。「また聞こえたぞ、十四回目だ」「しっ」という囁きが、遠ざかっていく。
その夜、ゼノは自分の手帳に、「正」の字の四画目を書き足した。三つ目の正は、あと一画で完成する。
◇
最初の一回は、十四か月前になる。
ゼノは一週間、鏡の前で練習した。「結婚してくれ」の六文字は、鏡の中の自分にすら言えなかった。そこで彼は、自分が唯一流暢に話せる言語を使うことにした。号令と、報告と、業務連絡である。
「今後の昼食の時間を、君と同一にしたい」
「恐れ入ります。もう一度お願いできますか」
「……今後の昼食の時間を、君と同一にしたい」
三拍。
「承知しました」
翌朝、エルナの机の横に、二脚目の椅子が置かれていた。カップも二客。昨夜のうちに手配したらしい。鉄の秘書官は、仕事が速い。彼女の「承知しました」は必ず実行される。できないことには「確認いたします」と言う女だ。
以来、昼食は二人で摂っている。彼女は黙々とパンを食べ、ゼノは緊張で味がしない。会話は、備品の発注状況についてのみである。
「団長、パンくずが」
「む」
「ここです」
彼女は自分の口元を指で示した。ゼノは自分の口元を拭った。それが、その月で最も長い私的な会話だった。
第二回は、休暇だった。「今後の休暇は、君と同じ日に揃えたい」。承知しました。以来、二人の休みは同じ日になり、二人とも休みの日の執務室に現れては、「……なぜここに」「書類が」と互いに言い訳している。
第四回は、遺言書だった。
「俺の遺言書の受取人を、君に変更したい」
少々、過激だったと反省している。だがエルナは「もう一度」の後、三拍置いて「承知しました」と言い、その日のうちに書式を整え、起草まで自分でやってのけた。
受取人欄に自分の名を書くとき、ペン先がわずかに震えた。几帳面な彼女の字が、そこだけ揺れている。
怒っているのだ、とゼノは判断した。上官の死後の財産を、本人に処理させられているのだから。
第九回は、官舎の鍵だった。
彼女は鍵を受け取ると、細い紐に通して首から下げ、襟の中にしまった。落とさないための用心だろう。几帳面な人だ。
あとは件名だけでいい。視察の同行者を君にしたい。承知しました。毎朝の紅茶を二人分にしたい。承知しました。
第十一回は、書状だった。
「ある令嬢の父君に宛てた書状だ。文面を確認してほしい」
三拍の後、エルナは受け取り、読み、赤を入れた。
「『娘さんを下さい』は、『ご息女を賜りたく』が適切です」
「……承知した」
宛名がハルトマン子爵であることには、最後まで触れられなかった。
ゼノが渡していないものは、もう名前くらいしかない。
それなのに、エルナは一度も笑わなかった。
◇
その夜、ゼノは副団長ブルーノと、騎士団食堂の隅で麦酒を前にしていた。
「第十四回、聞こえたぞ。団長室の外まで」
「声は抑えた」
「それであれか」
ブルーノは三十八歳、苦労人の顔をしている。ジョッキを置いて、身を乗り出した。
「普通に言え。『結婚してくれ』の六文字だ」
「お前、彼女に好きだと言ったことは」とブルーノが続ける。
「ない」
「一度も」
「毎朝『おはよう』は言っている」
「それは挨拶だ」
「六文字を言った翌日から、俺は彼女の上官であり、求婚者になる。断られても、毎夕、彼女の隣で署名をもらう」
ゼノはジョッキの縁を指でなぞった。
「だから小さく申し入れた。昼食、休暇、鍵。一つでも断られたら、そこで引く。そのつもりだった」
「十四個、全部通ってるじゃないか。お前ら、もう夫婦だぞ」
「通ったのではない。従われたのだ」
ブルーノが麦酒を噴いた。
「団員の賭けじゃ、次で決まる、が一番人気だぞ」
「……賭けは禁止だ」
「胴元は俺だ」
ゼノは聞こえなかったことにして、続けた。
「エルナ殿は、上官の指示に『承知しました』と答える人だ。上官の求婚は、命令と区別がつかない。彼女は、断れなかっただけではないのか」
「あいつは、徹夜三日目の団長に『お断りします』と言う女だぞ」
「それは仕事の話だ」
「……お前な」
ブルーノは何か言いかけて、天井を仰いだ。笑いをこらえているようにも、頭痛をこらえているようにも見えた。
ゼノは続けた。
「最後の一回は、普通に言うつもりだった。式の日に、団長を辞す。後任はお前だ。引き継ぎ書は、もう机の引き出しに入っている」
「俺に押しつけるな」
「内規第十二条。団長の配偶者は、第三騎士団に籍を置けない。俺が団長でなくなれば、彼女の席は守れる」
「内規なんざ、お前の署名一枚で変えられるだろうが」
「妻を娶りたい団長が、自分の都合で内規を曲げたら、団員の誰が俺を信じる」
ブルーノは、今度は黙った。
「受けてくれたのなら、何も惜しくない。だが従わせているだけなら、すべて撤回する」
ゼノはぬるくなった麦酒を飲み干した。
「明日だ」
◇
団長室に戻ると、机の上に三枚の白紙を並べた。
「申し入れ撤回届」。「謝罪文」。「転属願(北方辺境守備隊)」。
北方辺境は、馬で十日。凍てついた砦だ。自分が消えれば、彼女は命令する者も求婚する者もいない席で、好きな仕事を続けられる。
ペンを持つ。
三年前、着任初日の新任秘書官が団長室で最初に口にした言葉は、「お断りします」だった。ゼノの出した無茶な出動計画を、「兵が死にます」の一言で突き返したのだ。腹は立たなかった。団長に向かって、兵のために断れる人間を、初めて見た。
彼女は、仕事のためなら団長にも断る。ならば、仕事の形で求婚された彼女には、断る理由がどこにもない。ゼノは自分で、彼女の退路を塞いでいたのだ。
一か月前の月末にも、ゼノは三百枚の決裁を捌いた。十三回目の台詞を頭の中で練習していて、上の空だった。最上段の付箋は、あの日も見なかった。
どうでもいいことだ。ゼノはペンを走らせた。
別紙に、撤回対象の十四件を書き出す。昼食、休暇、紅茶。昼食の行で、ペンが止まった。昼食だけは、撤回したくなかった。結局、書いた。
撤回届の最後の一行で、線がよれた。戦場で剣先が震えたことは、一度もない。
深夜、三通を持って、秘書官の机まで歩いた。主のいない机の、決裁箱の最上段に置く。彼女が毎日、書類をそうするように。
付箋は付けなかった。書くことが、なかった。
◇
翌朝、始業の鐘と同時に、団長室の扉が叩かれた。
「失礼いたします」
エルナは三通の書類を手に、定規のような背筋で立っていた。表情は、いつもどおり動かない。
「団長。こちらの三件、受理できません」
「……理由を聞こう」
「三点ございます」
彼女は指を一本立てた。
「第一に。私は、団長にも『お断りします』と申し上げられる秘書官です。十四回の申し入れのあいだ、一度も申し上げておりません」
ゼノは口を開けたが、言葉が出なかった。
「第二に。十四件はすべて実行済みです。納品済みの案件の撤回は、承っておりません」
昼食。休暇。視察。遺言書。鍵。……たしかに、納品されている。
「第三に」
指が三本になった。
「内規第十二条は、本日午前零時をもって削除されました」
「……何?」
「三十日前の月末に、団長がご署名くださった『内規整理に関する一括改正書』の第十二条です。周知期間の三十日も、規程どおり食堂の掲示板に。誰も読みませんでしたが」
「俺は、そんなものには」
「最上段でした。付箋に、赤字で『必ずお読みください』と書きました」
付箋。見なかった。見もしなかった。ゼノは一か月前の自分を、馬で十日先の砦に転属させたくなった。
「全三十一条のうち、三十条は誤字の訂正です。一行でもお読みくださっていれば、あの日のうちに決着しておりました」
ゼノは、ゆっくりと息を吐いた。
「……辞める必要は、ないのか。俺も、君も」
「ございません。団長なら、ご自分が辞める段取りを先に組まれると思いました。引き継ぎ書は、机の第二引き出しですね」
「……読んだのか」
「秘書官ですので」
鉄の秘書官は、ここでようやく、ほんのわずかに視線を逸らした。
「では君は。十四回とも」
「承知しておりました」
「いつから」
「第一回からです。団長は、昼食を人と摂る方ではありませんので」
……たしかに、そうだ。
「ならば、なぜ言わなかった。受ける、と」
「内規が改まるまでは、団長の妻になれる保証がございませんでした。守れないお約束は、いたしません。申し上げられたのは、承知しました、までです」
十四回、彼女は一度も、確認いたします、とは言わなかった。
「では、なぜ。もう一度、と」
三拍。
「もう一度、聞きたかったからです」
エルナの耳が、赤かった。初めて見る色だった。
彼女は手帳を開いて、机に置いた。十四行。日付と原文が一字違わず写してあり、行末にはそれぞれ小さな丸が付いている。第十四回だけは、二重丸だった。
「承知しました、と申し上げた以上、納期を守るのが私の仕事です。十四か月かかりました。お待たせいたしました」
ゼノは立ち上がった。号令も、報告も、業務連絡も、いまは何の役にも立たない。
「エルナ。結婚してほしい。……業務連絡では、ない」
エルナは、まばたきを一つした。
「恐れ入ります。もう一度お願いできますか」
ゼノは、声を出して笑った。いつ以来か、思い出せなかった。
「エルナ。結婚してほしい」
三拍。
「——はい」
承知しました、ではなかった。
◇
十七時五十八分。
秘書官の机の決裁箱の最上段に、付箋が一枚あった。
ゼノは生まれて初めて、それを読んだ。
『要署名 ※必ずお読みください』
その下に、もう一行。
『※お返事は「承知した」で結構です』
書類は、婚姻登録申請書だった。エルナの欄は、すでに埋まっている。几帳面な字で、一画の乱れもなく。
ゼノは一字残らず読んだ。誤字は、なかった。日付の欄で、手が止まる。
『婚約成立日』
そこに書かれていたのは、十四か月前の、あの昼食の日の日付だった。
顔を上げると、エルナが机にカップを二客置いていた。十四か月前から、ずっと二客あったカップだ。
扉の向こうで、誰かが拍手を噛み殺している気配がした。ブルーノの咳払いが、それを黙らせる。
ゼノは三拍も置かずに署名し、付箋の隅に一行、書き添えた。
『承知した』
署名欄の字も、付箋の字も、いつか遺言書の受取人欄で見た彼女の字と、同じくらい震えていた。




