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悲しみの値段

作者: 星野天音
掲載日:2026/04/24

もし、感情を売れるとしたら——そんなお話です。

「悲しみ、買い取ります」

駅前の看板に、そう書かれていた。

最初は冗談だと思った。けれど、その店の前に並ぶ人たちの表情は、どこか軽い。重たい荷物を下ろしたあとのように、肩の力が抜けている。

気づけば、僕も列の最後尾に並んでいた。

店内はやけに静かで、白い壁と白いカウンターが、病院の待合室を思わせた。順番が来ると、奥から現れたスーツを着た店員が、柔らかく微笑む。

「どの感情を売却されますか?」

少しだけ迷って、答える。

「……悲しみを」

言葉にした瞬間、胸の奥に沈んでいた何かが、形を持った気がした。

「では、その悲しみの純度を確かめさせていただきます」

促され、椅子に座る。簡単な説明と、いくつかの同意事項。内容はほとんど頭に入ってこなかった。

「十分な価値がありますので、ご安心ください」

その言葉に、なぜか少しだけ救われた気がした。

「では、少しだけ目を閉じてください」

言われるままに目を閉じる。

――何かが、静かに抜け落ちた。

それだけだった。

目を開けると、店員は変わらない笑顔で告げた。

「ご利用、ありがとうございました」

店を出ると、空気がやけに軽かった。胸の奥にあったはずの重さが、きれいになくなっている。

理由はわからないけれど、ずっと抱えていたものから解放された気がした。

足取りは自然と軽くなり、気づけば少し遠回りをして帰っていた。

帰り道、スマホの通知でふと写真のアプリを開いてみると、「思い出」として一枚の画像が表示されていた。

そこには、笑っている僕と、もう一人の誰かが写っている。

制服姿の、少し背の高い人。

部活で、ずっとそばにいてくれた先輩――だった気がする。

その人は、照れくさそうに笑っていた。

隣で笑う自分は、今よりずっと無防備に見える。

見覚えはあるはずなのに、名前が出てこない。

画面を見つめたまま、しばらく考える。

喉の奥まで何かが上がってきているのに、声にならない。

「……誰だっけ」

口に出してみても、空っぽだった。

不思議と、焦りはなかった。

焦る理由すら、よくわからなかった。

わからないのなら、それでいい気がした。

ただ、その写真の中の自分は、今よりも少しだけ楽しそうに見えた。

ポケットにしまいかけて、もう一度だけ画面を見る。

その人の肩に、僕はこてんと頭を預けていた。

あたりまえみたいに。

――あたりまえ、だったはずなのに。

胸の奥に、ほんの一瞬だけ、何かが引っかかる。

けれど、それが何なのか考える前に、その感覚はするりと消えていった。

画面を閉じる。

胸は、少しも痛まなかった。

それが、ほんの少しだけ、おかしい気がした。

けれど、その違和感すら、すぐにどこかへ消えていく。

たぶんそれも、売ってしまったのだろう。

ちゃんと、悲しみを全部引き取ってくれたのだから。

そう思った。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

あなたなら、どの感情を売りますか?

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