悲しみの値段
もし、感情を売れるとしたら——そんなお話です。
「悲しみ、買い取ります」
駅前の看板に、そう書かれていた。
最初は冗談だと思った。けれど、その店の前に並ぶ人たちの表情は、どこか軽い。重たい荷物を下ろしたあとのように、肩の力が抜けている。
気づけば、僕も列の最後尾に並んでいた。
店内はやけに静かで、白い壁と白いカウンターが、病院の待合室を思わせた。順番が来ると、奥から現れたスーツを着た店員が、柔らかく微笑む。
「どの感情を売却されますか?」
少しだけ迷って、答える。
「……悲しみを」
言葉にした瞬間、胸の奥に沈んでいた何かが、形を持った気がした。
「では、その悲しみの純度を確かめさせていただきます」
促され、椅子に座る。簡単な説明と、いくつかの同意事項。内容はほとんど頭に入ってこなかった。
「十分な価値がありますので、ご安心ください」
その言葉に、なぜか少しだけ救われた気がした。
「では、少しだけ目を閉じてください」
言われるままに目を閉じる。
――何かが、静かに抜け落ちた。
それだけだった。
目を開けると、店員は変わらない笑顔で告げた。
「ご利用、ありがとうございました」
店を出ると、空気がやけに軽かった。胸の奥にあったはずの重さが、きれいになくなっている。
理由はわからないけれど、ずっと抱えていたものから解放された気がした。
足取りは自然と軽くなり、気づけば少し遠回りをして帰っていた。
帰り道、スマホの通知でふと写真のアプリを開いてみると、「思い出」として一枚の画像が表示されていた。
そこには、笑っている僕と、もう一人の誰かが写っている。
制服姿の、少し背の高い人。
部活で、ずっとそばにいてくれた先輩――だった気がする。
その人は、照れくさそうに笑っていた。
隣で笑う自分は、今よりずっと無防備に見える。
見覚えはあるはずなのに、名前が出てこない。
画面を見つめたまま、しばらく考える。
喉の奥まで何かが上がってきているのに、声にならない。
「……誰だっけ」
口に出してみても、空っぽだった。
不思議と、焦りはなかった。
焦る理由すら、よくわからなかった。
わからないのなら、それでいい気がした。
ただ、その写真の中の自分は、今よりも少しだけ楽しそうに見えた。
ポケットにしまいかけて、もう一度だけ画面を見る。
その人の肩に、僕はこてんと頭を預けていた。
あたりまえみたいに。
――あたりまえ、だったはずなのに。
胸の奥に、ほんの一瞬だけ、何かが引っかかる。
けれど、それが何なのか考える前に、その感覚はするりと消えていった。
画面を閉じる。
胸は、少しも痛まなかった。
それが、ほんの少しだけ、おかしい気がした。
けれど、その違和感すら、すぐにどこかへ消えていく。
たぶんそれも、売ってしまったのだろう。
ちゃんと、悲しみを全部引き取ってくれたのだから。
そう思った。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
あなたなら、どの感情を売りますか?




