第8話 父の帰宅
毎日20時投稿
居酒屋の暖簾を外すと、むっとした夜気が顔に当たった。
昼間ほどではないが、まだ夏の熱が路地に残っている。
アスファルトはゆっくりと熱を吐き出していて、湿った空気に油と醤油の匂いが混ざっていた。
悠真は店の外に置かれた黒板を壁際に戻す。
チョークで書かれた「本日のおすすめ」が、少しだけ指に白く移った。
「お疲れさん」
背後から店主の声。
振り返ると、腕まくりした店主が暖簾を畳んでいる。
年季の入った手つきで、手際よく布をまとめていく。
「お疲れさまです」
悠真は軽く頭を下げた。
店内ではまだ氷の溶ける音がしている。
グラスを片付けたシンクの奥から、カラン、と小さな音が響いた。
「今日は静かだったな」
店主が言う。
「そうですね。週明けだからですかね」
「まぁ、こんなもんだろ」
店主は肩をすくめて、暖簾を店の横に掛けた。
それからポケットから煙草を取り出しかけて、ふと思い直したように戻す。
「明日も入れるか? 予約が入ってるんだ」
「はい、大丈夫です」
「助かる」
それだけ言って、店主は店の戸を引いた。
ガラガラ、と木戸が閉まる音が路地に響く。
鍵を回す音。
カチ、と小さく鳴る。
夜の路地は急に静かになった。
遠くで車が走る音。
どこかの店から漏れるテレビの声。
そして、ぬるい風。
悠真は伸びをする。
背中の筋肉がきしむ。
バイトはいつも通りだ。
皿を洗って、料理を運んで、客と少し話して。
変わらない夜。
ポケットの中で、硬いものが指に触れる。
スマートウォッチ。
数日前、ハイブで渡されたもの。
画面は暗いままだ。
何も表示されていない。
それでも、そこにあるだけで、重さを感じる。
悠真は空を見上げた。
街灯に押されて星はほとんど見えない。
それでも、夜の空気にはまだ夏の匂いが残っている。
蝉の声はもう少ない。
代わりに、遠くで鈴虫のような音がかすかに聞こえた。
季節が、少しずつ動いている。
悠真はスマートウォッチから手を離す。
「……帰るか」
小さく呟いて、歩き出す。
路地を抜けると、街の灯りが少しだけ明るくなる。
日常は、いつも通り続いている。
帰宅後、悠真はシャワーを浴びて、髪を乾かそうとしていたところだった。
玄関の鍵が回る音が聞こえた。
カチャリ、と金属が噛み合う音。
扉が開く。
「……ただいま」
低く、抑えた声。
珍しい時間だった。
悠真はソファから立ち上がる。
「おかえり」
廊下に出ると、父が靴を脱いでいるところだった。
制服ではない。濃紺のシャツに、無地のパンツ。
だが、背筋はまっすぐ伸びている。
肩にかけていたバッグを静かに下ろし、玄関にきちんと揃える仕草も、いつも通り無駄がない。
「起きてたか」
「うん。バイトから帰ってシャワー浴びたとこ」
短い会話。
それでも、家の空気が少しだけ変わる。
父は洗面所へ向かい、手を洗う。
水の音が、静かな家に響く。
悠真はキッチンへ戻る。
冷蔵庫を開け、残っていた味噌汁の鍋を取り出す。
火をつける。小さな青い炎が揺れる。
足音が近づく。
「何かあるか」
「少しなら」
父は冷蔵庫の中身を一瞥し、黙って皿を出した。
動きは静かだが、迷いがない。
一人分の夕飯が、テーブルに並ぶ。
味噌汁の湯気が立ち上る。
煮物の匂いが、部屋に広がる。
父は椅子を引き、腰を下ろす。
「いただきます」
箸が茶碗に触れる音。
テレビはついていない。
エアコンの微かな駆動音だけが、部屋に流れている。
向かいに座る父は、いつもより少しだけ疲れて見えた。
だが、姿勢は崩れていない。
悠真は、コーヒーを一口飲む。
温かい。
地下訓練区画の乾いた空気とは、まるで違う。
同じ“守る”を背負うかもしれない二人が、
今はただ、同じ食卓を囲んでいる。
食器を流しに運ぶ音が、静かなキッチンに響く。
父が水を止め、布巾で手を拭いた。
「少し見るか」
そう言って、リモコンに手を伸ばす。
テレビが点いた。
画面に映し出されたのは、夜の湾岸エリア。
見覚えのある外壁。ひび割れたコンクリート。
《豊洲地区、復旧作業は本日も続いています――》
アナウンサーの落ち着いた声。
映像が切り替わる。
クレーン車。
規制線。
焦げ跡の残る壁面。
悠真の視線が、わずかに止まる。
父は無言で画面を見ている。
《専門家は、今回出現した未確認大型機械生命体について――》
あの黒鉄の巨体の映像が流れる。
赤い単眼。
振り下ろされる拳。
煙と瓦礫。
胸の奥が、かすかに熱を帯びる。
その映像の隅に、ほんの一瞬。
黄色い小型機の姿が映った。
遠景。
ぼやけた映像。
《SNS上では、正体不明の飛行物体の目撃情報も――》
コメンテーターが言葉を濁す。
「未確認機体、ね」
父が、ぽつりと呟く。
声に感情は乗っていない。
ただ、状況を整理するような響き。
悠真は、画面から目を逸らさない。
「父さんは出たの?」
何気ない口調を装う。
父は、しばらく画面を見たまま答える。
「あぁ。だが後方待機だった」
短い。
「待機との命令だった」
ニュース映像は、復旧作業の様子へ戻る。
《人的被害は、奇跡的に死傷者ゼロに抑えられましたが――》
抑えられた。
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
父は腕を組み、画面を見続ける。
悠真も、何も言わない。
テレビの光が、リビングを淡く照らしている。
画面の中では、壊れた街が少しずつ修復されている。
その前に座る二人は、同じ映像を見ている。
だが、見ている意味は、少しだけ違っていた。
ニュースは、復旧作業の映像からスタジオへ切り替わった。
専門家の解説が続く。
未確認機体。
想定外の脅威。
抑止力。
言葉だけが、整然と並ぶ。
父は、しばらく何も言わずに画面を見ていた。
やがて、リモコンを置く。
音量が少しだけ下がる。
「……守る側ってのはな」
唐突でも、重くもない。
ただ、思い出したような口調だった。
悠真は、視線を向ける。
父はテレビを見たまま続ける。
「ヒーローじゃない」
淡々としている。
「間に合えば称賛される。間に合わなければ叩かれる」
笑いもしない。
「どっちも、仕事には関係ない」
指先で湯呑みを回す。
「俺たちは命令で動く。勝手には動けない。動けば責任が発生する」
一拍。
「だがな」
そこで、ほんの少しだけ声が低くなる。
「命令が出た瞬間に迷ってたら、間に合わない」
テレビでは、被害を免れた人々のインタビューが流れている。
父は続ける。
「だから、普段から決めておく」
「何を?」
悠真の声は、自然に出た。
父は、ようやく視線をこちらへ向ける。
「自分は立つ側かどうか、だ」
静かな目。
「怖いのは当たり前だ。死にたくないのも当たり前だ」
否定しない。
「だが、立つと決めたら、迷わない」
その言葉は、訓練区画で何度も崩れたドローンの軌道を思い出させた。
迷った瞬間、群れは散った。
「守るってのはな」
父は、少しだけ言葉を探す。
「勝つことでも、倒すことでもない」
視線が、テレビの映像へ戻る。
復旧した歩道を歩く親子。
「日常を、続けさせることだ」
静かに言う。
「そのために、嫌われ役にもなるし、間に合わなかった責任も背負う」
リビングに、しばらく沈黙が落ちる。
テレビの光が、父の横顔を照らす。
「……でも」
悠真は、無意識に口を開いていた。
「命令がなくても、動くやつはいるだろ」
父は、わずかに目を細める。
否定もしない。
肯定もしない。
「いる」
短い答え。
「そういうやつは、たいてい後で怒られる」
ほんのわずかに、口元が緩む。
「だが」
そこで、視線が重なる。
「そいつがいなければ、救えなかった命もある」
テレビの音が、また少しだけ大きくなる。
父は湯呑みを置く。
「正解は一つじゃない。だが、自分がどっちに立つ人間かは、決めておけ」
命令でも、押し付けでもない。
ただの、助言。
悠真は、何も言えない。
胸の奥が、静かに熱を帯びている。
父は立ち上がる。
「明日も、早い」
それだけ言って、キッチンへ向かう。
テレビの画面には、復旧した街の夜景が映っている。
日常が、続いている。
守る側の思想は、静かに部屋の空気へ溶けていった。
父が寝室へ向かったあと、リビングにはテレビの明かりだけが残った。
ニュースは別の話題へ移っている。
経済指標。
猛暑予報。
さっきまで特集されていた豊洲の映像は、もう流れていない。
悠真はソファに深く座り、天井を見上げる。
守る側かどうかを、先に決めておけ。
父の言葉が、ゆっくりと胸の奥に沈んでいく。
ポケットの中で、金属の感触がわずかに触れた。
スマートウォッチ。
取り出して、手首にはめる。
黒い画面に、自分の顔がぼんやり映る。
タップしない。
起動もしない。
ただ、その重みを感じる。
テレビの光が反射して、一瞬だけ画面が白く光った。
その奥に、何かが潜んでいるように見えたのは、気のせいかもしれない。
窓の外では、都内の夜が静かに広がっている。
救急車のサイレンも、ヘリの音もない。
ただ、いつもの街の音。
続いている日常。
悠真は、ゆっくりと息を吐いた。
守ると決めた。
だが、それはまだ、誰にも知られていない。
知られなくていい。
ソファから立ち上がり、テレビを消す。
部屋が暗くなる。
その暗闇の中で、スマートウォッチの画面がほんの一瞬だけ、淡く脈打った。
――待機中。
表示は、すぐに消える。
悠真は気づかないまま、自室へ向かった。
静かな夜は、何事もなかったように続いている。
次に空が歪むその瞬間まで。
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