第9話 暴走する太陽と氷の誓い
唇が触れ合った瞬間。
世界から音が消えました。
「……んッ」
アダルベルト様の唇は、火傷しそうなほど熱く、荒れていました。
けれど、そこから流れ込んでくるのは、破壊的な暴力ではありません。
彼の魂が叫んでいるような、切実な「生」への渇望。
そして、私を傷つけたくないという、悲痛なほどの優しさ。
(受け止めます。貴方のすべてを)
私は目を閉じ、意識を集中させました。
私の中に眠る、絶対零度の氷の魔力。
それを惜しみなく解放し、彼の体内へ、暴れ狂う火脈の奔流へと流し込みます。
ジュッ……!!
微かな音が、鼓膜の奥で響きました。
氷が解け、水となり、蒸気となって昇華する音。
本来なら、相反する魔力の衝突は対消滅(爆発)を招くはずです。
ですが、不思議なことに痛みはありません。
私の「冷たさ」が、彼の「熱」を貪り食い、
彼の「熱」が、私の「冷たさ」を求めて絡みついてくる。
まるで、ずっと前からこうなることが定められていたかのように。
二つの力は混ざり合い、螺旋を描いて天へと昇っていきました。
「……は、ぁ……」
アダルベルト様の喉から、熱い吐息が漏れます。
彼の体を硬直させていた筋肉が、ゆっくりと緩んでいくのが分かりました。
私を抱きしめる腕の力が、苦悶の強さから、慈愛の強さへと変わります。
彼の大きな手が、私の背中を優しく撫で下ろしました。
その愛撫に応えるように、私の体からも力が溢れ出します。
魔力が枯渇するどころか、彼の熱をエネルギーに変えて、無限に湧き出してくるのです。
(ああ……なんて)
なんて、心地よいのでしょう。
熱くて、涼しくて。
激しくて、穏やかで。
これが「満たされる」ということなのですね。
プシュゥゥゥゥ……。
気がつくと、私たちの周囲は濃密な白い霧に包まれていました。
私たちが生み出した大量の水蒸気です。
それは灼熱の広場を優しく覆い隠し、五十度を超えていた熱気を、瞬く間に洗い流していきました。
「……エルザ」
唇が離れ、彼が私の名前を呼びました。
霧の中で、琥珀色の瞳が揺れています。
その瞳からは、もう狂気の赤色は消えていました。
「戻って……これたのか、俺は」
「ええ。おかえりなさいませ、アダルベルト様」
私は微笑み、彼の手を取りました。
まだ熱いけれど、もう火傷するような危険な熱さではありません。
ずっと触れていたい、人肌の温もりです。
「お前が……冷やしてくれたんだな」
「二人で、分け合ったのですわ」
私たちが微笑み合った、その時でした。
ポツリ。
頬に、冷たい雫が当たりました。
「……雨?」
アダルベルト様が空を見上げました。
立ち込めた水蒸気が上空で冷やされ、雲となり、雨となって降り注ぎ始めたのです。
雨など、この乾燥したイグニスでは数年に一度あるかないかの珍事です。
ザーーーーーッ……。
雨脚はすぐに強まり、豪雨となりました。
しかし、それは冷たくて気持ちのいい、恵みの雨でした。
地面のひび割れから噴き出していた炎が、雨に打たれてシュウシュウと音を立てて消えていきます。
「火脈が……鎮まった」
アダルベルト様が呆然と呟きました。
霧が晴れていきます。
そこには、信じられない光景が広がっていました。
広場の真ん中、私たちが立っている場所を中心に、色とりどりの花が芽吹き、急速に開花していたのです。
過剰な熱エネルギーと水、そして魔力が混ざり合い、植物の成長を爆発的に促進させたのでしょう。
荒涼とした砂漠の街に、突如として現れた「花の楽園」。
その中心で、私たちは抱き合っていました。
「……な、なんだこれは……」
震える声が聞こえました。
数メートル先。
吹き飛ばされて瓦礫に埋もれていたジュリアン様が、這い出してくるところでした。
彼は全身泥まみれで、高価な衣装はボロボロ。
雨に打たれて、濡れ鼠のような惨めな姿を晒しています。
「ば、馬鹿な……。火が消えただと? 雨が……?」
彼は空を見上げ、そして私たちを見ました。
「貴様ら……何をした?」
「ただの愛の力ですわ」
私はアダルベルト様の胸に寄り添いながら、涼しい顔で答えました。
「理解できなくて結構です。貴方には一生、縁のないものですから」
「あ、愛だと……? ふざけるな! それは私のものだ! その力も! その女も!」
ジュリアン様はまだ諦めきれないのか、ふらふらと立ち上がろうとしました。
しかし、足がもつれて無様に転びます。
「ジュリアン様ぁ……」
ミラ様も、瓦礫の陰でへたり込んでいました。
彼女の手には、黒く焼け焦げて砕け散った杖の残骸が握られています。
魔力暴走の負荷に耐えきれず、壊れてしまったようです。
「もう……嫌……。帰りたい……」
彼女は泣きじゃくっていました。
聖女としての自信も、プライドも、完全にへし折られた顔です。
「見ろ、ジュリアン」
アダルベルト様が、冷ややかに告げました。
「これが格の違いだ。……お前らが小手先の魔道具や称号で遊んでいる間に、俺たちは命懸けでこの地を守ってきた」
アダルベルト様が一歩踏み出すと、ジュリアン様は「ヒッ」と悲鳴を上げて後ずさりました。
もはや、剣を向ける気力すら残っていないようです。
「失せろ。二度と俺たちの前に顔を見せるな」
アダルベルト様の体から、ふわりと温かい風が放たれました。
それは攻撃ではありませんでしたが、ジュリアン様の心を折るには十分でした。
「う、うわあぁぁぁ……!!」
ジュリアン様は情けない声を上げ、白目を剥いてその場に倒れ込みました。
極度の脱水症状と、精神的なショックによる気絶でしょう。
ミラ様も、糸が切れたようにパタリと倒れました。
静寂が戻りました。
雨音だけが、優しく響いています。
「……終わったな」
アダルベルト様が、大きなため息をつきました。
「ええ。……少し、派手にやりすぎてしまいましたが」
私が周囲の花畑を見渡すと、アダルベルト様は苦笑しました。
「構わんさ。殺風景なイグニスには、ちょうどいい彩りだ」
彼は改めて私に向き直り、その大きな手で私の頬を包み込みました。
「エルザ」
真剣な眼差し。
雨に濡れた彼の髪が、色っぽく額にかかっています。
「俺は、お前がいなければ死んでいた。……いや、お前に会うまで、俺は生きていなかったも同然だ」
「アダルベルト様……」
「愛している。……俺の妻になってくれ。この命が燃え尽きるまで、お前の傍にいさせてほしい」
直球すぎるプロポーズ。
王都の貴族のような遠回しな詩的表現はありません。
でも、その熱量だけは誰にも負けない、最高に熱い言葉でした。
私は胸がいっぱいになり、視界が滲みました。
雨のせいではありません。
「……はい。謹んでお受けいたします」
私は爪先立ちになり、彼の首に腕を回しました。
「私の冷たい人生を、どうか貴方の熱で溶かし続けてください。……死ぬまで、冷やして差し上げますから」
私たちは再び口づけを交わしました。
今度は、命懸けの魔力供給ではなく、純粋な愛の口づけを。
雨が上がり、雲の切れ間から太陽が顔を出しました。
空には、イグニスでは誰も見たことがないような、巨大な二重の虹がかかっていました。
遠くから、領民たちの歓声が聞こえてきます。
「万歳! 領主様万歳! 女神様万歳!」
どうやら私たちは、伝説を作ってしまったようです。
これから始まる新婚生活は、きっとこの虹のように騒がしくも美しいものになるでしょう。
倒れている元婚約者たちのことなど、もう記憶の彼方でした。
今の私には、目の前の愛しい「暖房器具」の方が、一億倍も重要なのですから。




