第8話 私はもう、凍えたくない
「きゃあああ! 地面が! 地面が熱いですわ!」
ミラ様の悲鳴が響き渡りました。
彼女が放った「浄化」の光魔法。
それがイグニスの灼熱の大気に干渉し、見えない「レンズ」となって太陽光を集束させてしまったのです。
ゴゴゴゴゴ……!!
地鳴りが止まりません。
広場の石畳からは白い湯気が立ち上り、遠くに見える火山の噴煙が、黒から赤へと色を変えていきます。
気温が一気に十度は上がったでしょうか。
五十度……いいえ、六十度近いかもしれません。
「う、うわああっ! なんだこれは!」
ジュリアン様が剣を取り落とし、熱さで飛び跳ねています。
広場にいた領民たちも、慌てて建物の中へと避難を始めました。
「……くっ、ぅ……!」
私の腕の中にいるアダルベルト様が、苦悶の声を漏らしました。
「アダルベルト様!?」
「離れろ、エルザ……! 俺の熱が……暴れる……!」
彼の体温が異常な速度で上昇しています。
外部からの熱エネルギーと共鳴し、彼自身の「発熱体質」が制御不能になりかけているのです。
彼の肌は赤熱した鉄のように輝き始めています。
「嫌です! 離しません!」
私は彼を背中から抱きしめる腕に、さらに力を込めました。
ありったけの冷気を注ぎ込みます。
私が離れれば、彼は自分の熱で内側から焼かれてしまうかもしれない。
あるいは、その熱波で周囲を焼き払ってしまうかもしれない。
「エルザ……冷てぇ……ありがてぇ……」
彼は荒い息を吐きながら、私の手を握り返してくれました。
その手は火傷しそうなほど熱いけれど、私には愛おしい温もりです。
そんな必死の私たちを見ても、目の前の愚か者は状況を理解していませんでした。
「おい! イチャイチャしている場合か!」
ジュリアン様が、汗と脂でドロドロになった顔で叫びました。
「暑いんだよ! さっさとその『冷却結界石』を使え! 私たちを冷やせ!」
彼は自分の不快感だけで頭がいっぱいのようです。
自分が連れてきた聖女が招いた事態だというのに。
私は静かに息を吐き、アダルベルト様の背中に体を預けたまま、冷ややかな視線を投げかけました。
「……お断りします」
「は? なんだと?」
「石などありません。あったとしても、貴方のために使う冷気など、一ミリもありませんわ」
私のきっぱりとした拒絶に、ジュリアン様は呆気にとられ、そして顔を赤紫色にして激昂しました。
「き、貴様……! 王族への命令違反だぞ! 以前のように『はい、仰せの通りに』と頭を下げろ!」
以前のように。
その言葉が、私の中の「何か」を冷たく覚醒させました。
王都での日々。
夏は「動くな、冷房の風が乱れる」。
冬は「近寄るな、寒い」。
私は人間ではありませんでした。
ただの温度調整機能付きの置物でした。
心を殺し、感情を凍らせて、ただ彼らの都合の良いように振る舞うだけの氷人形。
でも、今は違います。
「いいえ、ジュリアン様。私はもう、貴方の人形ではありません」
私はアダルベルト様の背中から一歩踏み出し、ジュリアン様と対峙しました。
アダルベルト様が心配そうに私を見ましたが、私は「大丈夫」と目で合図を送ります。
「な、なんだその生意気な目は……!」
ジュリアン様がたじろぎました。
今までの私――従順で大人しかったエルザからは想像もできない、冷徹で強い意志を宿した目だったからでしょう。
「王都へ戻れですって? そこには何があるのですか?」
私は淡々と問いかけました。
「私を『化け物』と罵る声ですか? 冷たい地下牢ですか? それとも、貴方のワガママを聞くだけの空虚な日々ですか?」
「そ、それは……! 王太子妃の地位に戻してやると言っているのだぞ!」
「いりません」
即答でした。
あまりの速さに、ジュリアン様が口をパクパクさせています。
「王太子妃? そんな窮屈で寒々しい肩書きより、私はここの生活を選びます」
私は広場を見渡しました。
殺人的な暑さですが、ここには私を受け入れてくれる人々がいます。
美味しいアイスクリームを喜んでくれる笑顔があります。
そして何より。
私は隣で熱を耐えている、アダルベルト様を見上げました。
「ここには、私を必要としてくれる方がいます。……私の冷たさを『気持ちいい』と言って、抱きしめてくれる方がいます」
アダルベルト様が、驚いたように目を見開きました。
そして、嬉しそうに、照れくさそうに口元を緩めました。
「だから私は、帰りません」
私はジュリアン様に最後通告を突きつけました。
「私はもう二度と、心も体も凍えるような思いはしたくないのです。……私はここで、この温かい方と一緒に、幸せになります」
「ふ、ふざけるなァァァ!!」
ジュリアン様が絶叫しました。
自分の所有物だと思っていた女に、完膚なきまでに振られたことへの逆上。
そして、自分が否定した「辺境」の方が優れていると言われた屈辱。
「幸せだと!? こんな暑くて汚い場所でか! 強がりを言うな!」
彼は錯乱し、ミラ様から杖をひったくりました。
「私が正しいことを証明してやる! この化け物男を排除して、無理やりにでも連れ帰ってやる!」
彼は杖を滅茶苦茶に振り回しました。
魔力の制御もできない素人が、高出力の杖を使えばどうなるか。
「やめろ! それ以上刺激するな!」
アダルベルト様が叫び、私を庇おうと動きました。
ですが、遅かったのです。
ジュリアン様が放った無秩序な魔力が、再び地面に突き刺さりました。
ドクンッ。
大地が、心臓のように脈打ちました。
「……ぁ?」
ジュリアン様が間の抜けた声を上げました。
次の瞬間。
ズガァァァァァァァンッ!!
広場の地面が割れ、そこから真っ赤な火柱が噴き上がりました。
「うわあぁぁぁぁっ!?」
熱風が吹き荒れ、ジュリアン様とミラ様が吹き飛ばされます。
私も吹き飛ばされそうになりましたが、アダルベルト様がガッシリと抱き留めてくれました。
しかし。
「ぐぅッ……!」
アダルベルト様の様子がおかしい。
彼自身からも、赤い炎が噴き出し始めているのです。
「アダルベルト様!?」
「逃げろ……エルザ……! 火脈が……俺の中の熱とリンクした……!」
彼は苦しげに私を突き放そうとしました。
「俺の体が……耐えきれん……! このままだと、俺自身が爆発して、お前ごと消し炭にしてしまう……!」
彼の瞳が、理性と暴走の狭間で揺れ動いています。
周囲の気温はすでに百度を超えているでしょう。
私の冷却結界も、ガラスのようにヒビが入っていきます。
「嫌です! 逃げません!」
「馬鹿野郎! 死ぬぞ!」
「貴方をおいて生き残るくらいなら、一緒に燃え尽きた方がマシです!」
私は彼にしがみつきました。
王都の連中などどうでもいい。
問題は、この愛すべき「暖房器具」が壊れてしまいそうなことです。
(私の魔力……全部、持っていって!)
私は覚悟を決めました。
私の命である「冷気」を、すべて彼に注ぎ込む。
それで私が魔力枯渇で死んでも、彼だけは助ける。
「お願い、鎮まって……!」
私は祈るように、燃え盛る彼の唇に、自分の唇を重ねました。
瞬間。
世界が白と赤の光に包まれました。




