第7話 招かれざる汗だくの客
イグニスの城下町は、今日も太陽の光に満ちていました。
地面からは陽炎が立ち上り、遠くの景色が揺らいで見えます。
ですが、私の周りだけは別世界です。
「ほら、エルザ。これも美味いぞ」
「ふふ、アダルベルト様。もう食べきれませんわ」
隣を歩くアダルベルト様が、屋台で買った串焼きを差し出してきます。
彼は片手に串焼き、もう片方の手で私の腰をしっかりと抱き寄せ、私の「冷気」を独占していました。
私たちは今、領地の視察という名目のデート中です。
すれ違う領民たちが、私たちを見て笑顔で手を振ってくれます。
「領主様! 女神様! 今日も涼しいですね!」
「女神様のおかげで、今年は誰も熱中症で倒れてねぇ!」
「この冷やしトマト、食べてってください!」
かつて「氷の魔女」と石を投げられた私が、ここではトマトを投げ渡される(プレゼントされる)のです。
なんて優しい世界なのでしょう。
「人気者だな、女神様」
アダルベルト様が茶化すように笑いました。
その笑顔は、太陽よりも眩しく、けれど暑苦しくはありません。
「貴方こそ。最近、騎士の方々からの視線が熱すぎませんこと?」
「あいつらはアイスが食いたいだけだ」
平和な午後。
幸せな温度。
ずっとこの時間が続けばいい。
そう思っていた、その時でした。
「どけ! 邪魔だ!」
「王家の馬車であるぞ! 平民ども、頭を下げろ!」
粗暴な怒声と共に、広場の人波が割れました。
現れたのは、土埃にまみれた豪華な馬車でした。
王家の紋章である「太陽と剣」が描かれていますが、砂で薄汚れています。
馬車は私たちの目の前で急停車しました。
「……何の用だ」
アダルベルト様の腕に力が籠もります。
彼の体温がスッと上がり、私を庇うように前に出ました。
馬車の扉が、バンッ! と乱暴に開かれます。
「おい、降りるぞミラ! ……暑い! なんだこの国は!」
「いやぁ! 靴が汚れますわ! 汗でドレスが気持ち悪いぃぃ!」
降りてきた男女を見て、私は一瞬、言葉を失いました。
誰でしょう、この薄汚れた方々は。
男の方は、かつて艶やかだった金髪が汗で頭皮に張り付き、ワカメのようになっています。
高価なシルクのシャツは汗染みで透け、肌の色も真っ赤に茹で上がっています。
女の方はもっと悲惨でした。
自慢の巻き髪は湿気で爆発し、厚塗りの化粧は熱で溶け出し、目の周りが黒く滲んでパンダのよう。
香水の匂いと、数日分の汗の匂いが混じり合い、強烈な異臭を放っています。
「……ジュリアン様? それに、ミラ様?」
私が恐る恐る名前を呼ぶと、男がギロリと私を睨みつけました。
「エルザ……ッ!!」
ジュリアン様(と思われる物体)は、私を見るなり、憎悪と渇望が入り混じった形相で叫びました。
「貴様! よくものうのうと……!」
彼はよろめきながら近づいてきます。
暑さで足元がおぼつかないようです。
「あ、貴女のせいよ! 貴女が涼しい顔をしているせいで、私たちは……!」
ミラ様も、ドロドロの顔で私を指差しました。
確かに、今日の私は涼しげなシフォンのドレスを着て、汗ひとつかいていません。
隣のアダルベルト様という「暖房」があっても、私の周りは常にエアコンが効いた室内のような快適さです。
その対比が、彼らの神経を逆撫でしたのでしょう。
「返せ! 今すぐ返せ!」
ジュリアン様が叫びました。
「……何をですの?」
「とぼけるな! 『冷却結界石』だ!」
「は?」
私は首を傾げました。
聞き覚えのない単語です。
「王家に伝わる秘宝、空間を冷やす魔導具だろう! 貴様、それを盗んでここへ逃げ込んだな! だから王都はあんな灼熱地獄になったのだ!」
彼は唾を飛ばしながら捲し立てます。
どうやら、王都が暑くなった原因を、私の「窃盗」のせいにしたいようです。
あまりの身勝手な論理に、怒りよりも呆れが込み上げてきました。
「ジュリアン様。そのような石、私は見たことも聞いたこともありませんわ。王都が涼しかったのは、私が……」
「言い訳は聞かん!」
彼は私の言葉を遮り、手を伸ばしてきました。
「どうせ懐に隠し持っているのだろう! 身体検査をしてやる! 衛兵、こいつを押さえろ!」
彼は自分の汗を拭おうともせず、薄汚れた手で私の肩を掴もうとしました。
その手が、私に触れる寸前。
ゴォォッ……!!
空気が爆発したような音が響きました。
同時に、猛烈な熱波がジュリアン様を襲いました。
「うわっ!?」
ジュリアン様は熱さに弾かれたように手を引っ込め、尻餅をつきました。
「な、なんだ!?」
「……俺の女に、気安く触るな」
地獄の底から響くような低い声。
アダルベルト様でした。
彼は抜剣こそしていませんが、その全身から陽炎のようなオーラが立ち上っています。
怒りで制御が外れかけているのです。
周囲の石畳が、ジリジリと音を立てて焦げ始めました。
「ひぃっ……!」
ミラ様が悲鳴を上げて後ずさります。
ジュリアン様も、アダルベルト様の殺気に顔を引きつらせました。
「い、イグニス辺境伯! 貴様、王太子である私に盾突く気か!」
「王太子?」
アダルベルト様は鼻で笑いました。
「俺の目には、薄汚れた泥棒にしか見えんがな。……何の証拠もなく、俺の客人を罪人扱いするとは、ソレスティアの王族は地に落ちたものだ」
「なっ……無礼者! その女は国宝を盗んだ大罪人だぞ!」
「証拠は?」
「証拠だと!? 王都が暑くなったのが何よりの証拠だ!」
子供のような理屈です。
広場に集まっていた領民たちからも、失笑が漏れ始めました。
「なんだあの男……暑さで頭がやられたのか?」
「女神様が泥棒なわけねぇだろ」
「あんな汗臭い男が王太子様だって?」
ヒソヒソという嘲笑が、ジュリアン様の耳にも届いたようです。
彼は顔を真っ赤にして(元から赤いですが)、震え出しました。
「き、貴様ら……! 辺境の猿風情が!」
彼は立ち上がり、腰の剣に手をかけました。
「いいだろう。武力で奪い返してやる! 私は王家の剣術指南役から免許皆伝を受けた腕前だぞ!」
彼は剣を抜き放ち、アダルベルト様に切っ先を向けました。
……愚かです。
アダルベルト様は「赤き竜」の異名を持つ、国一番の武人。
温室育ちの王太子が勝てる相手ではありません。
しかし、アダルベルト様は剣を抜きませんでした。
ただ、冷ややかに見下ろすだけです。
「かかってこい。……剣など抜くまでもない」
「舐めるなァァァ!」
ジュリアン様が叫び声を上げて突っ込んできました。
その時です。
「アダルベルト様、ダメです!」
私はとっさに、アダルベルト様の背中に抱きつきました。
「え?」
アダルベルト様の動きが止まります。
「熱くなりすぎています! このままでは、ジュリアン様が黒焦げになってしまいますわ!」
アダルベルト様の体温は、怒りに比例して上昇します。
今、彼が本気で反撃すれば、接触した瞬間にジュリアン様は発火してしまうでしょう。
それは外交問題……いえ、単なる虐殺です。
「……チッ」
アダルベルト様は舌打ちをし、スッと半身を引いてジュリアン様の剣を躱しました。
そして、すれ違いざまに、軽くデコピンのような動作で剣の腹を弾きました。
カァンッ!!
金属音が響き、ジュリアン様の剣が根本から折れ飛びました。
「へ……?」
ジュリアン様は、手元に残った剣の柄を見つめて呆然としました。
剣身は、熱で溶断されたかのようにドロリと歪んで地面に落ちています。
「言ったはずだ。触るなと」
アダルベルト様は、背中に張り付いている私の手を、優しく上から押さえました。
「エルザ。……もう少し冷やしてくれ。こいつを見ていると、はらわたが煮えくり返りそうだ」
「はい。……深呼吸してください」
私は精一杯の冷気を彼に送りました。
彼の背中越しに、二人の体温が混ざり合います。
殺気立っていた空気が、スッと凪いでいきました。
その光景――最強の騎士を、か細い令嬢が後ろから抱きしめて鎮めている図――は、誰の目にも明らかでした。
どちらが主導権を握っているのか。
そして、二人の間にどれほど深い信頼関係があるのか。
「な、なんだそれは……」
ジュリアン様が、震える声で呟きました。
「なぜ……なぜ貴様が、そんな化け物に触れられる?」
「化け物ではありません」
私はアダルベルト様の背中から顔を出し、はっきりと告げました。
「この方は、私にとって最高のパートナーです。……貴方のように、私を『便利道具』扱いせず、一人の女性として見てくださる方です」
「なっ……」
「お引き取りください。ここには貴方の探している石などありません。……あるのは、貴方が捨てた『幸せ』だけです」
私の言葉に、ジュリアン様は顔色を変えました。
怒りから、屈辱へ。
そして、認めたくない敗北感へ。
しかし、そのプライドが邪魔をして、彼は引き下がりませんでした。
「お、おのれぇぇぇ! ミラ! やれ! 聖女の力を見せてやれ!」
「えっ? わ、私ですか!?」
「そうだ! そのふざけた男ごと、あの女を浄化してしまえ!」
追い詰められたジュリアン様が、最悪の命令を下しました。
ミラ様がビクつきながら杖を構えます。
「で、でもぉ……」
「やるんだ! 王妃になりたいのだろう!?」
「……わかりましたわ! ええい、どうにでもなれ!」
ミラ様の杖が光り輝きます。
それは「浄化」の光。
本来なら癒やしの光ですが、この灼熱の地で、しかも怒りで我を忘れた聖女が放てばどうなるか。
「太陽よ! 邪悪な氷を溶かしてしまいなさい!」
彼女が放ったのは、収束された太陽光線。
それは、イグニスの地下に眠る巨大な火脈を刺激する「着火剤」となってしまったのです。
ゴゴゴゴゴゴ……!!
地面が大きく揺れました。
遠くの火山から、不吉な黒煙が立ち上ります。
「……おい、馬鹿女」
アダルベルト様の顔色が、サッと青ざめました。
いえ、正確には「恐怖」で青ざめたのではありません。
「手遅れになる」という焦りで、表情が凍りついたのです。
「ここで光魔法(熱エネルギー)を使うなと言っただろうが……!」
イグニスの大気が共鳴し、暴走を始めました。
これは、ただの喧嘩ではありません。
天災の始まりでした。




