第6話 王都からの悲鳴
「暑い……! 暑すぎる! どうなっているんだ!」
僕は執務机の書類を薙ぎ払った。
バサバサと紙が舞うが、それすらも熱風を巻き起こすだけで、不快極まりない。
王都ソレスティアの王城。
かつては大陸一優雅で快適と言われたこの場所は今、巨大な蒸し風呂と化していた。
「おい、窓を開けろ! 風を入れろ!」
「で、殿下、窓は全て全開にしております! ですが外の空気の方が熱くて……!」
侍従が汗だくで悲鳴を上げる。
彼の顔からも滝のような汗が流れ落ち、床にシミを作っている。
汚らしい。
僕は首元のクラバットを引きちぎるように緩めた。
シルクのシャツが背中に張り付き、気持ち悪いことこの上ない。
(おかしい……。去年までは、こんなことはなかったはずだ)
夏場でも、王城の中だけは常にひんやりとした空気に満ちていた。
執務室に入れば汗は引き、夜は毛布が必要なほど涼しかったはずだ。
それが、エルザを追放した途端にこれだ。
異常気象か?
太陽神の怒りか?
「ジュリアン様ぁ~」
甘ったるい声と共に、執務室の扉が開いた。
新しい婚約者、男爵令嬢のミラだ。
彼女は愛らしいピンクブロンドの髪をアップにし、露出の多いドレスを着ている。
だが、その顔は厚化粧が汗で崩れ、ドロドロに溶け出していた。
「あづいですぅ……。私の部屋、氷がないんですのよ? どうにかしてくださいまし」
彼女は僕の腕に抱きついてきた。
普段なら愛しいその温もりが、今は不快な「熱源」でしかない。
「離れろ、ミラ! 暑苦しい!」
「ひどぉい! ジュリアン様、私より涼しさが大事なんですの!?」
「当たり前だ! 僕は王太子だぞ! このままでは思考が鈍って公務にならん!」
僕は彼女を引き剥がし、苛立ちをぶつけた。
「そうだ、君は『聖女』だろう? 光魔法で何とかできないのか? 浄化とか、癒やしとかで、この不快な空気を何とかしろ!」
「ええっ? でもぉ、私の魔法は『ポカポカ』するものですし……」
「いいからやれ!」
僕の剣幕に押され、ミラは渋々と杖を取り出した。
「わかりましたわ……。えいっ、浄化!」
カッ!!
眩しい光が室内を満たした。
聖なる光だ。
確かに、空気中の澱みは消えたかもしれない。
だが。
「……あ、熱っ!?」
光魔法は、太陽の力を源とする。
つまり、室内に強力な直射日光を取り込んだのも同然だった。
室温が一気に五度跳ね上がる。
「ぎゃあああ! 熱い! 焦げる!」
侍従たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。
僕も慌てて机の下に潜り込んだ。
「馬鹿者! 余計に熱くしてどうする!」
「だってぇ! 言われた通りにしましたのにぃ!」
ミラが逆ギレして泣き出す。
その涙も汗と混じり、見るに堪えない惨状だ。
このままでは干からびて死んでしまう。
そう思った時、扉がノックされ、宮廷魔導師長がよろよろと入ってきた。
彼もまた、ローブを脱ぎ捨てて肌着姿だ。
「で、殿下……。調査の結果が、出ました……」
「報告しろ! 空調の魔導具が壊れているのか!?」
魔導師長は首を横に振った。
そして、絶望的な事実を口にした。
「いえ……そもそも、城内には空調の魔導具など設置されておりませんでした」
「は? 馬鹿な。今まで涼しかっただろう」
「はい。その冷気の発生源を追跡したところ……。かつてエルザ・フォン・ローゼンハイム嬢が使用していた部屋と、彼女の行動範囲に一致いたしました」
僕は耳を疑った。
「なんだと? あの氷女が?」
「はい。エルザ嬢は極めて強力な『冷却魔力』を常に放出しており、それが城全体の気温を下げていたようです。いわば、彼女自身が『生体冷却装置』だったのです」
静寂が流れた。
聞こえるのは、誰かの荒い呼吸音と、セミの鳴き声だけ。
あの、冷たくて無愛想で、何の取り柄もないと思っていた女。
傍にいるだけで寒気がすると罵ったあの女が。
僕たちの快適な生活を支えていたというのか?
「……嘘だ」
僕は机を叩いた。
「そんなはずはない! あんな無能な女に、そんな高等な魔力制御ができるわけがない! きっと何か『道具』を使っていたに違いない!」
そうだ、そうに決まっている。
彼女の実家は歴史ある伯爵家だ。
きっと、先祖伝来の「凄い魔導具」を持っていたのだ。
『冷却結界石』。
あるいは『氷の女神の宝玉』。
そういう国宝級のアイテムを隠し持っていて、それを使って涼しい顔をしていたのだ。
そして、追放される時にそれを盗んでいったに違いない。
「おのれ、エルザ……! 王家の財産を盗み出すとは、万死に値する!」
僕の中で、怒りの炎が燃え上がった。
この暑さも、彼女の窃盗のせいだと思えば合点がいく。
「おい、衛兵を呼べ! 馬車を用意しろ!」
「は、はい? どちらへ……?」
「決まっているだろう! イグニス辺境だ!」
僕は立ち上がった。
立ちくらみがしたが、気合で耐える。
「あの女から『冷却の秘宝』を取り戻す! そして、この暑さの責任を取らせてやる!」
ミラが目を輝かせて近寄ってきた。
「まあ! 素敵ですわジュリアン様! ついでにあの女を、もっとひどい目に遭わせてやりましょうよ! 私、避暑地に行きたいですわ!」
「ああ、そうだとも。イグニスは暑いらしいが、その『秘宝』さえ取り返せばこっちのものだ」
僕はニヤリと笑った。
エルザ。
今頃、灼熱の辺境で泣いて詫びている頃だろう。
あるいは、暑さに耐えきれず野垂れ死んでいるかもしれない。
もし生きていたら、僕が直々に断罪してやる。
「戻ってきて涼しくしろ」と命じれば、あの女のことだ、尻尾を振って従うに決まっている。
昔から、僕の言うことには一度だって逆らわなかったのだから。
「行くぞ! 王都の平和を取り戻す戦いだ!」
僕は汗まみれの拳を突き上げた。
侍従も魔導師も、誰も止める元気など残っていなかった。
こうして、僕たち一行は、最悪のタイミングで、最悪の場所へと向かうことになった。
そこが、僕たちが想像するような「地獄」ではなく、エルザによって楽園に変えられているとも知らずに。
そして、そこに最強最悪の番犬(ドラゴンと辺境伯)がいることなど、露ほども疑わずに。
◆
【辺境伯領イグニス・城下町】
「……ん?」
アダルベルト様と並んで市場を歩いていた私は、ふと背中に悪寒を感じて振り返りました。
「どうした、エルザ」
隣を歩くアダルベルト様が、心配そうに覗き込んでくれます。
彼の手には、私が作った「持ち歩き用・氷結魔石ファン(試作品)」が握られており、涼しい風を浴びてご機嫌です。
「いえ……なんだか、懐かしくて嫌な気配がしたような」
私は首を傾げました。
冷たい風のせいでしょうか。
それとも、腐った生ゴミのような、粘着質な気配が近づいているのでしょうか。
「気のせいならいいが。……まあ、何が来ようと俺が燃やすから安心しろ」
アダルベルト様は頼もしく笑い、私の腰に手を回してエスコートしてくれました。
その手は温かく、私の不安を一瞬で溶かしてしまいます。
「ふふ、頼りにしていますわ。私の専用暖房器具さん」
「……その呼び方はやめろと何度言えば」
私たちは笑い合い、賑わう市場の奥へと進んでいきました。
平和な午後です。
この幸せな時間が、馬鹿な元婚約者の来訪で台無しにされるまで、あと数時間。
嵐の前の、涼やかな静けさでした。




