第5話 眠れぬ夜とひんやり抱き枕
「……どうぞ、お入りください」
私がドアを開けると、アダルベルト様は少し躊躇ってから、ゆっくりと部屋の中に足を踏み入れました。
「失礼する……」
彼の体から放たれる熱気が、ひんやりと冷やしておいた私の部屋の空気と混ざり合います。
途端に、彼の強張っていた肩の力が抜けました。
「はぁ……涼しい……」
彼は深呼吸をし、まるで砂漠でオアシスを見つけたような顔をしました。
その表情だけで、彼がいかに「熱」に苦しめられているかが分かります。
私は彼を椅子に促しました。
改めて近くで見ると、彼の目の下の隈は深刻でした。
精悍な顔立ちが、疲労でやつれて見えます。
「眠れないのですか?」
私が尋ねると、彼はバツが悪そうに視線を逸らしました。
「……ああ。いつものことだが、今日は特に酷い」
彼は自分の手のひらをじっと見つめました。
「俺の体は、じっとしていても熱を発し続ける。ベッドに入ると、自分の熱で布団が蒸し焼き状態になるんだ。シーツは汗で張り付くし、枕は熱湯を入れた袋みたいになる」
想像するだけで息苦しくなります。
私たちが真夏の夜、エアコンの壊れた部屋で厚着をして寝るようなものでしょうか。
それが、彼にとっては三百六十五日続く日常なのです。
「冬場はまだマシだが、今の時期は地獄だ。……昼間、お前の冷気を感じちまったせいか、余計に体が『涼』を求めて疼きやがる」
彼は渇いた喉を鳴らしました。
「すまん。少し涼んだら出ていく。……ここにいるだけで、頭痛が引いていくんだ」
最強の騎士団長が、こんなにも弱々しく見えるなんて。
彼は強靭な肉体を持っていても、その内側ではずっと孤独に耐えてきたのです。
誰にも理解されない、「熱すぎる」苦しみに。
(……放っておけませんわ)
私は立ち上がり、彼の前に歩み寄りました。
そして、躊躇うことなく彼の大きな手を両手で包み込みました。
「っ!?」
彼は驚いて顔を上げました。
「エルザ?」
「少し涼むだけでは、根本的な解決になりませんわ。……ベッドへどうぞ」
「は、はぁ!? お、お前、何を言って……!」
彼は顔を真っ赤にして(元々赤いですが)、椅子から飛びのきそうになりました。
私は慌てて首を振ります。
「違います! やましい意味ではありません! その……私が貴方の熱を吸い取りますから、その間に眠ってください、ということです」
私は自分の手を彼の手に押し当てました。
私の冷たい魔力が、彼の肌から過剰な熱を吸い上げていきます。
「貴方の熱は、私にとっては極上の暖房です。……私の冷たさは、貴方にとっての良薬でしょう?」
「それは……そうだが……」
「座ったままで結構です。私が隣で手を握っていますから。ね?」
私は子供をあやすように微笑みかけました。
彼は迷うように視線を彷徨わせていましたが、やがて限界だったのでしょう。
抗えない睡魔と、私の手の心地よさに降参しました。
「……少しだけだぞ。本当に、少し落ちるだけだ」
彼は言い訳のように呟き、重たい足取りで私のベッドに腰掛けました。
私もその隣に腰を下ろします。
「では、失礼して」
私は彼の手を膝の上に置き、両手でしっかりと握りしめました。
そして、意識して強めの冷気を送ります。
「……んっ」
彼が吐息を漏らしました。
その瞬間、彼の全身から力が抜けました。
張り詰めていた筋肉が緩み、呼吸が深く、ゆっくりとしたものに変わります。
「冷てぇ……気持ちいい……」
彼はうわ言のように呟き、そのまま横に倒れ込みました。
「あら」
「少しだけ」と言っていた彼は、枕に頭がついた瞬間に、もう意識を手放していました。
数秒で爆睡です。
よほど疲れていたのでしょう。
規則正しい寝息が聞こえ始めました。
私は彼の手を握ったまま、その寝顔を見つめました。
起きている時は猛獣のような迫力があるのに、眠っている顔は意外なほど幼く、無防備です。
赤みがかったまつ毛が長いことに気づきました。
(……温かい)
繋いだ手から、ドクドクと彼の脈動と熱が伝わってきます。
私の体の中の冷たい芯が、彼の熱で溶かされていくような感覚。
王都では、夜が来るのが怖かった。
寒くて、寂しくて、夜が来なければいいと思っていました。
でも今は、この温もりがあるだけで、永遠に夜が続けばいいと思えてしまいます。
「……おやすみなさい、アダルベルト様」
私もまた、心地よい熱に誘われて、瞼が重くなってきました。
座ったままでは体が痛くなりますが、彼の手を離すのが惜しくて、私はそのままシーツの上に身を預けました。
少しだけ、仮眠をとるつもりで。
◆
チュン、チュン……。
小鳥の声で、私は意識を取り戻しました。
窓の外はすでに明るく、朝の光が差し込んでいます。
(……あれ? 私、いつの間に寝て……)
体を起こそうとして、私は自分が「動けない」ことに気づきました。
何かに、がっしりと拘束されているのです。
「……むにゃ」
耳元で、低い男の人の声がしました。
そして、熱い塊が背中から私を包み込んでいます。
私は恐る恐る、目だけを動かして状況を確認しました。
そこには、私のことを抱き枕のように抱え込み、幸せそうに眠るアダルベルト様の顔がありました。
「――――ッ!?」
声にならない悲鳴を上げそうになり、私は必死に口を押さえました。
状況を整理しましょう。
昨晩、私は彼の手を握って寝かしつけました。
どうやらその後、寝相の悪い(あるいは寝心地を追求した)彼が、無意識に「一番涼しい場所」である私を引き寄せ、腕の中に閉じ込めてしまったようです。
彼の太い腕が、私の腰に回されています。
彼の足が、私の足に絡みついています。
彼の顔が、私のうなじに埋まっています。
密着度、百パーセント。
普通なら、この状態で一晩過ごせば、私は暑さで、彼は寒さで目を覚ますはずです。
しかし、私たちは「氷」と「炎」。
「……すぅ……」
アダルベルト様は、これ以上ないほど幸せそうな顔で熟睡しています。
私も……悔しいですが、今までで一番快適な目覚めでした。
体のどこも冷えていません。
ポカポカと温かく、けれど汗ひとつかいていない。
完璧な温度調整。
私たちは物理的な意味で、運命の相手だったのです。
(ど、どうしましょう……起こすべき? でも……)
この温もりから抜け出すのが、名残惜しい。
そんな不埒なことを考えていた時でした。
「……ん」
アダルベルト様の睫毛が震えました。
ゆっくりと、琥珀色の瞳が開きます。
彼はぼんやりと虚空を見つめ、それから自分の腕の中にある「銀色の物体」に焦点を合わせました。
私と、目が合いました。
「…………」
「…………おはようございます、閣下」
長い沈黙の後。
彼はバネ仕掛けのように飛び起きました。
「う、うわああああああっ!?」
ドガン!!
彼は勢い余ってベッドから転げ落ち、派手な音を立てました。
周囲の気温が一気に五度くらい上がります。
「え、え、エルザ!? な、なんで俺は!? ここはお前のベッドで!? 俺は!?」
彼は顔を真っ赤にし、両手で頭を抱えてパニックになっています。
その狼狽えぶりがおかしくて、私はクスクスと笑ってしまいました。
「ふふっ。昨晩、私の手を握ったまま眠ってしまわれたのですよ。……その後は、無意識に抱き枕が必要だったようですけれど」
「だ、抱き……っ!?」
彼は自分の腕を見つめ、それから私を見て、口をパクパクさせました。
おそらく、感触を思い出しているのでしょう。
「す、すまん! 俺はなんてことを! 淑女の寝所に押し入った挙句、あまつさえ抱き……抱き……!」
「謝らないでください」
私はベッドから降り、彼の前に跪きました。
そして、まだ熱で赤くなっている彼の頬に、そっと手を添えました。
「よく眠れましたか?」
私の問いかけに、彼は言葉を詰まらせました。
そして、じんわりと涙目になりながら、力強く頷きました。
「……ああ。子供の頃以来だ。一度も起きずに朝を迎えたのは」
「それは良かったです。……私も、とても温かくて、幸せな夢を見られました」
私が微笑むと、彼は完全に言葉を失い、ただじっと私を見つめ返しました。
その瞳に宿る熱は、もう単なる体質のせいだけではないように見えました。
「エルザ。俺は……」
彼が何か言いかけた時。
部屋の外から、慌ただしい足音が近づいてきました。
「閣下! 大変です! 王都から緊急の使い鳥が!」
騎士の切迫した声に、甘い雰囲気は霧散しました。
アダルベルト様は瞬時に「領主の顔」に戻り、立ち上がりました。
「……分かった。すぐ行く」
彼は私を振り返り、一度だけ強く私の手を握りました。
「この続きは、あとで必ず」
そう言い残し、彼は部屋を出て行きました。
残された私は、彼の手の熱が残る自分の指先を、胸に押し当てました。
王都からの使い。
嫌な予感がします。
私のいない王都で、何かが起きている。
そしてそれは、きっと私を放っておいてはくれないでしょう。
けれど、もう怖くはありません。
私には、この熱(アダルベルト様)があるのですから。
私は窓の外を見上げました。
イグニスの空は今日も突き抜けるように青く、そして王都の方角には、不穏な入道雲が立ち込めていました。
(……どちら様か存じませんが、私の幸せな「適温生活」を邪魔するなら、容赦はしませんわよ)
私は静かに、けれど固い決意と共に、冷たい闘志を燃やしたのでした。




