第4話 竜騎士団の熱すぎる日常
ズズズン、と重たい地響きが厨房の床を揺らしました。
スプーンを咥えて幸せそうにしていた騎士たちが、一斉に色めき立ちます。
「いかん! 飛竜房だ!」
「暑さでまた『あいつら』がイラついてやがる!」
アダルベルト様の表情が、瞬時に領主のそれへと切り替わりました。
彼は私に向けていた甘い視線を断ち切り、騎士たちに命じます。
「氷嚢を持て! 水もだ! ……チッ、また暴走か」
彼は舌打ちをし、マントを翻して走り出しました。
取り残された私は、少し迷いました。
「部屋に戻れ」とは言われていません。
それに、あんなに美味しそうにアイスを食べていた彼らが、あんなに悲壮な顔をするなんて。
「……行ってみましょう」
私はこっそりと後を追いました。
◆
屋敷の裏手にある巨大な石造りの厩舎。
そこは、まさに灼熱の闘技場でした。
「ギャオオオオオオオッ!!」
耳をつんざくような咆哮。
体長五メートルはあろうかという巨大な翼竜たちが、鎖を引きちぎらんばかりに暴れています。
赤い鱗。鋭い牙。
吐き出される息は炎のように熱く、周囲の空気を歪ませています。
「鎮まれ! ヴォルカ!」
アダルベルト様が、一際大きな黒い飛竜の前に立ちはだかりました。
彼の愛竜なのでしょう。
しかし、竜は主人の声を聞こうともせず、真っ赤に充血した目で暴れ回っています。
「グルルルッ!」
竜が威嚇し、鼻先から高熱の蒸気を噴き出しました。
「くっ……!」
アダルベルト様が手をかざします。
しかし、それが悪手でした。
彼の手から放たれる熱気が、ただでさえオーバーヒートしている竜を刺激してしまったのです。
「暑いのに近寄るな!」と言わんばかりに、竜はさらに激しく尾を振り回しました。
バゴォッ!
石壁の一部が砕け散ります。
「駄目です閣下! 閣下の熱では、奴らを余計に興奮させてしまいます!」
「分かっている! だが、このままでは脱水症状で死んでしまう!」
アダルベルト様の声には、悲痛な響きがありました。
最強の竜騎士と呼ばれながら、自分の愛する相棒を撫でてやることも、冷やしてやることもできない。
その焦燥感が、痛いほど伝わってきます。
騎士たちが水をかけますが、瞬時に蒸発してサウナ状態になるだけです。
(……あの子たち、苦しいのね)
私には分かります。
彼らは怒っているのではありません。
ただ、どうしようもなく暑くて、体の中に熱が籠もって、助けを求めて暴れているのです。
私は一歩、前に踏み出しました。
「エルザ嬢!? 下がってください! 危険です!」
騎士の一人が叫びました。
アダルベルト様も振り返り、目を剥きます。
「馬鹿野郎! 来んな! 喰われるぞ!」
恐怖がないと言えば嘘になります。
私の脳裏に、幼い頃の記憶が過ぎります。
私の手の中で、カチカチに凍ってしまった小さな青い鳥。
『私が触れると、命を奪ってしまう』
そのトラウマが足をすくませようとします。
でも。
「ギャッ……ハァ……ハァ……」
目の前の竜が、苦しそうに舌を出して喘いでいます。
その姿は、怪物というより、熱中症で弱った大型犬のように見えました。
(このままでは、あの子たちも死んでしまう)
(熱を奪うこと。それなら、私にもできる)
私はスカートの裾を握りしめ、覚悟を決めました。
冷たい魔力を全身に巡らせます。
「大丈夫。……涼しくしてあげますから」
私は暴れる竜の前に、静かに歩み寄りました。
不思議なことに、私が近づくにつれて、竜の動きがピタリと止まりました。
私の周囲には、冷たい空気のドームが形成されています。
灼熱の厩舎に、涼やかな風が吹き始めました。
「……?」
竜が、大きな目を瞬かせました。
充血していた瞳が、私を捉えます。
敵意ではありません。
「なんだ、この涼しい物体は?」という好奇心です。
私は震える手を伸ばしました。
アダルベルト様が何か叫ぼうとして、息を呑んだのが分かります。
「暑かったわね。……いい子ね」
そっと。
私は竜の、ゴツゴツとした鼻先に触れました。
ジュッ……。
微かな音がしました。
火傷をするような熱さが、私の手のひらを伝って流れ込んできます。
でも、私の氷の魔力はそれに負けません。
溢れ出る冷気が、竜の頭部を包み込み、籠もった熱を急速に吸い上げていきます。
「クルル……?」
竜の喉が鳴りました。
それは威嚇ではなく、安堵の声でした。
「気持ちいいですか?」
私が微笑むと、竜は目を細め、自分から私の手に顔を擦り付けてきました。
まるで、冷たい枕に顔を埋める猫のように。
「キュー……ン」
甘えた声を出して、その巨体を地面に横たえます。
「もっと撫でて」「もっと冷やして」と、お腹を見せる勢いです。
その変化を見て、他の竜たちも騒ぎ始めました。
「グルッ(俺も!)」
「ギャウッ(そこどけ! 俺が先だ!)」
我先にと、私の方へ首を伸ばしてきます。
先ほどまでの殺気はどこへやら。
完全に「冷房の風が当たる特等席」の奪い合いです。
「まあまあ、順番ですよ。喧嘩しないで」
私は両手を広げ、魔力を放出しました。
厩舎全体を一気に冷却します。
白い冷気が床を這い、天井の熱気を追い出します。
四十度を超えていた室温が、一気に快適な二十五度へ。
竜たちは一斉に動きを止め、その場でダラリと脱力しました。
床に顎を乗せ、幸せそうに目を閉じています。
あちこちから、ゴロゴロという寝息が聞こえ始めました。
「…………」
静まり返った厩舎に、私の足音だけが響きます。
「信じられん……」
背後で、アダルベルト様が呆然と立ち尽くしていました。
騎士たちも、口をあんぐりと開けています。
「あのヴォルカが……誰にも懐かない暴れん坊が、腹を見せただと?」
アダルベルト様が、千鳥足で近づいてきました。
そして、気持ちよさそうに寝ている自分の愛竜を見下ろします。
彼が手を伸ばしかけ、また引っ込めようとしました。
自分の熱で、また起こしてしまうかもしれないと思ったのでしょう。
私は、彼のその手を掴みました。
「っ!?」
「大丈夫ですわ、アダルベルト様。今のこの子たちの表面温度なら、貴方の熱でも『温かい毛布』くらいにしかなりません」
私は彼の手を導き、竜の首筋へと触れさせました。
「……っ」
アダルベルト様の指が、固い鱗に触れます。
竜は嫌がるどころか、親愛を示すように鼻先を主人の胸に押し付けました。
「熱く……ないのか?」
「ええ。私が冷やしていますから」
アダルベルト様は、震える手で竜の首を抱きしめました。
強く、何度も撫で回します。
「すまねぇ……ヴォルカ。辛かったな……すまねぇ」
竜は慰めるように、主人の頬を舐めました。
その舌の熱さでさえ、今は微笑ましく感じられます。
アダルベルト様はしばらくそうしていましたが、やがてゆっくりと顔を上げ、私を見つめました。
その瞳には、先ほどまでの怒りも、焦りもありません。
あるのは、深く、重いほどの……情熱。
「エルザ」
彼は私の名前を呼び、一歩踏み出してきました。
私の目の前で止まり、大きな手で私の肩を掴みます。
「お前は、俺より強いかもしれん」
「まさか。私はただの令嬢です」
「いいや。俺は力でねじ伏せることしかできなかった。……だがお前は、ただそこにいるだけで、俺が守りたかったものを救ってくれた」
彼の顔が近づきます。
熱い吐息が私の額にかかりました。
「……礼を言う。俺の大事な家族を救ってくれて」
その言葉は、どんな甘い愛の言葉よりも、私の胸を温めました。
私は役に立てたのです。
この「呪われた体質」で、誰かを、何かを救えたのです。
「どういたしまして。……でも」
私は少し悪戯っぽく微笑みました。
「この子たちの『冷房代』は高くつきますわよ? 毎日、美味しいアイスクリームを要求されると思いますから」
アダルベルト様は一瞬きょとんとし、それから豪快に笑いました。
「ハハッ! いいだろう! イグニス家の財産を傾けても構わん。好きなだけ食わせてやれ!」
騎士たちが歓声を上げ、竜たちがそれに合わせて吠えました。
灼熱の厩舎は今、世界で一番涼しくて、温かい場所に変わったのでした。
◆
その夜のことです。
私は極上の客室(もちろん自力で冷房完備にしました)で、一日の疲れを癒やしていました。
ふかふかのベッド。静かな夜。
もう、地下牢の湿った床を思い出すこともありません。
コン、コン。
控えめなノックの音がしました。
「はい?」
ドアを開けると、そこにはアダルベルト様が立っていました。
彼は昼間の覇気とは打って変わり、どこか疲れたような、縋るような目をしていました。
そして何より目立つのは、目の下に刻まれた濃い隈です。
「……アダルベルト様? どうなさいました?」
彼は気まずそうに視線を泳がせ、それからボソリと言いました。
「……眠れん」
「え?」
「竜たちは全員、お前の魔力の残滓で爆睡してやがる。騎士たちもだ。……俺だけが、暑くて目が冴えて仕方ねぇんだ」
彼は大きな体を小さく丸めるようにして、私を見つめました。
「……その、なんだ。俺も……冷やしてくれねぇか?」
最強の竜騎士団長様が、夜泣きする子供のように私の部屋の前に立っている。
その事実に、私は驚きつつも、胸の奥がくすぐったくなるのを感じました。
これは、長い夜になりそうです。




